人が人を信頼する瞬間、脳の中では何が起きているのか? その仕組みの一部が脳科学により解明されつつある。信じるかどうかを判断する脳の部位、信頼を生む物質について気鋭の脳科学者が語る。
信頼と脳のメカニズムについて、最新の研究をご紹介しましょう。一般的に誰かに関する悪い評判を聞くと、その人に対する信頼度は下がります。シカゴ大学のマーガレット・ワードル博士らは、そのとき脳の尾状核が強く反応することを明らかにしました。
これは何を意味するのか。尾状核は運動系の一つで、いちいち考えなくても体がスムーズに動くように筋肉の動きなどを計算します。たとえば小魚が大きな魚に追われているときに川が二股に分かれていたとします。このとき右に逃げるべきなのか、それとも左に進むべきか。その直感的な判断を下すのが尾状核です。悪い評判を聞いたときに尾状核が反応するということから、信頼するかどうかの判断には直感が深くかかわっていることが推察できるのです。
直感は非論理的だから役に立たないというわけではありません。私たちは大脳新皮質だけで論理的な思考をしていると思いがちですが、尾状核のある古い脳でも論理的な判断をしています。直感的な判断は、論理の過程が意識にのぼらないだけであり、あてずっぽうで決めているわけではないのです。
むしろ理屈より、直感のほうが正しい場合もあります。たとえば一目惚れがそうです。一目惚れで付き合い始めたカップルは結婚に至る確率が高く、離婚率も低いことが調査からわかっています。おそらく相手を信頼できるかどうかについても同じで、第一印象による判断は比較的正しいと考えられています。
私の専門である記憶の観点からも掘り下げてみましょう。信頼できるかどうかの判断は、過去の経験によって形成された内部モデルが関係していると考えられます。人はさまざまな経験を通して、自分の中に「こういう人なら信頼できる」という典型的な人物像をつくります。たとえば「テレビドラマで、こういう人は約束を守っていた」とか、「昔このような風貌の人に騙された」といった見聞も内部モデルの原材料になります。私たちが初対面の相手に対しても「この人はなんとなく信頼できそう」「いや、怪しい」と直感的な判断を下せるのは、瞬時に内部モデルと照らし合わせているからです。
一般的に、直感の精度は年齢とともに高まっていきます。経験が少ないうちは内部モデルも単純ですが、大人になって経験値が増えてくると、「見た目は怖いが、口調がこういう人は信用できる」というように内部モデルに磨きがかかってきます。それゆえ普通は20代より40代、40代より60代のほうが直感は当たりやすくなります。
一方、人は加齢とともに物事を楽観視する傾向があるので注意が必要です。相手を信用するかどうかという二者択一を迫られたとき、もっとも楽なのは相手を信じることです。信じる選択をすれば余計なことを考えずに済みますが、信じない選択をすると、リスクの程度や対応策など、さまざまなことを考えなくてはいけません。多くのことを同時に考えるのは脳にとって負担なので、年を取るほど「もう考えるのは面倒だ。きっと大丈夫だから信用しよう」と楽なほうに傾きがちです。このことは、お年寄りが振り込め詐欺にひっかかりやすいこととおそらく無関係ではありません。
■取り扱い要注意の「オキシトシン」
以上、脳と信頼の関係について簡単に説明しましたが、ここからは不信を信頼へと変える方法について考えてみましょう。
不信を信頼へと変えるのにもっとも手っ取り早いのは、オキシトシンの投与です。オキシトシンは陣痛や赤ちゃんへの授乳を促進させるときに機能するホルモンで、従来は男性と無縁のものと考えられてきました。ところが近年は研究が進み、男性の脳の中にもオキシトシンがたくさんあり、信用するときに多く出ていることがわかってきました。いまのところ、脳内物質で信頼に関係すると確実にわかっているのはオキシトシンだけです。
このホルモンを人に投与した実験が、じつに衝撃的です。オキシトシンを鼻から吸引させたところ、金銭取引で相手の言葉をほとんど盲信してしまったのです。その結果、損害を被っても、ふたたびオキシトシンを投与すると、損害のことを忘れてふたたび相手を信じてしまいます。オキシトシンは、まさしく取り扱い要注意のホルモンです。アメリカではオキシトシンが薬局で売られていますが、本当に効いてしまうため、神経倫理学会で問題視されています。
オキシトシンは、自然に分泌させることも可能です。たとえば母親が赤ちゃんに授乳しているときは、オキシトシンが無条件に出ています。また子どもが好きな人は子どもと接しているときに出るし、ペットや縫いぐるみを見て出ることもあります。つまり自分が母性本能をくすぐるかわいい系のキャラクターになれば、相手の脳の中でオキシトシンが出て、信用されやすくなる可能性があるのです。
まわりから信頼されるために、非の打ちどころのない完璧なキャラを演じようとしている人がいるかもしれませんが、オキシトシンの分泌を考えると逆効果かもしれません。むしろ、どこか抜けていて憎めないキャラを演出したほうが信用されやすいと思います。
ちなみにオキシトシンはセックスでもよく分泌されます。セックスするとお互いに理解が深まるように感じるのは、愛し合っているからでなく、オキシトシンの奴隷になっているだけ。非常にケミカルな話ですが、それが現実です。もちろん信用を得るためにビジネス関係者と性行為をするのは、社会的に不適切です。現実には、配偶者や恋人から不信を買っているときの打開策として使える程度でしょう。
オキシトシン以外でいうと、温度を上手に使うアプローチはどうでしょうか。コロラド大学のウィリアム博士らは、エレベーターの中で、「メモを取りたいので、コーヒーをちょっと持ってて」と相手に飲み物を持たせる実験をしました。実験終了後に依頼者の印象について尋ねると、アイスコーヒーよりホットコーヒーを持たせた被験者のほうが、「穏和で親近感があった」と高評価を得ました。じつに単純ですが、温かい飲み物を手渡すと、人柄まで温かく見えて信頼性が増すのです。
動物にとって「冷たい」「寒い」は生命の危機につながります。逆に温かいものを提供されると、脳は相手を危機から救ってくれた救世主として認識し、警戒を解くのでしょう。そう考えると、お客さんには冷たい飲み物より熱いコーヒーやお茶を出したほうがいい。また同僚や部下に温かい缶コーヒーの差し入れをするのも、信頼されるのに一役買いそうです。
脳のメカニズムは複雑ですが、オキシトシンといい、コーヒーといい、反応は案外、単純です。ぜひ参考にしてください。
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池谷裕二
1970年、静岡県生まれ。2012年に神経細胞のシナプス形成の仕組みを突き止めた。著書に『脳には妙なクセがある』(扶桑社新書)など。
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(東京大学准教授 池谷裕二 構成=村上敬 撮影=交泰 写真=PIXTA)