広島戦災孤児育成所から福島原発溶解のその先は?パート3
広島戦災孤児育成所から福島原発溶解のその先は?パート1、2で書いた『菊池女子大学生―著者:山下義信(浄土真宗僧侶)』から、1945年8月6日午前8時15分(多くの人が疑問に感じている、大本営発表の時間)に現電力中央研究所{旧東邦産業研究所(所在地:埼玉県志木市(現慶応大学志木高等学校)、所長 松永安エ門}が完成させ、人類史上第1号の原子爆弾を地上起爆させ、広島(ウラン235型)・長崎(プルトニュウム239型)市民を標的として人体実験した。製造と使用の先の「人体実験」に関係した人物を4名に上記小冊子から抽出して、パート2では【日本サッカー協会特別顧問森 健兒の父親で、広島の「似島学園」初代 園長兼学校長 森 芳磨】について述べた。その序列を此処で再び書いておく。
1、19番目:森 先生 広島県労政課主事、育成所庶務、後似島(にのしま)学園長。
(本書に名前の記載は無かった。似島学園で調べた所、森芳磨と判明)
2、15番目:三好重夫 安佐郡戸山村出身、育成所開設に尽力、現公企体金融公庫総裁。
3、37番目:桜井先生 桜井宏通(23)、九州帝大法科卒、応召、復員、育成所協力に
来所、後議員秘書、参議院参事、現筑紫油脂工業KK社長。
4、46番目:法主猊下 西本願寺門主大谷光照師、5月27日来所。
5、95番目:草津桜寮 海外引揚孤児収容施設。
(2番目の番号は、パート1で、小冊子「菊池女子大学生」に登場している順番を表す。)
従って、次は<2、15番目:三好重夫 安佐郡戸山村出身、育成所開設に尽力、現公企体金融公庫総裁。>である。本当に悪党を呼ぶに相応しい人物である。「悪党」とは言葉は“三好重夫”の為に在るのではないかと実感するのである。【森 芳磨】と同じ表現方法をとるならば、【三好重夫】は次の如くである。【1993年(平成5)8月23日に発覚した「東芝ココム違反事件」で、東芝側の担当者「三好浩介専務」の父親で、公営企業金融公庫(2008年10月1日廃止) 初代総裁 三好重夫】と紹介できる訳である。そう、今回の東電「福島原発溶解事件」の原因企業“東芝”である。【東芝専務 三好浩介】と東電「福島原発溶解事件」が何処で結びつくのか?その父「三好重夫」が広島・長崎で地上起爆させた日本製原爆と、どう繋がるのか?と云えば、全てが「広島県出身の三好重夫一族から公営企業金融公庫(現地方公営企業等金融機構)」に繋がるのである。それは、丁度「爆縮レンズ」と云う機構である。日本と云う“魑魅魍魎の白足袋族”が支配する異型の民族形体の核とも云える訳である。淵を覗くと其処は福島原発の格納容器内で「制御不能の核分裂(融解)」を続けている燃料集合体そのものが、日本そのものと云う訳である。誰も怖くて近づくことが出来ない。さて、緊急を要する問題から入る為に、最初は【東芝専務 三好浩介】が関与した「1993年(平成5)8月23日 東芝ココム違反事件」について述べると、この「東芝ココム違反事件」が発生したのは実は1986年の事件なのである。7年前の事件であり、東芝機械ココム違反事件での家宅捜査が「1987年4月30日」なのである。ココムとは対共産圏輸出統制委員会の協定である。<東芝機械は1982年12月から1984年にかけて、ソビエト連邦技術機械輸入公団へ『工作機械』8台と当該工作機械を制御するためのNC装置及びソフトウェアを輸出した。この機械は同時九軸制御が可能な高性能モデルであった。1982年から1983年にかけて機械本体が輸出され、修正ソフトは1984年に輸出された。担当した社員は、ソ連から引合のあった『工作機械』は共産圏への輸出が認められていない点を認識した上で、輸出する機械は同時二軸制御の大型立旋盤の輸出であるとの偽りの輸出許可申請書を作成し、海外にて組み立て直すとして契約を交わした。米国防総省はソビエト連邦海軍の攻撃型原子力潜水艦のスクリューの静粛性向上に貢献したと考えた。>日本人から云わせれば、これは正に売国企業「東芝」である。日本の防衛産業のトップ企業が仮装敵国に武器を供与していた訳である。此処で、不思議なのが「当時の防衛庁も、内閣情報調査局(室)と云った日本の防衛政策を声だかにメディアで叫ぶ制服組(職業軍人)が沈黙して、嵐の過ぎ去るのを待っていた事である。」前にも書いたが、所沢市防犯協会の会長「願法 充」は元航空自衛隊 浜松基地の教官であり、戦闘的自衛官の代名詞「田母神俊雄(福島県出身、不動産会社アパグループの石川県小松基地)」の上官である。この「願法 充」は東京都港区芝浦の「東芝本社」に勤務していた訳である。退職自衛官の多くは在職中から取引企業への就職活動をして、退職後は前任者(元上官)が居た民間企業に再就職するのが一般化している。それならば、この「東芝機械を含む一連のココム事件」には防衛庁(現在は省)の幹部も東芝職員として深く関与していたと云うより、防衛庁幹部がソ連(現ロシア)海軍に積極的に営業活動したと考えた方が自然である。それは、「大日本帝国参謀本部 参謀 瀬島龍三」が、東芝側に働きかけた訳である。シベリア抑留と満洲棄民をソ連と組んで仕組んだ、大本営参謀だからソ連(現ロシア)軍部とは太いパイプがあるのである。そう考えて見れば、1982年の事件が“1987年と1993年”によみがえって新聞紙面をにぎわすのも理解できる訳で在る。東芝の専務と云えども「防衛庁(省)の威光」には逆らえない筈である。この東芝機械がソ連(現ロシア)に輸出したと云う工作機械一式は、潜水艦のスクリュー製作だけではなく、原爆製造に不可欠な遠心分離機なども含んでいたと観るべきである。それは、1993年の「東芝ココム違反事件」の主導的役割に三好重夫の子である「東芝 三好浩介専務」の名前が出てきたことでも分かる。この事件(元は1982年)なら三好重夫が仲介役をしていた可能性もある。それは三好重夫と瀬島龍三が繋がっているからである。更に三好重夫は「高嶋辰彦参謀、小島威彦、仲小路彰、谷口吉郎・・・等々」のスメラ塾グループである。即ち「皇戦会=国民精神総動員法」を国民に押し付けた連中である。今尚、現在も日本の各企業は大本営の指導なしには何も出来ない訳である。これを「護送船団方式の企業体質」と呼ぶ訳である。なら「三好重夫」に責任はなにのか?と云えば、故郷「広島市民を対象に人体実験」したのだから、火炙り刑は当然である。原爆を使用することを事前に知っていたし、深く関与していた訳だから。それでも、浄土真宗の教え【悪人正機説(悪人正機(あくにんしょうき)=悪人こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である。】が、三好重夫には染み付いているから、「悪行(殺人、虚言、博打、・・・)を積めば積むほど、阿弥陀の教えに従い、阿弥陀に近づく」と考えている訳である。それが茨城県の「牛久大仏(=阿弥陀信仰)」である。三好重夫の阿弥陀信仰を現代に実戦したのが、オウム真理教団の地下鉄サリン事件である。オウム真理教団の信者らは、地下鉄でサリンを散布したときに「念仏を唱えた」と云う犯人らの証言がる。それは【阿弥陀さんの教えに従って、人間を救済する為にポア(殺人)します。この悪行で自分たちは、阿弥陀さんに救われるのです。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏】これがオウム真理教の基本教義が「法然・親鸞・蓮如(京都 青蓮院末寺)らの阿弥陀教」からきていると言う証左である。正に「釈迦白足袋族」である。だから、京都府「一燈園 石川洋」の弟子で、東照寺国際参禅道場 住職兼法務担当 出口鉄城(充彦)と共に活動している、原田祖岳系の団体<オウム真理教団、Alerh(アレフ)、三宝興隆会、人間禅教団、少林窟道場、八曹会、鐡舟会、釈迦牟尼会、少林寺禅道場、一空会、全生庵>が云う『解脱、悟り、聖者、ヨガ、座禅』の教義は「歎異抄と阿弥陀の救済思想即ち、悪人(人間)を救済する為に殺人を奨励する」と云う訳である。しかし、出口鉄城は“つぶやき=Twitter”で臨済宗の十八番「無門関・碧眼録などの公案」を述べているから禅宗だと云う。それでは何故?出口鉄城が浄土真宗の「悪人正機説=阿弥陀教信者」なのか?と疑問に思う人があるかもしれない。その答えは「菊池女子大学生」の主題「孤児育成所」にある。出口鉄城(充彦)の母は女流作家 瀬戸内寂聴であり、胤は創価学会SGI会長の池田大作であるが、瀬戸内寂聴は生後まもない、池田充彦(出口家に養子に行く前だから)を大分県の孤児院(孤児育成所)に捨てた訳である。その施設から熊本県の「出口鉄巳」に養子に行く訳である。従って3歳まではこの大分県の浄土真宗系の「孤児施設」にいたことになる。正に「三つ子の魂百までも」である。だから、出口鉄城の裏サイト「仏滅上等」で浄土真宗僧侶を叫ぶ訳である。この出口鉄城の裏サイトの方が、出口鉄城の心の闇が可視化されている。東照寺国際参禅道場の“つぶやき=Twitter”で出口鉄城が説く「禅門の公案」は理解できないのである。その内容ではなくて、「禅門の公案は歴代の禅僧が心血を注いだもので、禅を志す者が、死にもの狂いで公案に取り組むのだから、そう軽々しく扱うものではない」と、東照寺2世 伴鉄牛老古佛は観音寺で語っていたからであるし、またそう云うものだから、どこの禅宗のサイトでも、駒沢大学的なテキストとして、公案が掲載されているが、室内の話を載せている寺は皆無である。まあー東照寺国際参禅道場の出口鉄城は法務担当だから、法律的な解釈でも羅列しているのだろう。それなら「法学部の参禅者」なら公案の意味が分かるのかもしれない。そう云った訳で、無軌道な日本人の無軌道な宗教に世界が振り回されているわけである。そこが医療法人 東京顕微卿『三宝興隆会』と云う禅宗教団である。さて『三好重夫』に関しては、先の東芝ココム事件の主犯「三好浩介」が『三好重夫 逸稿集(昭和57年7月25日発行)』と云う書籍を自費出版している。この一部を最後に掲載するが、全体としてこの書籍も山下義信が書いた「菊池女子大学生」と同じで、読むのには相当の忍耐が必要である。その理由は、両書籍とも「自己陶酔で、自分の自慢話」しか書かれていないのである。それは、出口鉄城にも共通している。人前で「自分の自慢しかしない」のである。これは詐欺師特有なのか?浄土真宗特有なのかと云えば両方である。宗教が詐欺だからである。そこで、ここで『三好重夫の自慢話』を転載しても書く方も、読む方も疲れるから、要点だけ云えば<三好重夫が京都府長だった「1945年8月6日」前後の記述>のなかで、<「京都帝国大学 荒勝文策が広島市内8か所の土を持ち帰り、その検査を行ったところ、明確に放射能が検出された由を告げられた。「思うに原爆に違いありますまい。そうだとすれば、今後百年間、広島には人間が住むことが出来ないでしょうし、恐らく草も生えないでしょう。私たちの研究は、先を越されました。しかし、私はそれを残念には思いません。負け惜しみのようですが、自分たちの発明が、あの惨虐さをひきおこさなかったことを、学者の良心としては喜んでいます」>この発言の日時がハッキリと書かれていない。荒勝文策との始めの会見は「8月7日」とハッキリ書いているのに、後は全て曖昧な表現に始終しているのである。三好重夫を自身は「ガモフ」を読んでいたから、原爆が理解できたと自慢している。三好重夫は戦後山梨県の「山中湖」に隠遁している。この「山中湖」こそ仲小路彰や小島威彦・高嶋辰彦らが謀略会議をしていた「山中湖研究所」のある場所であり、出口由美子(旧姓:横田由美子)がいた「源泉館(武田信玄の隠し湯)」なのでる。謀議の会議は主にこの「源泉館(武田信玄の隠し湯)」で開かれていたのであるから、三好重夫は明らかにスメラ塾で指導的な役割を果たしていたのでる。それは、「日本製原爆の製造と完成、そして、広島・長崎での使用」であり、広島戦災児育成所から「似島学園 初代園長兼校長 森芳磨」の不正経理問題にも深く関係していたのである。それが、森芳磨を取り調べた司法警察職員が、日本サッカー協会特別顧問「森 健兒」に対して『園長(森芳磨)は悪くない』と云った理由である。更に云えば、<三好重夫と山下義信>が似島学園を食い物にしたと云う訳である。だから「国策捜査」を三好重夫が指揮したのである。元警保局長で情報畑を歩いているのだから、森芳磨の命など簡単に取れた訳である。そんな、謀略渦巻く時代を無視してサッカーボールだけを追いかけている子供「森 健兒」の<日刊ゲンダイの連載記事>を読んで、ただただ唖然とするばかりである。親の敵「三菱重工」に就職して世界のサッカー界にデビューすることしか頭にないとはね?情けない人間だね。これがスポーツバカである。無思考を自慢している。逆に三好重夫一族は自分の自慢話しかしていない。一切世間の疑問に答えないのである。その三好重夫は<1982年(昭和57年)1月19日 死亡>し、東芝ココム違反の主犯「三好浩介」は<2003年(平成15)4月26日に腎不全で死去。東京都渋谷区広尾3-12-7。喪主は独ボッシュ開発総括担当GE 三好良(まこと)>この内務省 官僚三好重夫・東芝の浩介・ボッシュの良は広島の敵であり、人類の敵である。そう云うのが日本では人格者でエライ人と呼ぶらしいね。昭和18年から昭和23年頃にかけての「内務省人名録」は国会図書館には存在しないと云われた。また、この時期の電話帳は、国会図書館にも逓信博物館でも行方不明とも回答があった。余程、日本政府は当時のことを必死で隠したい様である。だから、同じ戦争の歴史を繰り返す訳である。
三好重夫は生前、国の金で世界中を見て歩いていた。公営企業金融公庫と云う公金でである。これこそ、「公金横領」である。それを、森芳磨に罪を擦り付けて、自分は王様ゼンとして、世界旅行三昧だったわけだから、今頃は地獄巡りだね。この三好重夫と同じ事をしていたのが小島威彦である。事を忘れてはいけない。三好重夫の「温泉好き」はウラン鉱床の調査だった、ただの温泉好きではないのである。全ては日本製原爆完成と使用の為だったわけである。そして、荒勝文策とは二人三脚で原爆製造を内務官僚として、積極的に指導していたのである。大まかではあるが、これが戦犯「三好重夫一族」の悪逆非道の一部である。
<三好重夫 逸稿集>
三好重夫 逸稿集
昭和57年7月25日発行
発行者 三好浩介
目次
序に代えて
畏友三好重夫を偲ぶ・・・・・・・・・・古井 喜実
遺 稿
地方財政譚
追 悼
三好さんを偲ぶ・・・・・・・・・・・・永野重雄
地方財政の権威・・・・・・・・・・・・荻田 保
岐阜県知事当時の思い出・・・・・・・・山本 正淑
年 譜
外国旅行の部
一般の部
各種委員会の部
後 記
P474
葉書 〒150 東京都渋谷区広尾3丁目12-7
三好重夫 先生
綾子 様
差出人 小野竹喬
三好さんを偲ぶ・・・・・・・・・・・・永野重雄
三好さんと私は郷里が同じ広島であるばかりでなく、若い頃には修道館という寮にあってともに青春時代を過ごし、・・・・・中略・・・・三好さんと私のお付きあいは、戦前、戦後を通じ、気の合う者同志の誠に打ち解けたものでした。広島の出身者がよく集まる場所で、2人で痛飲したことや、毎正月に新日鉄の寮で開く「二水会」で、ほかの広島出身の人達とともに、楽しく飲みあかしたことなどは私にとって忘れ得ない想い出です。・・・以下省略
地方財政の権威・・・・・・・・・・・・荻田 保
三好重夫さんという内務官僚の傑物が亡くなった。・・・・中略・・・・私が三好さんに始めておあいしたのは、昭和7年頃ではなかったかと思う。丁度半世紀が過ぎている。当時私は内務本省の見習で、三好さんは京都府の庶務課長をしておられた。御上京の際にお目にかかったものと思うが、現在では印象に残っているのは、昭和8年の2月に三好さんが洋行されるので、横浜までお見送りに行った時のことである。永安百治(ながやす ひゃくじ)内務事務官と同室であったが、秩父丸のキャビンまでお伺いした。そのとき、三好さんは――これは終生そうであったと思うが、服装や装身具や持ち物にこっておられた。今なら内務官僚中のベストドレッサーというのであろう。――あれはスパッツというらしいが、靴の上のところ、足の甲をカバーするような覆をつけておられた。今では、見受けないが、まことにダンディーな装いであったことが未だに目に残っている。
その後、三好さんは、地方局の財政課長になられてから、昭和12年に私はその下の事務官を努め、三好さんが会計課長になるまで仕えた。その間は、例に昭和15年の地方税財政制度の大改革があり、三好さんはそれこそ八面六臂の活躍をされたが、・・・・・・中省略・・・
少しく御趣味などについて記したい。趣味といえば、麻雀と旅行と宴席と読書ではなかったかと思う。麻雀は財務課長以後しばしばお相手したが、「内務官僚中、東に三好、西に桑原(前愛知県知事)」と自慢されているように、相当の腕前であった。公庫総裁時代もよくやっておられたようであるが、その頃から、三好さん一人にしか通用しないような極めて独特のルールを用いられたことは有名であるが、最後まで、理解されなかった。旅行は、現職時代から、楽しまれたようである。ことに後には外国が多かった。年に8回も出掛けられる年もあったという。しかも、完全主義で、御陵を全部参拝することから始まって、
温泉を片端しから片付ける、国道を全部走る、峠を全部踏破する。国分寺跡を全部訪ねるというような念願を樹てて実行しておられた。よく「あれは、まだ行っていないのだ」と、あたかも課せられた義務を果たしていないことを相すまなく思うというような口振りで話しておられた。・・・中略・・・・・・・三好さんは、その舌鋒の鋭さで、皆に恐れられていた。辛辣な言葉がつぎつぎに出てくる。例えば、極めて謹厳な先輩A氏を「丑三つ緊張居士」、また真面目一方の同僚B氏のことを「あれは不真面目を欠いている」、ある一寸変わった発言をするC氏のことを「あれは脳捻転である」、近衛内閣のとき「新体制」ということが言われだしたら、「新体制ではなく珍体制だ」とか。ゴルフ好きなD氏に、「君はそんな下手なくせに何故ゴルフなんかやるのか」、D氏が「健康のためにです」と答えると、「健康のためなら、ゴルフをやめて、キャディーをやれ」。さらに続けると、「役所のやることは千三つ主義だ。千のうち三つぐらいは誤りや悪用がありうる場合、その三つを防ぐために、他の善良な997人に迷惑のかかるような、煩雑な手続きを作る。また、役人の頭は、瓢箪味噌だ。瓢箪は元来酒を入れるように出来ているのに、味噌をつめるものだから出すこともできず、後から入れることもできなくなる。役人は、始めに思い込んだら、それっきりで、後は臨機応変の考えがでてこない、など。ただ悪口を言うのではなく、啓蒙的な善意に基づくものであると思う。・・・・以下省略。(都道府県展望 昭和57年2・3月合併号所蔵)
岐阜県知事当時の思い出・・・・・・・・山本 正淑
昨昭和56年12月25日、三好さんを御自宅に見舞い、30分程閑談して来春の再会を約してお別れしてから1ヵ月足らずで訃報に接した。驚きと共にかずかずの思い出がよみがえって淋しいきわみである。思いめぐらすと三好さんとの出会いは約40年も昔、三好さんが内務省警保局長をやめられて2ヵ月ほど休養の後岐阜県知事に赴任された昭和18年7月のことである。当時私は岐阜県での勤務も2年余りがすぎた頃で経済総務課長という食糧担当課長をしており、たしか2度目の商工課長兼務であった。当時の若い事務官課長は友納武人、山本、長野士郎といったメンバーであった。時たまたま南方諸島は次々に陥落又は孤立し、太平洋戦争の戦局は日ましに不利に展開し、生産低下、物資不足等々で県政も日一日とむつかしくなりつつあった時、三好知事が颯爽として登場された。知事発令を聞いた時から頼もしい知事が来ると期待されていたが、東京まで出迎えに行った友納庶務課長の報告によって裏付けされた。それに三好さんの就任早々の県庁職員に対する訓示が型破りであった。講堂に集まった庁員には今度の知事は大物だぞとの噂が流れていて知事が何を云うだろうかと期待した雰囲気のなかで新知事は3つのことを云った。このことを若いわたしは非常に強烈な印象を与え40年後の今日でもなおその訓示の大要を覚えているし、当日の講堂での整列の模様も記憶している。戦局等について何らの前置きなしに知事として3つのことを言っておきたいと語りかけた。1つには嘘を言うなということである。わたしは嘘を言ってその場をつくろう人間は嫌いだ。正直ものが損をしないで得をする行政をやって欲しい。第2には人身攻撃をするなということである。世の中がぎすぎすしてくると悪いことを他人になすりつけ、自分だけ良い子になろうとするきらいがある。私はじめじめした人身攻撃をする人が大嫌いだ。特に臍から下のことをとやかく言って批判することをするなと言っておきたい。第3に戦局悪化を理由にして県民に鞭打つことを許さない、私は岐阜県民を信頼して県政をやるつもりだ。わたしは戦意昂揚とか言った精神主義をふりまわすのは嫌いだといったズバリの短い訓示であった。この訓示の趣旨が1年間岐阜県政の基本方針になったことは言うまでもない。そしてこれを具体化する役割の1つ2つがわたしに廻ってきた。知事の赴任がたまたま米の端境期であったこともありわたしに対する最初の質問は県下の食糧事情であった。前年食管制度による米の統制が始まって間もないころであり県民の食糧は大丈夫かとの質問に対し、大丈夫ですと答えながら担当課長として苦労している相当大胆なやりくりの事情を話すと知事として安心だ、あとは知事が責任を持つと大変おほめの言葉をいただいた。それが機縁となったかどうか、地方長官異動から1ヵ月程遅れて行われる書記官、事務官異動の予定されていた頃のある日知事に呼ばれて、「昨夜内務省の高橋(敏雄)人事課長から電話があり、君の転任の話だったので(ちなみに高橋さんはわたしの見習時代の課長で三好さんの親友)僕の知事在任中は動かさないでおいてくれと断っておいたから左様心得ろ。」とのお達しであった。やがて経済部の課長のまま人事課長併任が発令された。そして約1年間三好さんが教師となり、わたしは三好さんの個人教授を受ける幸運に恵まれた。三好さん曰く君に知事学を教えてやるんだ」と。知事学なるものの第1歩はできるだけ知事の視察出張に随行することから始まった。途中温泉があるとひと風呂浴びるとかいろいろのエピソードは省くとして、例えば宿泊の場合宿代、チップ等わたしが責任をもって支払いあとでチップについての多い少ない、知事、部長、課長の場合の違い等の細かな教えを受けた。夜は古本屋と骨董屋のひやかしが多かった。また、各部各課の関係する式典、会合での知事の訓示や、式辞、祝辞を全部書き直すことをやらされた。原案は読むに耐えずということで人事課長が全部書き直せという注文だがこれは初め大変な難行苦行であった。知事としてその式、祝辞で何を言わんとするか、山を1つ設けるか、2つ設けるか、しめくくりをどのような表現にするか等知事が暇な時間には知事室に呼ばれて赤鉛筆で直された。その時内務省の諸先輩の昔話しが聞けてわたしには大変楽しい時間であった。内務省の先輩の来訪や新聞記者、芸術家、果ては赤坂あたりのおかみの来訪等警保局長をやめた直後であったから東京からのお客さんも多かったが、そういった知事のお客さんの相手も専ら人事課長の仕事となった。経済部の本務があったから結構忙しかったが楽しかったし、勉強になった。またこれは文章が良いから是非読むようにと単行本がとどけられることもしばしばであった。厳しい戦局下のせいもあって当時の知事は孤独であった。戦争が更に激化した場合は全責任を持って何をなすべきか何時も知事の頭のなかを離れないようであった。しかし、わたしの見るところ三好知事は「大胆にして細心」と言うか打つべき手は着実に打っていた。三好さんは頭の回転が早かったし、着想がユニークであった。今日でいう大変なアイデアマンであった。それに口が悪かったので時には煙たがられたし、また誤解されることもあった。しかし、御本人は味方が半分あれば敵が半分あるのは当たり前だと嘯いておられた。こういった情況下で時々わたしを呼んで知事の言動で心配を打ちあけてくれ、知事に自重をうながして欲しいと言ってくれたのは毛利警察部長であった。三好知事時代の楽しかった、或いは苦しかった出来事は十指に余るが、三好さんは戦時下の知事として決断の早い気迫をもった卓抜な指導力を発揮されたし、また経済政策に関し必ずしも中央の指図通りにやらない統制のやり方に、圧力を排除して全責任をもってバック・アップして自由にやらせてくれたことも2,3度にとどまらないが本稿では省くことにする。当時多少世間に知られた話題に昭和18年の高級料亭閉鎖事件がある。中央の指令に基づき高級料亭を廃業さすことになり、各県知事は廃業した数を内務省に報告しろということであったが、三好知事曰く、「知事は明日から料亭には行かない。岐阜県には知事が行けるような高級料亭は1つもないと報告したがよかろう」とのことで、こういった措置を最も愚劣な行政であると批判した。この理屈に困ったのは警察部長で、憲兵隊がおこって動いているとかでわたしも相談を受けたし、たしか市内で1軒だけは自発的に廃業したはずである。勿論それ以来知事は1度も料亭には足を運ばなかったが、ほかにも愛国婦人会や、翼賛壮年団等のでしゃばった動きには何時も批判的であった。当時困った話を1つ挙げると米の供出割当ての問題がある。毎年米の供出割当ては増加し、これを市町村別に割当て供出督励をすることは容易ではなく主管課長として徹夜で説得行脚をつづけねばならなかったが、知事の指示は毎年度100%以上の供出をした町村には本年度の割当を前年より減らしてやれということであった。県全体の供出量が1割もふえているのでこれは容易ではなかったが、正直ものが得をする行政をやれということで担当技師の反対を押し切って実施した。ところが結果としては県全体の割当量を充分こなした供出量が確保できた。三好さん曰くには、昨年100%を完納した上に超過供出の実績をあげた町村は今年も協力することは間違いない。しかし、超過供出には奨励金がつくから正直者が得をすることになるという論理である。教えられることが多かった。こういったケースを思い出すときりがない。医師の召集が相次ぎ無医村が多くなって来たというので知事は県立女子医専の設立を提案したが、各部長が財政難を理由に反対したのをわたしがからかって賛成したばかりにお前は何を考えているのだということになり、農業会設立を多少利用したアイデアで百万円の寄付金を集めて県費を使わずに女子医専を創立したことも、今日それが国立岐阜大学の医学部となって健在であるだけに、あの時はずい分知事によろこんでもらえたと感慨ひとしおである。
三好さんは岐阜県知事1年程で情報局次長に転ぜられ、つづいてわたしも内務省に転勤となり終戦の年8月7日四国中国地方視察の帰りにお別れの意味もかねて三好京都府知事をたずね、昼食を岡崎の「つる家」で御馳走になりながら前日広島に落ちた爆弾は原子爆弾らしいとの話を聞きそのまま空襲を府庁の防空壕ですごしたことや、戦後金閣寺に閑居された三好さんを訪ね、生命がながらえたことをよろこびあったことも思い出される。わたしが厚生省に転じてからは、厚生省の五人委員や、審議会委員、厚生行政顧問官等をお願いして再びご指導にあずかる機会もあったが、退官すれば外国旅行に1度おともしますと約束して、これだけは果たせなかったことが心残りである。不肖の弟子ではあったが三好さんは今後何かにつけて思い出される恩師である。(1982年2月17日)(公営企業 昭和57年3月号所蔵)
2011年6月15日 (水曜日) 薄曇り 榎 本 東 州 記