落語立川流は故・立川談志が1983年に創設した団体だ。落語界初の上納金制度(現在は廃止)、前座から二つ目への昇進に落語50席(真打ちは100席)に歌舞音曲の習熟という明確な基準を設けて明文化するなど、他の団体にはない要素を打ち出したが、談志の厳しい方針は多くの脱落者をも生み出した。
ここに2人の立川流真打がいる。
立川生志。前座名、笑志。1988年入門、1997年二つ目昇進、2008年真打昇進。
立川談慶。前座名、ワコール。1991年入門、2000年二つ目昇進、2005年真打昇進。
2013年にはそれぞれが、生志『ひとりブタ 談志と生きた二十五年』、談慶『大事なことはすべて立川談志【ししょう】に教わった』という初の著書を刊行した。生志20年、談慶14年。両人ともに会社勤めを経験してからの入門である。長い修業期間に2人が師匠・談志とどう接してきたのか。一門にしかわからない立川流の素顔を対談でお伝えする。
(収録:新宿Biri-Biri酒場)
■計算が狂った前座時代
立川生志は、入門当初から将来を嘱望されたホープだった。にもかかわらず二つ目昇進まで長い時間がかかっている。『ひとりブタ』によれば、実は入門3年目に弟弟子の立川雲水(前座名、志雲。現・真打)とともに二つ目昇進を認められたことがあったのである。しかし直後に昇進の条件となっている歌舞音曲ができていないという理由でご破算になった。
生志 そのころは歌舞音曲に関しては結構アバウトな基準だったんです。でも、3年目に「二つ目になっていいよ」と言われた翌日に談志の前で試しに太鼓を叩いたら、「やっぱりだめだ」って言われたんですよ。解放されたと思った瞬間にまた逮捕みたいな(笑)。そのショックから立ち直るのに時間はかかりました。だんだんそのことが原因で師匠と距離ができてしまった。
───生志さんは前座のうちからいろいろな落語会に出られています。若手の登竜門である「にっかん飛切落語会」の常連でもありましたね。
生志 キャリアの長さではもう二つ目で、周りもみんなすぐになれるだろうって思ってたんですよ。TBSラジオでオーディションを受けたときも「二つ目にもうすぐなるんでしょ?」って言われて採用してもらった。レギュラーを4年半やって二つ目になったとたんに番組が終わったんですが(笑)。そういう意味では他の人とはちがう前座時代だったと思います。
立川談慶は名前からわかるとおり慶應義塾大学出身の最初の落語家である。…