小林カツ代が日本に残してくれたもの・前編

今年1月に76歳で亡くなった料理研究家の小林カツ代。今回は数々の料理本、エッセイなどの名著を残した彼女の人生を振り返ります。彼女が残した数千に及ぶレシピと、そのレシピに込めた思い。あまり知られていなかったその生き方とは、いったいどういうものでしょうか。そして彼女の存在が、この日本社会にもたらしたものとは。前中後編に分けてお届けします。

「料理研究家」とはなにか?

 小林カツ代は料理研究家と呼ばれた。「料理研究家」は、文字どおり料理を研究する人という意味だが、おそらくその呼称は彼女の活躍がなければ生まれなかっただろう。その第一人者でもあり、「料理研究家」が実際に何者であるかを彼女の人生は示していた。それはただ料理が好きで教えるのも好きな人の人生という意味ではなかった。

 しかしまず、実際に料理を研究するということはどういうことなのかを見ておきたい。調理師や料理人と何か違うのか。人が思うのは、「料理研究家」は家庭料理を作る人であり、家庭人に日々の料理とその新趣向を伝える人だろう。そのために料理を研究するということになる。

 どう研究されるのか? 彼女の定番のレシピ「肉じゃが」を見ればわかる。肉じゃがは名前のとおり、肉とジャガイモを甘醤油で煮込んだものだ。とりあえず煮込み料理の一種とも見られる。その他の材料で欠かせないとすればタマネギがある。ニンジンやしらたきは入れることもある。材料を見てわかるように、基本、日本食ならではのカレーライスやハヤシライスと同じであり、これらと同様、戦前から軍隊の食事として日本の家庭に導入された料理だ。軍では「肉と馬鈴薯の甘煮」や「牛肉の雑煮」とも呼ばれてもいた。それが、「肉じゃが」として広まったのは、1970年代以降のことらしい。普及には小林カツ代の影響もある。

 肉じゃがはどのように作るのか? 煮物料理と見られ、かつ甘煮であることから、肉とタマネギを油炒めし、これに水とジャガイモを加え、調味して煮ることになる。ジャガイモが煮えたら食べられる。ジャガイモはそれなりに存在感の大きさがあるので、煮るのには通常、20分近くかかる。レシピとしての問題は、調味の手順と火加減だろう。どのようにすべきか。研究の課題がここにある。

 一般的な手順で考えるなら、まず和食の調味の基本として「さしすせそ」を考慮する。砂糖(さ)、塩(し)、酢(す)、醤油(せ)、味噌(そ)の順である。肉じゃがでは、塩、酢、味噌は使わないので、砂糖を加えてから、醤油を加える。つまり、最初に肉とタマネギを砂糖で調味し、ジャガイモをそれが浸るくらいの醤油を加えた水で煮込む。

 試しに、NHKの看板料理番組「きょうの料理」がまとめた『決定版!家庭料理』(NHK出版)を見るとそのようになっている。肉、タマネギ、ジャガイモの順に炒め、砂糖・みりんを加えた水を浸る程度に入れて3、4分煮て、さらに醤油を加えて落とし蓋で15分から20分弱火で煮る。ジャガイモの煮え具合は串をさして確かめ、汁が上がったら、味を絡ませる。

 料理研究家・小林カツ代はそうしない。2448ものレシピを収録した彼女の料理の集大成である『小林カツ代料理の辞典』(朝日出版社)を紐解くと概要はこうである。タマネギを炒めて、その中央に肉と砂糖・みりん・醤油を入れ、肉をほぐしながら味をしっかりつける。その後ジャガイモと浸るほどの水を入れて10分強火で煮る。途中、上下を返すようにまぜる。

小林カツ代料理の辞典―おいしい家庭料理のつくり方2448レシピ
小林カツ代料理の辞典―おいしい家庭料理のつくり方2448レシピ

 違いは調味の手順もだが、煮方にもある。弱火と強火の違いだ。調理時間にも反映する。その差は何をもたらすか。料理なのだから結果はどちらがおいしいかにかかっている。とすれば、そこは好みにもよると言える。が、それでもカツ代レシピのほうがおいしいと断言できる。なにしろ彼女はこの肉じゃがで「料理の鉄人」を下した。

 『料理の鉄人』は指定の食材で料理を競い合うフジテレビ系で放送されていた番組である。最高の調理人もまた「料理の鉄人」と呼んだ。多数が挑んでも勝利し続けるほど強いからだ。しかし、小林カツ代は鉄人より強かった。1994年、阪神大震災が起きる前年のこと。この勝負に、およそ日本で料理に関心ある人たちが圧倒された。56歳の彼女が料理研究ではっきりと日本の頂点に立った瞬間だった。

料理の鉄人2~中華の鉄人・陳のレシピ~ [VHS]
料理の鉄人2~中華の鉄人・陳のレシピ~ [VHS]

 なぜカツ代式の肉じゃががおいしいのか。作ってみたら納得する。しっかりと火が通ったジャガイモは、口にするとほっくりとほぐれる。それでいて味はしっかりと付いている。この状態はどのように形成されるのだろうか。カツ代は仕組みについては説明していない。だが、野菜は60度程度で茹でる時間が長いと、細胞壁や細胞間隔に含まれるペクチンによって硬化し、その後水温が上がっても硬化は比較的に維持される。弱火で煮れば、崩れにくい。だが、ほっくりもしない。肉じゃがのジャガイモは固くても崩れきってもおいしくはない。理想の肉じゃがは適度にほっくりとほぐれていなくてはならないし、おかずとしてしっかり味もついていなくてはならない。その理想を想定し、最適な調理加熱がなんであるかを決めなくてはならない。

 小林カツ代はそこを研究しつくして簡素なレシピにまとめたのである。より完成されたレシピでは、フライパンを使い、強火5分でジャガイモを返し、さらに強火5分で煮て汁が干上がったのち、さらに5分蒸らす。この蒸らしによって肉じゃがはさらにおいしく仕上がる。「料理の鉄人」の番組でも、調理時間の前半で肉じゃがをささっと作っていたため、アナウンサーが冷めるのではないかと聞いていた。彼女は余裕の笑みで、このほうが味がしみてよいと言っていた。

無形文化遺産になった「和食」を定義

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