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      満員のトレーラーバス火だるま 一瞬焦熱地獄に      
関連情報:三浦半島最大の謎を訪ねる〜林・お化けマンションの怪
事故続報入手!火災原因特定編
昭和25(1950)年4月15日・神奈川新聞
14日午前11時半ごろ横須賀駅発三崎行き京浜急行大型トレーラーバス =運転手三崎町日出 富田又吉(37)車掌大関のぶ代(19)同 鳥井はつ子(19)= が横須賀市林1800地先進駐軍武山部隊南門前県道にさしかかった際、突然後部客車内に持ち込みのガソリンに引火して忽ち燃えひろがり乗客中焼死者16名、重軽傷者31名を出した。急報により武山署並に地元消防団、進駐軍武山の将兵がかけつけ、負傷者は直ちに進駐軍部隊で応急手当を加えたうえ、横須賀共済病院に収容、また軽傷者は付近の交番および民家に収容した。


惨! 目を覆う現場 客車内のガソリンに引火

急報に接し記者(山口横須賀支局長)が現場にかけつけると定員54名の大型トレーラーバスが車内全部焼けただれ、道路側には焼死者の死体がおかれ全く大震災のころを想わせるに悲惨な光景で死体は衣類、頭髪などが全部燃えただれたため全く男女の性別を見分けることが出来ないくらいであったが、記者に、軽傷者のうち付近の交番に収容された三浦郡初声町下宮田 小田けいさん(42)、三崎町城ケ島 漁師浜名一郎さん(21)、東京都台東区根岸 自転車業石井辰之助さん(22)、三崎町原 無職奥田てい子さん(38)がこもごも語るところによると、客席の真中か少し前の方にこもをかぶったガソリン缶らしいものがおいてあり、車内は何となくガソリン臭かったが誰も気にとめなかった。ところが現場10メートル位手前で突然火を発し、あっと言う間に車内が火につつまれてしまった。それからは全く夢中でした。
といっており、全く瞬間の出来事だったらしい。
●ガソリンの突然発火は偶然か?●
三浦半島最大のバス事故だ。
記事中には焼死者16名とあるが、『横須賀市史』には
焼死者19名とあり、その後に死者が増えたということだろう。
ヘンなにおいに満員の乗客たちはうすうす気付きながらも気にしていなかったところに突然の発火・・・。しかもモノがガソリンで当時のバス内部は木造だったから、本当に
あっという間に地獄と化したのだろう。
日野のトレーラーバス
当時は車両不足の中で旅客輸送を増やそうと大型のバスが各地で導入された時期で、上の画像(日野製)にあるような最大96人が乗れるようなバスも登場していた。扉は2つで、車掌が2人乗車するタイプだ。京急の当時のバスもおそらくこの型だろう。
しかしこのような火災の中で、しかも前の方でガソリンが発火したとすればもうこの中はただの”
燃える箱”だ。出口は後にしかなく、窓からは逃げにくいのだ。満員の乗客たちが大パニックを起こしたことは容易に想像できる。
しかし、何でガソリンが突然発火したのだろうか?しかも”
現場10メートル位手前で突然”である。
現場は林ロータリー(現林交差点)を超えて三崎方面に少し行った、現在自衛隊少年工科学校前・・・そう、『
三浦半島最大の謎を訪ねる〜林・お化けマンションの怪』で紹介した場所なのだ。
工事途中のマンション廃墟が横たわるこの地は本当に怖い噂が絶えないが、そんな中でこれだけの大事故が、しかも現場直前でのガソリン発火である。何か
深い因果を感じざるを得ない。
現在、バスや電車にガソリンなどの危険物の持ち込みは法律で禁止され、さらにトレーラーバスはその操作性から1950年頃を境に急速になくなっていき、バスの非常口の整備は進んだ。
これらの改善は19名の尊い犠牲の上に成り立っているのだろうが、そもそもガソリンを発火させたのがこの地に潜む”
得体の知れない何か”だったら、それは時代を越えて、やっぱり怖い。
※参考資料:「新聞が語る戦後の三浦半島史」毛塚五郎・編
財団法人日本自動車技術会ホームページ
※記事中人名は全て仮名です。
事故続報入手!火災原因特定編●
このページをアップしてから、読者のSAWAGUCHIさんから、横須賀警察署側の貴重な資料を送っていただいた。これに火災原因が記されてあった。
戦後における管内林において発生したトレーラーバスの焼失事故は、最も悲惨だった。
この事故は、昭和25年(1950)4月14日午前11時35分ごろ、林5丁目11番地先の国道(134号)上において、京急バス三崎営業所のトレーラーバスが三崎方面に向かって進行中、乗客が喫煙のマッチを投げ捨てた。それが他の乗客の持ち込んだガソリンに引火し、爆発火災となり、これに気付くのが遅れた運転手がそのまま運転を続けたため風を受けたトレーラーは猛火につつまれたまま疾走するというまさに地獄絵図そのもののような事故であった。
この事故は、乗客40名中焼死者19名、重傷者多数という一大惨事となったもので、この際、当時の武山警察署長 田坂敏博警部の指揮の下に署員は、消火に人命救助に、そしてまた事件捜査に大活躍した。
その後、事故現場に殉難者供養塔が建立され、一般市民からも献花がなされ、薫香は絶えることがなかった。
この事故がもとになり、道路運送並びにに旅客運送関係法令が改正され、危険物の車内持ち込みが厳禁されることとなった。
「創立百年記念 横須賀警察署史」(編集・発行:横須賀警察署)より
乗客が投げ捨てたマッチの火が他の乗客の持ち込んだガソリンに引火・・・なんて恐ろしいんだろう。
投げ捨てたり持ち込んだりするほうももちろん悪いが、当時
そんなことができたこと自体が恐ろしい。
しかも右の画像のとおり、トレーラーバスは
運転席と客席が分かれているので、ガーガー音を立てて走っていれば後ろで何が起きたか把握できない。
トレーラーバスの前部
停留所に止まる時は車掌がブザーを鳴らして運転席に知らせたというが、こんな突発事故の時にパニックになればそんなことはできないかもしれない。
そして燃えさかる後部を尻目にしばらくバスは疾走してしまう・・・。
この頃導入されたトレーラーバスは、こういう構造的な欠陥をはらんでいた。『横須賀警察署史』の別の項にはこういう記述もある。
更に翌昭和25年(1950)には、ジーゼル車のトレーラーバスが出現したが、同年4月管内の林において、車両火災事故の大惨事を起こしてトレーラーバスは廃止となった。
1947年ころから生産が始まって全国に普及したトレーラーバスだが、この事故を境に急速に姿を消していったということだ。
さらに予想通り、この大惨事の後に法令が改正されて
危険物の持ち込みが厳禁になったという。
バスの欠陥・乗客の不注意・安全管理の不徹底・運転手の過失・・・
人災が人災を呼んで19人の命を奪い、そしてその貴重な犠牲が新しい安全を生んだ・・・。
得体の知れない何か”っていうのは、案外、何かと安全対策が後手に回ってしまう私たちの中に潜んでいるのかもしれない。

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2001.7.16