この映画作品のテーマとして取り上げられている生まれ変わりというものですが、脚本についてはとある著書を原作としてそれを元にして作られた映画作品となっております。真実か否かといったものは本人の価値観によるところは大きいと思いますが、実際に生まれ変わるという仏教の教えは存在していると確信して作中話を進めているので理解できない人もいるかと思いますが、長年の研究などを統計して作られて出来たのが森田健さん著の『生まれ変わりの村』という作品が、映画スープの原作となっているのです。
宗教上の問題だとは思いますが、仏教との人には非常に考察の価値あるものとなっていることは確かでしょう。原稿を書いている私個人としては輪廻転生という考え方については否定などの意思は見せていないので、もしかしたらあるかもしれないと思っています。ですが宗教的な観念で考えているのではなく、あくまで学術的な見解で考え方について認めているといったほうが正しいでしょう。信じるかどうかについてはまた別問題であって、この著書が偽典ということも断言したいわけではありません。一般的なものの考え方としてこういうところも存在していると、そんな客観的な目線で話を進めて行こうと思います。こういう話は宗教や個人の考え方が絡んでしまうと非常にややこしい話となってしまうので、相対的に話を進めていくことを、予めご了承ください。
著書は2008年に刊行された、今より少し前となっているときにこの世に誕生しました。その内容は筆者自らが中国奥地に存在している『生まれ変わりの村』という場所で7年もの間取材をした結果としてこちらの書籍を作り出すことになります。この村は実際に存在しているといわれており、そこに自らの足でそこまでいったことも書かれていながらひたすらに輪廻転生などを含めた生まれ変わりについて書かれています。実際に84人という村人達の話を聞いた結果として生まれ変わりは実際に命の循環の中に組み込まれていると表現されています。
なぜかというと、その村では一度死んだ人は離れた別の家で再度生まれ変わってくるといわれているのです。しかも生まれ変わった本人は前世での記憶を継続して有しており、死んだ前の自分を覚えているというのです。また、自分が死んだということを自覚しておらず、気付いたら死後の世界にいて、更に気付くと全く異なる自分として現世に戻っていたというのです。
当然そんな非科学的なことを信じるような時代でもありません、ですが本人からすれば前世で生まれた家を見ると鮮明に覚えているというのです。そうして生まれ変わりを経験している人はこの中国奥地にある村で何度もそうやって転生を繰り返し行っているというのです。では彼らはどうして前世の記憶を引き継いでいるのでしょうか。仮に輪廻転生が存在して、生まれ変わるということが可能だったとした場合でも、命を司る神が人間に前世の記憶を引き継いだまま生まれ変わることを許すだろうかと疑問に思うところです。
魂の循環というものが確かに不可視の話で行われているとした場合、魂はそれまでの人間の色から新しくする必要があります。その工程は絶対だと思います、なぜなら生まれ変わる人間の情報がそのまま継続してしまうのであればそれはもはやそこに生きているのはその人ではなく、前世で生きていた人が再生したという事実だけが残っているのです。命の営みとして考えたら摂理に反している行為だと考えるべきでしょう。似ていることはあっても当人ではない、それは命というものが摂理の中で管理されている中では必然的に重要なものとして考えるのが当然です。生まれ変わりが存在しているとしたら、それは摂理から反した存在だとみなすべきでしょう。こう考える人ももしかしたらいるでしょう、自然のシステムとしてあまりにも歪な村だと思えますが、実はこうした人々はそんなシステムから外れるようにこの世に舞い戻った異端の存在、そう言ってもおかしくないのです。
映画の中で語られている前世の記憶を全て忘れることで生まれ変わることの出来るスープとして搭乗しているスープ、こちらは作中オリジナルのアイデアではなくこちらの著書によって語られた『忘却のスープ』から取られているのです。ここで語られている忘却のスープというものは作中で話しているように、前世の記憶を忘れるために飲むものだと語られています。そして中国奥地に存在しているこの生まれ変わりの村で、生まれ変わったと証言している人々に共通していることとして、あの世でスープを飲まなかったというのです。
どうして飲まなかったのかという理由については、非常にまずいスープで匂いを嗅ぐだけでも抵抗が生まれてしまう、また子供の時に死んだからスープが配れているところまで辿りつけなかったというようなものだったりします。この著書の中で語られているこのスープの存在は間違いなく、前世での記憶を忘れて新しい命へと生まれ変わるために必要な儀式だったということでしょう。その行いから外れてしまったことで、その村では前世の記憶を引き継いだまま違う自分として目覚めてしまったというのです。
少しまとめてみると、
といった三つの共通点を持って記憶を継続しているというのです。
輪廻転生という考え方からすれば生まれ変わりとなると思いますが、命の循環から外れてしまっている人が辿りつく成れの果てというような印象を受けます。摂理からはみ出してしまったことで記憶を持ったまま生まれ変わってしまい、違う自分へと再生してしまったことを考えるとそれは非常に残酷なものだと思います。考え方としては確かにありです、人の記憶というものは形として残っているより、薄らぼんやりとした夕闇の中で漂っているときにふと思い出す程度に留める程度の方が、記録している情報に似た現象を知っているとその程度の認識でいられるような感覚でいられたほうが幸せだと私は思います。
信じるか否か、というよりは生まれ変わったことで違う自分へと再誕してしまったことを後悔してしまいそうな話だと感じます。
輪廻などの死生観については様々な見解を巻き起こすことになるテーマとなっています。
世界的にどのような考え方となっているのか、世界各地に根付いている死生観について考察をしてみましょう