■先日、佐村河内守さんのお宅に訪問させて頂きました。

■私は元々、独学で交響曲/管弦楽曲を書く日本人に興味を持っていました。武満徹さん、松平頼則さん、伊福部昭さん、早坂文雄さん、吉松隆さん、一時期職場で交流させて頂いた飯島俊成さん、など。作曲の世界の頂点、交響曲を手中にするに至るまでに立ちはだかる障害、本人の意思ではどうにもならない幼少からの環境に大きく左右されてしまう正規の音楽教育の壁(それをどう捉えるかは人それぞれでしょう)に対し、どんな気概を持ち、どんな問題に立ち向かい、どう実行し、何を実現したか、そのストーリーを感じたいと思うのです。

■2008年初頭、独学の作曲家の一人、吉松隆さんのホームページで佐村河内さんとその著書「交響曲第一番」に関する記事に目が止まりました。佐村河内さんは独学で交響曲を志す作曲家であり、なおかつ全聾でした。さっそく本を手にし、その中で語られていたゲーム音楽の経歴と、一部の併発症を自分も経験していることから、感想と自らの回想をこのブログに書き留めました。

■ほどなくして佐村河内さん御本人からメールを頂きました。佐村河内さんの知人がこのブログの記事を紹介してくれたというのです。以降、メールや郵便のやり取りが続き、個人的に相談にも乗って頂き、さらなる運命の邂逅を経て当日、お宅にお伺いするまでに至りました。

■お会いして筆談で少しずつ様々な話をさせてもらいましたが、中でも個人的に印象に残ったのは、佐村河内さんが私の曲を口ずさんだ瞬間でした。私はシンセの音をコンピュータに演奏させデジタルメディアに記録させるスタイル。そんな楽譜のない形式の曲を、全聾の彼に聴いてもらう手段が果たしてあるのだろうか…いや、どう考えても、ありません。私は当初、音楽の同志に自分の音を伝えられないことに絶望を感じていました。また、音の無いところで音楽家の交流が成り立つのか、非常に不安でした。

■ところが、その手段があるというのです。助手の方が音源を聴き音色の印象まで含めて採譜し、それを佐村河内さんが暗譜した後、機密保持のためシュレッダーにかけて破棄するという「聴き方」でした。確かに、現代のように情報伝達手段が発達していない時代の音楽家は楽譜による伝達は有効な手段でしたが、現代のシンセやビート主体の音楽がその手法で伝えられるのか、音楽の訓練の不足した私にはにわかには信じられませんでした。音源をお渡ししたのはおよそ9〜10ヶ月ほども前。彼はその記憶で、私の曲の旋律を完璧に、慈しむように、目の前で暗唱してくれました。

■人間一人の肉声は(ホーミーなど特殊なケースを除いて)通常ひとつの旋律しか演奏し得ません。が、彼が暗唱する僅かな間、その完全に正確な単旋律の隙間に、私が音空間に敷き詰めた全表現が響き、彼がそれに包まれていることが目に見て取れました。私自身が作曲者なのでハーモニーすべて頭に響くのは当然だということも勿論ありますが、確かにその瞬間、佐村河内さんの発するオーラが、音楽の喜び=鮮やかな色彩に染まっていくのが見え、二人の間に同じハーモニーが響いていたと信じられる瞬間でした。私には彼の頭で響いている音が聴こえ、どこでどう感じているかが感じ取れました。

■その瞬間、奇跡を目の当たりにしている、と思いましたが、思い返せば、それは奇跡ではなく、佐村河内さんの力や想いが音楽への最大の障壁「聴こえない」という壁を超越している現実を、自分の曲をもってして悟らせてもらった場面でした。その橋渡しをしてくれた「暗譜」「暗唱」…いずれも字面では「闇」に属する技術が、希望の光を見せてくれた瞬間でした。

■ここだけ語ると、記譜と読譜といった音楽的な情報伝達の技術の話になってしまいますが、実際に私が感銘を受けたのは、音が聴こえなくとも、個人が紡いだ音楽を互いの心に響かせることが出来るという力強い事実のほうでした。彼自らの曲が実際に空気を介して人にどのように響いて伝わったのか知る術がないのと同様、私にも、敬愛する彼に私の曲がどのように響いて伝わっているのか知る術がありませんでした。その悔しさや不安をこともなげに目の前でぬぐい去ってくれたことが、何より嬉しいことでした。もう彼の前では何も驚きはしません。ただただ、嬉しかったのです。