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「言葉のチカラ」失った朝日〜マスメディアよ、ジャーナリストたれ(3)

東本高志2006/12/20
朝日新聞には、もっと気骨ある報道を求めます。気骨ある報道とは、「ジャーナリストのペンによる戦いとはタイムリーなものである」、という自覚に基づく報道のことです。
日本 マスコミ NA_テーマ2
(前回記事:筑紫哲也さんの由布院盆地でのメディア批判〜マスメディアよ、ジャーナリストたれ(2)

 15日の夕刻、新教育基本法が成立しました。その瞬間、教育基本法に反対してきた市民、研究者、教育関係者たちは発する言葉も見つからず、しばらく凍てついていました。

 このとき、国会の外では、「教基法『改正』反対」の声が高まっていました。それは、衆・参の教育基本法に関する特別委員会の公聴会でも、ほとんどの公述人が今国会での成立に反対する意見を述べ、また、世論調査でも圧倒的多数が「今の国会にこだわらずに時間をかけて議論すべきだ」と回答している(例:NHK世論調査、2006年11月)ことからも明らかというべきでしょう。

 国会の中でも民主党、日本共産党、社会民主党、国民新党の野党4党がこぞって反対していました。だから、教基法「改正」に反対する市民たちは、いちるの望みを持っていました。それが一瞬にして打ち砕かれたときの無念ともいいようのない沈黙……。沈黙の性質は、そういうものだったように思います。

 しかし、ここ数日来、大マスコミ批判が再び堰を切ったかのような勢いで、ネット上やメーリングリスト上(いまや、市民の声を発する重要なツールというべきでしょう)を駆けめぐっています。それも、朝日新聞批判がずば抜けて多いのです。

 そのマスコミ批判の信号をどのように受けとめるか。政府与党には期待できなくとも、マスメディアの可能性には希望を持ちたい、という市民の(藁をも掴む思いの)期待値を示しているのかもしれません。大手マスメディアは、ほのかでもまだ市民からの期待が失われていないうちに、ジャーナリズムとしての“ウォッチドッグ”(権力に対する監視者)の役割に目覚めるべきではないか。ジャーナリズムの本来の「言葉のチカラ」(朝日新聞「ジャーナリスト宣言」から)を取り戻すために。

 これまでの2つの記事「教育基本法〜マスメディアよ、ジャーナリストたれ」および「筑紫哲也さんの由布院盆地でのメディア批判〜マスメディアよ、ジャーナリストたれ(2)」では、「大新聞」、「大メディア」という用語を使い、朝日新聞を名指しで批判することは避けましたが、実のところ、同紙批判を主要なモティーフとしていました(もちろん、文脈から「朝日新聞」批判であることは隠しようもありませんでしたが)。しかし、今回は直截に「朝日新聞」批判をしようと思います。下記に見るように、同紙に対する市民の怒りはそれほどに強いものでした。その怒りは、私の怒りでもあります。

 私は幾種かのMLを通じて、みんな(まっとうな市民)の怒りに触れたとき、この怒りをもっと「公共」(国、官、政府などを意味する「改正」教基法にいう「公」とはもちろん違います)のものにする義務のようなものを感じました。また、この怒りを愚痴のようなものに終らせてはならないと思いました。私ごとき者が「義務を感じる」とはおこがましい限りですが、まっとうな怒りを聴いて、そのままにしておくことができない市井の市民の、ほんとうにちっぽけな正義感のようなもの、といえばよいでしょうか。

 朝日新聞は、新教育基本法が成立した翌日の朝刊(12月16日付)1面で、「『個』から『公』重視へ」という見出しを掲げ、「戦前教育の反省から『個の尊重』をうたい上げた同法だが、制定から59年を経ての初改正で『公の精神』を重視する方向に転じた」と同法「改正」を批判的に報じました。また社説でも「教育は『国民全体に対し直接に責任を負って行われる』と定め、国の介入に対しても歯止めをかけている。その文言が『法律の定めるところにより行われる』と改められた。現行法とはちがって国の教育行政に従え、ということになりかねない」と「改正」教基法に対して批判的でした。

 にもかかわらず、教基法「改正」問題に関して、ネット上では市民からの「朝日新聞よ、なぜもっと政府法案に反論しないのか」という同紙批判が絶えません。15日の教基法「改正」以後、その批判は増加さえしています。

 その市民の「朝日」批判はたとえば次のようなものです。

■例1:Uさんの声(某ML1より、12月17日)
 「自分も16日の朝日新聞の朝刊を見て1面トップに教育基本法のことが載っているのを見て、だんだん怒りがこみ上げてきて朝日新聞に電話をしました。なぜ今日の記事のように、改正案が成立する前に報道してくれなかったのか、と言いました。そしたら、広報担当の人に変わって自信無さげに「報道はしていましたよ」と言ってましたが、私が言っているのは今回のように大きく記事にしてくれていたら、世論も大きく動いたと思うんです。と言いましたら、黙っていました」

■例2:Kさんの声(某ML1より、12月18日)
 「去年私は朝日に30回以上電話を入れたと思いますが、今年は減りました。(略)朝日を読み続けるよりも、人の布陣が出来ないと嘆いている毎日の方を応援したい、と思うようになりました。12日の毎日夕刊を読むと記者名入り記事で「こんなことでいいのだろうか」と。朝日ではとんと見かけない自由闊達な文章です。(略)朝日はここ何年もご存知のように「両論併記」がやたら目に付き、記者の気持ちが出ている記事などごく少ないです。(略)「コトバの力」とコピーを掲げるのは、まさに言葉の力を信じていないからだ、と」

■例3:Iさんの声(某ML2より、12月18日)
 「私は(30年以上愛読していた)「朝日」に愛想を尽かせて、2年くらい前のNHKとの虚偽報道問題のやり取り以後「毎日」に替えました。「毎日」は社説以外は大体署名記事で、特に「記者の目」は率直に自社の記事に対しても批判を投げかけたりして面白いです。(略)ともかくこちらの集会やデモ(パレード?)のことなどは全く報じないのはどの新聞も同じで、メディア全体が自主規制だか何だか偏っていることを実感します」

 上記については、フリージャーナリストの山崎克己さんの次のような証言もあります。
 「ある時、大手新聞社の論説委員と話しをした時に、『なぜメディアは取材に来ながら、報道しないのか』と尋ねたところ、『所詮デモにしろ、集会にしろ全部動員されているのだろう。答えが決まっているものにはニュース価値が無いし、トラブルが起こればニュースになるが……』と言われた。果たして憲法9条に反対する市民の集会や、教育基本法や共謀罪に反対する集会(略)が、本当に動員でなされているのだろうか。メディアの目線と基軸の置き方が間違っているのではないのか。片寄った先入観で取材し、報道することは、結果として誰に奉仕した報道になっているのか、メディアは真剣に反省して考えるときが来ているように思う」(「憲法メディアフォーラム」より、12月4日「ご意見紹介 : ジャーナリズムは民意を捉えているか」

■例4:Mさんの声(某ML1より、12月18日)
 「実は、私は朝日新聞の読者モニターをしています。2週間に1度、『良かった記事』『良くなかった記事』を選び、それぞれ200字ほどのコメントを書くほか、紙面に関する意見や要望を出します。前回のアンケートでも、教育基本法などに反対する市民の活動を無視することは、真の民主主義の芽を摘み取る行為であり、教基法成立は、メディアに不作為の責任があると抗議しました。(略)今や、政治の腐敗は論う気もしませんが、メディアの路線を修正させることは必要だと思います。

 上記については、朝日新聞自体が「支持低下、自民に危機感」(西部版、12月13日付)という記事の中で面白いことを言っています。同記事によれば、「党総裁選で安倍氏独走の流れをつくった再チャレンジ支援議員連盟。12日の総会で、山本(編集部注:有二)再チャレンジ担当相は」「支持率が50%を割るとマスコミの批判は3、4倍になる。50を超すことをめざして頑張りたい」と述べたというのです。後述のもうひとりのMさんは、このちょっとした記事を正確に理解して、「マスコミは世論という風に吹かれなければ動かない(世論という風に吹かれて初めて政府を恐れずに批判できる)」存在なのだと喝破しています。

■例5:もうひとりのMさんの声(某ML2より、12月18日)
 「朝日は投稿者や識者の意見を借りて政府批判を展開するやり方を取ることが多く、記者や新聞社が負うべき言論リスクを彼らになすり付けています。もし、批判をするなら、教育基本法改正案に関する特集(2つの条文を並べて検証する等)を11月から自分たちで展開することもできたはずです。(16日の朝刊で騒ぐくらいなら!)」

■例6:覚え書きさんの声(「覚え書き」ブログより、12月15日:[新聞]朝日新聞にはガッカリだ!
 「この声明(注:教基法の「慎重な徹底審議を求める」東大教育学部教員23人の声明)が出されたのは、一昨日、12月13日である。丸2日以上たって、やっとWEB(注:asahi.com)に掲載された。なんでまた、一昨日の声明が今日の夕方に??
 どうして昨日の朝刊に掲載しなかったのか。なぜ昨日の夕刊に掲載しなかったのか。なぜ今日の朝刊に掲載しなかったのか。すごく不思議。朝日の記者はこの声明が出されたことを今日の朝刊の締め切りが終わるまで知らなかったのかしら。記者もデスクも無能ってことでファイナルアンサー?」

 もちろん、これですべてではありません。いま朝日新聞読者である、また、つい最近まで朝日新聞読者であった人からの同紙批判は、ここ一両日の間、私の目にとまっただけでも10指を超えています。批判に共通しているのは、例1に見るように「なぜ今日の記事のように、改正案が成立する前に(大きく)報道してくれなかったのか」という怒りです。その怒りに対して、朝日の広報担当は「報道はしていましたよ」と答える。

 ここにいまの朝日新聞の姿勢が如実に現れているように私には思えます。この広報担当者だけでなく、新聞記者を含む朝日新聞社員は、お役所サイドが流す「事実」、国会であったことを事後的に「知らしめる=統(注1、し)らしめる」ことが「報道」である、と心得ているようです。そこには、「メディアのいちばん重要な目的は、どの政府に対してであれ、一般大衆の側に立ってそれを監視し、日々疑問をなげかけること」(ピーター・ジェニングス)(注2)という視点、あるいは批評精神、権力に対する“ウォッチドッグ”としての役割の自覚など微塵も見ることはできません。

 上記に関連して、ルポライターの鎌田慧さんは、次のように言います。
 「新聞労連大賞や石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞の選考委員をやっていて感じるのは、調査報道が少なくなっていること。記者個人が時間をかけて取材し、それを読者に還元することも減っている。データを取るために記者を使っている。地方の記者にデータを集めさせ、それを本社でまとめるというような。新聞社が情報産業化している。本来、新聞は単なる情報ではないはずで、そこにはアクセントが加わるし、どんな記事を掲載するかの主観がある。客観報道を意識するあまり、かえって中途半端になって、読者の支持を失っている気がする」(「憲法メディアフォーラム」内、「直言38」ルポライター 鎌田慧

 私たちは、朝日新聞に気骨ある報道を求めています。前にも言いましたが、気骨ある報道とは、「ジャーナリストのペンによる戦いとはタイムリーなものである」、という自覚に基づく報道のことです。第4の権力として「一般大衆の側に立ってそれを監視し、日々疑問をなげかける」報道のことです。「朝日新聞よ、ジャーナリズムたれ」、「朝日新聞記者よ、ジャーナリストたれ」という批判は、朝日新聞を愛するゆえの声(It loves, but criticism of reason)、朝日新聞のポイント・オブ・ノーリターン(帰還不能)を決して望まない声でもあるのです。


注1:「知らしめる」は、「統治する」の意味もある(「旺文社 古語辞典」)。「統」の字は当て字。

注2:アメリカの三大ネットワークのひとつであるABCのニュース番組「ワールド・ニュース・トゥナイト」のアンカーを長年務めたことで有名。2005年8月に亡くなった。
 「言葉のチカラ」失った朝日〜マスメディアよ、ジャーナリストたれ(3)
朝日新聞大阪本社ビル(ウィキペディアより)

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