・「持たない生活」と「場を複数持つ」ということ - Future Insight
モノ→コトへの感覚変化についての考察かなーと思って期待して読んだが最終的には
「場を複数持つ」ということに直結しているのかな、と。つまり、現在は持たないことで得られる移動しやすさが、「場を複数持つ」につながっていくフェーズなのかと感じています。という漠然とした感触で終わってしまって少し残念に感じたんだが、この
モノ(モノを集める所有する)→コト(モノを持たない、体験を重視)
という感覚変化は、世代間の価値感覚差にもあるのかなと最近考えてる。
そこで時系列でモノ→コト変化を考えた。
※以下、長いので面倒な人は適当に読み飛ばしてもらってもいい
しらけ世代
例えば、リンク先記事に出てくる高城剛は1964年産まれ。いわゆる「しらけ世代」とか「新人類」とか呼ばれる1950年-1964年。
団塊世代での高度経済成長や学生運動などが少し落ち着いた時代に生まれた消費世代。
この世代の価値観は「モノ」
サブカルの隆盛もこの世代が担い、みうらじゅん(1958年)いとうせいこう(1961年)泉麻人(1956年)山田五郎(1958年)大塚英志(1958年)岡崎京子(1963年)内田春菊(1959年)桜沢エリカ(1963年)。
デマの人が叫ぶ「サブカルとは大槻ケンヂの事である」の大槻ケンヂ(1966年)は少し遅れバブル世代の頭に入ってるけれど、1963年生まれの先輩KERA(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)がナゴムに引き込んでる*1。
団塊世代は、モノ>コトで、モノを所有することがステータスだった。
車、カラーテレビ、クーラー。
便利な家電や車は豊かな生活の象徴。社会が戦後復興へ向けて一丸となり、そして若い世代は社会意識を持って学生運動に身を投じた。
田舎から都会へと出てくることで単身者が増え始める。
ところが高度経済成長が落ち着き、あさま山荘事件(1972年)などが起きる。
学生運動は下火になり、ヘルメットとゲバ棒は必要なくなった。
社会は安定し1970年代のいわゆる「一億総中流社会」
フォーク、ノンポリ、しらけ、そしてバブルが始まる。
バブル
拝金主義、土地転がし、ジュリアナ東京。宮崎学の書くバブル時代の話が面白いのだが、この時代にモノは溢れ大量消費し、人々は安寧した生活の中での中でただのモノではなくモノに対してさらなる付加価値を求め始める。
そこでモノに「他とは違う」と言う付加価値…ブランドと言うものを求め始める。
1980年代、好景気の中でワンレンボディコンのイケイケギャルはトレンディドラマみたいな恋をして、荒木師匠などが登場。岡本夏生も丸坊主にしてなかった。
1984年に堀江しのぶがデビュー。グラビアアイドルも全盛期を迎える。
肩パット入りのスーツ、ダブルブレストのジャケットを着て。
ホイチョイプロダクションなんてのもいたっけ。
バブル崩壊
そして1991年バブル景気は崩壊する。不動産価格、株価が一気に暴落。世間は一気に不景気に突入。
倒産が相次ぎ、氷河期世代と呼ばれる時代が始まる。
この頃団塊ジュニア(1971~74年)、ポスト団塊ジュニア(1975~79年)と呼ばれる世代が社会へと出て行くが不景気に冷え込み就職氷河期。
幼いころにバブルを見ているがその恩恵にあずかれず、モノの価値の崩壊を目の当たりに見ている世代。
ちなみに宮崎勤は、1962年生まれのしらけ世代。
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を起こすのが、1988~89年のこと。
これを切っ掛けにオタクへの風当たりが強くなり排斥が始まる…んだがそれは別の話(メディア効果論)。
そして90年代末期に今度はITバブルが起きるも2000年には収束。
2006年のいわゆるライブドアショックを契機に株価は下落傾向へ向かい、続けざまに2008年世界金融危機が起き世界的な不景気にまっしぐら。
価値への不信
今やアベノミクスやなんだかんだで依然と比較すれば少しは持ち直したもののもはやバブル時代のような狂騒は無く(六本木ヒルズの秒速で稼ぐアブナイ方々は除く)、アメリカでは99%運動が起きたように、日本でも一億総中流などは夢で、持つ者と持たざる者はハッキリと別れ、一方では若手起業家がヒルズで豪遊してるかと思えばネットカフェで寝泊まりするネットカフェ難民がいる格差社会が出来上がっていた。そういう近代の「バブル崩壊後のモノの価値への信頼の崩壊」を狙ったかのようにやましたひでこの「断捨離」がヒット。2010年の流行語大賞にもなる。
モノを持たない事、シンプルにする事。
それが貴ばれる時代の到来。
「「持たない生活」と「場を複数持つ」ということ」記事で挙げていたファッション誌POPEYEは、2012年6月業を期にそれまでの従来型のファッション誌(スナップ&カタログ的要素の強い)方向から、かつてのストリートカジュアルスタイルのノウハウ提案型雑誌へと変貌した。
2012年5月「退化の改新」を行ったPOPEYE。アメリカの古くさいクラシック (トラッド、ヘビーデューティー)がモード族を打倒して始めた一大改革です。 モード族祐真氏を滅ぼした木下氏は「シティーボーイ」を即位させ、 自らは編集長として実権を握りました。オーセンティック(トラッド・ヘビーデューティー等)の見直し、 上品なこなれ感(着崩し・引き算・ネタ化のファッション)の演出、 ライフスタイル・カルチャー情報の充実、それらをNAVERまとめのような今風のアーカイブ式でまとめ、 ブランド志向であるモード族の支配を否定して、「スタイル」の在り方を問いかけたのです。この従来のカタログ型誌面→モノ指向からスタイル提案誌面→コト指向への転換は成功し、POPEYEの売り上げは回復した。それがこれまでのあらすじです。新しさを求めてモードに飛びつくのではなく、 むしろバック・トゥ・ザ・'80s的で見方によっては退化しているとも言えますが、ベーシック、オーセンティック、スタンダードと呼ばれるようなスタイルを今風に改新、見せ方や切り口を工夫することで新鮮に見せています
Elastic:POPEYE4月号「シティボーイのABC’13」を読む、昨年との違いは?
イマドキではない「捨てる時代のコレクションスタイル」という「コト時代のモノ嗜好」を提案するのは、アンチテーゼと言うよりもその時代のパラダイムからズレているからこそ提案する意味があることで、PRODISMがかつてのHugEを思わせるアート色の強いフォト中心にモードを前面に出す誌面造りをしているのとは大きく異なる(本家のHugEは、モノ→コト転換を図るもハイカルチャーに固執したせいか従来の読者も離れ、新しい読者の確保も難しく見える)。
モノ指向のしらけ世代、団塊ジュニア世代あたりが読めば同じパラダイム上なので懐かしく感じると思うけれども。
話がズレたので本道に戻す。
無駄とリテラシー
スマートフォンやタブレットの流行によりインターネットがより身近になることで、物理的なモノの価値よりもネットでの評価→コトの価値はさらに重要視される傾向が見える。かつては「家を持ち」「家庭を築く」ことが目標とされていたが、今は核家族化が進み「モノを所有することで拘束される」ことを嫌い、個人が個人として自由を謳歌することが素晴らしいとされはじめているのかもしれない。
旧世代の自分みたいな人間は、モノ→コトという嗜好・指向は理解できてもそれを納得はできていないし、モノを持たないでシンプルにすることは素晴らしいかも知れないが、しかしモノを持つことでそのモノに「こだわり」「思い入れ」「想い出」といった数値化も言語化も出来ないパーソナルな「自分の生きた時間の証」が残ることもある。
「断捨離といって何もかも捨てられるひとは、それだけ何もない人生を過ごしてきたんだろう」ということを誰かが言ってたが、モノへの執着は確かに愚かに見えるが、執着しすぎないのもそれはそれでからっぽなものだろう。
モノ指向はムダが多い。
無数のムダなモノの中から重要な「モノ」を見つける。
ゴミであれなんであれその情報や知識を所有することを貴ぶ。
旧来的なデータベース型のオタク・サブカルは、それを体現している。
コト指向はムダを嫌う。
最近のネットを見ればわかるようにキュレーターは情報を精査しその「誰かがムダを排除した情報」や2chまとめやNAVERまとめなど「誰かがムダを排除した情報」を見ることが情報元になる。
しかしムダな情報の中からムダな時間を使い一つの有益な情報を探す際に無数のムダを見ることで学びリテラシーは養われ、何千のゴミ映画を観てその中から至高の作品を見つけ出すからこそ審美眼が養われる。
ムダを嫌い「○○がオススメする観ておくべき映画10」なんて記事を頼りに映画を観ても審美眼は養われないんじゃない気がする。
ムダな映画を観ることは本当に無価値でムダなんだろうか。
ムダは、本当にムダなんだろうか。
ムダなことは何かしら有益だったり、何かしら役だったりしないのか。