小森陽一さん(東京大学教員)が語る
――いまこそ憲法と教育基本法の改悪をとめよう!

2004年11月1日(日)  東京都中野区勤労福祉会館 大会議室

《主催》憲法擁護・非核平和を進める中野区民の会
    改憲とあらゆる戦争法に反対する市民ネットワーク21

プログラム
主催者開会あいさつ  相原 龍彦さん(憲法擁護・非核平和を進める中野区民の会)
朗 読   「2004年秋・地球  ドアをあけて」 すずき しんさん         
講 演  小森 陽一さん(東京大学教員)
フリートーク

※以下はつどいにおいての全発言を記載したものです。<1>          <   2  >

フリートーク
三重県各地でも「九条の会」。憲法論議のきっかけに「憲法九条クッキー」を!   ――宮西俊秀さん
宮西)
三重県の「九条の会」の動きを簡単にご紹介して連帯の提起にしたいと思います。
私は「平和憲法を世界に広げるネットワークin三重」というのをやっております。東京で行われた「九条の会」発足記念講演会に参加し、その後、この発足記念講演会のビデオも早速購入しまして、その上映会を三重県で開催しました。とにかく、みなさんに伝えたい・広げたいという思いで取り組みました。県内のオピニオン・リーダーとなる方々四〇名くらいが各地から集まりました。そしてその後、各地で「九条の会」の動きが出てきています。

 私は、以前から憲法九条をもっと広めたいということで、毎年五月三日に憲法の全文を読むつどいを開催してきました。そして、「九条の会」の動きが出てくる中で、「憲法九条クッキー」というのをつくりました。憲法への関心を持ちやすくする。家庭に憲法が入っていくことが大事だ、子どもや家庭での話題のきっかけにするにはお菓子がいいだろう。PTAの集まりがあるときにお茶菓子から憲法を話題にしよう、そうしたいと思ってつくりました。

 そうしましたら、当たりました。いろいろな集まりで「え、これ何?」と話題になります。クッキーと一緒に「日本国憲法第九条は日本の誇り、世界の宝」と題して九条の条文を記した小さなカードが入っていますから、お茶菓子から憲法九条の話題になるわけです。

 そのような取り組みをも行いながら、伊勢市や周辺の人たちで「いせ九条の会」が立ち上がろうとしています。八月十四日と十五日に開催された「伊勢の戦争展」の中で小森陽一先生に講演をしていただき、その後、準備会を何回か積み重ねて、11月25日の発足会で池住義憲さんの講演が行われます。
 11月3日には、奥平康弘さんをお呼びして「みえ九条の会」が結成されます。すでに津市でも結成されました。次々と動き出しています。
 このような中で、私ども「地方自治ベースキャンプ」が発行している『三重からの風』という冊子の次号を「非核・非戦特集号」にしまして、三重県下の団体を網羅して紹介する予定です。その中で、「みえ九条の会」呼びかけ人のお一人である寺川史郎・三重大学助教授に紹介文を書いていただくのですが、寺川さんは、「一人・九条の会」や「家庭・九条の会」、「職場・九条の会」があっていいとおっしゃっていますが、このような発想でやっていこうというのが私たちの動きです。「一人・九条の会」が連帯して国を動かす力になっていくと思います。

 「憲法九条クッキー」は、憲法公布記念日の11月3日が公式発売ですが、今日は東京で試験販売です(笑い)。伊勢の方では各地で試験販売をして、かなりの数を配達しております。話題提供のきっかけとして、お使いいただけたらと思います。どうもありがとうございました。(拍手)



米大統領選の結果に期待するのではなく、日本の国民が動き出さないとダメ  ――女性
女性)
先日、『テロリストは誰?』というドキュメンタリー映画を観て、アメリカでは大統領が何人代わろうともずっと戦争を続け、世界の人たちを殺しているということがよく分かりました。今度の大統領選挙でケリー候補が勝ったとしてもイラク戦争は終わらないと思うし、世界情勢も変わらないと思います。
 やはり、アメリカを頼りにするのでなく、九条を守るために日本の国民が動き出さないとダメだと思いますが、いま、「共謀法」ができるということを聞いています。この問題について、いま国会でどうなっているのか教えてください。

〃改憲賛成でも九条改悪には反対の人〃と連帯するために必要なことは?  ――男性
男性)

11月3日に「高島平・九条の会」を結成します。また、9月9日には、「図書館・九条の会」を十三人で発足して、10月31日現在、85人が加入しています。図書館利用者と図書館職員で構成しています。
 小森先生にお聞きしたいのですが、日本国憲法には「環境権」や「プライバシー権」の規定がないので盛り込んだ方がよいのではないかという改憲賛成意見があります。このような意見は、どこの政党がということではなく一般の人の中にもあります。しかし、いまの改憲の狙いは九条改悪にあるわけですから、こういう人たちも含めて団結していくことが必要ではないかと思います。そのためには、何が必要なのか、ぜひ教えていただければと思います。

アメリカに協力するしかないという意見に、どのように向かい合うか?――大学生

大学生・女性)
香田さんの事件が起きた原因と結果をきちんと考えないといけないと思いました。香田さん個人が悪くて、小泉首相はちゃんと日本のこともイラクのことも考えてやっているというイメージが、マスコミ報道によってつくられているように思い、危機感を持ちます。
 友人と話しをしていても、日本政府がやっていることはしかたがない、日本はアメリカに協力するしかないと言います。問題があるからやめるべきというのでなく、問題はあるがしかたがないとなっています。このような状況について、小森先生がお考えになっていることや、どう関わっていったら良いのかをお聞かせください。

進む、権力による市民の監視と取り締まりの強化――小森さん
小森)
「共謀法」については専門家ではないので正確に国会でどういう状態なのかははっきりしませんが、これは基本的に、何らかのかたちで現在の政府の方針に反抗するような画策・企画だと権力が見なした場合に、それを事前に処罰していくという、つまり、政府に反対する運動そのものを犯罪視する、そういうことの突破口になる危険な法律であることは確かだと思います。
 今年二月に、立川市で自衛隊の官舎にビラをまいただけで長期勾留されるという事態が起こりました。アムネスティはこれを重大な人権侵害として認めて「魂の囚人」として問題にしたとおり、いま非常に強いかたちで警察が一人一人の市民の日常生活に介入しようとしています。不法滞在の外国人にたいする取締りと称して、いま新宿・渋谷・東京といった主要な駅にはだいたい十数人の私服の警察官が常時配置されています。また、斎藤貴男さんが、『安心のファシズム』(岩波新書)で明らかにしているようなさまざまな防犯カメラによる監視、そして、これはとりわけ学校を軸として行われているわけですが、老人を動員しての「シルバー・パトロール」とか、赤ちゃんをお散歩に連れて行くお母さんは「ベビーカー・パトロール」とかと、「地域との結びつき」と言いながら、学校を徹底して監視していくという状況になっています。学校については、今年の夏に、東京都のいくつかの学校の校長が、自分の学校でかつて「非行」で警察にあげられたことのある子どもと、そういう事態が「予想される」子どもの名簿を所轄の警察署に提出することまでが起きて、問題になっています。さらに、学校の中で起きた事件に警察が直接介入してくるということも東京都では起きています。

 このような、市民の日々の日常生活を警察権力によって監視し、取り締まっていくということの流れの一環として、極めて危険な法律として「共謀法」の上程が画策されていると思います。

一人一人の顔が見え、国民の過半数が確実に「九条を変えさせない」という思いを抱く運動を!

小森)
先ほど、三重の方から「九条の会」をつくったというお話しがありましたが、ありがとうございます。つくっていただいたら、ただちに「九条の会」事務局に連絡先をご報告いただければネットワークしていきたいと思います。

 いま、いろいろな地域で「九条の会」をつくりたいということで、「図書館九条の会」については先日、三軒茶屋で講演会をしたときに聞きましたが、いろいろなところでできていることはとても喜ばしいことなのですが、私ども事務局は、例えば県単位のような大きな組織を、いきなり急いでつくることが目的ではありません。この運動は、言ってしまえば、投票所に行く過半数の人が確実に「九条は守る・変えさせない」という投票を、国民投票の際にしてもらえるかどうかというかつてない幅の広がりを持った運動をつくっていかなければ負けるわけです。ですから、いままでのレベルで、いままでの運動の範囲で考えているとダメなのです。負けてしまうのです。
例えば、いままでの運動の積み重ねの中で、私たちが憲法問題で講演をすると、「これまでは一〇〇名が限度でした。今回は三〇〇名集まりました。大成功です」となってしまうとダメなんです。その規模で勝てるわけがないのです。自己満足的な運動の成果論に嵌ってもらっては困るのです。
県単位ではなくて、顔が見える市のレベルで、あるいは町や村のレベルで、あるいは小学校や中学校などの学区単位で、本当に過半数の人を、「憲法第九条を守る」という思いを確実に抱いていただく、そのための顔の見える運動をしていく必要があるのです。

 運動というと署名だという人もたくさんいます。〃どうして「九条の会」は全国署名を呼びかけないのだ〃と、毎日のように名だたる方からお叱りを受けるのですが、しかし、署名運動になってしまったらそれが自己目的化されてしまうわけです。それは、「署名運動は意味がない」と言っているのではありません。
そうではなくて、いまはきちんと語り合い、仲間を広げ、そして顔の見えるかたちで日々運動ができるような体制を、それぞれの居住区でも、職場でもつくり、さまざまな分野でもつくっていくことがどれだけできるかということがポイントだということです。

憲法は主権者が国家権力に縛りをかける最高法規
小森)

そのときに大事なことは、いま憲法問題で一番論点ないしは争点になっている問題はどこにあるのかということなのです。
 では、ここでみなさんに質問です。日本国憲法はこの国の最高法規であると考えている方は手をあげてください。
(全員が手を挙げる)はい、全員ですね。
では、その最高法規は私たち国民が守らなければいけない諸法規の最高法規であると考えている方は手をあげてください。
(パラパラと手が挙がり始めたところで会場から「国が守らないといけない」という声)そんな、言ってはだめですよ。この現場の現状を確認しようとしたのです。
しかし、この集まりに来ていただいている方でも、やはり十人ほど手が挙がりましたね。

 憲法というのは、私たち主権者である個人が、国家に縛りをかける最高法規なのです。
もう少し分かりやすくするために私の個人的な体験を申し上げますと、私は2004年4月1日付けで国家公務員ではなくなりました。
昨年、全力で反対しましたが、国立大学法人法が通ってしまい、今年の4月1日から私は国立大学法人職員という身分なのです。少しほっとしてもいるわけです。
それは、私は最初十年間、成城大学で教えて、九二年に東大に移ったのですが、4月1日に辞令を取りに来いという、出頭せよというような命令が来たのです。それで行きました。行ってみると、その年駒場地区に就職する教員と職員が全員集められて、学部長からのあいさつを受けました。そして「宣誓をしてください」というのです。宣誓書というのが置かれていて、それを自ら声に出して言わないと辞令をくれないというのです。

 しかし、その宣誓文を読んで、「成る程!」と思いました。
そこには、「私は、憲法を遵守し、そして教育基本法を遵守して国民のために働きます。」という内容が書いてありました。
それを自ら口に出して言わないといけない。そのとき、「成る程!」と三十九歳にして憲法について学び直したわけです。
たとえ個人としての小森陽一が、どのような政治信条や思想を持っていたとしても、国家公務員であるということは、最終的には文部科学省の命令に従って行動するのです。それが業務です。それに違反すると処分されたりします。つまり、私は、国家権力の手先になるわけです。国家権力の手先になる者は、自ら自分自身に憲法で縛りをかけないとなってはいけないということなんです。ここに憲法の大事なポイントがあると思うわけです。

 憲法は、第一条から四十条までが、一番中心的な中身です。四十一条から九十五条までは、国会から始まって、地方自治までですから、いわゆる国家の仕組みが規定されています。中心的なのは、第一条から四十条まで、ただ、三十条は、国が税金を取ると書いてありますから、これは抜かして、第一条から四十条までの三十九条分は、ほとんど国家がやってはいけないことが書かれています。国家がしてはいけない禁止事項が憲法には規定されています。
つまり、私たち主権者である一人一人の個人の人権を国家がどう侵してはいけないかということが書かれているわけです。
つまり、憲法は、主権者である一人一人の個人が、国家権力に縛りをかける最高法規なのです。立憲制度というのは、そういうふうにしてできてきたんです。
ここが、最大のポイントです。
なぜなら、第九十九条には、憲法を遵守する義務のある者は誰かということが書かれています。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」のです。だから、地方公務員である公立学校の先生が、身体をはって「日の丸・君が代」の強制に反対するということは、この九十九条を実践することなんですね。
だって、あの米長(東京都教育委員)が天皇に褒めてもらおうと思って、全国に国旗と国歌をと言ったら、天皇は「強制は困る」と言った。天皇は、憲法を守らないといけないから、あのように言ったわけですが、あれが政府の公式見解なわけです。
つまり、そこが、いまの最大の論点であり、争点であるところなわけです。

一番大きな縛り=九条の改悪が自民党の使命
小森)

現在、公明党は「加憲」と言っています。
「環境権」や「プライバシー権」、「新しい人権」を入れたらいいじゃないかと、民主党もそれを理由に「創憲」と言っています。
けれども、来年2005年は、自民党の創立五〇周年です。自由民主党というのは、1955年に、防衛庁と自衛隊が憲法九条に違反するという結論を出して、だから、九条を変えようということで、1955年の総選挙で自由党と民主党とがかなりの議席数をとったので、自由党と民主党を一緒にすれば三分の二で発議できる議席数になるということで「保守合同」した政党です。したがって、この政党の使命は、九条改悪にあるわけです。
しかしながら、翌56年の鳩山一郎内閣の時の参議院選挙で三分の二以上の議席を確保できなかった。それで鳩山一郎内閣が吹っ飛んだわけです。だから、それ以降、自民党という政党は、過半数以上はとっているが、三分の二はとれない、三分の一以上で憲法を守るという「三分の一民主主義」、これが「1955年体制」と呼ばれている政治体制なわけです。でも、過半数をとっていますから、自由民主党の総裁が、内閣総理大臣になります。だから、自由民主党の総裁というのは、九条改悪を背負っているわけです。

 少し余談になりますが、自民党総裁が九条改悪を背負っているとはいえ、その同じ人物が内閣総理大臣になるときには、「憲法を守ります」と宣誓してきたわけです。あの中曽根康弘だってそうです。ところが、47年ぶりに小泉首相は、憲法を変えることを総理大臣なのに言ったわけです。
彼は、総理大臣になった瞬間から、憲法違反をしたわけですから、総理大臣の資格はありません。
なぜなら、憲法第九十八条には、こう書いてあります。
「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」
――したがって、小泉首相がやっていることは、ほぼ全部無効です。しかしながら、憲法第八十一条にある、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」という違憲立法審査権についての規定、これを、ずーっと戦後社会において、歴代の自民党内閣が、最高裁判所が違憲立法審査権を行使することを、ずーっと圧力をかけて潰してきたわけです。
それが、日本が憲法をないがしろにする国になってしまった理由なのですが…。

 話を元に戻しますと、その九条を変えるということが党の中心的な命題である自由民主党が創立五〇周年を迎えて、憲法九条を変える行動方針をだすというときに、「加憲」だとか、「創憲」だとか、良いことは入れようというわけですが、ちょっと待って下さいよ公明党(民主党)さん、あなた方が、本当に「環境権」や人権をやろうと思っているのならば、あるいは、思ってきたのであれば、現在の日本国憲法ではそのようなことは一切禁じていないのだから、なぜ立法化しなかったんですか、ずーっと立法化しないでいて、いま自民党が九条を変えようといっているときに、一緒にいうのは、憲法を変えるということが九条を変えるということであることに隠れ蓑を提供する、自民党を利する看板づくり以外のなにものでもない、やる気があるのなら、いまだってやれる、それをやらないで、なぜ、憲法論議に結びつけているのか、「読売新聞」がだしている改憲案だって、みんなそうです。つまり、この主権者である私たち個人が国家に縛りをかける最高法規なんだと、その中の一番大きな縛りが、戦争を国家にはさせない、他の国々では、国家の名による人殺しが許容されている、この国ではそうはさせない、この縛りを捨てるんですか、というここが一番大きな争点なんです。

 いまの閉塞状況の中で多くの人が、何とかして、憲法でも変えれば良くなるんじゃないかという、淡い善意の期待を抱いている。しかし、最高裁判所がどんな場合でも違憲立法審査権を行使しますと、そういう約束をしないかぎり、どんな憲法をつくっても守られっこありません。コスタリカとの違いは、はっきりしています。コスタリカの一学生が、私の国は軍隊を持たない、戦争をしないと決めている、なのに、なぜアメリカの「有志連合」に入っているのか、これは違憲ではないかと提訴したら、裁判所は、ちゃんと違憲だと言って、アメリカもコスタリカを「有志連合」から抜かざるをえなかった。一国の憲法というのは、それだけの大きさを持つわけなんです。国際社会においてもです。そこのところが、ポイントだろうと思います。

「自己責任」論は、ねじれた意識の発露

小森)

次に、いわゆる「自己責任」論みたいな気分・感情がなぜ、いまの社会に出てきてしまうのか、ここは、いまお話しした憲法の問題とも深く関わっています。
 みなさんもご存知だと思いますけれど、北海道の箕輪登さん、防衛族のドンと言われ、郵政大臣も務めた方で、自民党タカ派の政治家ですが、この方が、今年一月に、小泉純一郎によるイラク派兵差し止めの裁判を始められました。私は、1972年から82年まで北海道大学におりましたから、箕輪登といえば、こいつを選挙で落とすことができたら、どんなにうまくビールを飲めるのに、とかと思ったくらいの、それほどの、いわば不倶戴天の敵みたいな人だったのですが、この箕輪登さんとは、シンポジウムなどで同席して、毎回、あなたのことを「天敵」だと思っていましたと言っているわけですが、箕輪登さんは、歴代自民党政権が、最高裁判所にプレッシャーをかけてきたことを知っていらっしゃるわけです。だから、いきなり違憲立法審査権ではなく、民事訴訟で裁判をやっているわけです。自分の平和的生存権が、自衛隊のイラク派兵によって侵されたという裁判なんです。

 その箕輪さんは、本気で怒っています。それは、保守本流、自民党のタカ派と呼ばれている人たちは、本気で日本を守るために自衛隊をつくってきた。そのために、お金も出し、いろいろな設備も整えてきた。その自衛隊をアメリカの軍事的な、世界戦略のコマとして使うのか、そんなものに命を捧げられないと怒っているわけです。その怒りは、もちろん、私たちとは違う立場からのものです。しかし、そうやって怒っている保守本流の人たちもいるんです。

 この箕輪さんのように、元保守政治家だが、裁判をするというように踏みきった人は、すっきりしています。あるいは、河野洋平衆議院議長、彼は、例えば、パウエルが常任理事国入りをしたければ憲法九条を変えろといったら、翌日すぐに、そんな必要はない、九条は守るべきだとはっきり言っていますが、そのように発言し行動している人たちは、すっきりしています。

 しかし、そうでない人たちもたくさんいます。例えば、それまで〃自衛隊の海外派兵は違憲だが、「専守防衛」の自衛隊は合憲だ〃と言ってきた人たちの中には、小泉政権のもとで自衛隊が海外に派兵されたことに直面して、〃何か自分は悪いことをしているな〃とか〃悪いことに加担しているな〃という思いや、〃悪いことだと思っているのに、悪いことだと言ってない〃とか〃自衛隊のイラク派兵に反対するデモにも行っていない〃という負い目が、心の中にあらわれてきている。
つまり、自分が何らかのかたちで、罪なことをしてしまっているということを半分自覚しながら、にもかかわらず、それを明確に自分の意識の前面にのぼせることができずに、しかし何とかして、自分を正当化したい、そういうねじれた気持ちになったときに、〃お上〃に楯突く者へのバッシングに向かうわけです。

 高遠さん、今井さん、郡山さんについて政府が、「自己責任」論を出した日に、私はちょうど、青山のNHK文化センターというところで漱石の講義を終わって出てきましたら、シルバー・コンピューター講座とかいって、何の不自由もないようなお洒落な格好をした老人たちがどやどやと出てきて、みんな「自己責任」論について喫茶店でしゃべりまくっているんですね。
「そうだよな、俺だって百万貰ったって、あんな危ないところには行かないよ」とかという具合に…。
あの「自己責任」論が出てきたときに、何もしていない自分、ちゃんと反論すべき時に反論したり、正しいと思っていることを口に出したり、外に出して言えなかった自分に対してもやもやした気分になっている。いま保守系の人たちはみなそれを持っているわけです。

 そこを、もはや保守も革新もなく、アメリカに追随して他国に自衛隊をだして、日本の若者の命を危険に晒されることについてどう思うの、と、例えば、一緒に酒を飲んで保守の人と一緒に考えればいいんです。そして、結論を自分自身で出せば、バッシング的な気分にはならないです。つまり、自分たちの罪障感を認めずに、それにフタをして、自己正当化したときに、必ず、被害者に向かって攻撃が行われる。これが、すべての人種差別の発端です。

 自分たちで殺しまくったネイティブ・アメリカンに対して、アングロ・サクソン系のアメリカンたちは、あんた方は、文明がなくて野蛮だからといって、居留地に囲い込んで人種差別をやったわけです。アフリカンアメリカンにやった差別も同じ構造です。
その、人種差別的意識が、実は、日本においては、かつての天皇制のもとでの「非国民」という意識であり、きちっと天皇制を組み換えなかったために多くの人には払拭したまま残っていて、自分は「非国民」と呼ばれたくないから黙っていようとか、そういう気分・感情が働きやすい社会構造であることは確かだと思います。
「自己責任」論というのは、そこのところをうまく利用しているわけです。

相手の主張をまず聞くことから始めよう!
小森)

しかしながら、「自己責任」とかいってはいても、あれは、「自己責任」論でもなんでもないですね。
あれは、きわめて誤った、大衆化した・歪んだ仏教の考え方として広まってしまっている「自業自得」論です。
ですから、そこと、きちっと私たちが闘っていくためには、その人自身に、誰かの判断に寄っかかるのではなくて、自分の判断で原因―結果の関係をちゃんと整理してみて下さい、私は意見を聞いていますから、と。
こういう、といっても、みなさんがどういう運動をされているかは知りませんが、いわゆる左(ひだり)系の運動というのは、つねに自分は正しいことを言っていると主張しているようで、偉そうに感じられるところがありますよね。左翼はだいたい高学歴だと言われていますね。
そうするといまのように社会的ステータスを奪われている人たちにとって、確信を持ってこれは正しいと言っている人たちは、それだけで目障り、〃なんだこいつはっ!〃と思うわけです。ですから、まず、自分が思うことを言う前に、語り合いたい相手が思っていることを聞く。悩みや苦しみを聞いて、その人が言っていることと、こちらが、訴えたいことが重なってくれば、そこで対話が成立します。

 私たちが連帯したいと心から思う人の意識、考えていること、悩んでいること、不満に思っていること、頭にきていることを、まず、良き聞き手になって聞き出した上で話しを始めることが大切なわけです。だから、今日の小森陽一の講演会のようなものは、とんでもない世界みたいなものです。
いきなり来て、いきなりしゃべり倒しているわけですから…。これだけでは運動は進みません。
聞きたい人が来ているわけですから、そんな都合良く運動はいかない。だから、そういう意味で、特権的なところにだけ小森陽一をおいておく必要はないわけで、もっとつらいところにとばして、おまえ誰々と対話してこいというようなところに派遣していただければ、どんどん切りひらいていきたいと思っています。

 この前、公明党の議員とかなり詰めた話をすることによって、教育基本法改悪をめぐる「与党中間報告」があたかも合意したかのようにいわれていますが、これは、まったく合意には至っていないんだなと、厳しい対立が残っているんだなということもわかりましたので、そういう対話は続けていきたいと思います。

文部科学省・教育委員会に従わない教員が徹底的に排除されている学校現場――教員・女性

教員・女性)

質問ではないのですが…、先ほど、反対運動を犯罪視するというお話しがありましたが、学校現場では、すでにそういうものが着々と進行しています。
 「義務制」では、いま異動の問題、つまり、教員の転勤のしかたにおいて、問題が出てきています。
校長が出した学校経営の方針に反対する人は、校長の経営方針に合わないから出て行って下さいと言われて、転々とさせられる。
とりわけ東京では、「日の丸・君が代」強制の問題で、「義務制」でも起立しなかったり、ピアノの伴奏を拒否したりしている人がいるわけですけれども、こういう人は、一年毎に「あなたは私の人事構想にありませんので、出て下さい。」といわれて転々とさせられています。
子どもや保護者との関係がきちんとつくられないままに異動させられるわけです。
その際に、たとえ校長が、その教員を学校に残したいと思っていても、区の教育委員会から「区の教育政策に反対している人を残すのか」といわれます。
つまり、いまの文部科学省や教育委員会に異論を唱える人は、教育現場にいられない状況がつくられようとしています。

その最たるものが、杉並区で発表された「ゆびとま」、つまり「この指とまれ」という方式です。
これは、校長が「こういう人(教員)を募集します」とホームページで呼びかけ、これに応募した人、つまり「この指」にとまった人を採用するというんです。校長が募集する「こういう人」という場合には、教育委員会の教育行政にそった者になりますから、そうすると、当然、意見の違う人はすべて対象外になってしまいます。

 どういう教育をして、どういう国民をつくっていくかということは、教員がそれを担わないとできません。文部科学省や教育委員会の意に沿った教育を教員に担わせるために、この「ゆびとま」方式をはじめとした様々な事態が進行しています。是非、みなさん! 問題にして下さい。

「自己責任」を言う人と「戦後補償をしなくても良い」と言う人とは関連性があるのでは?――女性
女性)

私は、戦前・戦中、富山県の不二越という会社に朝鮮の方たちが連れてこられて働かされながら、給料が未払いということで訴訟を起こしていることに関わっています。
 私自身は、自衛隊の派兵には反対ですし、「自己責任」というのも、人間が生きている以上、子どもじゃない限りみな「自己責任」で生きているのは当たり前だと思っています。

 ところが、今回の香田さんの事件の時に、「他所の国で、生きるか死ぬかの戦争状況下にあるときに、それを見学に行くなどというのは、どういうことか」とおっしゃった人がいました。そのようにおっしゃる人と、戦前・戦中、日本がアジアの人たちに対して犯した様々な罪に対する償いをしなくても良いと言う人とは、関連性があるように思うのですが、いかがでしょうか。

小森さんのがんばりの源は? ――大学生・女性

大学生・女性)

私も、改憲を絶対に許してはいけないと思っていますが、小森先生を、ここまで駆り立てているものは何なのでしょうか。

被害者への攻撃と「冬ソナ」ブーム――小森さん
小森)

私たちが罪障感を持っているにもかかわらずに、それを明確に言語化せず、その罪を認めずに、フタをして自己正当化しようとすると、極めてねじれたかたちで被害者に攻撃の矛先を向けるようになるんだと、先ほど申し上げましたが、それと同じ構造だと思います。
つまり、日本人の多くは、かつての戦争における加害責任を明確にせず、国家としても賠償その他をきちんとはやって来ていない、そのために、侵略戦争や植民地支配をした地域の人たちにたいしては、何らかの申し訳なさを持っています。
にもかかわらずに、それを明確に認めずに、自己正当化しようとすると、思考停止の結果、極めて攻撃的な方向に行くか、またはその逆の思考停止したまま何でも良いという方向に行くか、そのひとつのあらわれが、このかん起きている「冬ソナ」ブームなわけですが…、日本で純愛ものが流行るときは、必ず戦争につっこんだときです。
つまり、自分が関わっている日本の男たちが人殺しに手を貸している状況と切断するようなかたちで女性たちが特定の方向に向くということです。
これは、例えば、「不如帰(ホトトギス)」という徳富蘆花の小説が流行ったのがいつかということなどを考えてみれば分かります。

言葉が、蔑ろにされてはいけない。時代の転換の中で、どういうふうに言葉を発していくかが大切

小森)

ということで、いま文学の話しをしたわけですが、私の専門は近代文学です。憲法や教育基本法の専門家でもありません。しかし、言葉の専門家です。
 いまマス・メディアにおいて、きわめて言葉がないがしろにされ、私たちが、本当に事実や現実を認識するための言葉が、人を騙すために使われているわけです。そういう状況に対しては、騙すような言葉を毎日モグラたたきのように潰していかないと対抗できないわけです。

 それともうひとつ、いままで私が知っていた様々な運動の言葉が、貧しいと感じてもいるわけです。みんなが同じことしかいわなくて、ある政党に属していると、みんながその政党の委員長と同じしゃべり方になっていくというような不気味な世界があったりもするわけです。そういうことではなくて、一人一人が、個人としての責任を持った自分の言葉で自分の言いたいことをちゃんと言ってほしい、それを文学者として、まずは前に出るしかないというところがあります。
もちろん、そう思ったから始めたということではなく、ある意味なりゆき上こうなっているところもあるわけですが…。
ただ大切なのは、いまこの時に、私たちが、大きな時代の転換の中でどういうふうに言葉を発していくのか、ということで決まってくる。それは私ばかりでなく、高橋哲哉さんだって、三宅晶子さんだって、大内裕和さんだって、みんな週末なしで、全国を飛びまわっているのです。
そして、11・6集会の呼びかけ人だけではなくて、全国でがんばっていらっしゃる方々がいるわけです。この気持ちをどれだけ、多くの人が分かち・持ってくれるかで、全体状況が変わると思うわけです。その意味で、自分の熱さを伝えるためには、どんなに暑苦しがられようが、どこへでも行こうと思って、行っています。
 でも、自分一人で、〃結構、日本が変わるじゃん〃と思えることは、とっても幸せなことで、私はとっても良い現場にいるなと思っています。(拍手)

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