4-5 植民地下の朝鮮は平和だったのか?

 日本は日清戦争と日露戦争以降、とりわけ朝鮮植民地支配のなかで、民族運動への弾圧(甲午農民戦争、義兵戦争、三・一独立運動、間島虐殺、満州抗日戦争など)や関東大震災時の朝鮮人虐殺、アジア・太平洋戦争時の強制連行、日本軍「慰安婦」など、朝鮮人に対して幾多の人権蹂躙を行ないました。

 

しかし、日本ではこうした人権蹂躙を植民地における「非日常(戦時/有事)」の出来事とし、他方で植民地社会の「日常」にはそれとは異なる「平和な」生活が存在していた、という歴史認識が根強く存在しています。もちろん、植民地の人々にも日常生活があること自体は当然のことです。しかし、それが、植民地時代における「近代化」の進展によって、人々の平和な日常がもたらされていると、まるで植民地支配の恩恵であるかのように考えるのはあまりに都合のよい一面的な主張です。例えば、『マンガ嫌韓流』は、日本人が朝鮮社会の近代化に努めたということを強調しながら、「あの時代、確かに日本人と朝鮮人の友好関係が存在したのね」などと、登場人物をして語らせています。

 

こうした植民地認識においては、上記したような植民地支配下の暴力・対立の局面は、「例外」「非日常」のこととして軽視されたり、あるいは植民地社会の秩序=平和のために必要な「治安維持」行為として正当化されることすら起こり得ます。そして、それとは対照的に、支配する側と支配される側の協力・合意など、調和の局面ばかりが植民地の「日常」として強調されることになります。
しかし、植民地支配下の朝鮮社会における「日常」を、そのように「非日常」と単純に区別して、しかもそれが平和であり近代化を享受していた「日常」であったなどとすることは本当にできるのでしょうか?そもそも、朝鮮半島の人々の生活は「平和」であったということはできるのでしょうか?

 

150年にわたる朝鮮半島の「非平和」

まずは、朝鮮半島の近現代史を見てみましょう。1860~70年代以降、緊張の濃淡はあるにせよ、朝鮮半島は一貫して「平和」から遠ざけられた政治状態(「非平和」)にあります。他国の侵略・軍事介入や植民地支配、民族内対立の深刻化などによって、朝鮮の政治は軍事的に揺さぶられる緊張状態であり続けているということです。朝鮮社会の人々の「日常」も、こうした政治的緊張から決して無縁なものとはいえません。

 

朝鮮半島の150年にわたる「非平和」は、少なくとも三つの次元から捉えることができると思われます。
第一は、日本と朝鮮半島との関係によってもたらされる「非平和」です。江華島事件、日清戦争における日本軍と東学農民軍との交戦をはじめ、日露戦争以降は、植民地期を通じて日本軍警と抗日運動との武力衝突が行われ続けました。そして、抗日運動を闘っているわけではない多くの人々の日常も、「平時」と「戦時」を分かつことが困難な軍事・警察支配を受け続けることになったのです(後述)。
さらに、戦後も日本はアメリカとともに朝鮮半島の軍事的緊張状態の持続に加担し続けています。日本は朝鮮半島情勢が危機になるたびに官民一体で、「朝鮮有事」という「例外状況」を演出しては「有事対応」の国家主義体制・日米安保体制を強化する循環を繰り返していて、2010年12月初頭の朝鮮半島危機の際にも、管直人内閣が最初にとった行動は朝鮮学校の「無償化」プロセスの停止でした。

 

第二に、朝鮮半島をめぐる国際関係によってもたらされる「非平和」です。日清・日露戦争は朝鮮支配をめぐる国際紛争でしたが、その前から朝鮮半島には欧米諸国や日本の軍事力を背景とした勢力伸長と、中国を中心とした伝統的な国際関係(朝貢=冊封関係)の維持をめぐるせめぎあいが始まっていました。
朝鮮政府が積極的に推進したとされる朝鮮「中立化」構想も、日清露や列強の勢力均衡の上で構想されうるものでした。帝国主義諸国の作り出す「秩序」には、各国の利害を反映した妥協の産物という側面と、列強が現地の人々の意向を考慮することなく、頭ごなしに勝手に「勢力圏」を決めあうという領土分割の側面があり、日清・日露戦争の趨勢とともに、欧米列強は相互の「勢力圏」を決めあい、日本の朝鮮支配(植民地化)を承認していきました。

 

とりわけ、朝鮮半島に対するアメリカの影響力は大きなものがあります。桂-タフト協定(1905年)によって、アメリカはいち早く積極的に日本の朝鮮保護国化を認め、ウィルソン大統領が民族自決を主張した時においてすら、自国から遠く離れた朝鮮の独立承認に関しては一貫して否定的でした。アメリカは一貫して朝鮮を自治能力なき「不完全国家」扱いし、朝鮮民族の切実な願いを軽視したのです。
戦後持ち出された、38度線で南北を分かつ多国間信任統治構想も、朝鮮が自治能力を獲得したと判断されるまで強大国が朝鮮を共同管理し、独立後もその管理体制に服従させアメリカの影響力を維持するという発想でした。植民地からの解放後も、完全独立を求める朝鮮の切実な民族運動は、冷戦による大国の対立と、国連を基盤とした新たな国際関係のもとで抑圧され続け、朝鮮戦争後も南北は休戦状態のまま分断が固定化し、朝鮮半島の緊張と緩和を大国主導で決める体制が持続しているのです。

 

第三は朝鮮内の「内戦」によってもたらされる「非平和」です。ここでいう「内戦」とは、単に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とのあいだの対立を指しているのではありません。南北対立の源流には、第一、第二の要因と関連しながら形成された、「親日派」と民族独立運動との対立が大きく作用しています。朝鮮の独立を目指すよりも妥協しながら自己利益の維持・拡張を図ろうとする「親日派」と、植民地支配の圧政に抵抗し独立を目指す民族運動との間の対立は、義兵戦争の際にはすでに表面化し、植民地支配の時期を通じて深刻化していきました。「親日派」の中でも軍隊や警察官吏出身者は、単に植民地時代に朝鮮社会の平和的存続に打撃を与えたという存在ではなく、植民地からの解放後も米軍政の庇護の力を借りて南側の軍事・警察体制の中枢に深く食い込んでいきました。

 

以上のような三つの要素が埋め込まれた、150年にわたる朝鮮半島の「非平和」を見てみると、朝鮮半島の平和と安定(統一)と日朝(日韓)関係の「正常化」の為には、単に南北が相互に和解を進めるのではなく、日本が植民地支配責任をはたして真に平和的な関係を南北朝鮮と結び(平和と統一を支援するということ)、朝鮮半島に埋め込まれた国際的な朝鮮戦争を終結させることが極めて重要であることがわかります。

 

植民地への「改編」のための「暴徒討伐」=治安戦

次に、こうした「非平和」の政治状況に規定された、植民地における「日常」と「非日常」が、いかに分ち難いものであるかを考えてみましょう。
日本は、日露戦争以降、朝鮮の植民地化を進めていきますが、その過程で愛国啓蒙運動(開化派から独立協会にいたる開明的な政治勢力の系譜の中で形成された、教育や産業などによる実力養成を志向し都市を中心に展開された啓蒙運動)と抗日義兵戦争という二つの国権回復運動が起こりました。とりわけ、後者は武装蜂起による全国的な抗日戦争となりました。
それに対し、日本がとった方策は、朝鮮社会の制度を徹底的に「改編」し、高揚する抵抗運動を武力で徹底的に弾圧する(「暴徒討伐」という名の治安戦)という形の繰り返しでした。弾圧においては「膺懲」(徹底的に懲らしめる)という言葉がさかんに用いられましたが、その内容は、具体的には抗日運動の根拠地の焦土化、徹底討伐、村落連座制の適用など苛烈なものでした。

 

例えば、全羅南北道において行われた義兵に対する「南韓大討伐作戦」(1909.9~10)は、その目的が「帝国の威信」を朝鮮人に見せつけることと、「邦人の対韓事業の勃興」、すなわち利害・開発の推進にありました。植民地化過程においては、「開発」と「治安戦」が同時に進行しました。だから、「開発」の推進=「平和」=日本人と朝鮮人の友好」、「暴徒討伐」=「例外的な治安戦」、という形で、前者を「日常」、後者を「非日常」と区分けすることはできないわけです。
さらに、日本による朝鮮植民地化は、朝鮮社会の中に「治安戦」をめぐる緊張を恒常化させるきっかけにもなりました。義兵弾圧のために導入された自衛団規則(1907年11月)は、憲兵・警察・軍隊の指揮下のもと村落に自衛団を置き、武器の摘発、帰順奨励、巡邏警戒、偵察諜報を行わせて義兵をあぶり出そうとする構想で、人々の生活の場において、支配と抵抗をめぐる軋轢を深刻化させていくものでした。とくに、末端官吏・憲兵補助員・警察官や有力者などは「親日派」として批判されるきっかけとなりました。
また、愛国啓蒙運動に対しても、1907年7月27日には保安法を施行し、内部大臣が結社を解散し、警察官は集会や大衆運動を制限・禁止することができるようにしました。

 

「治安戦」の移転・繰り返しと日常生活への浸透

1910年の「韓国併合」前後の時期になると、抗日義兵はほぼ鎮圧されました。しかし、だからといって植民地は「日常」と「非日常」を峻別できるようになるわけではありません。日本は「併合」後も民衆を「騒擾予備軍」として恐れ、予防的に厳しく取り締まるために、義兵弾圧の際と同等の規模を持った半軍隊の「威力的警察」、すなわち憲兵警察による支配を続けました。

Q5-1a 軍事演習1912

朝鮮人憲兵補助員野外演習の光景 1912年
(出典)『軍事警察雑誌』6-12(1912年12月)

 

憲兵警察の業務は、情報の収集と「暴徒討伐(治安戦)」という従来の軍事警察の職務に加え、民事訴訟の調停や国境税関業務から、山林監視・墓地取締・労働者取締などの取締業務、日本語普及・殖林農事改良・副業奨励・納税義務の論示など民衆生活の指導業務に至るまで、民衆生活全般を管掌するものへと拡大し、警察犯処罰規則の施行(1912年4月)によって、87条目の日常行為が拘留と科料の対象とされました。例えば、「不穏の演説」「不穏の文書」「流言浮説」「祈祷」「石戦(民間習俗のひとつ)」「道路掃除の怠惰」といったものから、「生業なく徘徊」することまで、87条目に入っていたのです。

 

Q5-2a 憲兵・民衆講演1915

憲兵による民衆に対する講話 1915年
(出典)『軍事警察雑誌』9-6(1915年6月)

 

これらの取締りは、犯罪即決例(1910年12月)によって、拘留、笞刑、または科料に相当する罪、三か月以下の懲役または百円以下の罰金などの罪について、普通裁判所の手続きを経ずに警察署長または憲兵隊長が即決できるようにしました。即決処分件数は、1911年1万8100余件から1918年には8万2100余件へと急増しており、さらに、朝鮮人にのみ朝鮮笞刑令が適用され、笞刑執行の数は1911~1916年にかけて約5倍に増大しました。これは、人々の日常生活の治安対象化が急激に進んでいったことを表しています。

 

例えば、風俗警察においては、酒幕(路傍で酒食を売り、旅人を宿泊させる店のこと)営業などの取締が厳しく行われましたが、その名目は「内地人の壮丁の健康維持(黴毒からの)」のみならず、「賊匪隠匿の巣窟を掃い、社会の粛清をも期し得るものとす」(朝鮮平北憲兵特務曹長和野内新蔵「植民地と醜業婦取締に就て」『軍事警察雑誌』第10巻第4号、1916年4月)というものでした。朝鮮人世帯の「過半は酒幕営業」と憲兵は見なし、これらの営業者が民族運動を匿っていると疑い、厳格に取り締まったわけです。ここにも生活世界の「日常」と「非日常」がいかに分ち難かったかが現れています。
これらの取締りにおいては、朝鮮人憲兵補助員が行商人、学生、神官、僧侶、俳優、呉服屋、石工、古着商、乞食、鳶職、請負業者、農夫、樵夫、傷病者、煙突掃除夫、飴売、尼などに変装して常に調査に当たっていました。

 

Q5-3a 変装演習1914

憲兵による変装演習(前列が日本兵、後列が朝鮮人憲兵補助員) 1914年
(出典) 『軍事警察雑誌』8-10(1914年10月)

 

三・一独立運動をきっかけに、「武断政治」から「文化政治」へと植民地統治のありかたは一定の変化を余儀なくされ、憲兵警察から普通警察へ、治安維持の主力も交代します。しかし、民衆を「騒擾予備軍」と見なし、日常生活から予防的に厳格に取り締まる発想の根本が変わるわけではありません。三・一独立運動を通じて、検挙者に適用する法令が不備であったため、従来の保安法よりも適用範囲を広く取り、1919年4月15日に「政治ニ関スル犯罪処罰ノ件」(制令第7号)を発しました。
保安法と異なる部分は「政治の変革を目的として多数共同し安寧秩序を妨害し又は妨害せしむとしたる者」(第1条)とし、単に「多数共同」の者、予備陰謀も処罰するとしている点、在外朝鮮人にもそれを適用できるとした点です。警察官の数、警察費、警察官署数も約3倍に増強され、銃器の大量配備や軍隊式訓練を強化し、戸口調査を通じた人民監視を強めるなど、「治安戦」への対応はかえって普通警察制度を中心に整備されていきました。朝鮮人の多くが、斉藤實総督は文化政治をやると言っているが、相変わらず武断政治を行なっていると感じたのは、決して根拠のないものではありません。

 

「文化政治」当初、言論・出版・集会・結社の取締りはいくぶん緩和され、朝鮮語新聞・雑誌の発行、団体の結成などが行われました。しかし、新聞・雑誌には検閲が厳しく、集会も厳しく臨席監視され、演説内容で逮捕されることも日常茶飯事でした。さらに、1925年5月には日本・朝鮮同時に治安維持法が施行され、同法適用の第一号は第一次朝鮮共産党検挙でした。1920年代後半は6・10万歳運動、元山ゼネスト、光州学生運動など、民族運動、社会主義運動が活発になりますがこれらも厳しく弾圧され、1930年代になると社会主義運動・民族運動に対する弾圧体制をさらに強化していきます。1936年12月には朝鮮思想犯保護観察令を交付し、治安維持法違反者で執行猶予、起訴猶予となった者、出獄した者を「保護観察」処分にして、思想転向の促進を図っていきました。1930年代以降においては、警察の社会指導体制はさらに強化され、一般行政との相互補完関係を深化させるとともに、1930年代末には経済警察を設置して、民衆の経済生活への接近・統制を強めていくことになります。

 

中朝の国境付近では、一貫して武力による民族運動の弾圧、すなわち「治安戦」が持続されていきます。三・一独立運動後、憲兵の役割は、「在間不逞者の掃討」、すなわち間島での独立軍をはじめとする朝鮮人の民族運動への苛烈な弾圧に再び集約されていきます。その職務は、「国境憲兵は平地帯の憲兵と異なり、不逞鮮人の警戒で戦時勤務と同様である」と認識されていました(恵山鎮小林生「国境憲兵と不逞鮮人」『軍事警察雑誌』第15巻第4号、1921年4月)。この後、「治安戦」は、対象の重点を東北抗日連軍の活動する満州へと移し、繰り返されていくことになります。
こうした警察・憲兵・軍隊による朝鮮人の取締りは、その後、1945年8月15日まで基本的に持続していくことになります。それでも、植民地の日常生活には、こうした「治安戦」や厳格な治安維持から自由な、近代化された「日常」があったということばかりを強調することは、こうした植民地支配の基本的な部分を矮小化することになります。

 

参考文献
朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配』上下、青木書店、1973年。
松田利彦『日本の朝鮮植民地支配と警察‐1905~1945年‐』校倉書房、2009年。
姜徳相「繰り返された朝鮮の抵抗と日本軍の弾圧・虐殺」『前衛』2010年3月。
愼 蒼宇「朝鮮半島の「内戦」と日本の植民地支配‐韓国軍事体制の系譜」『歴史学研究』885号、2011年10月。