前回の続き。
土曜日には洗礼のための勉強会に行き、日曜日はミサに行く、という習慣ができてくる。こうなると歯止めが利かない。初めてヲタの世界に触れたヲタのように、何でもかんでも吸収しようとする。本屋やブックオフでキリスト教の棚に張り付く。キリスト教入門的な本を買い漁る。そして初めて、世間にはキリスト教に関するトンデモ本が溢れていることに気づく……。橋爪大三郎・大澤真幸著『ふしぎなキリスト教』や島田裕巳著『キリスト教入門』などは一見無害なだけかえって悪質だ。しかし、僕が憤慨したのは適菜収著『キリスト教は邪教です!』だった。
この本、一応ニーチェの『反キリスト』の現代語訳だと主張するのだが、付加部分が多過ぎるし毒を含みすぎだ。そもそもタイトルからして『キリスト教は邪教です!』なのだから、クリスチャンは手に取ることもしないだろうし、読んで楽しめるのは元々キリスト教が嫌いな人だけだろう。この本と岩波書店の『反キリスト』を読み比べて適菜氏の思想を探ろうとしたがアホらしくなってやめた。
この本で学べることは、「あらゆる宗教のうちキリスト教には何を言っても許される空気があるらしい」ということくらい。偏見と思い込みで凝り固まっている頃にこの本と出会わなくてよかったと心から思う。このように本屋にはイカれた本が潜んでいるのだ。なお、この本は罵倒表現の良質なサンプルになるかもしれないので、キリスト教が大嫌いな人はぜひ参考にするとよい。
幸い、教会付属の本屋があり、そこで良質なキリスト教書籍を入手することができた。金がないので専ら文庫本を買う。カトリック書店にはペトロ文庫や聖母文庫などの安価な良書がたくさんある。一般の書店で高い金を出して新書の駄本を買うくらいならこっちの方がはるかに有意義だ。
聖母文庫ではアルフォンス・デーケン著『キリスト教と私』、松永久次郎著『カトリックのこころ』、川下勝著『太陽の歌 アシジのフランシスコ』などが勉強になった。
ペトロ文庫では、教皇ベネディクト16世(当時)の霊的講和集シリーズが勉強になった。何せカトリックのトップの説教なのだから。
文庫以外では、フェデリコ・バルバロ訳『キリストにならう』、教皇ベネディクト16世の『回勅 希望による救い』など。ベネディクト16世は神学者でもあり、かといって難解過ぎず分かりやすい。それでいて最高権威なので異端的な内容の混入を疑う必要がない。そりゃ人間だから間違うこともあろうが、ほとんどないと考えられる。宗教抜きに学者としても信頼できる。
キリスト教に関して言えば、多読は無意味だと思う。それより数冊の良書を精読した方がはるかに有益だ。一般書店でキリスト教アンチな本を見つけては憤慨したり、トンデモ本を見つけては憤慨したりするより精神的に健康だ。もっとも、『ふしぎなキリスト教』に関して言えば、正教会の神父様を中心にまとめWikiや反論本が発売されており、これを見て間違い探しをするのも悪くない。悪くないが、激しく遠回りであり、玄人向けの遊びである。僕のような初心者にとっては躓きの石となる可能性大なので、素直に王道の本を読む。
しばらく教会に通っていると、親切なおばあさんがたまに本を貸してくれたり、プレゼントしてくれたりする。非常にありがたいのだが、積読本を消化できなくなるのでちょっと困った。しかし最初の頃はこうした親切が非常にためになった。自分を過信せず、年の功に学んだ方が無難だ。一般書店に行くとトンデモ本に当たる可能性が高いし、有益な本を選ぶというのも慣れていないと難しい。先人に学ぶのが一番だ。もっとも、その先人がトンデモさんだったら目も当てられないが……。幸い、僕を導いてくれた先人の方々は皆70代から80代の重鎮ばかりで、カルトや異端の入り込む隙はなかったようだ。
キリスト教の場合、そもそも聖典が一冊(にまとめられてはいるが実際は66巻または73巻の書物である)しかないし、カトリック用の聖書であるバルバロ訳やフランシスコ会訳には注釈があるので、独りよがりな解釈に走るのを防げる。教義に関してもカテキズム一冊あれば十分なのだ。神学を本格的に学ぶなら足りないが、そうでなく個人的に学ぶなら多読は無意味だと思う(大事なことなので2回言いました)。