2014-02-25
■[ネット][マンガ][トンデモ]公開した発言を批判することをストーカーあつかいする法哲学者
@takehiroohya: とりあえずアングレームの件で表現として稚拙だからダメだとか空気読めとか批判している人たちは二度と表現の自由について論じない方がいい。印象派が最初どれだけ同じようなことを言われたと思ってるんだ。いやそりゃ印象派と違って彼らの時代は来ないと思うけれども。
「批判者たちの多くも、本当に気に入らないのは作品の主張内容」と大屋教授は認識していたが、「論破プロジェクト」を批判しながら、小林よしのり作品を推すような意見まで存在していた。
@takehiroohya: 今回の都美術館の作品は見ていないし、現代美術の鑑賞眼があるとも思わないけど、主張を文字にして貼り付けるあたりで悪い予感がバリバリとはする。文字にするなら議論にして説得責任を負うべきで、それを「作品」にするのは責任回避かつ感情動員じゃないのか、という。
現代美術について鑑賞眼がないと自認するのであれば、あくまで好みではないといった批判にとどめるべきだった。印象派は知っていても、おそらくタイポグラフィを活用した美術は知らないのだろう。
上記エントリに対して、明治大学の大屋雄裕教授*1が反応していたのだが。
@takehiroohya: ストーカー対策について少し考えている。まあ現実の危害に及ぶこともなかろうからほおっておけばいいのかな。 >RT @hatenaidcall: id:hokke-ookamiさんから言及がありました URL
@takehiroohya: たとえば私は自分が刑法には詳しくないと言うが、それは法哲学と比べてとか専門家と比べてという趣旨であって、知識水準で言えばまあ日本の上位1%には入るわけ。そういう表現を自分の考える「詳しくないレベル」と勝手に想定されてもなあ。本当に何も知らなかったら永仁の壺がぱっと出るかね。
@takehiroohya: で、言うに事欠いて「マンガは?」ときたわけだが、だからファインアートではなくて複合芸術と扱われてきただろうし、政治マンガや学習マンガのように《目的ある》作品は通常のマンガとも別扱いされているわけ。タイポグラフィックアートも文字の形態的な美が焦点(その意味で書道と同じ)であってな。
@takehiroohya: まあしかし、他者の他者性を認識できないという意味において陰謀論者とストーカーは同種なのだ、という気付きを得た(一部業界用語)のは収穫であった。やれやれ。
@takehiroohya: 考えたい人のために。問1:アングレームと都美術館で作品が(一部)撤去された事例において、主催者側は作品のどのような性質が問題だったと主張しているか。異同を論じなさい。問2:アングレーム漫画祭と都美術館の表現の場としての性格の異同について論じなさい。
批判に対して耳をふさぎたいならばブロックすればいいし、リプライ不要と願うならば今後そのようにしてもかまわない。しかし、ストーカーあつかいするくらいなら、最初から批判不要とツイッターのプロフィール欄にでも書くべきだと思うよ。
それに、批判してきた相手をストーカーとみなすことは「責任回避」や「感情動員」ではないのだろうか。
さて本題だが、「今回の都美術館の作品は見ていない」と明言しておきながら、「知識水準で言えばまあ日本の上位1%には入るわけ」とか、「本当に何も知らなかったら永仁の壺がぱっと出るかね」とか主張しても、まったく説得力を感じないので困ってしまう。
「考えたい人のために」「異同について論じなさい」というツイートにいたっては、馬鹿には見えない服を着ているつもりにしか見えない。他人に考えることをうながしたいなら、まず自分自身が当該作品の情報を可能な限り入手してから語るべきだろう。
また、「詳しくないレベル」と相手の考えを身勝手に要約しながら*2、「他者の他者性を認識できない」と応答するのは何の冗談だろうか。逆に私こそが、「批判者たちの多くも、本当に気に入らないのは作品の主張内容だろう」という大屋教授の推測に対して、具体的な批判例を示しながら必ずしもそうではないことを指摘したのだが。
そもそも、大屋教授に対して「印象派は知っていても、おそらくタイポグラフィを活用した美術は知らないのだろう」と推測したのは、私なりに擁護するためだ。文字を活用した美術表現が確立されていることを知りながら、文字にするなら議論にして説得責任を負うべきと主張したのであれば、なお悪い。
たとえば以前、大屋教授は『はだしのゲン』が撤去を求められたことについて、下記のようにツイートしていた。
@takehiroohya: 『はだしのゲン』騒動のときに、まああれもどこが本当に問題視されたのかよくわかんない話だったけど、描写が問題なんだったら同著者の『大砲とスタンプ』読ませりゃいいんじゃないかとは思ったな。残酷描写はないけど残酷だよ。戦争を理解するにはいいんじゃないかな。
なるほど「知識水準で言えばまあ日本の上位1%には入る」という大屋教授は、本当は日本軍の残虐行為が問題視されて撤去が求められたことを知っていたのに、ただ戦争の残酷な描写で代替して充分というわけだ。日本軍の戦争犯罪や戦争責任を隠すことを追認し、つくる会の要求を後押しするわけだ。
「はだしのゲン」教育現場から撤去を文科相に要請 つくる会 : J-CASTニュース
新しい歴史教科書をつくる会は漫画の中に「最高の殺人者天皇」といった天皇批判や、「太平洋戦争中に旧日本軍人が各国で約3万人以上の人を残酷に殺した」といった根拠のない誤った歴史が書かれていて学習指導要領に明らかに違反するとし、撤去を要求した。
それでも、このツイート単体ならば、推薦したい作品を高評価するためのレトリックと思って、個人的には許容したいところではあった。それも大屋教授の自認が虚偽ではないという可能性を考慮した上での話だったが。
ちなみに大屋教授が都美術館にふれて以降、「永仁の壺」が出てきたのは、@SiestaMachine氏とやりとりしていた下記ツイートが初めてだ。
@takehiroohya: じゃあ「永仁の壺」はまごうかたなき芸術作品ですな(いやある意味でそうなんだけど)。例示という表現の機能も理解できない、と。 RT @SiestaMachine: 事実問題として中垣氏は(略)客観的に認められた芸術家ですよ
あくまで美術界の高評価があてにならない事例として出しただけであり、第三者としては、大屋教授が美術にくわしそうな根拠とは思えない。「現代美術」とも「タイポグラフィ」とも直接の関係はないし、「知識水準で言えばまあ日本の上位1%には入る」という自認の根拠にはなるまい。それとも大屋教授は自分ならば「永仁の壺」が贋作であると見抜けたとでもいうのだろうか。
さらにSiestaMachine氏とのやりとりについていうと、下記ツイートが凄いなと思った。
@takehiroohya: だから普通は文字じゃなくて絵とか物体に語らしめるんじゃないですかね。ゲルニカにスローガンとか書いてありましたっけ。 RT @SiestaMachine: 先生のおっしゃる説明責任の判断基準によれば、あらゆる芸術作品が説明責任回避と感情動員であるということになります。
@takehiroohya: 「文字」と「スローガン」をごっちゃにするのは良くないんじゃないですかね。RT @SiestaMachine: 芸術作品に文字が記されていることは歴史的に見てまったく珍しくありませんが。
当該作品の文字表現がスローガンであると立証する必要がある大屋教授に対して、SiestaMachine氏は文字表現を用いても美術作品となりうることを指摘するだけで充分。しかし大屋教授自身が当該作品を見ていないと明言していた。だから大屋教授はいったん「ごっちゃ」にした上で、相手が「ごっちゃ」にしたかのように責任転嫁したのだろう。
この問題は私が漫画の存在を指摘したことに応じたツイートでも同じだ。私が指摘した「文字を使った美術は頭から認められないのだろうか」という文脈にそって、文字を使った漫画は美術として認められないという論を立てなければならなかった。しかし政治マンガや学習マンガが通常のマンガと区別されると主張したことで、むしろ冒頭で再引用したツイートとの整合性をたもつことがいっそう難しくなっている。
*2:少なくとも、カギカッコ内に書かれた言葉を私はエントリで書いていない。
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