| about 村田新八 口碑 |
1.杖術の達人
喜島家に伝承されている村田新八の杖術の話があります。
杖術の修業に熱心であったらしい。
ぐるぐる振り回してアッというまに桑の木を飛び越えたという話。
小学生の高学年の頃その話を聞いて疑問がわきだした。
桑の木と言っても幼木から成木までその3次元的な広がりはまちまちである。
どの位大きな木だったか確かめるほど母も、祖母も老いていない。
多くの話は村田新八の喜島家滞留時全てをお世話した横目・桃園発である。
嫡男・桃山に伝わり(桃山自身の見聞もある)、それが嫡男桃春に伝わりそして娘・千代に伝わった。
その千代から孫の私へ伝わった。
母ヒデは文学、就中、正岡子規、アララギ派には傾倒したが喜島家の歴史は通り一遍であった。
中学以降、「村田新八」と「杖術」の関係を調べた。
神道夢想流杖術第13代の統平野吉三能栄の次男、平野次郎国臣と村田新八に接点があった。
国文学者であり、『棒杖故実』の著者平野国臣を薩摩に連れてきたのは村田新八らであった。
安政5年(1858)の安政の大獄後、僧月照、西郷隆盛と共に錦江湾に入水した。
哀れ、僧月照は浄土に旅立ち西郷隆盛と平野国臣は一命を取り留めた。
しかしその6年後平野国臣は斬首刑に遭った。
村田新八の杖術は「神道夢想流」と思われる。
我が胸の 燃ゆる思いに 比ぶれば 煙は薄し 桜島山 −平野国臣−
疵つけず 人をこらして 戒しむる おしえは杖の 外にやはある −平野国臣−
譲りとみます。
次に杖の長さ、江戸以前は1丈(10尺≒3m3cm)もあったようですが
長くて7尺5寸(≒2m27cm)
棒高跳びの世界記録でも6m14cm(ウクライナ人セルゲイ・ブブカ)
棒高跳びは限りなく2次元に近いZ軸の高さのバーを飛べばよい。
棒高跳びのシナるグラスがない時代、桑の成木を飛び越えたのではないと思われる。
桑のX−Y軸上の広がり、Z軸上の高さを6尺豊の大男には力学的に限界がある。
2.教場で学んだ喜界の若者たち
明治政府高官の道よりも、郷土の先輩西郷隆盛の歩む道を選んだ村田新八。
西郷隆盛は沖永良部で人々に学問を紐解いていた。
沖永良部で間切り横目・土持正照の努力で待遇も改善された。
その様子は当然村田新八にも伝わったはずである。
その村田新八に師事した純朴な喜界の青年たちが田原坂で師と共に戦死したのは歴史の必然である。
それを島人を利用して田原坂で討ち死にさせた。
現代の知識や常識や思想で過去を裁く愚か者たちがいる。
その時代にリアルタイムに生きた若者を平和ボケした日本人が後出しジャンケンで責める人たちがいる。
その人たちは100年後、200年後歴史の審判に耐えられるだろうか。
田原坂では村田新八の嫡男・村田岩熊(19歳)も戦死した。
アメリカ留学帰りの前途有望な青年であった。
そういう時代であった。
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。
別に仔細なし。胸すわってすすむなり。図に当たらぬは犬死などという事は、上方風の打ちあがりたる
武道なるべし。二つ二つのばぬて、図に当たることのわかることは、及ばざることなり。
われ人生くる方がすきなり。たぶんすきの方に理が付くべし。
もし、図にはずれて生きたらば、腰抜けなり。この境危うきなり。
図にはずれて死にたらば、犬死気違いなり。恥にはならず。
これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死に身になりて居る時は、
武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕果すべきなり。
−佐賀鍋島藩・山本定朝口述 『葉隠聞書』−
3.「赦免!」
次の4.が時系列なっていないが、短いから先に書きます。
西郷隆盛の弟で後の伯爵、海軍大臣、内務大臣の西郷従道のこと。
彼が喜島家へ来たことが伝わっている。
喜島家の屋敷は東側が少々盆地になっている。
従ってことさら家の床が高い。
雨季の湿気を避けるためだから、入口玄関の高めにできていた。
西郷従道は上背がさほどなかったから、朱鞘がコツンと当たったらしい。
そんな事でさえ大事に語り継がれてきた。
次に、いろいろなブログでやHPで、赦免になって鹿児島へ帰る途中の西郷隆盛が
喜界島へ寄って村田新八を連れて帰ったことになっている。
実際は違う。
薩摩藩士5人が喜島家へ、
「赦免!」
と大声で叫びながらやってきた事が伝承されている。
南海の孤島になぜわざわざと考えるのは当たらない。
1853年のペリー以前にも多くの国が蒸気船で日本へやってきていた。
その10年後には薩摩藩には立派な蒸気船があった。
「宇留満乃日記」でわかるように先に徳之島へ向かった西郷隆盛と、後から出港した
村田新八が、風待ちのために屋久島一湊合流するほど七島灘は荒れて二人を翻弄した。
往路の苦労に比べれば、帰路は薩摩藩の蒸気船であった。
4.村田新八の子供
村田新八が喜島家で生活するようになったのは26歳の時である。
村田新八には本妻に23歳の時の子、岩熊を筆頭に3人の子がいた。
表の歴史ではそうなっている。
しかし、兄事していた西郷隆盛が奄美龍郷で島娘「とま」を娶った。
2度目の結婚で薩摩で見下げられている島妻であった。
後の愛加那です。
「奄美大島龍郷で間切横目・藤長の世話で西郷隆盛が島妻を娶った」
そのことは当然、喜界横目・桃園の耳に入った。
26歳の村田新八に秘密で島妻をもたせた。
もちろん子供が生まれた。
女の子であった。
だが、喜島家は本妻に気を使いそのことを伏せた。
村田新八は感謝し、鹿児島に帰ってから喜島家へ何度も女の子のかわいい着物を託した。
その子孫には明らかに当時6尺の大男であった名残が感じられた。
村田新八の長男村田岩熊は熊本民謡の「田原坂」の馬上の美少年のモデルと言われている。
私が知っているのは村田新八の孫、曾孫であるが大柄で、際立って端正な顔をしていた。
我が家の先祖が守った偉人の個人情報はこのくらいにします。
強いて付け加えるなら昭和31年私が上京した時は湾においでであった。
歴史に「もし」は禁物であることを承知で書くと、
もし、喜界で生まれた村田新八の子が「男」だったら、
西郷隆盛と愛加那の子、西郷菊次郎のように鹿児島の本妻に呼ばれて教育を受け、
台湾台北県支庁長、宜蘭庁長、京都市長(6年半)などの任にも就いたかもしれない。
それは、喜界島の歴史が明らかに違っただろうし、日本の歴史にも影響を与えた。
余談ですが、「田原坂」の歌詞
雨は降る降る 陣羽は濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年
この歌は私がいた学生時代の寮で、熊本から来た男がコンパで必ず歌った。
歌詞がメテはそのままで、ユンデの後が変わっていた。
右手に血刀 左手におなご
馬上ゆたかな 美少年
酒のせいか熊本ではそう歌うのかは聞かなかった。