日本における中世期ともなると武士は太平を喫することになる道具としてその存在感を高めていく一方で、死生観についても生き残ってしまうくらいならせめて最後は華を散らすようにして死ぬことが美徳であるという観念へと変遷していくことになります。死ぬことが美しいものへと変えられていくことになる時代でしたが、それは武士だけではなく文学的に活躍していた人々にも独特の死生観を生むことになります。この頃日本においては『わび・さび』という美的概念が誕生した時代ともなっていたときでした、この頃になると俗世間から隠遁することを選んだ人々がその後の人生を歩んでいる中で書きとめた『隠者文学』でその変遷を読み取ることができます。
ここで語られている隠者として生きた人々の代表的な例としては鴨長明や吉田兼好などが有名な代表格となっています。中世以外では松尾芭蕉などもそんな隠者文学を記していた一人として数えられていると考えれば、納得がいく人もいると思います。彼らはその後の人生に対して自然と、自分が生きている環境の厳しさの中で感じ取れる美徳について絶対的なまでにしたがっていたのです。現代の日本人からすれば理解しがたい行動かもしれません、このような行動を起こせるような人はほとんどいないでしょう。隠者として生きることを選んだ人々を突き動かすものとしては、ひたすらに平安時代から続いている死生観の基礎ともなっていた無常観が動機となり、そして精神世界を支えるものとしては美と信仰の二つだったのです。
隠者達に対して共通している死生観としては虚ろ儚く散っていくことになる花鳥風月に照らし合わせて表現されていることが特徴的だといえるでしょう。分かりやすい例で言うなら桜でしょう、桜はその美しさによって多くの人々を魅了するが花を咲かせるのは年に一度、しかもほんの1ヶ月少ししか花を持たせることしかできないところを人に照らし合わせて読み解いていくことになります。当時だからこそ考えられることというものではありません、現代人である私たちにも隠者達のようなものを生み出すことは出来るかもしれませんが彼らの多くは絶対的な宗教的信仰心などに突き動かされているために、そのような絶対的に揺るがないものを持っていないことには素晴らしいものを生み出すことになるのかもしれません。
美意識というものは人それぞれ異なっているため、こうした隠者達が生み出したものに対して共感を持てる人とそうではない人と別れるかもしれません。一つの例として、隠者の一人として活躍していた『西行』が詠んだ句を例にして見てみることにしましょう。
津の国のなにはの春は夢なれや 蘆の枯葉に風わたるなり
この一句で何が語られているのかというと、現在の大阪にある難波にて感じる春は一切夢であると感じる中で、その夢を蘆の枯葉によって演出されているわびしさから感じ取れるということを意味しているのです。この句が最終的に意味するところには、死というものへの美的安心と繋がって行くのです。ここでいう夢というのは生者として終わりを迎えようとしている状況を表現しているのかもしれません。ですが西行もこの句を詠んだからといって死を恐怖しているのではなく、死を実感したことに対してむしろ花鳥風月に見られる美しさを感じ取っているともいえるのではないでしょうか。
人の死はそれほど儚いものだと認めながら、生というものへの未練はないということへとなっていくのです。それも全て無常観という、平清盛が説いたように中世の時代において死というものがわび・さびの中で美徳として扱われていることになっていたのです。日本古来の死に対する価値観こそ覆されることはないにしても、死を美しいものとして肯定してる姿勢については仏教による影響力がその一端となっています。但しあくまで仏教はきっかけだったのかもしれません、仏教という宗教が日本に広がることがなかったとしても日本人が死に対して恐れを抱くような考え方は生まれなかったかもしれません。
死ぬことを美しいものとして捉えている文化となっていたのは、その後に続く江戸時代にもその色を見ることができます。江戸時代になると武士の立場が弱くなる一方で町民が彼らよりも強くなるという現象が起きはじめる事になります。こうした影響によって一つの価値観が生まれることになります、それは『浮世』という象徴的とも取れるような観念が生まれることになります。この浮世とは『憂世』が元々の表現であって、仏教における穢土のようにネガティブなイメージを内包している言葉でした。しかしこうした考え方から幕府の時代を生きた人々は『儚いからこそ』厭うという発想へと至るのです、これは儚い一生であるなら刹那の間だけでも楽しく過ごしていこうという考え方へと変化していくのです。これについても無常観というものが根底にあってこそ考えられた概念なのでしょう、戦うことで散らす命を美しいと思う時代から、どうせ失うことになる命なら僅かな間だけでも享楽へと溺れることも悪くないと、そう思うようになっていったのでしょう。
この考え方において当時から察する最も代表的な例としては吉原などにおける遊郭が挙げられます。まさかとは思いますが、それは遊郭のシステムが仏教における考え方と非常によく似ているのです。遊郭ではお金を払えば誰でも遊女と遊ぶことができる、そこには当時から続いている身分など関係なく自分に不釣合いと分かっている相手であっても僅かながらの時間を過ごすことのできるのです。こうした点から遊郭を仏教における『浄土』へと見立てて、外の世界を煩悩といった様々なよくまみれの大地と仏教用語で表現されている『娑婆』と置き換えるのです。
これは外の世界に住んでいる人間だからこそ考えられる考え方ですが、遊女からすれば真逆の考え方を持っているのです。遊女となる女性はこの時代においてなりたくてなっている人もいるのかもしれませんが、大半は身売りされて遊郭へとつれてこられるのです。そして遊郭から抜け出すことも出来ずに見知らぬ男と体を重ねて、特定の人間に思いを傾けてもいけないため、度々表現されている『籠の鳥』という言葉を用いられるのです。
そんな遊女達からすれば遊郭こそ『娑婆』であり、外の世界こそ『浄土』という、人間らしい世界があると見ているのです。美しく着飾ることは出来ても、遊郭で生きるということこそ地獄であると考えられていたのです。こうした遊女達の目線は後に一般的な考え方として取られていくようになり、捕われている世界から見る外にこそ自由が待っていると肯定的に捉えられる意味合いで『娑婆』と表現されていくのです。
上記のように遊女達から見ると江戸の世に一般的な生活をしていた人々のような価値観を当てはめてみると、籠の鳥として一生を終えることになったとしてもせめてもの間だけ外の世界で自由を楽しみたい、そんな風に考えられていたのかもしれません。吉原で生きることは地獄にいることと同義、そう当時の女性たちも考えていたからこそ前述のような見方をするようになったのかもしれません。そしてここでも見られる『浮世』という考え方は通じるところがあるといえるでしょう。遊郭で自らの生きている時間を全て費やすことになるとしてもせめて一度位籠の外へと飛び出したい、そんな風に願ってやまない遊女たちが多かったのでしょう。まさに無常、そういえるのかもしれません。
自由を願っても決して逃れることの出来ない業となって、一人の人間として生きることも出来ないまま死ぬことになるならせめて一度くらい自由がほしいと、自らの不遇を受け入れつつも心のうちには願望だけを留めておくというのは非常に胸が苦しめられるでしょう。こうしてみる死生観の変容は日本においても、仏教の存在とその習合によってその価値観は深層こそ変化しないまま、表立ったところでその時代ごとに異なる死生観として再生されていくようになっています。
現代社会における死生観こそ多岐に渡ることになりますが、日本で生まれた人は日本らしいものを、その他の国で生まれた人々には古来から続く価値観を元にして生と死について永代悩んでいくことになっていくのです、逃げることも出来なければ避けることも出来ない運命のように受け入れていかなくてはいけないのでしょう。
輪廻などの死生観については様々な見解を巻き起こすことになるテーマとなっています。
世界的にどのような考え方となっているのか、世界各地に根付いている死生観について考察をしてみましょう