リアルポリティークとは国際政治の場面で、経済力、軍事力の現状に鑑み、いちばん現実的かつ合理的な道を、先入観、前例、慣習にとらわれることなく模索するような外交を指します。つまりイデオロギー(政治理念)に基づく外交戦略の対極に位置する概念です。

第二次世界大戦後の国際政治の舞台で、このリアルポリティークをいちばん華麗に実践してみせたのは、ニクソン大統領時代の国務長官だったヘンリー・キッシンジャーでした。かつて「権力こそが究極の催淫剤だよ」と言い放ったキッシンジャーは、太い黒ぶち眼鏡の、いかにもオッサン然とした風貌にもかかわらず、レディーキラーの評判を恣(ほしいまま)にしたのです。

彼がどんなにチャーミングだったかを物語る、笑えるエピソードがあります。ある日、仕事へ行く途中のキッシンジャーは突然、何者かにクルマの中に押し込まれ、過激派一味に誘拐されてしまいます。命を狙われたわけです。ところがアジトへ向かうクルマの中でキッシンジャーは「きみたちの言い分を、聞こうじゃないか」と心を開きます。キッシンジャーが真摯かつ熱心にこの若者達の意見に耳を傾けたので、誘拐犯たちは感激の余り、目がうるうるになります。いっぺんにキッシンジャー・ファンになってしまったのです。それで誘拐計画を中止し、その後は彼の熱心な支持者に回りました。

キッシンジャーは「リーダーシップとは、必要であれば孤高の決断を貫くことが出来る資質を指す」と考え、これを実行しました。アメリカの敵であるコミュニストの中国と、ピンポン外交によって国交を回復したのがその好例です。当時、共産主義はアメリカ国民が最も忌み嫌う政治理念でしたから、その中国と縒りを戻すなんて有り得ないコトであり、アメリカ国内的には反発も多かったわけですが、冷静に考えて見ればデタントは誰にとってもトクな選択肢でした。

つまり現在の中国と米国の関係は、かなりの部分をキッシンジャーのアクロバット的な外交術や先見の明に負っているわけです。

残念ながらニクソン大統領はウォーターゲート事件で辞任し、アメリカの歴史でも1・2を争うぐらい不人気な大統領として歴史に刻まれています。その関係で、キッシンジャーの功績はアメリカ政治史の中ではちゃんとした評価を受けていません。

だから放っておけば、アメリカ国民は自然に「コミュニスト」とか「一党独裁」とかの紋切り型の発想に、こんにちでも直ぐに逆戻りしがちです。

言い換えれば、リアルポリティークはアメリカの政治風土にしっかり根付いていないということです。別の言い方をすれば、アメリカの外交はキッシンジャーに代表されるリアルポリティークと、アメリカ的イデオロギーに基づいた外交の間を揺ら揺らしているわけです。

それでは「民主主義サイコー!」というアメリカ的イデオロギーはいつ頃確立されたか? という事ですが、これはいろいろなルーツに遡ることができると思うので、ここでは「戦後体制」がどう打ち立てられたかの経緯に絞って書きます。

第二次大戦終了の翌年、1946年にウインストン・チャーチルがアメリカに来て「鉄のカーテン」演説を行いました。「いまやバルチック海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ひとつの鉄のカーテンが欧州大陸を横断して降りてしまっている。その向こう側の地域はソ連の勢力圏に組み入れられているのだ。ソ連は第二次世界大戦の報酬を要求しており、彼らのドクトリン(主義主張)を限りなく拡張することを目指している。だから脅威に晒されている国々には、早く自由と民主主義を確立しなければいけない」というのがその主旨です。

つまり冷戦の文脈で自由とか民主主義を最初に唱えたのは、アメリカではなく英国のチャーチルだったのです。

これに応えるかたちでアメリカ大統領のトルーマンは「内外の全体主義からの圧迫に対し、民主的制度、人間の自由を保持しようとするものには、アメリカが真っ先に支援する」という、いわゆるトルーマン・ドクトリンを宣言します。

そして1947年6月に国務長官のマーシャルがハーバード大学の卒業式で「欧州諸国が経済復興の具体的計画とその受け入れ態勢を整えさえすれば、米国はこれを支援する」という、いわゆるマーシャル・プランを発表します。そして米国は1951年までに120億ドルの援助を欧州各国に対して実行し、共産勢力の進出を喰い止めたわけです。

国務省政策企画局長、ジョージ・ケナンは雑誌『フォーリン・アフェアーズ』で「アメリカがソ連と仲良くやっていけそうもないのは明白だからソ連封じ込め政策を取るべきだ」という論陣を張ります。このジョージ・ケナンの考え方こそが第二次世界大戦後のアメリカの外交政策の礎となる基本コンセプトなのです。

この米ソの対立構造は、すぐに現実の国際政治の場面で試されることになります。


1947年12月、ロンドンで開催されていた四カ国外相会談が決裂し、ドイツ統一の見込みが立たないことが明らかになりました。そこで米・英・仏三国はドイツ内のこれらの国々が占領している地域の経済的自立を見切り発車で進める決意を固め、ドイツ・マルクを導入します。

これに対してソ連は飛び地になっていたベルリンに向かう、西側からの道路を全部封鎖してしまいます。いわゆるベルリン封鎖です。

当時、ベルリンは西ベルリンと東ベルリンに分かれており、西ベルリンの市民は兵糧攻めに遭うことになってしまったのです。このため西側三国は27万回にも渡る空からの物資運びこみで、西ベルリンの市民が餓死するのを防ぎます。いわゆる「ベルリン大空輸」です。このときは合計234万トンの物資が、45秒毎に着陸する貨物機のリレーで運び込まれました。

結局、ソ連のこの兵糧攻めは失敗し、西ドイツはドイツ連邦共和国として、東ドイツはドイツ民主共和国として二つの国家になります。これに相前後して米国議会を通過したヴァンデンバーグ決議で米国は欧州諸国と相互援助条約を結び、第一次大戦、第二次大戦勃発時にアメリカが見せた孤立主義から米国が完全に決別するきっかけとなりました。この時以来、こんにちまでアメリカは積極的に国際政治に関与し、その方向性に率先して働きかけるスタイルが続いているわけです。

アメリカの外交のDNAを決定づけるもうひとつの大事件が、今度は極東で起きます。それは1950年6月にそれまで暫定的に決められていた北緯38度線を破って北朝鮮の軍隊が南に攻め込んできたことです。北朝鮮はわずか三日でソウルを制圧し、釜山まで米・韓軍を追い詰めます。

朝鮮を独立国にすることは既にカイロ宣言で決まっていたことなのですが、ドイツの例と同様、ここでも朝鮮の処理をめぐり米ソが対立します。米国はソ連との交渉を諦め、国連にこの問題を持ち込みます。国連ではソ連の反対にもかかわらず国連朝鮮委員会が設置され、この委員会が南朝鮮だけで選挙を実施、1948年に大韓民国が成立します。これに対抗してソ連は北朝鮮を朝鮮民主主義人民共和国として独立させます。こうして米国、ソ連がそれぞれ朝鮮半島を去った後に、1950年の侵攻が起こったわけです。

このときソ連は国連安全保障理事会をボイコット中だったので、国連は「北朝鮮は38度線まで戻るように」という決議をソ連欠席のまま可決します。

さて、釜山まで追い詰められた米・韓軍ですが、その後アメリカを中心とする国連軍の増援を得て盛り返し、逆に38度線を超えて北朝鮮に攻め上がります。中国の国境近くまで北朝鮮を追い詰めた時に、今度は中国軍が北朝鮮の支援に駆けつけ、戦争は38度線を跨いで膠着状態になります。

日本はこの戦争を通じてアメリカ側の補給基地となり、特需の受注で好景気を迎えます。しかし当初の戦況からもわかる通り、一時は朝鮮半島が全部共産軍に制圧される可能性もあり、日本の安全保障を考えることは火急の課題だと痛感されました。

対日講和の話し合いはドイツ、朝鮮の問題と同じく、当初米ソの対立で調整がつきませんでした。しかし朝鮮が戦争状態になったことで兵站の補給センターとしての日本の重要性が増し、日本を一刻も早くアメリカの味方にする必要が出ました。サンフランシスコ講和条約が1951年に調印されたのはそのためです。またインド、ビルマが欠席、ソ連、チェコ、ポーランドが講和条約へのサインを拒否したのも、そのような事情によります。

当時、日本では「全面講和か、単独講和か?」という議論がありました。全面講和とはソ連、中国までも含めた全ての国々との講和を求める考え方で、単独講和とはアメリカを中心とする国々とだけ講和するというアプローチです。結果的には単独講和になったわけです。日米安全保障条約はこのサンフランシスコ講和条約と同時に締結されています。

繰り返しになりますが、現代国際政治にはドクトリンやイデオロギーによって突き動かされる外交と、現実主義のリアルポリティークによって動かされる外交があります。建て前上、仲が悪い筈のアメリカと中国が親しくビジネスをしているのはリアルポリティークの賜物です。

ただ世の中全て、今後もリアルポリティークで動いてゆくとは限りません。実際、アメリカと中国が国交を回復したピンポン外交はキッシンジャーのアクロバット的なスタンドプレーによって実現したことであり、属人的な要素が強いです。残念ながらウォーターゲート事件のせいでニクソン政権の米国民の間での評価は極めて低いので、ちょっとのことでアメリカ人はステレオタイプ的なドグマに影響されやすいです。

アメリカにとって極東のフロントライン(前線)は38度線であり、尖閣です。そして日本はロジスティックス基地という位置付けは朝鮮動乱のときから変わっていません。

中国の意図はアメリカのフロントラインをグアムやハワイまで押し戻すことだと思います。そうすればロジスティックス基地を失うので、アメリカの補給線は逆に長くなるのです。