逐 条 批 判 編
前文について
「一、日本国民は、悠久の歴史を通じて・・・・・国づくりを進める」とあるが、これは法規範を表現したものというよりも、ただ、客観的に事実を叙述ないしは記述したものと受け取られる虞がある。同様の表現は、「一、日本国民は、・・・・の確保に努める。」、「一、日本国民は、・・・・尊厳ある国づくりを進める。」、「一、日本国民は、・・・・心の拠り所としてきた。われらは、・・・・国づくりを進める。」とあるが、やはりこれらも「法規範」を表現したつもりであろうが、事実を単に記述したにすぎないと解される虞がある。このような表現は現行憲法の「前文」にも見られるところであり、その表現様式に倣ったもののようであるが、法規範(条文)の表現形式としては、例えば、「・・・確保に努めるものとする」とか「・・・確保に努めなければならない」、「・・・国づくりを進めなければならない」、「国づくりを進めるよう努めなければならない」、「国づくりを進めるべく努めなければならない」のような表現をすることの方が好ましいのである。
もっとも、現行憲法の「前文」には「法規範性」が有るのか否かということは従来から議論のあるところであり、これには、全く法規範性を否定する考え方や、裁判規範性は認めないが、法規範性までは否定しないという考え方等があり、このような論争のあることを踏まえた上で、本憲法草案の起案者は、「法規範性」を否定する意図でもって「前文」を前述のように、ことさらに「客観的な事実の叙述ないしは記述のような表現」をしたものと考えるべきなのであろうか。
なお、この前文は「一、 ○○○」、「一、 ○○○」、「一、 ○○○」、「一、 ○○○」、「一、 ○○○」、というように五項目の「決意」内容を掲げて宣言しているが、「前文」も「法文」の表現方式を採ることが望ましいと思われるのであり、それには「項建て」か、又は「号建て」のいずれかが良いと思われる。本前文においては、「号建て」にして、五つの「一、」を初めから順番に「一 ○○○」、・・・・・、「五 ○○○」と表現すべきである。この点、現行憲法の「前文」は、旧来の立法形式に従って「項番号」は附してないが、明らかに四つの段落から成り立っているから、これは、第一段落とは「第一項」のことであり、従って、日本国憲法の「前文」は第一項から第四項までで構成されている「項建て」なのである。
第一条について
第一項は、現行憲法第一条をほぼ承継したものであり、第二項は「国民主権」の原理を現行憲法よりも明快な表現で規定し、特に、第一項の「象徴天皇制」と並記したことが、主権者としての「国民」と「天皇」との関係を明確にしているのであり、問題はない。
第二項の第二文は、「主権の行使」について、「代表民主主義」と「直接民主主義」の二通りがあることを明記したものである。これも現行憲法と同趣旨であるが、憲法よりも明快である。しかし、第二項は、第一文が「主権の所在−国民主権」を規定し、第二文が、その主権の行使の方法を規定しているのであるから、第一文と第二文とは同じ項で規定するよりも項を分けて規定すべきであろう。つまり、第二項としては「2 主権は国民に属し、国のすべての権力は国民に由来する。」と規定し、第三項としては「3 国民は、代表者を通じて、又はこの憲法の定めるその他の方法を通じて、主権を行使する。」とすべきである。もっとも、第二項前段の「主権は国民に属し、」と「国のすべての権力は国民に由来する。」とは、同じ事柄について異なった表現をしているのにすぎないのであり、無用な重複のように思われる。そうであるならば、第二項前段は「2 日本国の主権は、日本国民に存する。」とするか、又は「2 日本国のすべての権力は、日本国民に由来する。」と規定すべきではなかろうか。
第二条について
憲法は、本来、国民の権利及び自由が、国家に対して(国家権力から)守られることを保障したものであり、本質的には、国家権力に対して向けられた法規範であり、その典型的な規定としては、本改正草案第百十六条が「公務員の憲法尊重擁護義務」を規定していることに見ることができるのである。この「公務員の憲法尊重擁護義務」は現行憲法第九十九条を引き写したものであり、憲法第九十九条の「憲法尊重擁護義務」には「主権者である国民」が規定されていない点について、立法論的に見て不合理であるとの批判もあることから、本改正草案第二条ではこのように「国民の義務としての憲法尊重擁護義務」を明文化したもののように思われる。ここでの国民の「憲法尊重擁護義務」とは、具体的には基本的人権である「権利及び自由」が国民の相互間において守られるべきことを憲法が保障することであり、これは「憲法」という法規範の本質から考えてかなり特異な規定のように思われるのである。もっともこの点は、本改正草案の立案者も十二分に意識しているようであり、本改正草案第百十六条の「公務員の憲法尊重擁護義務」が「・・・その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」とあるのに対して、第二条の「基本的人権の擁護」については、「・・・国民は、・・・この憲法の定める自由および権利の擁護に努めなければならない。」というように「義務規定」ではなくして「努力義務規定」としているのである。
第三条について
第一項は、現行憲法第九条第一項を承継したものであるが、国際紛争を解決する手段としては、「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使」は永久にしない旨を規定しており、これは第二項以下と相まって、要するに「侵略戦争」、侵略のための「武力による威嚇」、侵略のための「武力の行使」を行わないと謳っているのである。そしてまた、第二項以下と相まって、「自衛のための戦争」、「自衛のための武力による威嚇」、「自衛のための武力の行使」は否定されないことを規定していると解することができるのである。つまり、第二項は、「自衛戦争」をすることができるという前提での「軍隊の保持」を規定しているわけである。
このことは、第一項の「反対解釈」からも伺われるが、第二項からはより明白に「自衛戦争」を肯定していることが伺われる。第二項のような表現内容は、勿論「自衛戦争」を肯定し、その「自衛戦争の具体的内容、形態」を規定しているものと解することはできるのであるが、ただ「自衛戦争」というような直接的な表現を避けた、婉曲な表現、遠回しな表現、遠慮した表現に過ぎるのである。法文の表現としてはもっと端的に、明確でなければならないのである。
第四条について
本条は特に問題はない。新設の規定ではあるが既に法制化されている「国旗及び国歌」に関する法律である「国旗及び国歌に関する法律(平成十一年法律第百二十七条)」の憲法上の根拠規定ということができるのであり、本条は典型的な「現状追認」の規定である。
第五条について
本条は新設の規定であるが、格別目新しいものではなく、「現状追認規定」であり、かつ、国民に注意を喚起する意味をも籠めた「確認規定」というべきものである。
第六条について
現行憲法第二条を承継したものである。しかし、現行皇室典範第一条が「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と規定していることに対して、憲法第十四条第一項の「法の下の平等」の趣旨からして同皇室典範を改正して「女子の天皇を認めるべし」との議論が喧しいのである。このような議論の余地をなくするために、立法政策的には、憲法の次元で「平等原則の例外」を明記すべきである。それには、大日本帝国憲法第二条が「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定したように、「女子の天皇」を否定する旨を憲法上に明記すべき必要があるのではなかろうか。
従って、本条は、「皇位は、世襲のものであって、皇統に属する男系の男子が、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」と規定すべきである。
第七条について
第二項は、天皇の「国事に関する行為」を「法律に定める特定の者に委任する」ことのできる旨を規定しており、これは現行憲法第四条第二項を承継したものであるが、この「国事行為の受任者」とも称すべき者については、この憲法上には明文の規定がないのである(この点については現行憲法も同様である)。一方、このことは、天皇の「法定代理人」と解され、天皇の「国事行為を代理する」ところの「摂政」については、憲法第五条(本改正草案第八条)に明文の規定があるのに対比して均衡を失するのではないかと思われる。
第八条について
本条は、現行憲法第五条を承継したものでありこの点は問題はないが、このように「摂政」の権限等については憲法自らが規定しているのに対して、同じく天皇の「国事行為」を代行する者である天皇の国事行為の「受任者」の権限については、前述のように憲法上には明文の規定がなく、専ら「国事行為の臨時代行に関する法律(昭和三十九年法律第八十三号)」に規定していることは、やはり「摂政」と対比して均衡を失するのではなかろうか。
もっとも、このことは第八条よりも第七条にかかわることであり、同条については第三項を第四項とし、第二項の次に、第三項として次のように規定すべきではなかろうか。
3 前項の国事に関する行為を委任された者は、天皇の名でその国事に関する行為を行う。この場合には、第一項の規定を準用する。
第九条について
本条は、現行憲法第六条及び第七条を承継したものであるが、各号列記の部分は現行憲法とかなりの相違が見受けられる。
第一号は、現行憲法と異なり、内閣総理大臣が「衆議院議員」の中から指名されることを前提としたものとなっている。これは、参議院の特徴を創出しようとする意図が背景にあるように思われるが、内閣総理大臣の選出範囲をこのように限定してしまうことの立法政策的当否が検討されなければならないのではなかろうか。
第二号は、最高裁判所の長たる裁判官の指名が内閣総理大臣であることを前提として、天皇は、その長たる裁判官を任命するということである。
第三号は、憲法裁判所の長たる裁判官の任命を「国事行為の一つ」としたのである。 第四号及び第五号は特に問題はない。
第六号は、単に「衆議院を解散すること」としないで「第八十条に基づいて・・・」としたために、「衆議院の解散」は専ら第八十条の場合しか認められないのか、それとも、「衆議院の解散」の解散は第八十条の場合以外にも認められるのであるが、第八十条による衆議院の解散だけは「天皇の国事行為」であるという解釈の生まれる虞なしとしない。
第七条は、現行憲法第七条第四号が「国会議員の総選挙」としているのに対して、「国会議員の選挙」と表現することにより、この選挙は、参議院議員の「通常選挙」をも含むものであるということが明確にされたものであり、現行憲法における疑義が立法的解決を見たわけである。
第八号から第十三号までについては、現行憲法第七条第五号から第十号までの各号の内容と全く同じものであり、特に問題はない。
第十条について
本条は現行憲法にはない新設の規定であるが、現行憲法上は、この「象徴としての天皇の行為」を認めるべきか否かの論争があることを前提として、それを立法的に解決したものということができる。しかし、このように「象徴としての天皇の行為」を第七条第三項及び第九条の「天皇の国事行為」とは別個に規定する以上は、この「象徴としての行為」と「国事行為」とはどのような相違があるのか、例えば、手続上は「内閣の助言と承認」を要するのか、その法的効果はどうなのか等について規定すべきではないかと思われる。
第十一条について
本条は、憲法第十条の引き写しであるが、格別の問題はない。
第十二条について
本条は、第十三条以下の具体的な「基本的人権規定」の総則的規定であり、これは現行憲法第十一条から第十三条の三箇条に渡って「基本的人権規定」の総則的規定を置いていることに相当するものである。現行憲法ではこの「基本的人権の総則的規定」を、部分的な重複を交えて冗漫にも三箇条に渡って規定しているのであるが、本改正草案では適切簡潔な内容の一箇条にまとめているわけである。
第十三条について
第一項は、外国人の基本的人権に関する解釈上の疑義に関し、最高裁判所の判決に則してこれを立法的に解決した規定であり、適切妥当なものである。また、第二項も適切かつ妥当な規定である。本条は、いずれにしても現行憲法にはない新設の規定ではあるが、広い意味での「現状追認規定」である。
第十四条について
本条は、現行憲法第十四条の「引き写し」である。そうなると、現行憲法第十四条第三項の問題をも、何等の立法的解決をしないまま引き継ぐために不都合が生ずるのである。その問題とは、「文化勲章の授与」という「栄典の授与」に浴した者には、その者の終身の間「年金の支給」が認められているのであり(文化功労者年金法)、これはまさに現行憲法第十四条第三項の「いかなる特権の伴わない」に抵触するものではないか、という疑問である。この点については、日本国憲法の依って立つ基本原理である「民主主義の理念」に反するような恩恵に浴することが「禁止されるべき特権」であるとして、例えば、文化勲章の受章者には国会議員の地位を与えるとか、公職選挙における選挙権について、選挙権者一人につき一票なのに対して、これを二票とか三票を与えるようなことは「禁止されるべき特権である」とし、これに対して、ある程度の経済的利益を給付することは「禁止されるべき特権」ではないとする考え方がある。確かに「経済的利益の付与」は、それが王侯貴族の生活を営むことのできるような多額の金品の供与を認めるのであれば問題であろうが、現在、文化勲章の受章者に対しては、文化功労者年金法により年額三百五十万円の年金が終身の間支給されているが、この程度のことは憲法が規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことに資する程度のものなのであるから「禁止されるべき特権」ではないと解するべきなのであろうか。
このような問題があることから、現在、「文化勲章の受章者」に対する「年金の支給」については、憲法問題をできるだけ回避するために手の込んだ方法が採られているのである。つまり、直接的には「文化勲章の受章者」に対して「年金の支給」を行わないということである。そこで「文化勲章の受章者」に選ばれるためには、その前に必ず「文化功労者」に選出されなければならないということにするのである。そしてこの「文化功労者」に選出されると、その段階で「文化功労者年金法」によりその者の終身の間「年金」が支給されることとなるわけである。それから次の段階で、この「文化功労者」に選ばれた者の中でも、さらに一層文化の発展に尽くした功績が大であるとされる者が「文化勲章受章者」に選出されるという段取りになるわけである。かくして、「文化勲章受章者」になるにはその前に必ず「文化功労者」でなければならないのである。このことから、「文化勲章受章者」だから「年金の付与」という「特権」が伴うものではなくて、その前段階の「文化功労者」であるからこそ「年金の付与」という特権が伴ったというのであり、従って問題はないというのである。このことは、つまり「文化功労者」に選ばれることは「栄誉、栄典その他の栄典の授与」ではない、という前提なわけである。
しかし、「文化功労者」に選ばれることそれ自体も「栄典の授与」に当たるのではないかと考えることの方が自然であろう。従って、「文化功労者」に「年金を付与すること」も「特権を伴う」ものであるから違憲無効であるいうべきではないだろうか。しかしそれでは前述の「文化勲章の受章者」への年金の供与が憲法違反の疑念を生ずるものであるから、「文化功労者」に選ばれることは「栄典の授与」ではないと、あくまでも強弁せざるを得ないわけなのである。
現行憲法第十四条第三項は以上のような不都合が生ずることから、憲法改正においてはまさに立法的解決を図るべきなのであり、読売新聞社の「憲法改正2004年改正私案」は、この点について「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない。ただし、法律の定める相当な年金その他の経済的利益の付与は、この限りでない。」(同改正私案第十九条第三項)としている。これは極めて適切妥当な立法である。もっとも、ここで「いかなる特権も伴わない」というように表現すると「ただし書き」にある例外を認めない響きがあるから、原則として「特権を認めない」という趣旨を表すこととして「特権を伴うものであってはならない」とした方が良いと思われる。
第十五条について
本条は、現行憲法第十九条を承継したものであり、格別の問題はない。
第十六条について
本条は、現行憲法第二十条を承継したものであり、第一項後段は「いかなる宗教団体も、・・・政治に介入し、または政治上の権力を行使してはならない。」と規定しているが、これは広い意味の「国家無宗教の原則」を確認的に規定したものと思われる。
第三項が但し書きで「伝統的および儀礼的宗教行為は、この限りでない。」と規定したのは、「国家無宗教の原則」についての「厳格分離説」の考え方を明確に否定しようとする立法者の意図が伺われ、立法政策的に極めて妥当な規定である。
第十七条について
本条は、現行憲法第二十一条を引き写したものであるが、第二項は「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と規定しており、現行憲法も同文であるが、このように「検閲の禁止」と「通信の秘密の保障」とを「同一の項」で規定するのはやや無理がある。この両者は規定の内容を異にするのであるから、別々の項で規定すべきである。前述の読売新聞社の憲法改正私案でもこの両者は別々の条に規定している(注)。
第三項では「私事権の保障」という表現があるが余り馴染みのない、いわゆる「熟した用語」ではないのでもっと別な表現が必要なのではないか。
第四項では「情報を収集する権利の保障」を規定しているが、これは問題である。なぜならば、このように「情報を収集する権利」が保障されるならば、それに対応して「情報収集に応じなければならない義務」を想定しなければならず、このような「義務」を認めることは、場合によっては「個人の自由」に対する重大な侵害を及ぼす危険を孕んでいることとなるからである。
(注) |
同読売新聞社の憲法改正私案では、第二十三条第二項が「検閲は、これをしてはならない。」と規定し、第二十条第三項が「通信の秘密は、これを侵してはならない。」と規定している。 |
第十八条について
現行憲法にはない新設の規定である。しかし、これによって新しい憲法秩序が創設されるというわけではなくて、現行憲法は「政党」について明文の規定を設けなかったということに過ぎず、憲法は従来から「政党」の存在を否定する趣旨でないことは明白である。この点について竹内重年教授は、その著書『憲法講話』において以下のように説く。
日本国憲法は、政党についてはまだ真っ正面から規定するところまではいっていませんが、集会・結社および言論・出版その他いっさいの表現の自由を国民の基本的人権として保障し(二十一条一項)、そこで政党の発生を当然のこととして予想しているといってよいでしょう。そこには、明治憲法時代にみられたような政党にたいする敵視ないしは無視の態度は、もはやまったくみられません。したがって、最高裁判所も、「政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素」であって、「国民の政治的意思を形成する最も有力な媒体」だとのべています(昭和四十五年六月二日判決)。いまの日本には、人の知るように、少なからぬ政党がありますが、どの政党も政治上の意見をもち、国会の選挙のあるごとに、自分の政党から議員の候補者をだし、なるべく多くの議員を国会に送りだそうとつとめています。そこで国民は、この政党の意見をよく検討し、自分が最もよいとおもう政党の候補者に投票すると、自分の意見がそれだけ政党を通して国会にとどくということになります。このようにして、選挙のたびごとに、より多くの議員を国会に送りだした政党によって、国民各層の利益が国会において濾過され、統合され、現実に有効な国民意思として形成され、それによって国の政治が動かされるということになります。これは、とりもなおさず、今日の民主政治が、政府や議会の牛耳をとる政党を基盤として成りたっているということを意味します。この意味で現代の議会民主政治は、実際には、政党政治であるといってよいでしょう(同著113頁から140頁)。
憲法よりも下位の法規範である「法律」の次元では、既に「国会法」、「政治資金規正法」、「政党助成法」、「政党交付金の交付を受ける政党等に対する法人格の付与に関する法律」が制定されており、これらの法律はすべて「政党」についての規律を定めているものであるから、従って、第十八条で「政党」について規定したことは、既に「政党」について定めているこれらの「法律」に憲法上の根拠を与えたということになるわけである。かくして、本新憲法改正草案によって、いわゆる「政党の憲法編入」があったということになるわけである。
第十九条について
本条は現行憲法第二十三条を引き継いだものであるが、「大学の自治」の保障を明文化したことは現行憲法にはない目新しい点である。もっとも、現行憲法下でも「大学の自治」は伝統的、慣習的に広く認められてきていることであり、そういう点では、本条で「大学の自治」を明文化したことは、そのような現実を追認したに過ぎないともいうことができるのである。
第二十条について
本条は、現行憲法にはない新設の規定である。しかし、法律の次元においては既に「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律(平成十二年法律第百四十六号)」が制定されており、従って、本条はこのような実態を追認し、そのような実態を規律している「法律」に憲法上の根拠を与えた規定であるということができるわけである。
第二十一条について
本条は、憲法第三十一条を引き写したものであり、格別の問題はない妥当な規定である。
第二十二条について
本条は、現行憲法第三十三条を引き写したものであるが、憲法第三十三条では「司法官憲」とあるところを分かりやすく「裁判官」と表現した点が現行憲法との相違点である。
ところが、現行憲法第三十三条を「引き写し」たことにより、何等の立法的解決を見ないままに憲法の「問題点」を引き継ぐことになるわけである。この問題点とは、以下のものである。
憲法第三十三条は「現行犯逮捕」以外の「逮捕」には、事前に裁判官から令状(逮捕状)を得なければならない旨を規定しているのである。しかし、刑事訴訟法第二百十条第一項は「緊急逮捕」という制度を規定し、これは「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁固にあたる罪を犯したことを疑うに足りる充分な理由がある場合で、急速を要し、裁判官の逮捕状を求めることができないときは、その理由を告げて被疑者を逮捕することができる。この場合には、直ちに裁判官の逮捕状を求める手続をしなければならない。逮捕状が発せられないときは、直ちに被疑者を釈放しなければならない。」と定めている。このように刑事訴訟法では「現行犯」ではない場合においても、特定の犯罪の犯人について特定の状況の下においては「逮捕状」が無くても「逮捕」できると規定しているのである。しかし、このようにすべての犯罪に対する逮捕ではなく、特定の犯罪の特定の状況の下での逮捕であるとしても、憲法第三十三条を素直に解釈するならばこの「緊急逮捕」はどう見ても憲法第三十三条に違反する無効な規定であるということは否定できないものと思われる。問題は、そうであるからといって、それではこの「緊急逮捕」の制度を廃止することが妥当であろうか。この点については、現在の我が国家社会の犯罪の実態を直視しなければならないのであって、そこからの引き出される結論としては、この「緊急逮捕」制度の合理性を否定することは到底できないということになる。そうなると、どうしても「緊急逮捕」制度が憲法に適合しているという解釈を捻出しなければならないことに至るのである。そこで、考案された「緊急逮捕合憲説」が、以下のようなものである。
1)緊急逮捕を一種の令状逮捕とみて合憲とする考え方、2)緊急逮捕を一種の現行犯逮捕とみて合憲とする考え方、3)緊急逮捕と通常逮捕の差異は逮捕状の発布が事前であるか、事後であるかの点であり、もちろん憲法がもともと令状の事前発布を要求していることは疑いないが、しかし、事後とはいえ、逮捕に接着した時期に逮捕状が発せられる限り、逮捕手続を全体としてみるときは逮捕状に基づくものということができないわけではないから、重大な犯罪について充分の嫌疑があり、しかも緊急でやむをえない場合に、かような便法によることをいちがいに違憲として不法視することはできないとし、相当の疑問の余地があるが、緊急逮捕の規定そのものは必ずしも憲法第三十三条に違反するものではない、とする考え方がある。このうちの、1)の考え方は、要するに逮捕の機会に「逮捕状」があればよいということのようであるが、それは「令状主義」の趣旨目的に反するであろう。2)は、「緊急逮捕」までをも「現行犯逮捕」に包含するのは極めて御都合主義である。要は、緊急逮捕が違憲無効とならないためのこじつけの理屈にすぎない。3)は、巧みな考え方ではあるがやはりかなり無理な解釈である。
これらの考え方は「緊急逮捕」を違憲無効としたならば当然予想される憲法改正を極力回避し、その不都合な点は解釈で補うとすることから来る無理な憲法解釈の典型的な例である。従って、憲法改正の機会があれば立法的解決を図ることが相当であり、それには、「現行犯逮捕」の他に「緊急逮捕」も「令状主義の例外」である旨を明記すべきなのである。そして、その場合には、必ず、刑事訴訟法第二百十条を改正して「死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁固にあたる罪」をさらに限定すべきである。なぜならば、このままであるとすれば、ほとんど大部分の「犯罪の犯人」が「緊急逮捕」の対象となる虞があり、そうなると「令状主義」が事実上形骸化してしまう虞なしとしないからである。
第二十三条について
本条は、憲法第三十四条をほぼ引き写したものである。そうなると、やはりその問題点をも同時に引き継ぐこととなるわけである。その問題点とは「抑留又は拘禁されない」という部分である。この「抑留又は拘禁」とは、いずれも「身体の拘束」のことであるが、憲法第三十四条は「身体拘束」を、「抑留」と「拘禁」とに分けており、これは無用な区分である。それは「また」以下の箇所で、「正当な理由がなければ、拘禁されず、」と規定しているために、この反対解釈として「抑留」の場合には、同じ「身体の拘束」であるにもかかわらず、「正当な理由があっても抑留される」ことと解される虞があるからである。この「抑留」と「拘禁」とでは後者の方が身体拘束の期間が長いものであると一般に解されているのであるが、そうであるとしても、それが「正当な理由がなければ、拘禁されず」と、「正当な理由の有無にかかわらず、抑留される」こととなるのでは、そこには合理性があるのだろうか。
第二十四条について
本条は、憲法第三十五条を引き継いだものであるが、憲法第三十五条第一項に規定する「書類及び所持品について、・・・捜索及び押収を受けることのない権利」というものは、その例示に明らかなように「有体物」を前提にして、それらを捜索又は押収されない権利を保障した規定なわけである。ところが、最近の犯罪の捜査等においては捜査等の対象がこのような「有体物」に限られないことが多くなってきているのであり、これに有効に対応する犯罪捜査等が求められ、そして現に行われているのである。これが、通信の傍受、電話盗聴の方法による犯罪捜査である。そしてこのための法律が制定され、これが「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律(平成十一年法律第百三十七号)」である。しかしこの法律は、一定の犯罪に関して犯人間で電話等で交わされる会話を盗聴することを捜査当局側に認めるものであるから、言うならば犯罪の証拠となる「犯人側の会話」の「捜索及び押収」ということができるものである。そうなると、この「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」の憲法適合性(第三十五条に抵触するか否か)が問題となってくるわけである。なぜならば、憲法第三十五条第一項は「・・・書類及び所持品について、・・・捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければならない」と規定しているからである。この規定は前述のように「有体物」を念頭においての規定であるからこのような規定内容なのであり、これが電話盗聴による「捜索及び盗聴」においては「犯人間の会話を捜索及び押収する」わけであるが、この「犯人間の会話」のすべてが当該犯罪の証拠となるものばかりではないのである。繰り返すようであるが、「有体物」を対象とする「捜索及び押収」であれば、当該犯罪の証拠となる物ないしはその部分の分離区別が容易ではあるが、「無形物」である「犯人間の会話」ではこのようなことは全く不可能ではないかと考えられるからである。犯人間の会話がすべて当該犯罪に関するものであるとは限らないのであるから、「電話盗聴」の場合には、犯人間の会話の中で全く当該犯罪とは無縁の会話の部分までもが「捜索及び押収」の対象となってしまうのであり、これでは憲法第三十五条第一項に抵触する虞は多分にあると思われる。そこで憲法抵触の虞を解消しようとするには、「犯人間の会話」のうち、当該犯罪に関する部分とそれとは無縁の部分とを分離し、前者の部分だけを「盗聴」の対象とすることであるが、もとよりこのようなことは技術的に全く不可能なことである。一方、この「電話盗聴」が現在の特定の犯罪に対する「捜査及び押収」には絶対に必要不可欠のものとなってきている実態を直視するならば、この「電話盗聴」を定めている「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」が憲法に違反するというような主張はそれほど賛同を得ることはなかったもののようである。しかし、この法律はやはり憲法第三十五条第一項に抵触するとの疑義は残るのである。従って、改正憲法においてこそ、特定の犯罪に限定して「通信傍受」と言う形態の「捜査及び押収」を認めるための明文の根拠規定を設けて、この件についての立法的解決を図るべきではないかと思われるのである。
本条第二項は、憲法第三十五条第二項が「司法官憲」と表現しているのを「裁判官」という分かりやすい用語に変えており、この点は格別の問題はない。
第二十五条について
本条は、憲法第三十六条の規定の引き写しである。従って、「公務員による・・・残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」の部分も引き継いだわけであるが、これが問題である。現行憲法が「残虐な刑罰を禁止」する旨を規定していることから、「死刑」がこの「残虐な刑罰」であるか否かという問題が起こり、訴訟でも争われた。この点について最高裁判所の判決は、死刑それ自体は「残虐な刑罰」ではないとし、その「死刑」の執行方法等がその時代と環境において人道上の見地から一般的に残虐性を有するものと認められる場合」にはそれが「残虐な刑罰」であると判示している。また、同判決は「将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三十六条に違反するものというべきである」とし、現在「死刑」の執行方法として行われている「絞首刑」はもとより「残虐な刑罰」ではないと判示している。この「絞首刑」という死刑執行方法は、「絞罪器械図式(明治六年太政官布告第六十五号)」に淵源を発し、現行憲法下においてはもちろんのこと、大日本帝国憲法下においてさえも、この「絞首刑」以外の「死刑執行方法」が採られたことはなかったのである。そのような歴史的沿革ないしは実態であるにもかかわらず、現行憲法において突如としてこのような全くの場違いな規定が設けられ(注)、それが本改草案にも後生大事に継承されるとは全くの驚きである。また、将来において「火あぶり、はりつけ」等のような残虐な死刑執行方法が行われることを防止するための規定として意味があるということができるのかとも思われるが、不確実な将来のことを想定してそのための規定を設けることは適切ではないと考えられる。
(注)勿論、大日本帝国憲法においても、このような規定は存在しなかったのである。
第二十六条について
本条は、現行憲法第十八条の引き写しである。ここで「何人もいかなる奴隷的拘束もうけない。」と規定する箇所は、マッカーサー草案第十七条が「何人モ奴隷、農奴又ハ如何ナル種類ノ奴隷役務ニ服セシメラルルコト無カルヘシ・・・」に由来することはあきらかである。さらには同草案がアメリカ合衆国憲法第十三修正(1865年成立)が「奴隷または意に反する苦役は、犯罪に対する処罰として当事者が適法に有罪宣告を受けた場合を除いて、合衆国又はその管轄に属するいずれの地域においても存在してはならない。」と規定するところに影響を受けたものと思われる。確かに、アメリカ合衆国は黒人奴隷解放を争点として国家を二分する南北戦争(1861−1865年)を起こしたわけであり、その結果、前述のアメリカ連邦憲法第十三修正が成立したものである。しかし、我が国においては、古代の一時期を除いては(江戸時代には「士農工商」といった身分制度は存在したものの)「奴隷制度」は存在しなかったのである。そのような日本の歴史から、大日本帝国憲法においても「奴隷的拘束の禁止」のような規定は全く設けられていなかったものである。ところが、このような我が国の国家の成り立ちないしは歴史に疎い占領軍の手に係る「マッカーサー草案」にこの「奴隷的拘束の禁止」が規定されて、それを基にした「日本国憲法」にも何等の考慮も払われずに登場したのが「奴隷的拘束の禁止」を定める第十八条前段なのである。以上のような経緯からしてこの時代錯誤のような規定を引き写した本改正私案第二十六条前段は削除すべきである。
第二十七条について
本条は、現行憲法第三十七条の引き写しである。そうなると現行憲法第三十七条が抱えている問題点をも何らの立法的解決を見ないままに引き継ぐこととなるわけである。その問題点とは、憲法第三十七条第一項は「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられ・・・」と定めているが、この「すべての証人」ということは現実に不可能な場合があることが考えられるものであるから、憲法のこの規定は非現実的なことを規定しているということになるのである。従って、この憲法の規定を引き写した本改正試案第二十七条第二項についても同様なことがいえるわけである。この点、さらに言えば、刑事訴訟法第百四十四条及び第百四十五条は「公務上秘密と証人資格」について、第百四十六条は「自己の刑事責任と証言拒否権」について、第百四十七条及び第百四十八条は「近親者の刑事責任と証言拒絶権」について、第百四十九条は「業務上秘密と証言拒絶権」について、それぞれ規定しており、これらの規定は一定の事由がある場合には証言を拒絶できる旨を定めているのである。また、このような「証言拒絶権」を有しない者であっても、それらの者すべてに対して刑事被告人が「証人審問」するために証人として裁判所は召喚しなければならないということはないと考えられているのである。このように、憲法第三十七条第二項の「すべての証人に対して審問する」という文字通りの解釈運用は行われていないのである。それでは、刑事訴訟法のこれらの規定は憲法違反ではないのかということになるわけであるが、そのように考えるのではなくて、憲法第三十七条第二項の規定の非合理性の方が専ら問題とされているのである。従って、第二項前段は「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、」とあるのを、「刑事被告人は、証人に対して審問する機会を充分に与えられなければならず、」と改めるべきである。
次に、憲法第三十七条第三項は「刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。」と規定しているが、実際、このように「いかなる場合にも、弁護人に依頼することができる」というような解釈、運用が為されなければならないとすることは非現実的である。ここは、「いかなる場合にも」は削るべきであり、従って、本改正草案第二十七条第三項前段も「刑事被告人は、資格を有する弁護人を依頼することができる。」と改めるべきである。
第二十八条について
本条は、現行憲法にはない新設の規定であり、立法政策的にも極めて適切な規定である。しかしこの規定が我が国が「犯罪被害者の救済」という新しい方針、施策を創設しようというものでないことは明らかである。なぜならば、今日、既に諸法律、政令及びそれ以下の法規範に基づいて犯罪被害者に対する諸施策が実施されているからである。従って、本条は、犯罪被害者に対する施策を定めている諸々の法規範に憲法上の根拠を提供するというべきものである。従って、本条は「現実追認規定」である。
犯罪被害者の蒙った損害に対して国が援助のための給付を行う旨を規定している法律としては、「犯罪被害者等給付金の支給に関する法律(昭和五十五年法律第三十六号)」がある。この法律に先立つものとしては、「警察官の職務に協力した者の災害給付に関する法律(昭和二十七年法律第二百四十五号)」、「海上保安官に協力援助した者等の災害給付に関する法律(昭和二十八年法律第三十三号)」、「証人等の被害についての給付に関する法律(昭和三十三年法律第百九号)」がある。もっとも、これらの法律は、いずれも、一般的な犯罪被害者というよりは多かれ少なかれ「公務に準じた行為を行ったことに起因して被害を被った者」というような「特定の被害者」に対する救済を定めたものである。従って、その被害の救済も「国家公務員災害補償法(昭和二十六年法律第百九十一号)」及び「地方公務員災害補償法(昭和四十二年法律第百二十一号)」による補償に準じた被害者の救済というべきものである。
それはともかくとして、強大な国家権力から国民個々人の権利及び自由を守るために「権利宣言」ないしは「基本的人権の保障」が明記されていることが近代憲法の一大特色なわけであるが、そこにおいては、専ら「犯罪の容疑者」については、国家権力からの違法又は不当な取扱がなされないように、当該容疑者のための「権利及び身体の保護」が強調される反面、これとは著しく均衡を失するような、「犯罪被害者の基本的人権」の無視ないしは軽視がなされて来た近代憲法の歴史沿革があることは否定できないのである。現行憲法もその例に漏れず、「犯罪被害者の基本的人権」については全く沈黙しているのである。
しかしながら、法律の次元では、現在、「犯罪被害者の基本的人権の保障」は確立しつつあり、平成十六年には「犯罪被害者等基本法(平成十六年法律大百六十一号)」の制定を見るに至っているのである。このような実態に鑑みるならば、今回の憲法改正草案第二十八条は格別な新しい制度を創設しようとするものではなくて、やはり法律、政令等の法規範に基づいて現在行われている「犯罪被害者補償制度」の実態を憲法上追認し、それらの法規範に憲法上の根拠を与えるものである。
第二十九条について
本条は、憲法第三十八条を引き写したものである。ここで問題となるのが、第一項であり、同項は「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。」と規定していることである。これが「黙秘権の保障」とか「自己負罪の禁止」などといわれるものであるが、この規定と道路交通法第七十二条の関係が問題なのである。道路交通法第七十二条第一項は以下のように規定している。
第七十二条 車両等の交通による人の死傷又は物の損壊(以下「交通事故」という)があったときは、当該車両等の運転者その他の乗務員(以下この節において「運転者等」という)は、直ちに車両等の運転を停止して、負傷者を救護し、道路における危険を防止する等必要な措置を講じなければならない。この場合において、当該車両等の運転者(運転者が死亡し、又は負傷したためやむを得ないときは、その他の乗務員。以下次項において同じ)は、警察官が現場にいるときは当該警察官、警察官が現場にいないときは直ちに最寄りの警察署(派出所又は駐在所を含む。以下次項において同じ)の警察官に当該交通事故が発生した日時及び場所、当該交通事故における死傷者の数及び負傷者の負傷の程度並びに損壊した物及びその損壊の程度、当該交通事故に係る車両等の積載物並びに当該交通事故について講じた措置を報告しなければならない。
この道路交通法の規定と前述の憲法第三十八条第一項が「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。」とが矛盾抵触するのではないかということが現に問題なのである。
なぜならば、自動車の運転者等は自らが惹起した交通事故を警察官に報告する義務を課せられているのであり、しかもこの義務に違反すれば罰則が科せられるからである(道路交通法第百十七条、第百十七条の五第一号、第百十九条第一項第十号)。
しかしこの道路交通法第七十二条の「自動車運転者等の自動車事故の報告義務」の制度は、速やかに、当該事故の負傷者を救護し、道路交通秩序を回復せしめ、道路における危険を防止するためには必要不可欠なものであるから、憲法違反による無効な制度とすることはできないことであり、この件が争われた裁判における最高裁判所の判決は、以下のようである。
・・・(道路交通取締)法の目的に鑑みるときは(同法施行令第六十七)条(注)は、警察署をして速やかに、交通事故の発生を知り、被害者の救護、交通秩序の回復につき適切な措置を執らし、以て道路における危険とこれによる被害の増大とを防止し、交通の安全を図る等のため必要かつ合理的な規定として是認せられねばならない。しかも、同条第二項掲記の「事故の内容」とは、その発生した日時、場所、死傷者の数及び負傷の程度並びに物の損壊およびその程度、交通事故の態様に関する事項を指すものと解すべきものである。したがって、右操縦者、乗務員その他の従業者は、警察官が交通事故に対する前叙の処理をなすにつき必要な限度においてのみ、右報告義務を負担するのであって、それ以上、緒論の如くに、刑事責任を問われる虞のある事故の原因その他の事項までも右報告義務ある事項中に含まれるものとは、解せられない。また、いわゆる黙秘権を規定した憲法第三十八条第一項の法意は、何人も自己が刑事上の責任を問われる虞ある事項について供述を強要されないことを保障したものと解すべきことは、既に当裁判所の判例とするところである。したがって、令第六十七条第二項(現在は、道路交通法第七十二条第一項・・・筆者の注記)により前叙の報告を命ずることは、憲法第三十八条第一項にいう自己に不利益な供述の強要に当たらない。
しかし、この判決(多数意見)には、以下のような「補足意見」がある。
・・・仮令自己の注意義務違反、過失の有無などの主観的責任原因等については報告義務なしとしても、前記の如く事故の態様を具体的、客観的に報告することを義務付けられることは、犯罪構成要件のうちの客観的事実を報告せしめることになるから、少なくとも事実上犯罪発覚の端緒を与えることになり、多数意見の如く全然憲法第三十八条の不利益な供述をすることにあたらないと断定することには躊躇せざるを得ない。刑訴第百四十六条の証言拒絶に関する規定は、憲法第三十八条の趣旨に則ったものであるが、操縦者らが証人として前記の如き事故の態様に関する事実について証言を求められたときは、自己が刑事訴追をうける虞のあるものとして右刑訴の規定により証言を拒むことができないであろうか。しかし、前述の如く自己の故意過失等主観的な原因などは、報告義務の外に置かれていること及び道路交通の安全の保持、事故発生の防止、被害増大の防止、被害者の救護措置等の公共の福祉の要請を考慮するとき、いわゆる黙秘権の行使が前記程度の制限を受けることも止むを得ないものとして是認さるべきものと考える。
このようにして、この補足意見は、多数意見が道路交通法の「自動車事故報告義務」制度が憲法第三十八条第一項に違反しないとすることに対して疑問を呈しているのではあるが、結局のところ、この制度が「道路交通の安全の保持、事故発生の防止、被害増大の防止、被害者の救済措置等公共の福祉の要請を考慮するとき」と、一方では、報告義務の内容が(業務上過失致死傷罪)の構成要件の主観的側面である「自動車の運転者」の「故意過失等の主観的な原因」を報告義務としていないことを理由として、自動車事故の報告義務の憲法違反性を否定している。しかし、この補足意見はやはり説得力を欠くものである。なぜならば、確かにこの「報告義務」に係る報告内容は「当該交通事故が発生した日時及び場所、当該交通事故における死傷者の数及び負傷者の負傷の程度並びに損壊した物及びその損壊の程度、当該交通事故に係る車両等の積載物並びに当該交通事故について講じた措置」であり、ここでは、例えば刑法に規定する業務上過失致死罪の構成要件に当たるような事項は含まれてはいない。しかし、このような「交通事故の報告」を受けた警察官は第一次的には速やかな交通事故の処理を行うわけであるが、それでこの件が終了するわけではないのであり、このような交通事故の報告からは当然のこととして、刑法に規定する「業務上過失致死罪」の嫌疑が生ずるわけであり、従って、この「自動車事故の報告義務」は必然的にそのような犯罪捜査の端緒となることは否定できないのであり、この「補足意見」は結局は形式論にすぎない。自動車事故の報告を受けて行動する場合の「警察官」は「司法警察職員」として行動するものではなく、専ら、「交通警察」、つまりは「行政警察」として職務を遂行するものではあるが、刑事訴訟法第二百三十九条第二項は「官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発しなければならない。」と規定しており、結果的には、この「自動車事故の報告義務」は、犯罪捜査の端緒を提供することを義務付けることとなるのであって、憲法第三十八条第一項に抵触する虞を払拭することはできないものと思われる。
なお、この補足意見の中で、「刑訴第百四十六条の証言拒絶に関する規定は、憲法第三十八条の趣旨に則ったものであるが、操縦者らが証人として前記の如き事故の態様に関する事実について証言を求められたときは、自己が刑事訴追を受ける虞のあるものとして右刑訴の規定により証言を拒むことができないであろうか。」という疑問を呈していることに注目すべきである。この疑問の提起は正にその通りなのであり、刑訴第百四十六条は「何人も、自己が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受ける虞がある証言を拒むことができる。」と規定しているのであるから、従って、このような場合の「証人」は当然に「証言拒否」が認められるわけである。そうであるならば、「自動車事故を引き起こした運転者」の当該「交通事故の報告義務」の制度は、やはり憲法第三十八条の規定する「黙秘権の保障」ないしは「自己負罪の禁止」に抵触するものと解することができるわけである。
さらに言うならば、同様な「報告義務」等及びその義務違反に刑罰を科している以下の法律の規定についても憲法第三十八条第一項に抵触するおそれが否定できないのである。
1)外国人登録法(昭和二十七年法律第百二十五号)第三条による密入国者の登録申請義務
2)旧麻薬取締法(昭和二十八年法律第十四号)の規定による麻薬取扱者の記帳義務
3)古物営業法(昭和二十四年法律第百八号)第十六条による取引記帳義務、贓物取引と記帳義務
4)毒物及び劇物取締法(昭和二十五年法律第三百三号)第十四条による書面記載義務
5)覚せい剤取締法(昭和二十六年法律第二百五十二号)第二十八条から第三十条による記帳義務・報告義務
6)あへん法(昭和二十九年法律第七十一号)第三十九条による記帳義務
7)大麻取締法(昭和二十三年法律第百二十四号)第十五条・第十六条ノ二・ 第十七条による報告義務・記帳義務
8)麻薬及び向精神薬取締法(昭和二十八年法律第十四号)第三十七条による記帳義務
9)航空法(昭和二十七年法律第二百三十一号)第七十六条による機長の国土交通大臣への報告義務
10)船員法(昭和二十二年法律第百号)第十九条による船長の国土交通大臣への報告義務
以上のような、道路交通法第七十二条以外の各法律の各規定においても「報告義務」ないしは「記帳義務」が規定されており、これらの規定もやはり憲法第三十八条第一項の「黙秘権の保障」ないしは「自己負罪拒否の権利」に矛盾抵触するおそれがあるとして問題にされているものなのである。しかしながら、これらの法律の規定についても、その立法的妥当性、有用性を否定することができないことから、最高裁判所判決はその違憲性を否定しているのであるが、その理由は必ずしも説得力があるとは考えられないのである。
要するに、憲法第三十八条第一項の「黙秘権の保障」ないしは「自己負罪拒否の権利」については、従来の「自然犯」とは異なる、「交通事故の報告義務」違反、「報告義務」違反、「記帳義務」違反のような「行政犯罪」に限っては「自然犯」と同じような妥当性を持ち得ないのである。従って、この点については例外を設けるべきなのである。このようにして立法的解決を図るべきであるのに、今回の新憲法草案第二十九条第一項は現に問題である憲法第三十八条第一項を「引き写した」だけのものであり、従って、前述の問題点も未解決のまま引きずることとなるわけである。
(注) |
この最高裁判所判決の時には、「自動車事故の報告義務」については、道路交通法第七十二条ではなくて、政令である道路交通法施行令第六十七条で規定していた。 |
第三十条について
本条は、若干の表現の差異はあるが憲法第三十九条を引き写したものである。ところで、憲法第三十九条を子細に見るならば、一部分は重複した規定となっている。それは「・・・又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」の箇所である。もっとも、前段は、ある犯罪行為と疑われる行為を為して刑事裁判にかけられた結果「無罪」の確定判決を受けた場合に限定しているような規定内容であることから、それでは、この場合、有罪の確定判決を受けた場合については定めていないから、その場合はその後に再度、同一行為についての刑事裁判にかけられることがあると解される虞があり、この危惧を払拭するために後段の規定を設けたものと考えられる。そういう意味ではこの後段の「又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」は確認的に規定したものと解することはできるのであるが、やはりこの前段と後段とは重複するのであり、後段は広く前段を包含できるものであるから、前段は不要と考えられる。従って、憲法第三十九条を引き写した第三十条は、「何人も、実行の時に適法であった行為については、刑事上の責任を問われない。また、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。」と規定すべきである。
第三十一条について
本条は、憲法第二十九条を承継し、さらに新たな規定を追加している。また、現行憲法の規定を承継しつつも、その規定の表現に差異が見られる。先ず、第一項は、現行憲法では「財産権は、これを侵してはならない。」とあるのを「財産権は、これを保障する。」と規定している。しかしこの両者は、その意味内容に格別の相違はないように思われる。第二項は、憲法が「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」とあるのを、この草案では「財産権の内容は、法律でこれを定める。」と規定している。ここで、憲法の「公共の福祉に適合するやうに」ということの意義は必ずしも一義的には明白でないという批判はあるが、ともかくも「法律で定める財産権の内容」については限定をしよう、つまり、第二項は、「財産権の内容」をどう定めるかは「法律」に委任するが、その委任の範囲は無制限ではなく「公共の福祉に適合するやうに」という限定があるのである。ところが、この改正草案では「財産権の内容は、法律でこれを定める。」とあり、法律への委任には何等の限定もない「白紙委任」ないしは「包括委任」と言うことになるのである。そうなると、国民の財産権の内容は「法律」をもってすればどのようにでも定められることとなるわけであり、これでは、国民の「基本的人権」の一である「財産権の保障」が極めて不安定になるのではなかろうか。
この点について、大日本帝国憲法には、財産権保障に相当する権利について以下のような規定が設けられてあった。
第二十七条 日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ
公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ル所ニ依ル
ここで、第二項は、第一項の「所有権」に対する(国家権力からの)処分があり得、その処分の内容程度等は「法律」に委任する旨、及びその委任は「包括委任」(ないしは「白紙委任」)ではなく「公益ノ為」という限定があることが伺われるのである。
このように考えることができるのであり、従って、本草案第二項は、財産権保障規定については、大日本帝国憲法よりも後退した人権保障規定という観がするのである。
次に、この草案第三項は「土地、天然資源、自然環境その他国民生活に不可欠な財産は、その有効、適切かつ公正な利用を確保するための規制に服する。」とあるが、この規定と第二項との関係が明白ではない。この第三項及び第二項とは同一の「項」にまとめて、以下のように規定すべきもののように思われる。そうすれば、前述のような「白紙委任」の不都合さも解消するのではなかろうか。
2 土地、天然資源、自然環境その他国民生活に不可欠な財産に係る国民の権利は、その有効、適切かつ公正な利用を確保するための法律に定める規制に服するものとする。
これは、例えば、森林法における「保安林の指定」に係る個人所有の山林については、個人所有の山林といえども当該森林の所在地の都道府県知事の許可なくして森林の開発行為や樹木伐採等は認められないのである。
次に、本草案第四項は「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。」とあり、これは憲法第二十九条第三項を「引き写した」ものであり、その点は問題はないのであるが、この「公共のために用いる」という表現が主として「公用収用」であることから、前述の「有効、適切かつ公正な利用を確保するための法律に定める規制」の場合にも「正当な補償」がなされるべきであり、この点についても規定すべきものと思われる。そうなると、本草案第四項は、前述の関係から第三項として次のように規定すべきではなかろうか。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いること、又は前項の規制に服することとする。
以下次号以降に続く。