(cache) 私と憲法132号(2012年4月25日発行)

私と憲法136号(2012年8月25日号)


「日米同盟」強化の流れの下で再起動した改憲と対決する運動の構築を

【集団的自衛権行使への解釈・明文両面からの改憲策動】

「敗戦記念日」の8月15日、アーミテージ元米国務副長官やナイ国防次官補ら、米国の超党派の外交・安保専門家グループによる対日戦略報告書「日米同盟~アジア安定の支え」(第3次アーミテージレポート)が発表された。このレポートは2000年と2007年の「報告書」につづくもので、日米共に迫る「政権交代」期において、同盟関係の政策の一貫性の確立をめざす目的がある。この報告書では、日米両国は中国の台頭と核武装した北朝鮮の脅威に直面しており、特に日本はこの地域で2流国家に没落する危機にあること、これに対して、集団的自衛権の行使を念頭に、米軍の「統合エアシーバトル(統合空海戦闘)」と自衛隊の「動的防衛力」構想の連携で、米軍と自衛隊の相互運用能力を高めるべきだとした。このグループは第1次報告書以来、日本に対して一貫して「集団的自衛権の行使」を要求してきた。今回の報告書では「東日本大震災後の“トモダチ作戦”では共同作戦が奏功したが、日本は依然として有事に集団的自衛権を行使できず、共同対処の大きな障害となっている」と指摘し、現状に不満を表明した。あわせて、日米韓の連携の強化、原発再稼働、普天間基地移設の早期打開などが強調されている。

冷戦終焉後の改憲論の特徴はそれが明文改憲論であるか、解釈改憲論であるかを問わず、ターゲットがアーミテージレポートに代表されるように米国の強い要求である日本の「集団的自衛権の行使」に向けられていることだ。9条改憲論もこれとの関連で展開されてきた。90年代からの9条明文改憲運動の台頭は、1981年の鈴木善幸内閣によって「憲法第9条の下では集団的自衛権は権利としては有していても、行使することはできない」という政府解釈の定式化が行われたことによる。この政府解釈の下では9条の改憲なくして、米国が要求する集団的自衛権を行使することは出来ないことになるからだ。

この9条改憲の野望は2000年代の安倍晋三内閣を頂点として強まったが、教育基本法の改悪や9条改憲の動きに危機感を強くした全国の市民運動の高揚が世論の変化を作り出し、そのなかで安部内閣の自壊を招き、明文改憲は頓挫した。しかし、9条改憲の困難さから、明文改憲を目指した安部内閣の時代においても、並行して集団的自衛権に関する政府解釈の変更の模索が強まっていたことは見逃すことができない。

今日、民主党野田内閣の下ですすんでいるのは、米国の要求に応えて、政府解釈の変更による集団的自衛権の行使に道を開く動きだ。野田佳彦自身が従来からの「集団的自衛権の行使合憲論」(著書「民主の敵」)者であるばかりか、野田首相は同様の見解を持つ森本敏を防衛相に任命し、また野田内閣の国家戦略フロンティア分科会(平和のフロンティア分科会)報告書が同様の報告をだすと、それを積極的に評価した。呼応するかのように自民党も作成したばかりの「国家安全基本法案」で集団的自衛権の行使をうたい、これと改憲を次期衆院選の公約とすると発表した。これは与党・民主党が提起する消費税増税を、野党第1党の自民党が後押しした構図と同様、事実上の大連立政権による合意形成の様相だ。

それだけではない。野田政権の下で、自民党政権すら突破困難であったような、原子力規制委員会設置法の修正が与野党合意であっという間に「わが国の安全保障に資する」という条文を挿入して成立したり、従来、「宇宙開発は平和目的に限る」としてきた宇宙航空研究開発機構の設置法の規定を削除し、軍事利用を可能とするよう改正したりするという荒技もやってのけた。武器輸出3原則は緩和され、今回は時間切れで見送りになったとはいえPKO5原則の緩和(駆けつけ警護の合憲解釈化)などを画策し、イランをめぐる緊張の激化にともない米国主導の合同軍事訓練に際してホルムズ海峡への自衛艦派遣も実施された。沖縄が一丸となって反対しているオスプレイの導入も、東アジア情勢の緊張対処を口実にして強行されつつある。大飯原発の再稼働も強行された。

【第3次アーミテージレポートと日米安保ガイドラインの再々改定】

8月15日の第3次アーミテージレポートはこれらの野田政権の動きを、米国の世界戦略の高みからながめ、督励している図だ。アーミテージや米国にとって、総選挙後に成立するのが民主党中心の政権か、自民中心の政権か、はたまた維新新党第3極の台頭による連立かは別として、肝心なことは日本の国内政局が多少揺れ動こうとも、事実上の大連立の政治のなかに、これらの「日米同盟」路線を貫くことである。

野田政権とオバマ政権は先の森本防衛相とバネッタ長官による日米防衛首脳会談(8月3日)で合意した近いうちの「日米安保のガイドラインの再々改定」によってこれを担保しようとしている(ガイドラインは英文では「War Manual」)。今年の4月28日はサンフランシスコ講和条約発効60周年(日米安保条約は、この講和条約第6条で義務付けられた)だった。様々な論者によってしばしば指摘されるように、以降の日本は平和憲法体系と日米安保の法体系の並立と、安保体系による絶え間ない平和憲法体系の蚕食、それを拒否する民衆の闘いの歴史だった。日米安保条約は1960年に改定され、さらに1978年「日米防衛協力の指針(ガイドライン)」によってその役割が拡大され、1997年に再改定された「新ガイドライン」で60年安保とはかけ離れた「アジア太平洋安保」にまで変質したが、いままたこの第3次アーミテージレポートの方向で「ガイドラインの再々改定」がされようとしている。明らかなことは、この60年にわたって、改憲の要請は「安保」による「平和憲法」の蚕食として行われてきた。

今日の改憲動向の特徴は、直ちに実現することが困難な9条明文改憲に依拠せず、憲法解釈で集団的自衛権の行使への道を打開することとあわせて、それで取り繕うだけでは不十分な集団的自衛権の全面的な行使に向けてひきつづき明文改憲の準備を急ごうとするところにある。改憲派はこの明文・解釈の両面で憲法への攻撃を強めてきている。

民主党政権の下で昨年秋、憲法審査会が明文改憲の不可欠の布石として始動したことに加えて、今年のサンフランシスコ講和条約発効60周年を契機にして自民党、立ち上がれ日本、みんなの党などの改憲派諸政党が相次いで改憲草案を発表したことは重要だ。一方、橋下徹大阪市長らの維新新党もその政策要項(維新8策)に9条改憲を掲げ、安部晋三元首相ら改憲派との連携を強めている。自民党などの改憲草案は、天皇の元首化や国防軍の設置、改憲発議要件の緩和、憲法遵守義務の国家から国民への転倒(立憲主義の否定)などにおいて、軸足を大きく右に寄せる点で共通している。そればかりか、いま民主党が準備している綱領の検討委員会では「天皇制の下で古今東西の文化を融合・発展させてきたわが国の特性にさらに磨きをかける」ことなどが確認されている。これが石原慎太郎都知事らの挑発に応じた尖閣諸島国有化、あるいは竹島や北方領土問題などの動きにみられるような偏狭なナショナリズムの扇動とあわせて行われている。まさに好戦的で、復古主義的ナショナリズムを鼓吹する方向での大連立状況が与野党の中で形成されつつある。

【脱原発と憲法改悪反対運動の結合】

一方、3・11東日本大震災とそれにともなう東電福島第一原発の未曾有の爆発事故を経て、原発震災に対する危機感のもとで、ことしの7・16代々木公園の17万人集会や、800万に到達しようとしている「さようなら原発」署名運動、首都圏反原連の呼びかける官邸前金曜日抗議行動の高揚など、全国各地で脱原発の運動がかつてない規模で盛り上がっている。多くの市民が全国各地の街頭で民主主義の行動を展開し始めている。新しく台頭してきた脱原発社会の実現をめざす、ポスト「3.11」を自任する広範な若者やお母さんたち、中高年世代の運動は民主主義の具現化だ。この市民運動の高揚は、閉塞と混迷の政治のもとでの力強い希望の光となっている。この動きが憲法改悪反対・反安保・反戦平和の運動と合流できるかどうかが大きな課題だ。
確認すべきことは原発問題と憲法問題は不可分の課題だということだ。

それは今日の改憲論が、第1に、東日本大震災に便乗して「緊急事態条項導入論」を振りかざしていることだ。改憲派は憲法審査会での議論や、あらたな改憲草案の作成に於いて、一部マスメディアをも利用して、平和憲法と相容れない国家緊急権規定を、震災に便乗して憲法に導入することを主張している。

第2に、政財界の原発再稼働論、原発保持論のなかに根強く存在する原発の「潜在的核抑止」効果論だ。まさにこの点で、原発と戦争が結びつけられている。たとえば読売新聞の2011年9月7日の社説は「日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ」と語っている。また石破茂・自民党政調会長は雑誌『SAPIO』2011年10月5日号で「核の潜在的抑止力を維持するために、原発をやめるべきとは思いません」「核の基礎研究から始めれば、実際に核を持つまで5年や10年かかる。しかし、原発の技術があることで、数か月から1年といった比較的短期間で核を持ちうる。加えて我が国は世界有数のロケット技術を持っている。この2つを組み合わせれば、かなり短い期間で効果的な核保有を現実化できる」と危険な核抑止論を展開している。

これらの点から見ても第9条と脱原発は不可分の課題だ。そして主権在民と、平和的生存権や基本的人権を生かし実現する改憲反対の運動は脱原発の運動の政治的思想的背骨となって、その発展を保障するものにほかならない。再起動した改憲に対抗するあらたな憲法運動の可能性が広がっている。(「私と憲法」8月25日号所収 高田健)

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第71回市民憲法講座(要旨)
被災女性とシングルマザーのパープルホットライン・被災母子サロンからみえる女性の課題

大矢さよ子さん(NPO法人しんぐるまざあず・ふぉーらむ理事) 

(編集部註)7月28日の講座で大矢さよ子さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。 

被災の窮状を目の当たりに電話相談はじめる

NPO法人で、3.11の震災や放射能被害以降被災者の支援を1年間やって今年も継続しています。この震災と放射能が今の日本のなかで引き起こしている問題について、わたしたちの活動の中から見えたことを若干報告させていただいて、あとは皆さんと意見交換などができればいいと考えています。わたし自身はNPO法人しんぐるまざあず・ふぉーらむに属しておりまして、ひとり親家庭で20数年間やってきております。もともとは専業主婦でした。そこからひとりになっていろいろと苦難があったんですが、それが放射能と震災という二重の苦難を抱えている福島の方たちの支援へと結びついたという経緯もあります。

わたしたちの会は母子家庭の当事者団体ですので、母子家庭の生活の施策などを厚労省や国会議員にロビーイングしたり自分達で調査研究をしたりして、父子家庭も含めてこの日本で住みやすくなるようにという活動を20数年間やってきています。任意団体からNPO法人になったのが10年くらい前です。昨年3月11日の震災が起きたときに、わたしたちと同じような団体、しんぐるまざあず・ふぉーらむ福島という団体が郡山にありまして、そこが津波で内陸の方に避難してくる過程で、わたしたちは東京から物資を送ったり寄付金を集めたりして支援をしていました。そのうちに郡山や福島から東京に避難する人がたくさん出てきました。その中にシングルマザーあるいは夫が福島に残って母子で避難してきた人たちの窮状を目の当たりにして、われわれが何ができるかとなったときに国際NGOのオックスファムから支援をいただいて、被災シングルマザーと母子避難の人たちの支援を1年間やってきました。主に東京ですが、福島や岩手、仙台まで足を伸ばして支援をしたことがあります。

基本的にやったことは、ひとつは電話相談です。この電話相談は4月19日くらいから今年の2月の末まで。フリーダイヤルを使って3回線を振り分けてひとつはDVなど、もうひとつは外国籍の人です。そして3つめがわたしたちで、被災したシングルマザーと女性ということで回線を共有しながらやってきました。火曜日と木曜日、木曜日のみ弁護士がいるという態勢でした。実際に受けた相談件数は868件でした。これは女性問題全般の相談も含まれていて、被災関係の相談はそのうちはだいたい4分の1で220件くらいでした。

その内訳を見ると、放射能被害だけ単独で相談を受けたのは118件でしたが、被災関係で仕事とか離婚とかメンタル疾患とか生活困難などに分かれています。トータルで複数回答で1100くらいの相談の内容がありました。女性相談でも男性相談でも今やっている寄り添いホットラインでも顕著に出ていることですが、日本はメンタル・精神疾患を抱えて社会の中で仕事ができない、あるいはコミュニティから疎外されている人が非常に多い。これはどこの調査でも同じような結果が出ています。精神の病を抱えている人たちが日本では非常に多くなっている。これは震災が引き金になった、あるいはもともと軽度のメンタルな疾患があった人が震災にあってひどくなったとかいろいろありますが、トータルとしてそういう傾向が見られます。

被災相談の特徴・DV、安全でない避難所

被災者相談の中で特徴的なものを7つくらい挙げてみました。一番多かったわけではないですがDVや性暴力、モラハラで、DVというのは殴る蹴るという暴力以外にお金を渡さないという経済的な暴力や、無視するとか荒い言葉をかけて追い込むというような言葉の暴力も含まれています。DVや暴力、虐待の相談について全体的傾向としては、震災の影響でなりを潜めていたDVがぶり返したという訴えや、仮設住宅で息子さんから怒鳴られるとか、別居していても夫の実家に住んでいるため来るたびに暴力をふるわれるという相談が顕著にありました。

事例を紹介しますと、宮城県の方で「毎日緊張状態が続いている。食事の献立が浮かばない。避難所で生活したことはなかった。しかし被災地の様子を見聞きする中で気持ちが晴れない。病院の先生に相談しても『皆同じです』というだけである。息子に対しても虐待のようなことをしているかもしれない。夫は最近電話料金をチェックするようになった。」ということや、「震災で自宅が半壊し、20数年来の夫のDVが続いている。地震の直後から止まっていたDVがぶり返して暴力をふるうようになった」という相談もありました。逆に、別居していた人が震災で生活が成り立たなくなって同居して暴力が出てきたという方もいました。

震災が起きた当時、皆さん仮設住宅に行ったわけではありません。あちこちの避難所に行きました。郡山で言うと一番大きいのがビッグパレット、いわきの方とか富岡町からも来ていました。避難所は、当初は仕切りがなかった。途中から仕切りもつくられましたが、子ども連れの母子家庭は避難所にいられないような状況でした。皆さん精神的にいらだっていますから、小さい子どもが騒いだり泣いたりすることを受け入れられない精神状態だったことは想像がつくと思います。そういう中で母子家庭のお母さんたちが避難所にいられなくなる状況もありました。

避難所は女性にとっては安全な場ではなかったという声を聴きます。朝起きたら、どこかの男の人の顔が出てくるわけですよね。そういう状況でした。わたしはビッグパレットなどで新聞紙を持って行ったんですが、そのときに感じたのは、別に男性にいろいろ言うつもりはないんですが、動かないのは男性なんですね。女性は朝からいろいろ動いてものを持ってきたり話をしたりしますが、新聞を顔にのせて毛布にくるまっているのはほとんど男性でした。要するに仕事がなくなったりして目標がなくなり、女性は生活があって自分の毎日まわりのことをやってきたので、そういうことで女性の方がしぶとく生きるんじゃないかと思いました。

なかなか言えない親族や近隣とのあつれき

生活相談の中で親族や近隣戸の軋轢という相談も多かったんです。震災後、いまでもそうですが、テレビのCMで「絆」とか「みんなが一丸になって前に進もう」なんていうことが出てきます。そのときに、自分とその言葉とのギャップを訴える人が多かったと感じています。親族との軋轢に悩んでいたり、あるいはそういうことを強調されることが被災地に住んでいる人たちにとってつらい状況ではなかったかと、わたしたち相談員は思いました。「2年の期限付でどこかに避難できるが、長男の妻一人で出すわけにも行かず、自分が付き添っても気を使わせると思うし、生活費もない。夫からはお前が死んだら保険金で生活できるから死ねと言われた」という高齢のお母さんの相談がありました。

東北に引っ越した人からは、「すごく閉鎖的で仲間外れにされる。仕事を見つけたが女性が多い職場で福島から来たというと嫌な顔をされる。どこに相談しても解決策が見つからない」という相談がありました。こういう相談はほかにもありました。秋田や新潟に福島から引っ越したときに、やはり放射能のことがあって福島から来たというだけで嫌な顔をされる。おもに自主避難している人たちですね。

地域のコミュニティから排除されてしまうこともありました。東京で被災者のサロンをやったときにも、東京の都営住宅の中でもききました。都営住宅は借り上げ住宅として百人町や東雲や江戸川区などのところに行っています。6000人くらいいますが結局自治会から排除されるわけです。都営住宅の中にある自治会の人たちは、100人なり200人の福島からの自主避難、強制避難の人が入ってくると、自治会自体が従来のコミュニティを崩されると思ってよそ者扱いをしてしまって、何か問題が起こると福島から来た人たちが問題を起こしているんだという。そういうことを江戸川あたりの都営住宅で聞きました。これは東京に限らないことで、当初はそういう生活相談が多かったと思います。

これ自体はそれぞれの受け入れ先の自治体で何らかの広報なり啓蒙なり、強いプッシュがあっても良かったのではないかと思いますが、なかなか地域の中に溶け込めない。いまは寄り添いホットラインなどもやっていますが、支援などのシステムの構築とコミュニティでの関わりが被災者関係においてはなかなか見られなかった。そこから阻害されていく福島の人たちが多かった現実がありました。

地域や近隣の軋轢というと、やはり東北地方は北に行くにしたがって、家族制度、家父長制が強いと思いました。あまり知っているわけではありませんが、たとえば岩手の盛岡から沿岸の方にいきますと、そこの女性たちは多くを語りません。私は大丈夫ですから、私以外の人たちの方が大変ですからと、すごく奥ゆかしいんです。でもちょっと時間をおいて話すと、いろいろなことが出てくるんですよね。既存のコミュティの中で女性たちが自分をあまり出せなくて生きているところに震災があった。

宮古できいた話ですと、男性は仕事ばかりで家のことはやらない人もいるみたいで、泥出しをひとりでやったとか、2メートルくらい水が来て住めるような状態ではなかったのに片付けたとか、夫が被災した自分の弟を家に連れてきて二人の男性の面倒を見なければいけなくなったとか、「嫁的役割」という負担が増えたという話もききました。あるいは自分の息子が亡くなって息子の妻と子どもだけが残ったときに、実家の方がすべての弔慰金などの手続きをやってしまう。妻と子どもは夫がいなくなった場合はそこから出ていってもらうというようなことです。これは弁護士を入れてサポートして妻もいろいろなものをもらえるようになりましたが、そういうことが法律以前にまかり通ってしまうことがあります。相続は一義的には妻にいくけれども、そうではない事態が進んでしまうことも見受けられました。

家族間で意見が違う放射能被害のうけとり方

軋轢ということでいうと一番多かったのは、放射能のことです。放射能のことで家族間の意見が違う。親子間、夫婦間で意見が違うことが非常に多い。これは震災直後から時間が経るにしたがって大きく出てきました。県外避難者、自主避難の人たちが特にそうでした。いわきや郡山や相馬の一部から東京や埼玉に来た方たちは、自主避難ですから東電の補償、月10万円の慰謝料がない人たちです。今でいうと県外避難の子どもたちは60万円、親は8万円の補償ですが、そういう人たちが時間がたつにしたがって、勝手に出ているというようなことで責められたりする。あるいはサロンでよくきいたことですが郡山や福島に帰れない、逃げたという表現を使われることもあって、福島の状況は非常に厳しいと感じています。

放射能の問題はもう何もない、問題は解決していっているという国なり県なりの方向がある中で、そうだと思って生活する人と、そうではないのではないかと思って県外避難している人と、福島に残っているけれども解決してないんじゃないかと思って週末避難している人たちとかいろいろな方がいます。そういう中で、地域で原発のことや放射能のことを話せない状況があります。危ないんじゃないか、ここは線量が高いんじゃないかということを地域で話せない。若いお母さんたちは、外にいるときは子どもをできるだけだっこするんですね。皆さん腰が痛いといっていました。下の方は線量が高いので上の方でだっこして腰を痛める。子どもたちを外に出さないので、子どもの精神的ストレスもあります。これは今の原発に関する政府の動きにも関連するので一市民がどうこうできるものではないんですが、チェルノブイリ事故をどう教訓化していくのかが日本に欠落しているんじゃないか、10年後20年後に禍根を残さなければいいなと個人的には思っています。

生活困難の要因が増す母子家庭

私と同じような母子家庭のお母さんたちは震災が起こる前も非常に生活が困難でした。母子家庭の平均年収は、国からいただく児童扶養手当がだいたい年間50万円くらいです。東京都の場合は育成手当というのがあって、これは美濃部さんの時代につくってくれたものが延々と続いていまして、月5万円で年間60万円くらいです。母子家庭が平均的に稼げるお金は、就労で150万円くらいです。これは厚労省が調査研究をした結果ですが、時給900円で9時から5時まで週休2日で働いた場合は手取り15万円から16万円くらい。東京はそこまで稼げるんですが、東北地方に行くと最低賃金が時給650円くらいなんていうのはざらです。そうなると震災前でも月に7万円、8万円くらいしか稼げなかった人たちが、この震災で仕事を失って生活困窮に陥っている状況があります。

福島で被災した母子家庭の方ですが、雇用保険が3か月足りず受給できていない。子どもの父親から養育費ももらっていない。震災前から美容師をしていたが震災後は夜が遅くやめてしまった。実家は放射能の線量が高いので戻れない。父親のみ住んでいる。震災前に両親と同居だったため、所得制限に引っかかり訓練は受けられない。今の制度は世帯単位なんですね、何でも。訓練手当をもらおうと思っても親と同居をしていたら、本人の収入が低くても父親がそれなりに収入があったら、本人は訓練が受けられない。日本自体が世帯でものをいっています。ただ民主党政権はその世帯単位を是正することはやりました。全部ではありませんが自公政権のときはそれががっちりありましたので、母子家庭にとっては生きづらい、社会的資源を利用できないこともありました。

また、すでに別居をしていて、別居中の生活費をもらっていた方が震災でそれが途絶えた、あるいは母子家庭でも地方ではローンを組めば家を建てられる状況はあったんです。それが痛ましいことに震災の2日前に着工したら、震災でその家が丸ごとなくなってしまってローンだけが残ったという人もいました。ですからわたしたち母子家庭にとっては震災が、とりわけ福島や仙台や盛岡の人たちにとっては貧困、貧しくなっていく、仕事が見つからないという状況をつくっていったと言えます。

シングルマザーの支援については、今回の震災で夫を震災で亡くして母親と子どもだけになってしまった人たちの支援というのは、あしなが育英会とか国がそれなりに手厚くやっていたんですが、もともとの母子家庭の人たちが生活困難になったときの支援がなかったことが非常に残念でもありました。子どもの教育費――日本は子どもにとてもお金がかかります、子ども手当というとばらまきなどといわれて、日本ほど子どもの教育にお金を使っていない国はないのに――国が子どもにお金をかけない、そういうのは家族がやりなさいというのが日本のやり方ですよね。ですから貧しいところの子どもたちは、将来もじゅうぶんな教育を受けられないので貧しくなっていくという、教育における貧困の連鎖が続いています。そういう問題がここで出てきたと言えます。高校受験、大学受験のスタートの費用が払えない。学生支援機構などが少しは支援の幅を広げていますが、なかなか末端には届いていません。

仕事の悩みや生活保護に高いハードル

仕事に関しては、盛岡や仙台と福島の20キロ圏内の人たちとは仕事の様相がちょっと違うと思いました。仕事がない人には、雇用保険の早期の支給とか休業補償というかたちで、ある程度までは社会の資源というかシステムの中で救済されていましたが、当初は、朝いったら夕方まで座っていないと、相馬あたりのハローワークでは人手が足りなかったらしくて雇用保険の手続きをするのに1日かかったということもありました。東京から応援があったと思うんですが、受給するのにも役所の人たちが配置されていなかった。そういう苦情はありました。

震災をきっかけに失業した人は多かった。求人の情報が入っていないとか、もともと沿岸部で漁業関係の仕事をしていた人は、同じ職種にいくことは難しかったわけです。漁業組合などもなくなってしまった。どうしても転職をしなければいけない。女性の場合は水産業の加工で生計を立てていた人が多かったんですね、母子家庭では。水産加工の工場が流されてしまったときに、彼女たちが次の仕事に向けてのキャリアとか必要な技能がなかなか会得できていなくて仕事が見つからない不安という相談は多かったです。

介護保険の請求は来ているけれども、払えない。来年の車検のお金が払えない。あるいは「福島県の沿岸部に住んでいたが現在は実家にいる。父母は沿岸部に残っていて夫は漁業関係の仕事をしていたが失職した。子どもと自分は福島市にアパートを借り仕事をしようと思っているが保育園に入れない」。

地方の場合は車がないと動けないんです。震災で車をなくした人たちが次のローンが組めない。ローンを組めないので仕事につけないという相談もありました。また震災後生活が成り立たなくなった。以前は近所の家の手伝いや夫が修理などを請け負ってなんとか生活していた。この方は年金がないということで健康保険も少しずつ払っていたが、震災で仕事がなくなって夫のときおりの日雇い労働で食べているが家賃が払えない。こういう相談があったので、ご本人たちが車を持っていなければ、生活保護という道もあるわけです。ただ車を持っていて生活保護を受けるのはハードルが高いんですね。車が生活にとって必需品だということを、ある程度役所に言っていかないと地方の場合は認めてくれません。でも車がないと仕事が見つからないということで、今の生活保護制度の問題、地方の場合はなかなか難しい、そういうことで生活保護に結びつかないケースもありました。

役所の方も生活保護の申請が多いので、水際作戦のようなものが出てきました。「娘と夫の弟の3人で避難生活をしているが、失業保険が4月で切れてしまう。市役所に生活保護の申請に行ったが扶養してくれる人がいるとダメと言われた」という宮城県の方の相談もありました。扶養してくれる人といってもその人自体が、この前バッシングがあったように、扶養しなければいけないということが生活保護の受給条件ではないですからね。法令に沿ってやるのであれば、生活が困窮していていま手元にお金がない状況なら当然ながら申請はできるんですが、そういう役所の水際作戦の傾向も見られました。

住宅ローンの返済の問題もいくつか入ったので、これは司法書士会とか税理士会などが団体としてやっているのでそちらにリファーをしたりしました。それから宮城県から今年の2月下旬にこういう相談が寄せられました。「夫は被災後県外に出稼ぎに行った。最近夫は電話をしない。自分も働きたいが夫が反対し、高校生の息子も家にいて欲しいという。震災から1年経って法事などもあるので、夫に一緒に行って欲しいなどと思っているけれどもそれはダメだろうか」。本当にこの方は奥ゆかしいですよね。一緒にやってもらえばいいと私などはすぐ思うけれど、夫が了解してくれないので仕事に就けないという悩みです。生活が苦しいわけですから、働き口があるのなら少しでも働けばいいのにと思います。東北の場合なかなか東京のようにストレートにいかない感覚もありました。

遠距離通学や放射能から子どもを守る悩み

子育てや教育に関しても、例えば子育ての困難が増した、遠距離通学をしなければいけない。放射能から子どもを守るために東京や埼玉に強制避難したり自主避難した方は、地域の学校になじむまで相当時間がかかりました。福島から県外に避難した人ですが、「現在妹の家に居候している。自分の住んでいたところは2年では帰れないと言われている。まだ一時帰宅もしていない。13年間働いた契約社員の仕事を失い、失業保険は来年2月まで受けられる。娘は高校受験できなかった。通信制の第3次の受験が震災で延び、避難したため目途も立たず、受験できなかった。教育委員会は1、2次を受けていないので今年普通高校は無理といわれた。今アルバイトをしており来年度受験をしようと思っている。児童扶養手当はやがて切れるし学費も心配だ」。地震が起こったときに通信の3次の試験だったんですね。高校受験ができずに東京に避難してきて、娘さんはいま中学卒業ということでアルバイトをしている。今年高校受験を東京でしたようです。

夏休みに子どもと福島を離れようと考えている人、こういう人は結構多いです。そのためのNPOなどが一時避難、レスパイトという支援のかたちで、バスで福島から東京や埼玉に週末に来てもらいます。わたしたちも昨年東洋大学に協力してもらって長野で50~60人を2泊3日、埼玉県の国立女性会館に2泊3日、これは震災が起きてすぐ5月にやりました。5月に来たときには、それまで下にあるものを触っていけなかったのが今回は触れる、キャッチボールができるといって、子どもたちが非常に喜んでいました。

こういう短期の保養でも、そうすることによって離れるからいいといわれています。週末だけ2日3日だけでも、郡山から埼玉あたりにいくだけでも、子どもたちにとっては非常にいいのではないか、そういう生活を実際せざるを得ない人もいます。母子だけで生活するには生活費が非常にかかります。福島と東京で二重生活になってしまう。それだったら郡山にいて週末だけほかのところに行くやり方もいいんですが、それをやっているのはあくまでもNPOなど民間団体ですね。わたしは国が復興のための予算の中に位置づけて、夏休みなどは集団で高線量のところから逃れてもらうことを政策に入れて欲しいと非常に切実に思います。もう終焉したことになっていますからね、なかなか難しいです。

福島の人たちで、自分は警戒区域が解除されたところに帰ってきたが、子どもたちは30キロ圏外にいる。一軒家でローンを抱えている。夫と子ども3人で暮らしているが来年3月のことがもう未定になっている。これは昨年11月時点の話です。戻ってきたらみんな不安感があり、除染して少しは良くなってはいるが、それでも移動するかここに止まるか、悩んでいる。子どもたちは運動ができないのでゲームばかりになっている。

実際帰った人もいるんですが、南相馬あたりは帰っても水道とかインフラが完全ではありません。ですから生活ができない状況もあります。除染しても除染したところはいいんですが、それをためているところとか流れた水が川に流れるんですが、そこが線量が高い。これは海に行くわけです。薄まっていくのかどうかわかりませんが、そういうことでなかなか帰るといっても難しいのではないかと思います。

健康や介護についての不安

健康不安に関してですが、相談の記録でいうとメンタルや精神疾患の相談は非常に多かった。叔母の家族4人が津波で死亡した宮城県の南三陸町に住んでいた方ですが、「ひとりはまだ遺体が見つかっていない。おばの下の子どもは親を助けにいったが死亡してしまった。自分は骨粗鬆症があって外出もままならない。弟の嫁は精神不安定で安定剤を飲んでいる」。ほかに郡山あたりから毎回のようにホットラインに電話してくる高齢の女性がいました。不安が高じて、ひとりでアパートにいると圧迫感と不安が起こるわけです。これは別に震災だけではありません。強烈な何かが起きたときはパニックになりますよね。そういう状況になっている方たちが、わたしたちのパープルホットラインでつながることで、「今日も誰かと話ができました」といって1日が終わるという人もいました。

若いお母さんたちは食べ物に対して不安がありました。食品の基準値が当初高かった。放射能の被害は内部被曝と外部被曝があって、内部被曝は食べ物から摂ったりしますから、できるだけ食べ物から摂らない方がいいということは普通にいわれています。あまり神経質になってもノイローゼみたいになってしまうし、それぞれがどこに基準を置くかだとは思うんです。できるだけ汚染されていないキノコとかセシウムを取り込みやすいものを避けるとか、そういうご苦労から精神的に不安定になっていった人がいます。東北は西のものがなかなか入りません。そういう方たちにはインターネットで九州あたりの野菜などがパックで1200円、1300円くらいで出ていたんですね。そういう熊本とか大分あたりのものを利用して、少し安心なさったらどうですかというアドバイスをしたことがあります。

「震災後精神的に不安定になって人を凝視、にらんだりしてしまう。自分は発達障害もある。家の全部が流されて仮設で暮らしている。仮設の中で太っているといわれることで人の視線が非常に気になってしまう」という話もありました。ダイレクトに「死にたい」という相談も受けました。それは鬱病の人が多かったです。基本は傾聴につとめながら、いのちの電話とかいろいろなところをお知らせしたこともあります。精神的な、メンタルな不安を抱えている人たちは、もともとそういう傾向があった人と、この震災、放射能を契機になった人といます。心療内科とか精神科に通いながら自分の投薬とかカウンセリング、両方だと思うんですが、この前の朝日新聞にも鬱の人たちの治療方法が少し変わってきたという報道がありました。こういうところになると、難しいなということが相談を受けた実感です。がんばれというと鬱の人たちにとってはつらいわけです。テレビで「みんなでがんばろう」とよく言っていましたが、ああいうのは精神的な問題を抱えていたり鬱の人たちは相当悪化したんじゃないかと思うんですね。精神的な疾患を抱えた人たちが非常に多くなってきた。震災というのはぐちゃぐちゃになった家を目の当たりにして、自分は片付けられないんじゃないかということから、メンタルな部分を押し込んでいくこともありました。

放射能汚染・除染は「嫁の役割」?

原発事故や放射能に関しては、118件くらい相談があったんですが、最初はやはりお母さんたちからかかってきました。自分の母乳は大丈夫だろうかという相談です。これは専門機関などでやっているところがありましたので紹介しました。心配だったらミルクに変えるしかないという時もあったんですが、放射能の値が知りたいということが6月くらいまではありました。ガイガーカウンターを役所などが貸し出しているので、測ってみたらどうかということを言いました。福島県の人たちは農作業をしていた人もいましたから、そこの土地が20キロ圏外といっても相当汚染されているので、放射能汚染によって自分自身の仕事の現場を失いました。ですから放射能がどういうかたちで残っていて、それは何年後になればなくなるのかとか、そういう難しい相談もありました。そういう相談はわたしたちには対応できないので、原子力研究の民間機関のサイトを心配だったら相談してくださいというかたちで教えたりしましたね。

郡山あたりでは、除染を自分達でやっている人たちが当初からいました。それは「嫁の役割」としてやらされて、とってもしんどいんです。あれは高圧をかけたりするので力もいるそうです。福島の人にきいたら、自治会に50万円ずつ予算が下りるんですね。それで買って1軒ずつ屋根の上からやるんですが、相当の力がかかるので、なかなか女の人はやれないんです。それを「嫁の役割」ということでやっている人もいました。放射能が心配だけれども、その放射能のことで家族間に軋轢が走っていくということです。悪いのは放射能であり東電なんですが、見解の相違で、いままで平和に仲良く暮らしてきた家族の中に溝ができるという悲しい状況がありました。

放射能自体が目に見えないものですから、若い人たちにとっては相当大きな問題だということは思いました。特に19、20歳くらいの「ガールズ」という団体で、放射能のことをグループで考えている福島の人たちの団体があって、そこの人たちの話をしました。わたしたちは子どもを産めるんだろうか。子どもたちは検査することがあるけれど、19歳、20歳の人たちはその狭間で何もないんですよね。やるとしても自分達でやらなければいけない。それから衝撃的だったのは5月の埼玉のレスパイトの時に高校生の女の子たちが話していたんですが、わたしたちは結婚するときは福島の人としかできないね、というんです。福島県人同士だったら放射能を同じように浴びていてお互いに認めあえるけれども、県外の人とはできないと思っている、という話を高校生の若い女の子たちがしていたんですね。つらいものがありました。

補償世帯の単位問題

弔慰金なり生活再建支援金などというものなどいろいろ支給されました。さきほどもいいましたが日本は世帯に配るわけです。例えばおじいちゃんが世帯主だったら、おじいちゃんがいておばあちゃんがいて息子夫婦がいてというときは、全員のものがおじいちゃんに配られます。家族で仲が良ければいいんです。でも仲が悪かったら、おじいちゃんのところに全部行ってしまうことに問題が起きる場合もある。お父さんが娘たち2人の分も全部取っちゃうとか、別居していたけれども夫が妻の分まで取っちゃうとか、世帯主として認められる方にいく。そうするとだいたい男性ですよね、世帯主って。8割から9割が男性だと思います。ですから男性の方に全部いく仕組みになっていて、仲が良ければいいけれど、仲が悪いときには女性に全然いかない。おじいちゃんが息子の嫁さんの分まで取ってしまうことになることがあるんですね。

これについては日弁連などがそれはおかしいんじゃないかという意見書を出しましたが、なかなかそれが反映されていません。いまもって県外避難の人は子ども60万円ですね、夫が関西に避難してそこに住所が移転していて、彼女は関西にいたけれども夫から出て行けといわれて東京に来た。それでわたしたちも知恵を授けて、向こうが東電に請求書を出すなら、こちらからも請求書を出して東電にストップをかけようということになったんです。ストップをかけないと向こうに行ってしまって、DV被害者にはいきませんから。それでいま宙ぶらりんになっているので、弁護士を立ててやっています。

そういうことで、円満なときはいいんですが何かちょっとすきま風があったり、親子関係が悪いときは、この世帯単位というのは生活困窮の人をつくってしまいます。例えば弔慰金でも、共稼ぎの方だったら500万円から250万円になってしまいます。夫に扶養されていなかった妻が死んだ場合とか、夫が働いていて妻が扶養されていて、その夫が亡くなったら500万円です。夫婦で働いていた場合はダメです。

日本は役割分担の国ですね。夫が働いて妻が家事育児をして、そこでいろいろな社会保障が成り立っている。年金制度もそうですし所得税もそうですし、健康保険もそうです。社会保障はそういう社会の役割分担をそのまま引きずっていて、それをそのまま被災者支援の弔慰金や生活再建などが改正されないまま来てしまったことで自分は不利益を得ているという相談もありました。

わたしは世帯ではなくて個人単位でやれば、いろんな問題は解決するんじゃないかと思うんですが、なかなかそうならない。一時期民主党が勢いのあるときは、個人でいろいろなことを考えられるように社会のシステムを変えなきゃいけないということをNHKの番組で言っていましたが、いつの間にか消えてしまった。この問題に関しても手をつけられないまま震災が起こってしまった。それでもいまの政権だからできたこともあるということで、この震災関係について少しは評価はしています。自主避難の人たちへの補償が非常に少なく、60万円と8万円ということですが実際はそれ以上かかっています。交通費とか生活費が二重にかかっているんですが、その事は全然ない状態にされています。

全体的に相談を見ると、放射能被害の相談は最初から最後まで継続していました。その中で時を経るにしたがって、家族間や地域の中での軋轢の悩みが非常に増えました。それから避難所生活から仮設住宅、都営住宅の中で近隣との軋轢の問題とか、弔慰金や東電の仮払いの問題というふうに、支援が1年経つ中で時期によって出てくる問題がいろいろとありました。

被災母子サロンの経験から

わたしたちはホットライン以外にも、寄り添い型の居場所つくりということで母子避難者を対象にして都内と盛岡と郡山で行い、延べ333人くらいの方たちが集まりました。東京でいいますと江東区の東雲住宅に1000世帯くらいいて一番多い。そこで5回。九段下で3回、神保町で2回。小松川は都営住宅で、2回やりました。

最初は東京では物資を持って行って皆さんが安らいでいけるようなお茶を出したりしたときに、皆さん放射能による健康被害の不安を口にされていましたが、回を重ねるごとに避難者間の問題がいろいろ出てきました。これは東京ですけれども、同じように避難している集合住宅の中には強制避難の人たちと自主避難の人たちがいます。その人たちは補償に関して雲泥の差があります。20キロ圏と25キロ圏の人とは違わないのに線引きされたことによって、子どもを入れてひとり10万円、3世帯で30万円です。しかし25キロから避難してきた人たちは、一時金の60万円だけで終わります。強制避難の人たちは現在も慰謝料の補償は続いていますが、それがわたしたちが運営している東京のサロンの中で少しずつ違いが出て、皆さん同士が連携できない、話ができない状況が出てきました。

自主避難の人たちの居場所がなくなってきました。強制避難の人たちは強制的ですから有無をいわせずですが、自主避難の人たちは自分の選択で来ているわけです。強制避難の人たちから見れば、国が大丈夫と言っているから帰ればいいじゃないかとか、わたしたちは帰れないけれどもあなたたちは帰れるんでしょ、ということがずばずばいわれるようになりました。運営側としては大変だということで集団で話すことはやめました。後半になると、皆さんには手紙を書いてもらったりして好きな人同士で話してくださいということにしないと収集がつかないようになってしまったんです。

どういう関わりをすればいいのかいまだに結論は出ないんですが、われわれ支援者は当事者ではないですから、やる側も非常に多くの悩みを抱えました。 ただ継続的に女性のことをやっていたのはうちの団体くらいしかなかったので、継続することに意義があると思って、今年度はすでにある避難している女性の団体と一緒にやることにして問題を解決する方向にしました。もう支援者がお膳立てをする時期ではないと思っていまして、避難ママネットという自主避難の人たちと一緒にやることになれば自主避難ということで集まっているので問題が拡散しないですね。

わたしたちが去年の事業で学んだことは、われわれは母子家庭の当事者団体であって、母子家庭のことは集中して自分達の思いを言えるんですが、いったん支援者として関わる場合、違う項目に関わる場合には配慮が必要だということです。ただ盛岡などのサロンではそういう問題はないです。沿岸部から来ている人が多く放射能のことはあまりないんです。郡山も問題がなかったというのは、そこでこういうサロンに来てくれるお母さん方は放射能に対して疑問を持った人が来るわけです。疑問を持たない人たちは来ないので共通の話題があります。ですから郡山のサロンをやるときは非常にやりやすい。皆さん思ったことを話して帰っていただけました。

パープルホットラインと避難者のサロンをやって支援してきたんですが、1年終わって今年の4月から取り組んでいるのは、こういうことを記録に残した方がいいということです。盛岡、仙台、東京、郡山、いわきの被災者、母子家庭と東京の場合は避難母子の方たちを対象にして、聞き取り調査をして残していこうとしています。自主出版をして売ろうとしています。それから寄り添いホットラインのような支援として、個別のパーソナルサポートです。困難が人によって違うわけで、2年目の今年はそれぞれの人たちの困難に寄り添えるような個別サポートが必要ではないかと考えて、寄り添い型の支援に変えましたので電話相談等は行っていません。東京では避難当事者の団体と連携しての居場所つくり、盛岡や仙台、郡山では地元のNPO、女性団体と連携してやる予定になっています。

いまの県外避難者の人たちが求めているニーズは、情報が届いていないことです。仕事にしろ保育園にしろ、東京で生きていくときにこれに困っていて、ここに行けばこういう情報が得られる、こういう資源がありますよということを、いまは皆さん携帯電話を利用していますから、ポータルサイトを作って8月下旬くらいから避難者情報を一挙に載せていくような事業を進めております。

若者が希望のもてる社会を

わたしたちの1年間の活動報告になりましたが、この中で日本の制度や政策の中で未成熟になっていた部分が、被災ということで一度に顕著化したことがあったんじゃないか。ですから、わたしたち市民がこの震災からどういう未来像をつくっていくのかということが非常に問われていると思うんです。原発の再稼働の問題も含めて。わたしたちは去年1年間の支援活動の中で、コミュニティがこぼれ落ちる人を支えるというのは確かにそうなんですが、そのコミュニティ自身がいびつに回っているところもあるわけです。そのコミュニティ自身の組み替えもしていきながらやらないと、日本自体のこれからの行く道はないと思っています。

また震災とは関係なく、いまの日本は若者が希望を持てる国ではないですよね。これだけ非正規雇用が増えて、いったん学校を卒業したら正規にならないと一生非正規ということで、われわれ高齢のものたちから見ると考えられないようなところにいまの若者たちがいると思います。わたしの2人の娘もひとりは正規でひとりは非正規で、姉妹であっても年収がこれだけ違うのを目の前で見ています。こんなことがあるんだろうかと思いました。いまの若者たちの置かれている状況の中に、日本の未来に暗澹たる思いを感じたりするんですね。バブルなどを経ていい思いをした時代もあったわけですが、われわれが残したツケが若い人たちにいっているんじゃないかという思いもあって、若者たちに希望があるような日本になってくれたらいいなということを、女性がそうなることと一緒に思っております。

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「全国空襲被害者連絡協議会 結成2周年のつどい」の報告 ―許さない!“戦争被害受忍論”、最高裁上告の勝利、「空襲被害者等援護法」の制定―

敗戦から67年目の8月15日(水)台東区民会館に220名が参加しました。

開会挨拶で星野弘「全空連」運営委員長は「東京大空襲訴訟の提訴以来5年が経過しこの間、運動は全国空襲被害者連絡協議会として発展しました。本日沖縄で、救済から取り残された6万7千人を代表して40名が那覇地裁に提訴しました。これにより全国の大小都市空襲と艦砲射撃などで被害を受けた全ての人々を包含する裁判の仕組みができました。当然、救済援護を受けていない原爆被爆者も含まれます。11日には、郡山市で空襲犠牲者遺族や原発被災者の方々との交流集会を行い、東北にも運動を拡げる足がかりができました。この築きあげられた到達点はまだまだ小さなものですが、国の不条理な民間人を差別する政策を改めさせ、戦争の犠牲者がひとしく人権が尊重され人間としての尊厳を守る世の中を後世に引き渡すために頑張ります。」と各地の脱原発・人権・平和運動を担う人々と共に連帯しながら私達の闘いを拡げていく決意を述べました。

開会挨拶のあと、15年続いた侵略戦争で犠牲になられた方々に全員で黙祷を捧げました。
中山武敏弁護士(全空連共同代表・東京大空襲訴訟弁護団長)は、最高裁では戦争被害受忍論を打ち破るために大きな運動を展開していかなければならない。郡山集会を報じた東京新聞“戦争・原発「棄民」問う”を紹介して、政府の態度は大本営発表と同じで本当の事実を伝えていない、司法は原発訴訟で司法としての責任を果たしてこなかったと批判。超党派の議員連盟ができて、金額を盛り込んだ「援護法(素案)」ができたが、国会提出と成立はどれだけ世論の支持と共感を得られるかにかかっていること。また外国の方々への「未解決の戦後補償」問題の書籍を紹介して、私達のたたかいは人権回復と平和を担う運動として共感を広げ期待され歴史的な意義があると話されました。

「空襲被害者等援護法を実現する議員連盟」の首藤信彦議員連盟会長、木村たけつか議員、初鹿明博議員、福島瑞穂議員から激励連帯挨拶を受けました。他に服部良一議員秘書、鳩山邦夫議員秘書が出席。高井崇志議員連盟事務局長、瑞慶覧長敏議員、服部良一議員、工藤仁美議員、志位和夫議員、市田忠義議員からメッセージが寄せられました。

鎌田慧さんに「3.11東日本大震災、福島第一原発事故が問うもの」と題して一時間の講演をして頂きました。(一部分のみ要約して報告)「さよなら原発」の運動の呼びかけ人は戦後これから始まる民主主義に期待し、新憲法の平和に対する決意という言葉をズーッと噛みしめてきた方たちである。敗戦の年、日本は国体護持のため戦争終結の決断をなかなかしなかった。そのために空襲と原爆で被害と犠牲を拡大した。広島の後に長崎があったことと重ねて考えると、次の原発事故がないように早く原発から脱しなければいけない状況にある。今原発を止めるというのは、かつての国民の気分にあった戦争はほんとにもうヤダという状況とそっくりな状況にあって、必要なのは決断であるし憲法にある平和に対する決意である。最後に「今、市民が集会や国会前に何万人も集まってきます。ほんとに開放された明るい笑顔です。こういう人たちがこれからの日本を作っていくわけで、この戦後補償の問題も一緒になって進めていければと思っています。」と締め括られました。

早乙女勝元さん、斉藤孝男さん(ともに全空連共同代表)、柴田昭次さん(元朝日新聞記者)、中野ゆかさん(和・ピースリング)、馬場裕子さん(都議会議員)、河野達夫さん(新宿区議会議員)、澤田猛さん(元毎日新聞記者)、児玉勇二、内藤政義、黒岩哲彦(各弁護士)、城森満(全空連副委員長)から発言。安野輝子さん(大阪原告団長)がアピール案を提案し拍手で採択、岩崎建弥さん(全国戦災傷害者連絡会)の閉会挨拶で終了しました。
(東京大空襲訴訟原告団 千葉利江)

沖縄訴訟は、国民保護義務を国に問う極めて今日的課題です。戦争の実態、軍隊は国民を守らないことを明らかにして、戦争をさせない力にしたいと思います。「援護法案」の国会上程はまだですが、新宿区議会と佐世保市議会で意見書が採択されました。各地の地方議会からの意見書採択で「空襲被害者等援護法」制定に国民世論の拡がりを!

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8・6新聞意見広告、今年も掲載しました!
ストップ改憲! いのちがだいじ ――原発も基地もいらない―― 

今年も皆さまのご協力と応援で「ストップ!改憲 8・6新聞意見広告」を掲載することができました。8月6日、ヒロシマに集う人々に「8・6新聞意見広告」と「市民による平和宣言」3000枚を原爆ドーム付近で配布しました。前日から泊り組の東京、名古屋、大阪、岡山、長崎…の皆さんも早起きして一緒に配ってくださいました。今年、見て頂きたいのはイラストとアーサー・ビナードさんの詩です。グラフィックディザイナーで仲間の石岡真由海さんは、安心して洗濯物を干し、学校に通う日常が原発や基地によって壊されないことを願って描いてくださいました。アーサーさんの詩は次の通りです。

初めての広島案内
アーサー・ビナード

広島の街を歩いたことがありますか?
お気に入りのスポットってどこ?
もし「広島を案内して」といわれたら、ぼくは
元安川をわたる平和大橋へいっしょに出かけたいと思う。
西詰めの木陰に、御影石の碑がひっそりとたっている。
「市立高女職員生徒慰霊碑」
おもてに三人の少女が並び、まんなかの一人が
両腕に箱を抱えているけど、それは生徒たちと
先生たちを殺したものを表わしているのだ。
でも「原子爆弾」と箱に書いてあるわけではなく
「原爆」でも「核兵器」でも「ピカドン」でもなく
英語の「atomic bomb」もそこに記されていない。
箱にはっきりと刻んであるのは「E=mc2」
アインシュタインの相対性理論の方程式、
核分裂のエネルギーだ。
広島の上空で引き起こされた核分裂であり、
同時にチェルノブイリの核分裂でもある。
ニューメキシコとネバダの実験所、スリーマイル島と
福島の核分裂も、大飯の三号炉と四号炉の中で
起こっている核分裂も、慰霊碑の箱に含まれる。
「平和大橋」や「平和大通り」や「平和公園」
「平和記念資料館」「平和憲法」にまぎれこんだ
「平和利用」の名のもとで、一九四五年八月六日の
破壊はずっとつづいている。
原子爆弾か原子炉か、核兵器か核燃料か、
生活を瞬時に破壊されるか
ジリジリむしばまれていくのか、
市立高女の生徒が抱えているあの箱のエネルギーに
ぼくらが終止符を打つことができるか。
もしできたなら、そこで初めて
ほんものの平和大橋を
わたっていけると思う。

広島で生きてきた者にとって考えさせられる詩でした。「変えて行かなきゃと思った」「力がわいてきた」と感激した人もありました。お手紙も来ました。「とても素晴らしいです。広島・長崎の原爆、ニューメキシコとネバダの核実験、スリーマイル島、チェルノブイリ、福島の核分裂を踏まえて、未来への提言と希望、勇気を与えてくれます」と。ほんものの9条を実現させようという思いを新たにしました。

皆さんからのメッセージ
寄せられた中からいくつか掲載させて頂きました。(敬称略)

 このメッセージ、すべて思いは同じです。

原爆投下から67年、今年の8.6ヒロシマ
8月5日「8・6ヒロシマ平和へのつどい」を行いました。これは名前を変えながら30年になる市民集会です。メイン講演は高橋哲哉さん、歴史認識、犠牲のシステムなど頷くことばかりでした。また行動提起はヒロシマ・ナガサキからの発言、原発、基地、軍都廣島、在外被爆者問題など毎年てんこ盛りですが大事に続けています。未だご参加頂いてない方は、来年は是非!

8月6日は、早朝の8・6意見広告配布に続き、グラウンドセロのつどい、ダイ・イン、ノーモアヒバクシャみんなでウォ-ク、中国電力本社前でこれも30年以上の座り込み。午後は、NO DU全国集会、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会はメイン講演が福島の詩人若松丈太郎さんの「反核の夕べ」、この他いろんなコースのフィールドワークも行われました。

こうして広島で、また国会の周り、長崎、沖縄、全国で多くの市民が反核・反基地の声を挙げている時も、集団的自衛権を解釈改憲ですり抜けようとする動き、憲法審査会を開き明文改憲を狙う動きなど待ったなしです。「いのちがだいじ」市民の力が求められているのではないでしょうか。

今年の意見広告は、毎日新聞全15段を大阪本社版(近畿、北陸、四国、山口西部を除く中国地方)に、全5段を東京セット版(首都圏夕刊のある地域)と山口全県版に掲載しました。一人でも多くの人々に届き、ストップ改憲の一助になればと心から願っています。

2012.7.17
第九条の会ヒロシマ 藤井純子

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青森県下北半島・六カ所村と大間を訪ねて

土井とみえ

8月のはじめ、青森県六カ所村の菊川慶子さんと大間町の小笠原厚子さんを訪ねた。菊川さんは、六ヶ所村の核燃サイクル基地建設の建設と稼働中止をもとめて長い間運動してきた方であり、小笠原さんは「あさ子ハウス」をつくって大間原発の建設を許さなかったお母さんの遺志を引き継いで活動している方だ。私も賛同している「脱原発をめざす女たちの会」が、今後のとりくみを考えるために一度現地を見ておこうという企画だったが、希望者が増えて女性ばかり10余名の大人数での旅となった。

早朝の東北新幹線で東京駅を発ち、11時ごろに七戸十和田駅で下車。駅とその周辺はすでに広大な緑と林が広がって、強い日射しが輝いている。ありがたいことにこの駅まで菊川さんが迎えに来てくれた。駅前でレンタカーを2台借り、計3台で六カ所村の菊川さんが主催する農場「花とハーブの里」に向かう。よく整備された立派な道路に車はとても少なく、ぐんぐんと進む。この道路は、原燃などに通勤する車で朝夕は渋滞すると菊川さんは話してくれた。広大な緑の中を進む六ヶ所村までの道は、はほぼ1本道でまっすぐなところが多くて、北海道を思い出す。

1時間ほど車を飛ばして「花とハーブの里」に到着する。菊川さんの自宅と農園とゲストハウスがあるところだ。家の前の畑には野菜やハーブが植えられている。ズッキーニが元気に葉をひろげて実を空に突き上げているが、巨大な黒々とひかる50センチほどもある巨大茄子が土に横たわっていると思ったら、これもズッキーニだった。この巨大ズッキーニは私たちの夜食になり、1個で全員分をまかなえた。

昼食は手作りのカレーで、中には大根や長芋が入っていて意外だったが美味しい。長芋は六カ所村の特産品だ。お米はこくのある玄米。昼食後、日本源燃の六カ所PRセンターを見学したあと、村内のようすを菊川さんが案内してくれた。

PRセンターでは予約してあって、ベテランの案内係が2名で対応した。まず最上階からは360度の展望があり、原燃構内だけでなく広大な六ヶ所村が見渡せる。むつ小河原国家石油備蓄基地の大きなタンクが整然とならんでいるのが見える。ここには51基のタンクがあり11.1万キロリットルの備蓄量があるという。ここに石油備蓄基地があることは初めて知った。また、広々とうねる丘には大きな風車が次々と姿をあらわした。丘の上に整然と並んでいる。六ヶ所村には77基の風力発電が設置されていて、総発電出力は11万5千キロワット、国内最大の施設だという。太平洋と陸奥湾の東西両方から風をうけることができる六ヶ所村は、風力発電に適した地形なのだ。核の再処理工場との違和感がおおきい。

原燃の施設はウラン濃縮工場や廃棄物埋蔵センター、使用済燃料貯蔵プールなどの施設が見えると紹介された。どれも大きな鉄とコンクリの固まりだ。PRセンターでは、例の放射線が私たちの身近にあるという説明や、いかに安全に核燃料が再処理されて再び役立つようになるか、廃棄物がいかに安全に処理され、保管され続けるかということを、金をたっぷりかけてつくった展示や模型で示していた。なかでもガラス固化体のくだりは説明に力が入っていた。

PRセンターを後にして道路を北上する。道の両側は農地や放牧地がつぎつぎ通り過ぎる。下北半島の地図を思い起こすと、半島のつけ根は太平洋にそって長い長い海岸線が続いている。その海岸線に沿った道路だが、林が続いていて海はほとんど見えない。しかし所々で建設用の砂利の採集場所があり、海に近いことがわかる。30分ほど走ると六ヶ所村の北部に位置する泊漁港についた。

泊漁港のある泊の部落は80年代半ばから部落をあげて核燃施設に反対し、農協や消費者団体をまきこんだ運動をしたところだ。機動隊を導入したきびしい運動が展開され、逮捕者も出た。漁師が漁に出るところを機動隊が阻止したとか、この小学校に泊まり込み、この坂道に漁協の女性たちが座り込んだ、という場所を走った。いま泊では代もかわり、原燃関連の仕事をしている人も多くなっているそうだ。

泊漁港を後にして南下しながら村内をみてまわる。古い町並みが残る漁師町を通り、原燃の正門前をとおり、マンション風の従業員住宅、ちょっと大きなスーパーなどの商業施設、国の核関連の研究施設などが次々に表れる。

さらに行くと、巨大なクレーンを備え、金網で囲まれた港が道路の横につづく。ここが核廃棄物が運び込まれるむつ小川原港だ。「この交差点です!」と菊川さんが言う。菊川さんが核廃棄物の搬入を阻止しようと何度となく機動隊と対峙したところだ。

輸送船から廃棄物がトレーラーに降ろされ、国道沿いに機動隊が阻止線を張ると、もう搬入間近。港の前を通過する一般車がスピードを落としてクラクションを鳴らし、「ガンバレよー!」と大声を出す中で、私たちは花を持ち歌を歌いながら、阻止する警官のすき間を縫って座り込むのです。

前日のミーティングで「この歌を歌い始めたら道路に出ようね」、「この歌で座り込みを始めましょう」などと打ち合わせずみ。反核燃ソングといわれたフォークソングや替え歌、ときには童謡や唱歌、賛美歌などを歌いながら、みんながばらばらに動き始めると、どこかで阻止線が破れ、トレーラーを止めるという目的は達成できるのです。
30分~1時間が、止められる時間の限度でした。(「六ヶ所村 ふるさとを吹く風」)

さらに道路を南下していく。両側は緑の林や畑や草地が続く。「ここがテントを張ったところ!」という新納屋の地だ。
六ヶ所村に初めて放射能が持ち込まれた91年9月から10月にかけて、全国から集まった女たち約400人が、国道338号線わきにテントを張って1ヶ月あまり、花と歌を武器にして非暴力の抗議行動を行いました。
(「六ヶ所村 ふるさとを吹く風」)

その日は、村の人たちに混じって老人福祉センターの温泉で汗を流した後「花とハーブの里」に戻った。農家である菊川さんは、毎朝3時ごろに起きて仕事をはじめるので、夕方まで私たちを案内してくれて母屋に引き上げた。夕食は菊川さんが準備してくれた食材を使って私たちで調理し、料理を囲んで菊川さんのお仲間と楽しい話がはずんだ。

牛小屋を改造して、全国からくる支援者の活動拠点にした菊川さん。何回もの改築をへて、1階はしゃれたレストラン風のスペースになっている。杉材のかおりもする2階建ての個室も増築されている。2階の屋根に出られる階段を上がると見晴らしがすばらしい。

今年の冬は雪が特別に多かったようで、使われていなかったお隣の家の牛舎はつぶされてしまった。

翌日は、菊川さんの農園を案内していただいた後、緑の中でしばし懇談した。これまで続けてきたチューリップまつりは昨年で終えた。今はルバーブジャムの販売に力を入れている。無農薬・自然栽培のルバーブの茎をジャムにして売り出し、利益を出そうと試みている。果樹も育てている。チューリップ畑の後に植えられたクリやくるみはまだ小さいが、背の丈近くに伸びた夏の雑草の中で懸命にがんばっていた。

母屋の近くに直径1メートルに満たない風車があった。消費電力を少なくし、屋上の温水器などを併用すれば、この発電量で何とかしのげるようだ。

ふるさとに戻り、地域の住人として生産者として、長い間運動をしてきた菊川さんの思いや経験は「六ヶ所村 ふるさとを吹く風」(影書房)に詰まっている。ぜひ一読をおすすめしたい。

本州最北端・大間に原発はいらない

JR野辺地駅から鉄道で下北駅へ、さらに車で約2時間かけ本州最北端の大間町に向かった。小笠原さんが、そこに人が居ることを裏づけるために1通でも多く「あさ子ハウス」に手紙を出して欲しい、と東京の集会などで訴えていたその場所を、一度この目で見てみたい。それに夏の雑草を刈るのが並大抵ではないと小笠原さんはヘルプを出していた。少しのお役にでも立てばとの気持ちもあった。

「あさ子ハウス」への道は、よく整備された国道から別れていて、バスが入れるほどの幅がある砂利道だ。両側には高いバラ線が張り巡らされた塀で囲まれている。国道から少し入ったところに監視小屋があり、昼は監視員が常駐し24時間監視カメラが出入りをチェックしている。「あさ子ハウス」までは1キロ弱の道のりで、個人住宅の庭への道のようなものを想像していたものとは大きく違っていた。上り下りが何回かあり、ようやく郵便受けが表れた。その奥の松に囲まれ、ログハウスはあった。風力発電の設備もいくつかある。

すぐ下をみると原発によって港がつくられているが、かつてここも浜だったことがわかる。

熊谷あさ子さんは半農半漁の生活で、夫とともに大間で暮らしてきた。「農業をして、海で魚貝や海草を採って暮らす生活が一番」と言い続け、原発計画が出てからずっと自分の農地を守り続けてきた。周囲の地権者がすべて土地を手放しても、あきらめなかった。あさ子さんは土地を守るためには、そこに住んでいる状態をつくるのが一番だと考え、ログハウスを建ててそこに移り住んだ。あさ子さんのがんばりで建設計画は変更され、いまも大間原発は完成していない。しかしあさ子さんは、ログハウスで突然亡くなった。

あさ子さんの強い思いと行動を知った娘の小笠原さんは、あさ子さんの遺志を引き継いで何とかログハウスと残した土地を守り抜き、大間に原発を建てさせないために「あさ子通信」を懸命に呼びかけている。

「あさ子ハウス」でお会いした小笠原さんは、開口一番ログハウスに水がないと言う。原発建設工事で井戸の水が茶色く変わり使えなくなった。かつて農業用に使っていた小さな小川も、水が来なくなっていた。この水源は原発の敷地内にあったようで、あさ子さんがお元気なときは水を止めないように電源開発と交渉していたようだ。ここには電気も来ていないので、維持するのはなかなか厳しい。それでも小笠原さんは、1町歩以上ある土地に花や木を植え、将来はヤギなどの動物を飼って子どもが親しめる場所にしたいという計画を話す。

食事の後、目的の一つである草刈りにとりかかった。あさ子ハウスへの道の両側を、2時間ほどかけて草刈りのお手伝いを少しだけできた。途中で郵便配達の人が来て声をかけられた。やっぱり郵便は役立っている。

翌日は、建設中の大間原発の全景が見える高台に上がった。建設中といっても港湾などや土地の整備や事務棟など準備工事だけで、原子炉などはまだである。それでも規模は十分知ることができる。驚いたことに原発近くに集落の家々が接近している。何かあったらどうするのか。原発建屋の位置も海面から高いとはいえない。原発事故後の見直しはあったのだろうか。

下北半島には、六カ所、大間に加えて東通り原発もある。都市から離れたところに負担を強いる社会にはNOが突きつけられている。菊川さん、小笠原さんありがとうございました。しっかりつながっていきたいと思っています。

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種子島通信(4)

6月で帰島1年が経過。約40年ぶりに島の四季を体感。ここは超早場米コシヒカリの産地で例年より2、3日遅れだが、10日ごろには稲刈りが始まっている。
さて7月8日は鹿児島県知事選の投票日だった。候補者は現職の伊藤裕一郎(64歳・無所属・自治省総務省出身)と新人の向原祥隆(55歳・無所属・出版会社南方新社代表・反原発かごしまネット事務局長)の2名。報道では現職が告示前に「力みなぎる・かごしま~21世紀・新たな未来の創造」の135項目のマニフェストを公表。「全ての県民に優しいぬくもりのある社会」の構築を訴える。政党の推薦を受けない県民党と言いつつも、県議会の自民公明県民連合の3会派から推薦を受け、また自民党県連、公明党も実質推薦で、民主党県連も応援。更には連合鹿児島を初め、農政連、医師連盟、建築業協会等々400超の支援団体が推薦状を出す等と、圧倒的に有利な状況で選挙戦をリードした。一方向原候補は111項目のマニフェストを出す。その中にはTPP反対、馬毛島米軍基地化反対等もあったが、強調したには脱原発と脱官僚政治。しかし実質的に争点は原発のみの「シングルイシュー選挙」。これにはむろん問題点もあるが、重要課題でしかも最優先事項であれば重要争点単純化もありか。

大飯原発(関西電力)の再稼働後、立地県での初の知事選。伊藤候補の立場は安全確保地元理解を前提に川内原発の再稼働容認、3号機増設計画は撤回せず。手続き凍結、脱原発ではあるが、その実現には30年かかるとする。これに対し、向原候補は再稼働を許さず即時廃炉。「30年云々」はまやかしという。増設計画は同意撤回するとも。立地県鹿児島が変われば全国も変わる!!

周りから6月半ば「向原候補の種子島個人演説会」実行委立ち上げの話があり、九電川内原発差し止め訴訟の原告でもあったので、実行委8名(市議3市民5)で演説会を7月3日とする。3日15時半、屋久島より向原候補到着。すぐに車3台に分乗し市内7ヶ所で街頭演説のあと、夕食もそこそこに19時より屋内にて個人演説会。参加者約80名。後近くの居酒屋で打ち上げ。山谷等寄せ場における原発労働者の話をしていたら、応援弁士のS鹿児島市議から山谷のN活動家が話題に上り、非常に感慨深い思いであった。前日の7日にはあの山本太郎も市内スーパー前で訴えていたという。

即日開票の結果、約39万対20万で現職が3期目の当選。何でも鹿児島の知事は自治省官僚の指定席だとか(西南の役以来薩摩の反乱を警戒した中央政府の意向だという人もいる)。敗れはしたが向原の20万票をどう評価するか、仲間内でも微妙。スタートの出遅れと知名度の差は相当に響いた。投票率は43.85%、前回は38.99%。

もうすぐ8.15。全国の知人等も色々と計画していると思うが、先日市内で聞いたところ平和フォーラムや共産党関係も何もなしとのこと。そろそろ自分で何かをとも考えてはいるが。とにかく2.11、4.28、4.29、5.1、5.3・・・何も無し。わずか5.1だけは連合系が夕方200人くらいの屋内集会を毎年しているそうだが。同様に右翼もいることはいるそうだが少数とか。先日事務所の所在を訊いて行ってみたが日の丸も無くよくわからなかった。8.15とかは多少街宣しているそうで、2.11に市街地で1台の街宣車とすれ違ったが、あまりにも「紳士」的で音量も小さくよく聞き取れなかったほど。在特会みたいなものは今のところ存在しないらしい。「中種子維新の会」立ち上げもあったらしいが、すぐ立ち消え。

馬毛島問題については森本敏新防衛相(本当に民間出身と言えるのか)は「馬毛島は非常にいい案。米軍も前向きに検討するだろう」と言う。その理由は(1)艦載機部隊が移動する岩国基地から近い、(2)無人島で安全騒音問題が住民に直接ふりかからない、(3)航空自衛隊の訓練基地としても利用可能と評価。反対派は誰が大臣でも反対は不変。対策協議会は5月31日に種子屋久地区人口の57%に当たる約2万6千を含む約21万7千の反対署名を提出し、今後も総人口の70%を目指し重点的に署名活動を行う方針(既に60%超)。推進派は新大臣を安全保障の専門家であり誘致への最大の切り札と歓迎するも、8月上旬の森本敏講演会が就任で中止となり恨めしそう。

市の馬毛島対策委員会は5月15日、(1)1月18日から20日沖縄嘉手納町沖縄市、(2)1月20日から27日山口岩国で行った調査を報告した。調査内容は、(1)基地があることの自治体としての経済効果、(2)基地について自治体が抱える騒音・事故等の問題点、(3)基地に対する住民からの声や陳情の内容とその議決結果。まず沖縄に関しては、財政効果については自治体や民間に波及効果があり増収に結びついているが、反面これにより就労意欲の低下につながっている。騒音・事故等については騒音防止協定や指定空域があっても無いも同然であり被害は増加しており、地域住民の生活環境に深刻な影響を与えている。安保地位協定のため行政・米軍も訓練国防優先である。基地外基地の北谷町にある住宅施設では、思いやり予算の中で家賃が負担され住民票も無い。地域住民との交流もなく自治会費の負担もなく、まさに第2の嘉手納基地であると区長の説明もあった。岩国においては、かつては事前通告もなくNLPが実施され他に類を見ない騒音を発生させ耐え難い苦痛を味わったという。現在でもNLPについては硫黄島の気象条件等により予備基地として指定されている。生活が基地中心となっている感がある。

馬毛島開発業者TAと県及び国を相手取った訴訟では、福岡高裁宮崎支部は3月末地裁同様の理由(印紙代納入無し)で門前払い。原告は上告せず。ただ国の公害等調整委員会への原因裁定申請は受理されており、その結果によって今後の裁判の方針を決定するとしている。TA側は「工事と漁獲量減少の因果関係はない」旨の答弁書を出している。しかしながら最近の鹿児島大学水産学部の調査発表では、「馬毛島の南東海域海底で2002~2010年の間に砂の分布状態が変化しており、開発の影響で相当数の土砂が海に流出した可能性があり、急激な変化は生態系への影響も懸念される」との指摘がある。原因裁定にどれくらい反映されるかも興味深い。

私たち反対派は馬毛島問題や私たちの運動への理解や支援を深めてもらうために、5月27日「青空ふるさと祭り」を開催した。主体は「馬毛島を守る女性の会」だったが、「女もすなる・・・」と私も参加し、当日は市長も来賓に迎えパネル展、昔話、クイズ、フラダンス、エイサー、圧巻は県外から種子島に移住したサーファーでもある女性シンガーSAYAKAのライブ。商店会の人びとが協力してくれた屋台も賑やかで、祭りの成功に気を良くして来年もやろうと。

暑い中、日本という社会を変えるために活動している全国の皆さん、脱原発その他・・・・・特に8.15靖国闘争の仲間たちへ敬意とともに賛同のエールをおくります。
2012年7月 和田 伸

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<図書紹介>花に水をやってくれないかい?
――日本軍「慰安婦」にされたファン・クムジュの物語

著者……イ・ギュヒ/訳者……保田千世
発行……梨の木舎(2012年7月15日)四六判 162ページ 並製 定価:1,500円+税

この物語の主人公のモデルは、韓国人の黄錦周(ファン・クムジュ)さん。いまにつづく女性への暴力の問題を小学校5年生の少女キム・ウンビの目から取り上げたものです。
物語は引越の日に始まる。

5年生になるまで転校ばかりしてきたウンビ。10坪の狭い賃貸団地だが、やっと両親と落ち着いて住めるところができた。引越した翌朝、隣の家から話し声が聞こえてくる。それから1週間、毎日ベランダから「かわいいねえ、お前たちは」という声が聞こえてくるから、子どもがいるのは間違いないと思っていたウンビ。ところが一向に子どもたちを見かけることはなかった。隣の子どものことが気になって気になってしょうがないウンビ。ベランダ越しにのぞきこむと、そこには大小の植木鉢がいっぱい置かれていた。満開のベコニア、クロフネツツジ、五月ツツジ、パンジーやウンビの知らない花が光を浴びて明るく咲いていた。ハルモニがやさしく花をなでたりしながらひっきりなしに話しかけていたのだ。

ある日、テレビの画面いっぱいに映し出されているハルモニを見た。ほかでもない、隣のハルモニだった。「以上、日本軍慰安婦問題解決のため水曜定期集会が開かれている日本大使館前から、KNS記者が送りました」と。信じられないものを見たような気がしたウンビ。母親に「イアンフってなんなの」と聞いても、きちんと説明してくれない。隣のハルモニが気になってしかたがない。

そんなある夜、買い物帰りに黒い影に暴力をふるわれる。ウンビは悪夢に苦しめられるようになった。長い髪を切り、かわいいアクセサリーはみんなゴミ箱へ捨ててしまう。眠ろうとすると、あの黒い影が浮かんでくる。心が晴れないある日、ハルモニに呼び止められ、家に招かれた。

「アメリカに行っている間、わたしの子どもたちに水をやってくれないかい?」「はい、やります」、思わずうなずいてしまったが……。
ウンビは「黄錦周ハルモニ」をコンピュータで検索し、記事の一つひとつを読んでいくうちに、ハルモニの話を聞き取って、記録したものを見つけた。心をふるわせながら、話の中へ入り込んでいく。

本では「ハルモニの話 その1~その6」で実話がまとめられている。

慰安所をでた後、黄錦周さんは何枚かの板きれとムシロを組み合わせて、掘っ立て小屋を立て、両親を亡くした4人の子どもたちのお母さんになります。物乞いをしながら食べさせながら、一生懸命働き、クッパの店を出しました。子どもを産めない体にされた黄錦周さんは「こんなに良い子を4人も持てたなんて」と語っています。「くたくたになって帰ってきても、子どもたちの姿を見ると、疲れも吹き飛び、とても満ち足りた気分になります」と。

ウンビは自分が受けた性暴力から、ハルモニの怒りと心の傷の深さに気づいていく。アメリカから帰ってから体の弱っていくハルモニをいたわり、心を寄せていく。そしてウンビを見守る両親。

訳者の保田千世さんは1993年、東京のある会場で初めて黄さんの話を聞いてから20年近い間、黄さんと個人的な交流を重ねてきています。保田さんは「あとがき」でハルモニへの思いの限りを込めて書いています。

「黄さんは、いつでも、どこでも、先頭に立って抗議の声を上げていました。そんな激しい姿とはうってかわり、花を見ると、とたんに笑顔になります。家にも花があふれていました。故郷にも帰れず、一生懸命、育てた子どもたちにも迷惑がかかってはと連絡を絶った。花を一生懸命育て話しかけるのも、絶たれてしまった家族との関係性の代わりだったのです。謝罪状は『あなたは悪くない、恥ずかしくない』と社会的に認められた証です。黄さんは『謝れ!』と叫び続けているのです。『日本軍慰安婦』は歴史的事実だが、学校の歴史教育のなかで、きちんととりあげられていません。2011年10月現在、名乗り出た韓国人被害者234人中、生存者は67人になってしまいました。日本軍『慰安婦』ハルモニたちのことが、歴史の中に消え去る前に、この物語を10代のみなさんに読んでもらいたいのです。黄さんの手料理はどれもこれもとてもおいしかったです」
(中尾こずえ)

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