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一服ひろばに出ると、やはりそこに新条がいた。最初に見た時と同様に自分の吐いた煙を眺めている。その目がゆっくりと郁美に向けられた。
「やあ。今日は何の用事だい」
「先生の仰(おっしゃ)った通りです。夏目巡査長が全てを自供しました」
「それを言いにわざわざ?」
「見誤った者の、当然の義務ですから」
郁美は恥辱で顔から火が出そうだった。新条に指摘され、夏目巡査長の身辺を洗ってみると、四年前から怪しげな組織と関わりを持ち、すっかり洗脳されていることが判明した。何のことはない、自分の部下こそが真垣総理を狙っていたテロリストだったのだ。
官舎の部屋を捜索すると、手製爆弾の材料をネットで購入した痕跡も発見された。それら物的証拠を眼前に突き出してやると、夏目は観念して自白し始めた。
夏目の計画はひどく単純なものだった。総理の警備を任じられたのを幸い、手製爆弾を制服の下に隠したまま真垣に接近して自分もろとも爆死させようとしたのだ。
警察官、しかも警備に当たる者本人がテロリストであったという事実は、警視庁上層部ならびに警備部長の顔色を真っ青どころか土気色に変えた。中でも直接の上司だった郁美には任命責任を含め、これから苛烈な処分が待っている。
だが処分される前にけじめをつけておくことがまだ残っている。その一つが新条への訪問だった。
「あの患者、いやマイケル・ピーターソンは沿道で総理の応援演説を聞こうとした時、目の前に立っていた夏目の不審な動きに気づいた。観察していると、彼が取り出したのが手製爆弾だったので取り押さえようとした。彼は元アメリカ軍人で、以前イラクに派遣されていたから爆弾の知識もあったそうだ」
そして二人は揉み合う形になり、マイケルは夏目から爆弾をもぎ取ったはいいが燃焼剤を浴びてしまった。ところが居並ぶ警備陣は逆にマイケルに疑いをかけたという訳だ。
「先生は、それをいつマイケル本人から聞いたんですか」
「彼が意識を回復させた直後だった。わたし自身、財布とケータイの件がどうしても腑に落ちなかったからね」
「えっ。だって意識が戻っても、すぐには唇も指も動かないって……あれは噓だったんですか」
「嘘なものか。目覚めたばかりのマイケルは身動きすらままならない状態だった。包帯に隠れていたが、きっと表情筋を動かすことさえ叶わなかったろう」
「じゃあ、どうやって会話を」
「今は瞬きワープロという便利な物があってね。患者の前に文字盤を置き、その眼球の動きや瞬きをCCDカメラで捉えて意思表示させる。それで彼から真相を聞き出すことができた」
ベッドの上で必死に眼球だけで意思を伝えようとするマイケルを想像すると、申し訳なさに身が縮む思いだった。他国の宰相を護るため全身に大火傷を負った善良なる者。ところがこの国の人間は、その英雄に対して感謝するどころか悪口雑言の限りを浴びせかけたのだ。今にして思えば何と軽薄な悪意だったか。充分な立証もしないまま気分だけで彼を悪辣(あくらつ)な犯罪者と断じ、一人として救いの手を差し伸べようとしなかった。
そう、新条を除いては誰も。
「……先生には改めてお詫びしなければなりません」
「必要ない。くどくなって本当に嫌なんだが、わたしには英雄もテロリストも関係なかった。自分の患者を護ることだけが仕事だからな。わたしはわたしの仕事を全うしようとした。あんたはあんたの仕事を全うしようとした。ただそれだけのことだ」
自然に頭が下がる。すると、新条が小脇に抱えている袋が目に入った。
「ああ、これはマイケルへの差し入れさ。タバコだよ」
「タバコって……植皮したばかりの重病人にそんな物を」
「もちろん全快した時の楽しみに枕元へ置いておくだけだ。彼は根っからの愛煙家かつ親日家でね」
袋から出されて銘柄が顔を覗かせた。
「日本のタバコ?」
「マイケルが言っていたよ。個人の名前を冠したものではなく、希望とか平和とか祈りの心をタバコの銘柄にまで込めた日本人は尊敬に値する。だからこそ自分は日本人が大好きなのだと」
「……たったそれだけのことで?」
「国や人の第一印象なんて、案外そんな他愛ないところに起因するものじゃないかね。良くも悪くも」
新条は細めた目で、もう一度自分の吐いた紫煙を眺めた。
遥とルシアはともにピアニストを目指す従姉妹同士。彼女たちが同じ敷地内にある祖父の離れに泊まったある夜、離れは火事に見舞われ、祖父とルシアは帰らぬ人となってしまう。遥も全身にひどい火傷をおったが、奇跡的に一命を取り留める。祖父の莫大な財産をピアニストになることを条件に譲り受けることを知った彼女。その周りで不審な出来事が起こり始めて――。第8回「このミス」大賞受賞作品。2013年1月に橋本愛主演で映画化。新条要は、遥の手術を執刀した形成外科医。