世界によって異なる死生観

輪廻という概念が存在しない国

死生観というものは多くの国に存在していますが、日本でも物凄く自然に語られている輪廻というものは元々は古代インドからその後仏教へと派生した考え方となります。バラモン教の教えを元にして仏教を初めとした多くの地域へと影響を及ぼすことになります、日本を中心としたアジア圏においては輪廻という考え方に対してある種の考え方を持っている人は現代でも多いといえるでしょう。それはアジア圏において死者のその後に対する扱いについても共通しているところがあります。

日本においてもそうですが、基本的に死んだ人の肉体は火葬されて遺骨を拾いますがこれは輪廻という考え方において肉体というものは霊魂、つまりは魂を入れておくだけのものでしかない為、平たく言ってしまえば肉体そのものがこの世から消えてもその次もまた人として、別人として生まれることができると考えられているのです。火葬することは日本においても基本的に行われている遺体の処理方法となります。

ただこうした考え方はあくまで古代インド的に輪廻というものについて一般的な考え方ではありますが、死者に対する扱いとしてはユダヤ教やキリスト教、イスラム教などとは大きく異なっているのです。

キリストの復活

死生観という考え方においてキリスト教においては人の死は墓場の中で永久的に過ごすのではなく、いつか来る最後の審判の時まで眠りについているだけだという風に考えられているのです。どういうことかというと、それは神の子である『イエス・キリストの復活』が鍵となっているのです。キリストが復活するとき、それは審判の日も近いということを意味しています。その日になれば全ての死せる魂は元の肉体に戻って蘇り、善行を行っていた人間は再び自分という生を歩むことになり、悪行を犯したの人間はその罪に見合った神の裁きを受けるために復活するといいます。ここで考えられている事は大きく輪廻という概念から外れていることは言うまでもないでしょう。死んでもキリストが復活すれば死んだときの人格で再びこの世に戻ってくることになる、だからこそ肉体を火葬するのではなく土葬して来るべき約束の日まで保存しておくという考え方に至るのです。

ではキリスト教において火葬をするというのはどんな意味があるのでしょう、それは誰もが知っている百年戦争におけるフランスを勝利へと導いた聖女『ジャンヌ・ダルク』から考察してみましょう。彼女は元々何の変哲もない農家の娘として生を受けましたが、ある日彼女は唐突に神の声を聞くことになります。神のお告げのままに彼女は神の願いを叶える為に、執行者として生きることを選んでいきます。そして激動の時代の中でフランスをたった一人で先導することで勝利の女神のように崇められます。

その後ジャンヌは異端審問会に掛けられる事になって、当時の信仰からあまりにも逸脱していることから火刑へと処されてしまいます。その後のジャンヌについては結果的に無実ということで事実上、カトリックの中では象徴的な聖女として崇められることになりますが宗教上の考え方としてはジャンヌがこの世に再び蘇ることはないと考えられています。

なぜかというと、それはジャンヌの壮絶な死に方ともなった火刑が大きく関わってくるのです。キリスト教などではほとんどの場合火葬が行われることはありません、それは最後の審判という約束の日を向かえるためとして、動かなくなった肉体を処分するということは何よりも禁止されていることでした。当時でも死刑とは肉体そのものを残すというだけに留まり、原形そのものを失うことになる火刑とはそれだけ、信仰上において重大すぎる罪、神の教えに背いた反逆者に科せられる刑だったのです。中世ヨーロッパーなどで異端者・魔女と称されるような人々が多く火刑に処されていたのも、審判の日を向かえるべきではない人間ではないという考えから生きながらの火あぶりという最期を迎えなくてはならなかったのです。

こうして考えるとジャンヌは今でこそその罪はなかったことになっていますが、肉体そのものは既に火葬されてしまっていることから今後彼女はこの世には復活することはなくなってしまったのです。そのことを嘆いた信者もいるかと思いますが、当時としては彼女の言葉が誠なるものだったのかと信じられる人も少なかったからこそ、そのような罪の償いを求められたのです。日本を含むアジア圏で平然と行われている火葬という遺体処理方法は、キリスト教などにおいては重過ぎる罪を犯したものが追うことになる罰となっているのです。

因果応報と輪廻転生

死は新しい人生の始まりを意味している筈だった

死を前向きに捕らえている考え方、そういった死生観を持っていた国としては古代エジプトがいい例でしょう。当時は死というものは新しい人生が始まると信じられていたということもあって、ファラオもまた自分が死んでも新しい時間を過ごすことになると考えていたと言います。古代エジプト神の一柱たる農耕神オシリスが復活したのと同様に自らも復活できると考えられたのは王たるファラオだけだと、古代では考えられていましたが時代を超えるごとにそれはすべての人々に共通している考え方だと思われるようになります。

また古代エジプトでも新たな生を得るためには肉体が必要であるため、ミイラ化することで保存しておく必要があると考えられていたからこそファラオを含めた王族達の遺体が棺桶の中でミイラのまま保管されていたのです。但し死者が冥界を越えて現世へと舞い戻るには数多の試練を乗り越えなくてはならないとも考えられていたため、無事に通過するための手段として死者の書という、古代文書が作成されたという歴史からも推察されているのです。

ここでも死者の肉体は処分するのではなく来るべき復活の日まで保管しておくという考え方が根付いているのです、日本を含めたアジア圏で行われている火葬とはその意味も重要性も明らかに異なっていることは確かでしょう。死生観の違いという点でもこれほど異なっていると、それについての研究が深くされているのも理解できるでしょう。

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スープ~生まれ変わりの物語~から見る、死生観について

輪廻などの死生観については様々な見解を巻き起こすことになるテーマとなっています。
世界的にどのような考え方となっているのか、世界各地に根付いている死生観について考察をしてみましょう

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