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悪い予想ほど的中する。
思わず舌打ちをして、郁美は廊下を走り出した。ICUは四階にある。おそらく公安の連中は南北いずれかのエレベーターを使ったに違いない。それなら自分がエレベーターで後追いしても間に合わない。
階段だ。
郁美は中央階段を一気に駆け上がる。パンツを履いてきて正解だった。鍛えに鍛えた自分の脚力なら勝算がある。新条が追いかけて来る気配もない。
それにしても公安の動きは機敏に過ぎる。容疑者の意識回復の報(しら)せを自分とほぼ同時に察知し、電光石火の速さで身柄を押さえに来た。その方面にも網を張っておくべきだったと悔やまれるが、今となっては後の祭りだ。
四階フロアに出ると、廊下の向こう側からやって来る背広姿の男二人を認めた。一人は長髪、もう一人は五分刈り。二人とも服のセンスのなさはまさしく公安だ。目指すICUは双方のほぼ中間。郁美は再び疾走する。
病室を通り過ぎ、二人組の面前に立ち塞がる。男たちは胡散臭げに郁美を睨む。
「公安には最低限の仁義もないんですか」
その言葉で身分が分かったのか、二人の表情に不遜さが過(よぎ)った。
「仁義もクソもあるか。相手がテロリストなら俺たちが担当に決まってるだろ」
長髪の方が喧嘩腰で応える。分かりきったことだが説得や相談に応じる相手ではなさそうだ。
まさか病院の廊下で大立ち回りをするつもりもなかったが、戦力差は如何ともしがたい。部下の加勢を得たとしても、公安を押し留める方法が思い浮かばない。
「退いてくれないか」
「容疑者をどうするつもりですか」
「もっと監視の利く病院に移送できるものならする。できなきゃ病室を取調室代わりにするだけだ。どうせ、そっちだって考えていることに大差はあるまい」
図星なので郁美は何も言い返せない。
「捜査権がどうの縄張りがどうのと狭量なことは言うなよ。所詮、警備部が抱え込めるような事件じゃないんだ」
「容疑者を確保したのは警備部です」
「現場にいたんだから当然だ。駐在だってそれくらいの仕事はするさ。そんなことで優先権を主張するつもりか。さあ、退け」
長髪は郁美をまるで障害物のように押し除けようとする。さすがにむっとして、郁美はその手を撥(は)ね除(の)ける。
途端に辺りは剣呑な雰囲気に変わった。どちらかが手を出せば腕力の差はともかく、間違いなく拳の応酬が始まる。
抗う術もなく郁美はじりじりと後退していく。気がつけば、三人はICUの前まで来ていた。
これで横から獲物を掻(か)っ攫(さら)われるのか。
焦燥に堪えているうちにも、男たちが一枚目の扉を開ける。廊下から続く準備室を抜けると、そこに容疑者が横たわっているはずだ。
男たちは遠慮なく二枚目の扉を開けた。
郁美は室内に入って、思わず目を疑った。
医療機器が四方を取り囲む中、ベッドの上はもぬけの殻だったのだ。
男たちも半ば唖然として空のベッドを見つめている。
「あまり医者をナめてもらっちゃ困る」
扉近くの声に振り向くと、そこに新条が立っていた。
「あんたたちが駆けつけて来るのを知っていて、わたしが何もしなかったと思うのか。警察に連絡が行く前に、患者は別の部屋に移しておいたよ」
「先生が主治医ですか。あまりふざけた真似をされたら困りますね」
「ふざけているのはそちらの方だ。植皮されたばかりの患者は無菌状態が絶対条件だ。その病室に雑菌だらけの普段着で踏み込むとは、いったいどういう了見かね」
新条は公安二人組を前に、一歩も退く気配を見せない。
「先生、警察も病院と事を荒立てる気はないんだが……」
「あんたたち三人を眼科に紹介してやるべきかな。揃いも揃って視野狭窄(しやきょうさく)に陥っている」
「何?」
「まだ分からないのか。あの患者がテロリストだというのはあんたたちの完全な思い込みだ。いいか、考えてもみろ。彼は現場で免許証の入った財布とケータイを持っていたんだよな。これから自爆しようという人間が、何故そんな物を持ち歩く。自分の身元をこれ見よがしに曝(さら)け出すつもりだったというのか。それともあの世とやらで、ケータイ片手にドライブと洒落込(しゃれこ)むつもりだったとでもいうのか。彼はテロリストどころか、我が身を呈して他国の宰相を護った英雄なんだぞ」
遥とルシアはともにピアニストを目指す従姉妹同士。彼女たちが同じ敷地内にある祖父の離れに泊まったある夜、離れは火事に見舞われ、祖父とルシアは帰らぬ人となってしまう。遥も全身にひどい火傷をおったが、奇跡的に一命を取り留める。祖父の莫大な財産をピアニストになることを条件に譲り受けることを知った彼女。その周りで不審な出来事が起こり始めて――。第8回「このミス」大賞受賞作品。2013年1月に橋本愛主演で映画化。新条要は、遥の手術を執刀した形成外科医。