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ICUに張りついていた部下から、容疑者の意識が戻ったと報告を受けたのは、それから一週間後のことだった。
病院に駆けつけた郁美が容疑者との面会を求めると、やはり間に新条が立ちはだかった。
「言っただろう。意識が回復したからといって声帯や指先が自由に動かせるようになった訳じゃない。まだ生着していない皮膚を無理に動かすなど絶対に許可できん」
相変わらずの頑なさだったが、今日ばかりは郁美もおいそれと引き下がる訳にはいかない。
「医師の態度としてはご立派だと思います。しかし国民の一人としてはどうでしょうか。仮にも自国の宰相が命を狙われたんですよ。言い換えたら国に対する犯罪です。犯人の聴取に協力するのが当然の義務じゃないんですか」
相手が建前を持ち出すのなら、こちらも国家警察の論理を振り翳(かざ)すまでだ。
しかし、その程度の反駁(はんばく)でたじろぐ新条ではなかった。
「さっきから聞いていれば患者を完全に犯人だと決めつけているようだが、そうじゃない可能性を少しでも考えたことはあるのか」
「状況証拠は限りなくクロです。容疑者が総理に近づいた途端、爆弾を取り出したのは何人もの人間が目撃しています」
「それならわたしもテレビで見たさ。だが、そんなもので何が分かる。はっきりしているのは、あの患者が選挙カーに近づき、警備の者と揉み合いになったという表層だけだ」
いくら何でも強弁だと思った。医者の倫理に拘泥(こうでい)するあまり、この男は依怙地(いこじ)になっている。依怙地になった人間に通用する理屈はなく、今の郁美には相手をする余裕もない。
「新条先生。何度も言いますが、これは通常の犯罪ではなく国家に対する犯罪です。その事件解明は何事にも優先します。既に病院長の許可も取りつけてありますから」
それを捨て台詞にして、郁美はICUに足を向けた。外国人であっても、テロを目的として滞在するからには日常会話程度の日本語は理解しているだろう。唇が動かせなくても耳は聞こえるはずだから恫喝ができる。指先が機能しなくても、相手の反応で感情を推し量ることはできる。どの道、これからも聴取は継続される。最初の接触で力関係を認識させておくことは肝要だった。
ところが数メートルも行かないうちに、背後から肩を摑まれた。
「同じ人間に同じことを言うのはポリシーに反するが、仕方がないから言う。あんたのしようとしていることは正義を笠に着た思い上がりだ」
「その言葉、そっくりお返しします」
新条は表情を固くさせるだけで、もう抗弁するつもりはないようだった。
郁美は肩に置かれた手を摑むと後ろ手に捻り上げた。警備部勤続は伊達ではなく、いくつか有段者資格も持っている。手先が器用なだけの優男に格闘で負ける気などさらさらなかった。
新条はひと声、うっと呻いて顎(あご)を上げた。
「公務執行妨害とまでは言いませんけど、これ以上の押し問答は無意味です。ICUに同行されるのは構いませんけど、先生は邪魔しないでください」
「つくづく横暴な人種だな、警察官というヤツは」
テロの非道に対抗するためには、多少の横暴は許容範囲だ。自分たちにはそれが許されている。だからこそ一般市民の持てない権力と武器を与えられている。
新条はプライドの高そうな男だ。女である自分に完膚なきまでに封じ込められれば、高飛車な態度も影を潜めるに違いない――そう考えて、腕の力を少し緩めた時だった。
胸ポケットの携帯電話が着信を告げた。
片手で取り出して通話ボタンを押すと、部下の声が洩れてきた。
「どうしたの」
『すみません、不意を衝かれました。たった今、公安の連中が容疑者の病室に向かっています』
遥とルシアはともにピアニストを目指す従姉妹同士。彼女たちが同じ敷地内にある祖父の離れに泊まったある夜、離れは火事に見舞われ、祖父とルシアは帰らぬ人となってしまう。遥も全身にひどい火傷をおったが、奇跡的に一命を取り留める。祖父の莫大な財産をピアニストになることを条件に譲り受けることを知った彼女。その周りで不審な出来事が起こり始めて――。第8回「このミス」大賞受賞作品。2013年1月に橋本愛主演で映画化。新条要は、遥の手術を執刀した形成外科医。