1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府はなぜ定説ではなくなったのか?

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Minamoto_no_Yoritomo

0.イイクニはもう古い?

「『1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府』ってもう言わないんでしょ?」
「『1192(イイクニ)』から『1185(イイハコ)』になったんだよねえ」
「あたし『1192』世代なんだけどもう古いのね」
少し前から、専攻が日本史だと自己紹介するとこういう風に言われることがいきなり増えた気がします。
その原因かどうかは知りませんが、これは全国紙でも何度か取り上げられているネタです。

【鎌倉幕府はイイクニ?イイハコ?変わる教科書】(2013年3月27日14時42分 読売新聞、Web魚拓

どうやらこれは「日本史教科書が変わった!」というとき必ず取り上げられるトピックのようです。たとえば2008年に出た『こんなに変わった歴史教科書』という本では、「「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」と覚えたけど……  鎌倉幕府の成立年」という項目が立てられていますし、紹介文でも「(…)イイクニつくろう鎌倉幕府はもう古い!など最近の歴史研究の進展により,次々と書き換えられる歴史教科書の最新事情を紹介」とあるように、目玉コンテンツのひとつとして推されているようです。(Amazon

そういやレキシ「歴史ブランニューデイ」(作詞:いとうせいこう, 池田清史)でも、
「いいくに作ろう鎌倉幕府って/1192で覚えて/それですんだとは決して思うな/新しい説も常にチェキラ」
と足軽先生がリリック刻んでましたね。

またアカデミックな分野からの発信ではどうでしょうか。たとえば2013年末に出た『岩波講座日本歴史 中世1』(Amazon)に収録された高橋典幸氏の論文「鎌倉幕府論」では、鎌倉幕府の成立をめぐる最新の議論が整理されていますし、教員を主な読者とする雑誌『歴史地理教育』2014年2月号ではズバリ「特集 鎌倉幕府の「成立」はいつか」が組まれています。さすがにこれらの諸論文では、バスに乗り遅れるな式の「もはやイイクニではない!!」という煽り方はせず、丁寧に論点が提示されています。

しかし、私はこれらを読んで、一抹のひっかかりを覚えます。
「じゃ、なぜ「イイクニ説はダメなのか?」という疑問に答えているのか?、と。
ジャーナリズムでの取り上げ方を見ていていると、「新説が○○と××で~」ということはそれなりに詳しく書いているのですが、「イイクニ作ろう」
の「旧説」が廃れた理由にまでは筆が及んでいません。
またアカデミズムから発信でも、これは同様です。
ただこれは理由なきことではありません。なぜなら、「イイクニ」説が否定されるきっかけとなった論文が発表されたのは、なんと驚くなかれ、太平洋戦争勃発前の1930年代なのです。学者たちにとっては、「イイクニつくろう鎌倉幕府はもう古い!などというのは先刻御承知どころの騒ぎではないのです。研究者にはあまりに定説すぎて、もはや書かなくなってしまったのかもしれません。

しかし私は敢えて、「イイクニ」説をひっくりがえした経緯にこだわりたいと思うのです。これを知らないのはもったいない。なぜなら、その論証が、鑑賞するにたるエレガントなものだからです。

その論証をした人物こそが、のちの東大教授・石井良助(1907~1993)です。今回は、若き日の石井良助の仕事を再現・追体験するかたちで、「1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府はなぜ定説でなくなったのか」を考えたいと思います。

 

1.1192年の源頼朝になにが起こったのか?

石井良助の論証を解説する前に、その前提となる事柄(「イイクニ」説をひっくりがえす勝利条件)について多少確認しておきます。

源頼朝といえば、平氏牛耳る朝廷に挙兵し、内乱を勝ち抜いて鎌倉幕府を開いた人物。こればっかりはどんな偏屈な学者でも否定しないはずです。
ではその彼が1192年(建久3年)に行ったこととはなにか。
「はーヒマやなー。でもこのまんま鎌倉にだらだらおってもしゃーないし、京都とか家人の連中もうっさいねんなー。アカン、もー腹立ってきた、よっしゃ、幕府開いたろ!」(cv. 陣内智則)
と満天下に宣言、即刻鎌倉幕府を樹立した…わけではありません。武家政権に関しては彼がパイオニア。頼朝は幕府を開こうとして開いたわけではありません。彼が樹立したものを後世の人間が「幕府」と呼んでいるだけです。
では、1192年とはいったい何の年か。それはつまり、頼朝が朝廷によって、征夷大将軍の職に任じられた年です。

つまり、

命題A「鎌倉幕府が成立したのは1192年である」

というテーマは、

命題B「源頼朝の征夷大将軍就任は鎌倉幕府の成立とみなしうる」

と言いかえることができます。

「それは当然だろう」とおっしゃる方も多いと思います。鎌倉幕府から室町、江戸幕府にいたるまで、武家政権のトップは基本的に征夷大将軍であったのは事実ですし、徳川慶喜が大政奉還で将軍職を辞することで江戸幕府は終焉しています。武家政権に征夷大将軍という官職が必要不可欠であったことは一種の常識でしょう。

しかし、このような今視点の“常識”が、頼朝のころにも当てはまるのでしょうか。彼が幕府のパイオニアなわけですから、彼のころから将軍職が重要であったかどうかは、自明ではありません。独自に検証が必要な事柄なのです。

ということで、先ほどの命題Bはさらに、

命題C「源頼朝のころ、征夷大将軍という官職は切実な(それなしでは幕府が幕府たりえないような)重要性があった」

と言いかえられます。逆に、これを突き崩せば、「鎌倉幕府が成立したのは1192年である」という「イイクニ」説をひっくりがえすことができるでしょう。

ということで、このような前提を踏まえたうえで、石井良助の考証を追いかけていきましょう。

 

2.石井良助の考証

石井良助は東京帝大法学部の法制史講座(のち東大法学部の日本法制史講座)を長らく担当した人物で、マエストロとでもいうべき偉大な法制史学者です。1938年に出した労作『中世武家不動産訴訟法の研究』は未だに参照されるべき金字塔です(どこかの版元で復刊してもらえないですかねえ…)。日本中世史で一時代を築く佐藤進一が恩師と仰いだ人物でもあります。戦後は勢いをえたマルクス主義的な歴史学とは距離を置き、中道保守的な立場を堅持しましたが、これは別の話ですね。(Amazon

この石井良助は23歳で東京帝大法学部を卒業し、直ちにそこの助手となります。そのころ法学部の機関紙『國家學會雜誌』に発表した論文が、「鎌倉幕府職制二題」(1931年発表)と、その続編である「再び「征夷大将軍と源頼朝」について」(1933年発表)です。

若き石井良助が題材としてフォーカスしたのは、頼朝らが発行する公文書・政所下文(まんどころくだしぶみ)です。政所下文は、鎌倉幕府の出す文書のなかでももっとも正式な格の高いものです。

その実例は、こんな感じです。冒頭の「○○下(クダス)」という文言が特徴的ですね。画像はこちらを見てみてください。

image

 

石井良助は手始めに、現存している頼朝のころの政所下文をできる限り集めます。それを年代順に並べていくと、ある事実が浮かび上がってきたのです。

ということで、若き石井良助がしたように、頼朝のころの政所下文をリスト化して見ましょう(せっかくなので、石井良助が挙げていないものも入れています。1

 

発行された年月日 冒頭部分 状態 出典 『鎌倉遺文』番号
1 1191年2月21日 前右大将家政所下 原本 信濃下諏訪神社文書 511
2 1192年6月2日 前右大将家政所下 原本 肥前松浦山代文書 593
3 1192年6月2日 前右大将家政所下 写し 肥前武雄市教育委員会蔵感状写 補127
4 1192年6月3日 前右大将家政所下 原本 正閏史料外編一 594
5 1192年6月20日 前右大将家政所下 写し 吾妻鏡建久三年六月廿日条 596
6 1192年8月22日 将軍家政所下 原本 下野茂木文書 608
7 1192年9月12日 将軍家政所下 原本 吾妻鏡建久二年九月十二日条 617
8 1192年9月12日 将軍家政所下 写し 松平基則氏旧蔵文書 618
9 1192年10月21日 将軍家政所下 原本 出羽中条家文書 630
10 1192年10月21日 将軍家政所下 原本 出羽中条家文書 631
11 1192年11月11日 将軍家政所下 写し 大宰管内志宇佐宮記 637
12 1192年12月10日 将軍家政所下 原本 出羽市河文書 645
13 1193年3月7日 将軍家政所下 写し 陸奥塩釜神社文書 661
14 1193年4月3日 将軍家政所下 写し 豊後曾根崎元一氏文書 665
15 1193年4月16日 将軍家政所下 原本 長門毛利家文書 668
16 1193年6月9日 将軍家政所下 原本 土佐香宗我部家伝証文 671
17 1193年6月19日 将軍家政所下 写し 筑後上妻文書 673
18 1193年9月4日 将軍家政所下 写し 薩藩旧記一入来本田家文書 683
19 1194年2月25日 将軍家政所下 写し 肥前龍造寺文書 715
20 1194年2月25日 将軍家政所下 写し 肥前国分寺文書 補151
21 1194年8月19日 将軍家政所下 写し 筑前大倉氏採集文書豊田家文書 738
22 1196年7月12日 前右大将家政所下 写し 肥前青方文書 856
23 1196年10月22日 前右大将家政所下 写し 高野山文書又続宝簡集百四十二 867
24 1196年11月7日 前右大将家政所下 写し 筑後和田文書 881
25 1197年2月24日 前右大将家政所下 写し 長門三浦家文書 897
26 1197年12月3日 前右大将家政所下 写し 島津家文書 950

 

石井良助が注目したのは、表の「冒頭部分」という項目です。表記の移り変わりがあることに気づきますね。年代順にしてみると、ここは三つに分けることができるようです。石井良助はこれを、第一期(表中1~5)・二期(6~21)・三期(22~26)に分けました。

まず「前右大将政所下文」という表記が続くのが、第一期(表中1~5)です。これは当時、頼朝の称号が前右近衛大将(前任の右近衛大将〔通称、右大将〕の意)であったことによります。
それでは第一期から第二期(表中6~21)に移りかわる原因は何なのでしょうか。これは、頼朝たちがきまぐれに書式を変更したわけではありません。第一期と二期の境目にあたる1192年6月~8月ごろに何があったか―それこそがまさに、頼朝の征夷大将軍就任なのです。

1192年7月12日、朝廷は、征夷大将軍に頼朝を任じる正式決定をします。その命令が鎌倉に届けられたのが、7月26日。そしてそれを受けて、政所始の儀式を頼朝らが行ったのが翌月の8月5日です。そして、その直後の8月22日付けの文書(表中6)では「将軍家政所下」という文言に切り替えられている。つまり、政所下文の冒頭文言の変化(「前右大将」から「将軍」へ)は、頼朝の将軍就任ということを反映しているのです。

しかし、頼朝がいつまでも「将軍家政所下」の文言を使い続けるわけではありません。将軍就任から3年ほど経つと「前右大将家政所下」の文言が復活しているのです(第三期:表中22~26)。それではなぜ「将軍家政所下文」文言を使わなくなってしまったのか?石井良助はここで、衝撃的な仮説を提示します。

「頼朝って…途中で将軍やめたんじゃね?」

大胆な「源、将軍やめ(て)るってよ」説に、一同はどよめきます。頼朝が将軍辞めたから、「将軍家政所」という表記を変えたというのは、事実であれば筋の通った話です。しかし、この文字面だけの変化から、「頼朝の将軍辞任」という驚きの事実を導き出すことはできるのでしょうか。

石井良助も、これだけから自説を証明できると考えているわけではありません。立証を完璧に近づけるためには、さらなる証拠が必要です。鎌倉幕府と頼朝を研究するうえでもっとも重要なのは、幕府公式の歴史書である『吾妻鏡』ですが、第二期と三期の境目にあたる1194~96年ごろに「頼朝が将軍を辞めた」などという記事は見あたりません。困りますね。

しかし石井良助は、見事自分の仮説に関する証拠を見つけ出してきます。

まず第一に、『尊卑分脈』(南北朝時代に作られた諸家の系図)にある頼朝のプロフィール。ここをよく見ると、何気ないのですが
「同(建久)三・七・十二為征夷大将軍、同五・十・十辞将軍

つまり「建久5年(1194年)10月10日、将軍を辞任した」と書いてあったのです。

第二に、大手門にある内閣文庫(現在は国立公文書館に吸収)に所蔵されている、『公卿補任』(歴代公卿の名簿)の異本。これはそれまで学界では知られていなかったものなのですが、このために石井良助がわざわざ見つけ出してきたのです(驚嘆…)。そしてこの書物の1194年の項目に、
「源頼朝 四十八 征夷大将軍 十月十七日辞将軍、十一月十七日重上状、十二月日被返遣辞状」
という記載があるのです。

これらの書物2は頼朝の死から数百年後のものですから、これまで信憑性が低いものとして見逃されてきたのでしょう。頼朝が将軍を辞任することなどありえないと!しかし、これらの資料は、さきほどの政所下文とは相互に関係のないものなのです。お互いに無関係で独立な資料からの分析が、一致する…。これは偶然ではありません。
「1194年10月に頼朝が征夷大将軍を辞めようとしていた」
ことは確実であるといえましょう。

なお頼朝が将軍を辞めようとしていたからといって、引退して政権を息子に譲ったわけではありません。頼朝が1199年10月にいきなり死去するまで鎌倉幕府のトップに君臨していたことは『吾妻鏡』や残存文書からも明らかです。

「ばかばかしい…ナンセンスだ!探偵ごっこはやめにしてもらいたいね!征夷大将軍という重大な官職を頼朝が辞任するはずがないじゃないか!頼朝が手にした権力を失ってしまうことになるんだぞ!」

そこなんですよ…。確かにわれわれには「将軍職は必要不可欠な官職」という常識がある。しかし、その前提が間違っているとしたら?頼朝自身が「将軍でいなくては権力が握れない」と言っている証拠はないのです。われわれは「幕府のトップ=征夷大将軍」という後世に作られた常識にしばられているだけで、頼朝のころにそんな“常識”が生まれていなかった可能性のほうが高いのではないですか?さきほど挙げた証拠から、そんな“常識”は頼朝のころ存在しなかったと考えるべきだったのです。

頼朝は将軍の職を辞任していようが、幕府のトップでありつづけることを疑っていなかったと思われます。つまり、頼朝(および幕府)にとって、征夷大将軍の職に切実な重要性はなかったとことになるのです3

先ほどのべた推理の前提に戻りましょう…。「イイクニ」説は「頼朝の権力にとって、将軍職は必要不可欠ほど重要だった」という前提に立っていました。この前提が崩れたいま、1192年に鎌倉幕府が成立したということはできないんですよ!

「ぐっ…ぐぐぐ………」(床に崩れ落ちる)

“凝り固まった記憶の向こう
新しい過去 刻んでみよう
澄んだ空気すっと吸いこむような
柔らかな今、受け入れてこうか”

 

エピローグ.鎌倉幕府の「成立」は結局いつなのか?

以上の内容をまとめると、「鎌倉幕府のトップにとって、征夷大将軍の職は、大切だが必要不可欠というほどではなかった」ということにつきます4。それゆえ、将軍就任を幕府成立のしるしと見るのは検討が必要である、ということが明らかになったのです。

それでは、結局鎌倉幕府の成立はいつなのか?ということが気になると思います。もはや私が軽々しく答えられる問題ではないので、さらっと蛇足を添えて終えたいと思います。
現在、鎌倉幕府の成立年については、
①1180年説…頼朝挙兵
②1183年説…寿永2年10月宣旨
③1185年説…文治勅許
④1190年説…右近衛大将就任
⑤1192年説…征夷大将軍就任
などの諸説が挙げられます。たまに「イイクニからイイハコ(1185)へ」と言われますが、1185年説ももはや分が悪いというのが現状です。

ではなぜここまで諸説が並び立つのか?どれも数年間の差なのに、これだけ区別するのはなにかヘンじゃないかと思われる方もいるでしょう。難しく考えすぎだと。

「成立時期」云々の議論を眺めていると、筆者は、胎児と新生児との境目をめぐる問題を思い出します。これは、堕胎と殺人とを区別する大きな難問です。受精した瞬間から、痛みを感じる中枢神経が発達したときから、妊娠22週目から、分娩が開始したときから、体の一部が出てきたときから、いや全部が露出したときから、最初の呼吸をしたときから…などなど、諸説が乱立しています。キリスト教原理主義上、民法上、刑法上、またはその学説上など、さまざまな立場を反映して、「人の始期」は変わってくるのです。

同じように、成立年が諸説あるのは、鎌倉幕府が本質的になにであるかという立場がたくさんあることを示しているのです。だから、年号だけに拘泥するべきではありませんが、その背後にある大きな問題を思うと意味のない議論とはいえません。指だけを見るのではなく、それが指しているものが何かを考えていく必要があるようです。

 

ブックガイド

今回取り上げた石井良助の論文は、

石井良助『増補版 大化改新と鎌倉幕府の成立』(創文社、1972年刊)

に収録されていますが、もう品切れで古本でしか流通していないようです。
これを紹介したものとして、

石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中公文庫、2004年刊)

がありますので、こちらのほうが参照しやすいはずです。(Amazon

鎌倉幕府成立をめぐる議論は、本文冒頭で紹介した岩波講座論文や雑誌の特集がよくまとまっています。なお、「イイハコ(1185年)」説は20年ほど前から定説とはいえなくなってきています(この背景には、官職や公権委譲など朝廷による「承認」の過大視を形式的理解として退ける構えがあります。これが現在の主な潮流といえます)。これに関しては、
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社学術文庫、2010年刊)
がもっともよい文献です。(Amazon

本文で将軍職は必要不可欠ではなかった!と強調しすぎてしまいましたが、これは頼朝が望んだものですから、将軍就任自体に歴史的価値がないわけでは決してありません。これについては、最近新史料が出現し、「頼朝が望んだのは『大将軍』であり、朝廷が『惣官』『征東大将軍』『征夷大将軍』『上将軍』のなかから号を選んで任官させた
という衝撃的な事実が明らかになったため、議論が新局面を迎えています。この問題は、専門的ですが、
櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍就任をめぐって」(同『『平家物語』本文考』、汲古書院、2013年刊)
下村周太郎「「将軍」と「大将軍」」(『歴史評論』(698)、2008年刊)
などを参照してください。

 

Photo : 伝源頼朝像


  1.  表には、信頼できる写し(案文など)を入れています。また「関東開闢皇代并年代記」に写しが載っている前右大将政所下文(『鎌倉遺文』597号)は、年月日の表示が「建久三年(1192) 月 日」としかないため、一応表からは除きました。 []
  2.  また石井良助は第三の証拠として、藤原定家が頼朝の訃報を聞いたとき、自分の日記(『明月記』)に「前将軍」と表記していることを挙げています。これは、頼朝が将軍を死ぬまで務めていなかったことを示す同時代人の証言です。 []
  3.  ただ、「十二月日被返遣辞状」(12月某日、朝廷が頼朝の辞表を突き返した)と書いてあることには注意しなくてはなりません。つまり、頼朝の将軍辞任が受理されなかった可能性があるのです。しかし、百歩譲ってそうだったとしても、政所下文で「将軍家政所下」という文言を使わなくなったことは、頼朝側の認識では将軍を辞めたのであり、将軍職が頼朝らにとって切実な重要性を持たないという結論は変わらない…と石井良助は述べています。 []
  4. なお、二代目将軍・源頼家は頼朝の跡を継いでから2年半後に将軍に任じられています。その次の三代目・実朝は継承するとともに征夷大将軍に就任しているので、頼家・実朝のころから征夷大将軍が幕府の首長を示す称号となってきたのでしょう。 []