同性愛行為に終身刑も ウガンダ、厳罰化に批判 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140225/mds14022500340000-n1.htm
読んだ。
不思議と、悲しいとか口惜しいとか切ないとかそういった感情は湧き上がってこない。あくまで他人事として、このニュースを消費している自分がいる。まぁ、ほもだからといって全ての同性愛者に憐れみを抱けるほど博愛主義者ではないので、このニュースに対して心を動かされるかどうかなんて、それほど気にすることでもないんだけど。
ただ、おいらの中の何かが「それはよくないよ」と叫んでるような気がする。それは、なんちゃって良心かもしれないし、もっと切実な何かかもしれない。結局のところはよくわからないけど、他人事として片付けるのはよくないらしい。他でもない自分の心が言うんだから、今の自分にとっては正しいことなんだろう。少なくとも、耳を傾けるには値する。
共同通信によると、ムセベニ大統領は
「生まれつき同性愛者になる者がいるとの研究はない」
とかぬかしたようで、これには正直言って呆れた。あなたちゃんとぐぐったんですか?と聞きたくなる。もちろん、断言できるほどの成果を上げた研究というのはおいらも知らないけど、それでも「先天的な要因は少なからずありそうだ」というぐらいの研究ならいくらでもある。ぐぐればすぐに見つかる程度には。…某国のようにネット検閲でもされていれば、話は別だけど。
他にも、
同性愛の男性がなぜ「美しい女性らには目もくれず、男に引かれる」のかが理解できない
「これは本当に深刻な問題だ。(同性愛者には)何か非常におかしいところがあるのだ」
とか平気でぬかす神経の持ち主らしく、これは多分一生かかってもわかりあえない別世界の人間だ、と断じるしかない。何を見て美しいと思うかなんて人それぞれだろうに。この人の言ってることは、例えるなら「私の妻を見て欲情しないのはおかしい」とか言ってるようなもんで(別に妻じゃなくても好きなアイドルでも何でもいいんだけど)、こっちとしては「勝手に言ってろ。余計なお世話だよ」としか言えない。
挙句の果てには、同性愛を
金目当ての売春行為
とまでぬかしたようで、ますます頭痛が痛い。金とかモノとか関係なしに同じ時を過ごしている同性愛者など、この世には存在しないらしいですよ、この人の頭の中では。もう色々突っ込みどころが多すぎて、釣りじゃないかと疑いたくなるレベル。一つの国を支配する釣りとか聞いたこともないけど。というか、人の尊厳に直接関わる釣りとか洒落にならないけど。
これは前ツイキャスで話したことあるんだけど、おいらは幼稚園の頃には既に同性愛を自覚していて…というと何か違うか、他の人の○ん○んに異様なまでの興味を示す子どもで、それが自分にとっての「当たり前」だったんですが。
それはどうやらおかしいことらしいぞ、と気付いたのは中学生の頃です。それまでは別におかしいことだとか思ってなかったわけで、つまり隠そうともしてなかったわけで、そりゃバレますよね、簡単に。このあたりは前にも書いたので端折りますが、それをきっかけとして、おいらは自分が同性愛者であることを隠すようになりました。
「おかしい」という言葉の定義にもよると思うんですけど、「普通」の背反、つまり「大多数と違う」ことを指す形容詞だとした場合、同性愛は「おかしい」ことです。それは他でもない同性愛者自身が、誰よりも痛感し続けていることです。
ただ、この「おかしさ」は抑圧されるべき性質のもんなんでしょうか。放っておけば皆同性でくっつくようになって少子化につながるとか?あるいは、放っておけば異性愛者に危害を加えるようになってしまうとか?そんな馬鹿な。もちろん、同性愛とかそういうことを嫌悪する層がいるのも知っているので、敢えておおっぴらにしようとも思いませんが。
(そういえば、昨日のツイキャスでも話しましたが、ノンケの下ネタトークって、だめな人はとことんだめだと思うんですが。おいらは「わからない」なりに面白がれる人間なのでいいんですけど、疎外感を感じるゲイの人もいるかもなぁ、とか。ゲイは外じゃ下ネタトークとかできませんから)
おいらはしばしば「差別なんて無くなりようが無いんだから、お互いの領域を侵さないようにして、知らんぷりしながら共存するしかないじゃない」みたいなことを言うんですが、今回のニュースを見て、差別感情自体が危うい性質を持っている側面もあるのかもしれないな、と考えました。
内心の自由まで否定するつもりはないんですが、差別感情そのものを否定する言説っていうのも(ある程度は)無いと、いずれその差別が当たり前になってしまって、群集心理などの要因によって容易く弾圧につながるんでしょう。それは過去の様々な歴史が証明していることです。
幸い?同性愛者は、差別されがちなマイノリティの中では認知度が高く、差別に対して声を上げる層も少なくはないため、少しずつ状況は良くなってると思うんですが。その影には数多くの屍があるわけで、今回みたいなことがあると、あんまり気楽に構えてたらだめかな、という気になります。
この国には、冒頭に挙げたような法律こそありませんでした(知らないだけで実はあったのかもしれません)が、それでも過去実際に弾圧があった、という事実は忘れずにいたいものです。そして、ウガンダからこのような野蛮な(たとえ少数派であっても、許容しても問題ないであろう人まで弾圧するのは、野蛮と言わざるを得ません)法律が一日も早く無くなってくれるように、遠いこの国から祈りながら、自分にできることをやっていこうと思います。
- あとがき
以前書いたエントリに対するブコメで印象に残っているものがありまして。性嫌悪について書いたエントリだったんですが、
このままでまったく問題ないでしょう。良き性のあり方などというものはない。
というブコメを頂いて、あぁ、とため息が出ました。多くの人が異性愛者である、というぐらいのことはわかっても、その中身…というか、性欲の表現の形は人それぞれだよなぁ、と思ったものです。だったら、同性愛だって数ある性の形のうちの一つに過ぎないじゃないか、と。
今日のエントリは「同性愛者への弾圧」を主眼に置きましたが、差別的な感情が発生し得る全ての事柄について言えることだと考えています。他人事を他人事として処理するのも精神衛生上大事なことなので、それを否定するつもりはありませんが、余裕があって興味が持てる時ぐらいは、他人事について考えるのも良いんじゃないかと。そういう、小さなことが一つ一つ積み重なって、この世界を少しずつ良い方向に動かしてきたのだと信じています。
最後が少しふわふわした終わり方になりましたが、あんまり具体的な「できること」を書いても押し付けがましくなってしまうし、やれって言われたらやらないよ!っていう天邪鬼な人もいるかもしれないので、はっきりとは書きませんでした。
おいらにできることが、他の人にもできるとは限らないです。様々なリソースによる制限だってあるし、気分の問題もあるでしょう。だから、自分に何ができるのかは、自分に与えられた余裕と相談しながら、自分で考えるしかないのだと思います。一つ言えることは、こういうことは持続可能性こそ大事だと思うので、無理せずのんびりやっていくのが良いんじゃないかなぁ、ってことぐらいですね。