映画はAVをめざす
第25回 麻美ゆまの「桜姫」と「奴隷市」
2013年07月04日
麻美ゆまの闘病生活が東京スポーツにスクープされたのが6月6日(6月7日号)。それは衝撃的なニュースだった。地元の居酒屋で飲んでいる時、別の場にいた知人が競馬の予想のため東スポを買ってそれを知り、筆者へ一報してくれたので、隣のコンビニで同紙を購入し居酒屋のカウンターで読んでいたら若い従業員が背後に集まって騒然となった。絶句している者もいたことが、麻美ゆまの人気とニュースの重大さを物語る。居酒屋で忙しく働いている従業員が接客や調理の手を止めてニュースに集まるような場面は2001年の9.11に経験して以来だ(3.11は発災が午後で、当日は多くの酒場は休業したから)。
東京スポーツ(6月7日号)
病気に関して軽々しいことは言えないが、筆者には悪性腫瘍を克服した知人が何人もいるし、近年の医療技術の発達は充分信頼に足る。だから彼女には時間がかかっても復帰して欲しい。もちろんそう考えるのは筆者だけではない。多くのファンとAV業界、のみならず日本の映画界も、この希代のアイドル女優の復帰を強く待望しているはずだ。
なぜ映画界が?
実は彼女はAV業界や深夜テレビだけのアイドルではなく、ここ数年は日本映画にも大きな存在感と興行価値を持っていた。
それを証明するのが6月29日に封切られた映画『桜姫』である。
『桜姫』(2013年、監督:橋本一)
『桜姫』は日南響子主演、R15+指定の時代劇で、監督は『新・仁義なき戦い 謀殺』や『探偵はBARにいる』の橋本一である。大手スターダストプロモーション傘下のSDPが製作、東映京都撮影所が全面協力したパンク時代劇だ。歌舞伎の『桜姫東文章』を下敷きに、高家旗本の娘が遊女転落した因果と彼女にまつわる由緒ある巻物の争奪戦を描いているが、東映京撮出身の橋本監督だけに美術と撮影のコントロールが素晴らしい。撮影所文化は激しい衰退の一途にあり、まずは撮影所の機能を存分に使いきった映像を見られただけでもこの映画は価値がある(逆にその撮影所時代的な映像の構造が、現代映画のトレンドとの激しいギャップを感じさせもする。ただ、それは悪い意味ばかりではない。まあ、映画ファンはぜひ一見を)。
その映画『桜姫』の中で、麻美ゆまは主演の日南響子=桜姫と遊廓「ぢごくや」でライバル関係となるスケバン風遊女・お七を演じる。敵役での準主演という大きな役だ。
『桜姫』はR15+指定のベッドシーンがあるエロス映画だが、モデル出身の日南響子はお人形さん風の演技でフェティッシュな性感を表現する。これに対して麻美ゆまは勝ち気で伝法な性格の設定だ。遊女なのでひたすら荒っぽい演技をすればいいわけでもなく、男の前では猫なで声となり、女達者な客にはとことんイカされ、終盤の見せ場では大鎌をふるって暴れるアクションも要求されている。難しい役を、彼女はなんなくこなしている。
日南は非常に露出度は低いが濡れ場や入浴シーンはあり、その未成熟なエロスに満足する観客もいるに違いない。一方で麻美ゆまは全裸のセックスシーンはもちろん、多くの場面で過剰に裸を見せ、公開前にここぞとばかりに宣伝された日南との泥レスシーンこと、雨の墓場での水たまりの殴り合いのあとに、着物をバッと脱ぎ捨てて全裸でカメラに向ってズンズンと歩いてくる(局部にボカシが入るのは残念。ま、R15なのでいたしかたなし)。全ての観客がそういう方向を期待しているわけでもなかろうが、映画のエロス表現の中心にいるのは間違いなく麻美ゆまで、しかも彼女はキャラクターまでも柔軟に、過激に、そして豊かに演じきっている。エンドクレジット後の登場(が、あるので未見の方はエンドロール後も帰るべからずと進言しておく)を見ても、もしや監督は麻美ゆまへの興味が強かったんじゃないかとさえ思わせる。それだけ彼女は出番が多く、目立ち、存在感があった。
撮影はどちらが先なのかは分からないが、麻美ゆまは橋本監督の『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』(東映)にも出演しており、監督に気に入られていることは間違いない。ヌードシーンが必要だからということで起用されるAV女優はゴマンといるだろうが、麻美ゆまには明らかに別の誰かでは代用できない独特の演技力とセンスの輝きがあり、それゆえに橋本一はアイドル映画然と作れたであろう作品をパンキッシュに脱構築し、麻美ゆまのために役を大きくしたのではないか。そんなふうに思えるほど、麻美ゆまのオーラは強かった。麻美ゆまはもはやAV女優というカテゴリーで括れないタレントだが、最近まで超のつくほど激しいハードコアを演ずるAVにも積極的に出演していた。それは生身の肉体を使った演技である。
それなのに、いわば全てが騙し、疑似の芸ともいうべき映画撮影所で育った映画監督に認められることは、まるでコンクリートでできたジャンルのぶ厚い壁に穴が穿たれたような画期的な出来事のようにも思える。
『桜姫』の客席には日南響子や共演の青木崇高を見にきたのではないだろう、中高年サラリーマンが妙に目立った。それを見て筆者が考えたのは、ここ数年間の麻美ゆまの仕事で特筆すべき、愛染恭子との仕事の意味である。
愛染恭子はいうまでもなく80年代を席巻した“本番の女王”であり、武智鉄二の本番映画『白日夢』や、代々木忠の黎明期のAVなどで旋風を巻き起こした日本のポルノの偉人である。彼女は2000年以降、エクセス・フィルムなどピンク映画の監督業にも手を伸ばし、オリジナルビデオ(いわゆるVシネマ)も手がけた。ピンク映画系の資本ゆえ、また監督名のクレジットが営業上の主戦略であるがゆえに、多くは低予算で新味の少ない作品ではあった。ところが2010年、愛染は麻美ゆまを起用し『新釈 四畳半襖の下張り』なるオリジナルビデオを撮る。新東宝と竹書房が提携した、新しい形のピンク映画、というよりもロマンポルノの文芸路線を復活させようとした企画で、もちろん撮影所など使えるわけもなく、非常にチープなセットで撮影されている。
『新釈 四畳半襖の下張り』(2010年、監督:愛染恭子)
ところが同作は主演の麻美ゆまの力で、別の輝きを見せたのだ。麻美はそれまでのAVやVシネとは違った陰湿で物静かな古風な女を演じ、画期的な新境地を作り出していたのである。
『新釈 四畳半襖の下張り』は深川の枕芸者・麻美ゆまと放蕩三昧の若旦那(石川ゆうや)が狭い和室でひたすら体を重ねる、ほぼそれだけの内容だが、麻美ゆまの見せる表情、しぐさが実に安芸者のそれっぽく、また素に近い薄いメイクの彼女に容赦なくカメラが寄って、夜の女の妖しさをうまく表現していた。
この作品の成績が良かったのだろう。2011年に再び愛染監督、麻美主演のコンビで『阿部定 最後の七日間』が作られ、映画としてピンク系劇場で公開された。さらに翌12年には“団鬼六最後のSM小説映画化”と銘打たれた『奴隷市』が完成。すでにこの時、愛染・麻美コンビは定評があり、都内で封切られたのは3月で閉館した銀座・三原橋の地下劇場、シネパトスだった。
『阿部定 最後の七日間』(2011年、監督:愛染恭子)
シネパトスは80年代以前は「銀座地球座」「銀座名画座」といい、成人映画専門に上映していた棟続きのコヤだった。地球座がロマンポルノやミリオン系ピンク、名画座が洋物ポルノ、いわゆる洋ピン専門館として、サラリーマンの休憩場所、あるいは終業後の憩いの場として賑わった。80年代中盤になるとAVブームのせいで成人映画は大きなダメージを受け、ことに洋ピンは無修正の裏ビデオ(アメリカ版ビデオのコピー)が大量に出回ったせいで、巨大な修正の入った検閲済みフィルム作品はまったく客が入らなくなった。
そこで85年、2館は「銀座シネパトス」と看板を替え、ヒューマックスやジョイパックがビデオ発売のために劇場公開するB級洋画の封切館となったのである(同館のスティーヴン・セガール作品封切館という位置づけはここにルーツがある)。
80年代中盤、AVのパターンが美少女主演のドキュメント形式に定着すると、もう少し成熟した女性を主役にソフトなポルノが見たいという中高年層のニーズが生まれ、シネパトスはヨーロピアン・エロス映画など、フィルム撮りのソフトコア作品も上映するようになり、そこにAVともピンク映画とも違うジャンルが生まれた。
日本映画にも石井隆が監督した『花と蛇』シリーズのような中間エロス映画があり、シネパトスは中高年のエロス映画ファンという新しい客層を作ったのである。
『奴隷市』はピンク映画50周年特集として、そのシネパトスで上映された。そこでソフトコア的な作品を愛する中高年層が麻美ゆまの新鮮な和服美に魅了された可能性がある。
想像だが、おそらくその『奴隷市』上映で麻美ゆまを知りファンになった観客が『桜姫』の上映にも足を運んでいるのではなかろうか。筆者には渋谷にあるシネパトスとはまったく雰囲気を異にする劇場でそれを見たが、観客たちにシネパトス的な中高年の“パトス”=情念を感じたのだ。それは麻美ゆまの磁場によってつくらえたのではないかとも思える。
『奴隷市』(2012年、監督:愛染恭子)
『新釈 四畳半襖の下張り』や『阿部定 最後の七日間』『奴隷市』のような作品は実は映画として作られる意味はほとんどない。なぜならFAプロや川崎軍二、伊勢鱗太朗などのAV制作者が同じような設定・文法のAVを大量に撮っているからだ。だからそうした作品に麻美ゆまが出演していれば、映画以前にすでに彼女の新境地は完成していたかもしれない。ところが出演契約の縛りなどがあったのか、それとも単なる偶然か、そうした作家と組んだ映画的スタンスの作品は撮られることがなかった。
ただ筆者はこうも考えたい。
Vシネや劇場公開作品で、麻美ゆまの新境地が開拓されたのは、それは“映画”という力場に麻美ゆまが引き寄せられた結果、あるいは映画のほうが麻美ゆまという才能を欲した結果なのではないかと。そのような互いの吸引力・求心力が作用しあって果たされたとしか思えないものがある。
麻美ゆまはこの愛染恭子との3部作によって、まったく新しいエロス映画を作ったといってよい。AVとはまるで違うスキルで演技する彼女は、まさに映画女優だった。おそらく出演すればするほど、麻美ゆまは映画女優として洗練されていくはずだ。だからこそ、今後も麻美ゆまの映画は作られなければならない。麻美ゆまには日本映画の新しい可能性がある。そのことを胸に念じ、彼女の復活を待とう。
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