映画「小さいおうち」 - 日常の中で描かれる静かでリアルな戦争

山田洋次の映画『小さいおうち』を見てきた。ベルリン映画祭での黒木華の銀熊賞受賞のニュースがあり、それが動機づけとなって映画館に足を運んだ。山田洋次らしい佳作であり、戦争の描き方が素晴らしく、ぜひ見ていただきたいとお薦めする。要するに、言いたいのはそれだけだが、ネットの中に散らばっている幾つかの感想を読んでみたところ、どれも私が感じたものとは違うので、思いきって独自の解釈と解説を試みることにした。まず、大事な点は、この映画は原作とは違うということで、この点をはっきりさせる必要があるだろう。原作はあくまで映画の素材であり、物語そのものも原作の小説とは違う中味になっている。山田洋次が物語を作り変えている。だから、先に原作を読んで、原作のドラマが映画で再現されていると期待して見ると、きっと違和感を覚える結果になってしまうのだろう。原作を読んでない私が、このようなことを言う資格があるかどうか甚だ自信がないが、山田洋次が映画で見せている物語は、中島京子の小説とは別のものだ。大事なポイントから先に言うと - あくまでネットで知り得た情報だが - 原作では、あの日、タキ(黒木華)が時子(松たか子)の手紙を持って板倉(吉岡秀隆)の下宿に行った後、板倉は実際に時子の家(小さいおうち)を訪ねて来ている。時子と逢瀬している。この情報を知ったときは驚いたが、だとすると、映画と原作とは全く違う話になる。

映画では、板倉は時子の家には来ない。そして、タキが手紙を渡さなかったという話になっている。タキはなぜ板倉に時子の手紙を渡さなかったのか。そして、自叙伝に偽りを書いたのか。また、「長く生きすぎたのよ」と言って泣いたのか。この謎について、映画は明解な答えを示していない。大人であるわれわれは、当然、そこに一つの推理と洞察を働かせる。このドラマのエッセンスの部分である。だが、私が持った平凡きわまる推理を、ネットの中で誰も披露していなかったのだ。そのことに驚き、記事で感想文を書こうと思い立つに至った。結論を言えば、私の低俗で卑猥な邪推で恐縮だが、あのクライマックスの日、タキは板倉と関係を持ったのである。そのことを最初からタキは決意し、板倉に会いに行ったのであり、手紙を渡して家に来てもらうという提案は、板倉の最後の日を時子から奪うための計略だったのだ。つまり、奥様である時子を裏切り、板倉を時子から盗み取ったという真相だ。だから、裏切りの自責に苛まれて懊悩するのである。私は映画を見て、そのように物語の辻褄を合わせた。山田洋次は、観客にそういう想像を巡らせるよう誘っているし、不倫の三角関係が話のテーマだから、そういうストーリーなのだろうと納得する。何より、テレビ放映された予告CMが、そのような見せ方になっている。不倫と三角関係を暗示し、晩年のタキ(倍賞千恵子)が号泣する場面が挿入されている。

CMの時間は短いが、<小さいおうち>の中で不倫があったこと、どうやらそれが三角関係の縺れに発展して、女中(黒木華)が奥様(松たか子)を裏切るらしいことが仄かに暗示されている。そして、それはCMの視聴者(女性客)を映画館に誘う誘因(商品アピール)になっている。CMで一瞬だけ映る倍賞千恵子の号泣は、どう見ても過去の過ちへの呵責の号泣だ。そして、戦後に誰とも結婚しなかったという事情も、その推理を置くことで、贖罪として(あるいは戦後の関係の継続として)謎解きされて了解できるものである。と、そう私は解釈したのだが、ネットの感想を見ると、タキと板倉が関係を持ったのだという推理と想像を書いている者が一人もいない。手紙を渡さなかったのは、渡すと板倉が家に来てしまい、近所に悪い噂がさらに広まるから、それを恐れて渡さなかったのだとか、時子のためを思って手紙を渡さなかったが、そのために時子は板倉に会えないまま死ぬ運命になったから、だから申し訳なくて後悔で号泣したのだとか、何ともナイーブというか、プラトニックというか、行儀のいい中学生が作文で提出するような解説が並んでいる。どこにも、タキと板倉の関係を指摘し、裏切りのドラマとして観賞している者がいない。狐につままれたような感覚になった。無論、山田洋次は具体的な説明をせず、自由な解釈を許しているから、どのように解釈してもよいのだが、何となく、ネットに匿名で書き込みをする若者一般の精神の幼稚さと関係があるのではと思った。

山田洋次は、原作よりも、もっと登場人物を俗っぽく仕立てているのである。例えば、時子(松たか子)の夫の平井(片岡孝太郎)は、原作では性的不能者で、時子との間に夫婦の関係はないのだそうだ。映画ではその件は説明されていない。もし、その事実が説明されていれば、観客は時子にもっと深く内在し、時子に感情移入して物語を追いかけたに違いない。山田洋次の描こうとする時子は、とても素敵な女性だけれど、やや軽薄な印象は否めない。板倉に恋心を抱いて行くプロセスも、常人よりは早走りしすぎている感があり、一般の女性は、このお嬢様を簡単には自己同一化できないだろう。少し距離がある。それは、山田洋次が作為的にそういうキャラクターに作り、松たか子に演じさせているのである。松たか子の演技は見事だ。吉岡秀隆が演じる板倉も、原作よりも茶らけて浮ついたキャラクターに作られている。この映画へのネットの感想で最も多かったのが、板倉役の吉岡秀隆に不具合を感じたというものだった。私もその意見に基本的に同意だが、山田洋次が描いている板倉は、原作にあるような繊細な芸術家の人格ではなく、極端に言えば、ふしだらな女たらしの遊び人なのだ。板倉をそういう男として捉えると、最後の日に、タキと板倉が情事したのだという深読みに説得力が出る。3人とも、倫理的に若干の問題性を孕んでいるのである。逆に言えば、ごく普通の人間なのであり、普通の人間が戦争に巻き込まれていく過程を山田洋次は描いて見せている。

戦争の描き方の見事さには舌を巻いた。当然ながら、私は、山田洋次が戦争をどう描いているかを確認しに映画館に行ったのであり、それを堪能するために料金を払ったのだが、値段に十分に見合うすぐれた内容に感心させられた。絶品だ。戦闘の場面は出ない。政治の現場も出ない。基本的に、家の中の会話と新聞の見出しだけである。平井(片岡孝太郎)が重役を務めるおもちゃ会社の社長や社員たちが、応接間でする男たちの話を通じて戦争の時局が語られて行く。その脚本が素晴らしい。おそらく、原作をベースにしながらも、山田洋次が一語一句を丁寧に彫り刻んだのだろう。「近衛さんは頭がいいから何とかしてくれるさ」とか、「支那のバックにはアメリカがついているからなあ」とか、「アメリカに日本の強さを教えてやればいいんだ」とか、印象的な台詞が幾つも飛び出る。その当時の東京の中流家庭で、戦争の時局がどう語られていたのか、どんな政治談義がされていて、人々がどんな意識を持っていたのか、まさにリアルに実態が描き込まれている。満州事変は1931年、盧溝橋事件と南京事件は1937年。1930年代の後半まで、日本の国内は平穏であり、東京は繁華で、男たちは戦争景気を夢見て浮かれ、中国での戦争もすぐに片づくと楽観していた。近衛文麿は、国民に人気のある宰相だった。それが、1930年代末を境にして、急速に様子が変わり、暗雲が垂れ込め、経済も生活も悪く悪くなって行くのである。東京の普通の庶民が経験した戦争というものが、本当に写実的に描かれている。

ベルリン映画祭では、黒木華に主演女優賞が贈られたが、本当は、審査員が評価したのは作品そのものだったのだろう。さすがにベルリン映画祭だ、知的レベルが高いと溜飲を下げさせられた。撮影されているのは小さな家の中のシーンばかりで、登場人物も決して多くない。舞台演劇を思わせる作りになっている。インテリ好みの映画だ。ネットの匿名の感想を拾い読んでいると、やはりと言うか、山田洋次の戦争の描き方を揶揄する右翼のものが多かった。ネット掲示板の匿名の書き込みは、基本的に右翼が意見する広場になっていて、右翼の主張と雑談がスタンダードだ。そして、彼らの政敵である山田洋次の歴史の描き方に対して、左翼的偏見の為せる業だと袋叩きするのである。この映画は、正面から声高に反戦を言い上げる形にはなってないが、明らかに戦争が悪であることを教え伝える映画である。山田洋次のメッセージもそこにある。匿名右翼たちの感想を読みながら、どうにも彼らの感性が理解できず首を捻ってしまう。これは、単に戦争の悲惨さを教える歴史の一般論ではないのだ。過去の話ではなく、現在を映し出しているのであり、戦争に近づくときや戦争が始まった後の一般の様相を見せ、これからこうなるぞと警告している作品なのである。映画を見た者が感じなければならないのは今の日本であり、察知しなければいけないのは、空襲で焼夷弾が落ちて家が焼ける破滅が、われわれの未来ではないかという問題なのだ。ところが、ネットの匿名右翼の揶揄と罵倒は、この歴史を現在と重ねる視点や感性がまるでない。

中国と戦争を始めたら、核戦争にエスカレートし、核ミサイルが東京に着弾するかもしれないという恐怖を思うことがない。山田洋次の映画作品を、憎むべき仇敵の左翼文書(左翼の歴史認識)として貶め、嘲笑い、唾を吐きつけて喜んでいる。罵倒が目的なのだ。朝日新聞への罵倒フレーズと同じように、マニュアル化された左翼批判の汚い罵倒を浴びせ、侮辱し、言語の政治暴力を加え、政治目的を達していい気になっている。戦争の惨禍から自分は自由でいられると思っているのか、そのことが、あらためて不思議に思われて仕方がない。まさに平和ボケそのものではないか。



by yoniumuhibi | 2014-02-19 23:30 | Trackback | Comments(1)
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Commented by 今井政幸 at 2014-02-19 21:23 x
鶴太郎。 Name ねこげんき。@言論弾圧 2014/02/19(Wed) 19:18 No.31316 [レス・レス表示]
ダレか、おしえてあげてほすい。

鶴太郎じゃないよ。孝太郎。歌舞伎のヒトだから。

世にナントカの日々。
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