生という限られた時間を生きることでキリストと神との邂逅することになるという考え方をもっているキリスト教、仏教における輪廻という輪の中に戻ることで命の再生を受けることになる、日本神道のように死んだ後は子孫たちを見守る存在として神へと昇格することになるなど、どの宗教にも生死に関する概念が事細かにかかれています。人としてではなく、生物として生まれたことで生じる事になる命の限界というものを客観的に理解しており、また決して死という絶対的な結末を覆すことは出来ないことをきちんと知っていたことになる。それを思うと宗教的なものの考え方において、自然の摂理には逆らうことはできないと初めから分かっていたことになる。シュールといえばシュールでしょう、ですがキリスト教の中でも神を信じることで救われるなどと歌ってはいるものの、信じたからといって死から逃れる術を教えるといったことは教示に説かれていないのです。誰もが受け入れなくてはいけない終末点であること、それを受け入れて最期の瞬間まで逃走をやめない限りきっと神はその結果について答えてくれるとしているのです。こうして見ると理に適ったないようだということが分かると思います。
ですがこうした考えについて真っ向に否定するような概念、というより死という運命から逃れるために必死で抗おうとしている考えを持った人も世界各地の歴史において伝承として残されています。『不老不死』という言葉を聞いたことがある人はいると思いますが、奇しくも神への叛逆とも取れるような行いをしようとした歴史上実際に存在していた人物でも不老不死というものを手に入れようとしていたという史実が残されています。誰もがフィクションの中でしか考えたことのないものでしょう、憧れなどを抱いた人もいるとは思った人もいるかもしれませんがまさか本気で叶えようと行動する人もいないでしょう。今だからこそ笑ってそんなことありえないと強気に言葉を告げることは出来ても、時代の偉人達はそうした運命から逃れようと必死にもがいたという事実が残されているというのです。
こうした考え方について専門家などは馬鹿げていると一言で片付けています、しかし賢人達の中にはそうした考え方から感じ取れる死への恐怖というものも理解できたために真っ向からすべてを否定するようなものの言い方をする事はなかったといいます。死を得ることで神様と会えるということに希望を持っている傍らで、ひたすらいつか動かなくなる自分の寿命という刻限に怯えて生活している人もいたことを考えるとわからなくもないといえます。今の時代でもただ漠然と終点になる死という概念に恐怖を覚えないというのは嘘になります、誰でも死というものは怖いと感じるのは古代でも現代でも同じことなのかもしれません。
世界各地には不老不死についての伝承や神話が多く存在していますが、中には実際に存在していた人物が死を恐れるあまりに不老不死となる方方を探させるという逸話も残っていますが、ほとんどが食う相乗で語られていることばかりとなっているところも特徴的です。それだけ世界は死という運命に対してある意味で柔軟に対応していたということになるのかも知れません。では具体的にどの地域にどのような伝説が残されているのかということを、最も有名な話から順々に紹介して行きましょう。
輪廻などの死生観については様々な見解を巻き起こすことになるテーマとなっています。
世界的にどのような考え方となっているのか、世界各地に根付いている死生観について考察をしてみましょう