男子高専生の日常 (木蓮和七生)
一枚之紙
何の変哲もない地方都市・井手市のはずれに、ひとつの学校がある。
学力レベルは県内でも中堅どころであるが、"高い就職率"を売りにするある種の古めかしさが漂う場所だ。
その学校――井手高専の学生会棟で、伊吹
時節は冬。期末試験も終わり、もうすぐ春休みに突入しようかという、2月のことだった。
「特例だって?」
「うん、特例。留学生扱いで転入ってことになってるけど」
話を持ってきたのは、クラスメイトであり同じ学生会メンバーである北条湊。
肩にかかる程度の美しい黒髪と整った顔立ちの美少女で、男子比率の高い高専においては
良くも悪くも目立たずにはいられない存在だ。
故に、彼女は玉石問わずあらゆる情報を他の人間より容易く得ることができたし、
彼女もまたそうした収集活動に楽しみを見出し、積極的に乗り出している。
湊から手渡された一枚のA4用紙は、この件に関する彼女の偵察行動の集大成だった。
「リーリヤ・アンドレーエヴナ・エルショヴァ、ロシア出身。個人的都合のため両親とともに日本へ移住?……日本語堪能、日本の中学レベルまでの基本的な学力は概ね問題なし。希望学科が
何かに気づいた表情で、流清が顔を上げる。
A4一枚とはいえ履歴書じみた資料に詰め込まれた情報量は相応のもので、彼の読み上げた内容はとんでもない勢いでの斜め読みにすぎない。
しかし、湊はニコニコと笑いながら二度頷いた。
「君が推察するとおりだと思うよ。先日行われた編入試験で彼女は見事に合格……
編入対象となったクラスは第一希望の情報工学科だね」
彼女自身は恥ずかしくて絶対に口に出すことなどありえないが、
始まってからもうすぐ一年も過ぎようかという友達付き合いを続けてきた理由は、彼がこうした振る舞いに長けているからであった。
聞くべき点は聞く。突っ込むべきでない野暮な問題に関しては沈黙ができる。
静と動を使い分けて操れる人物というのは中々得難いもので、仮面の裏側がどうであれ好奇心を抑えて沈黙を守れる点を湊は高く評価していた。
「俺達の学科じゃん」
「そう、問題はそこだよねー」
流星が資料を机に叩きつける。
本気で怒っているというよりは、半ばヤケになったことを演出するかのようであった。
「ついにエロゲー時空が三次元にまで影響を及ぼすようになったか、日本」
ため息混じりの声には、喜びより疲れの色がにじむ。
「……我々はこれでも高専1年で、ついでに僕は女子なんだけどね」
ついついツッコミを入れてしまう己の性が恨めしいと、湊は思う。
無論、向こうはそんなことを考えてもいないだろうが、並べて比較したときに沈黙という選択肢がそも浮かばないことに関して、若干の敗北感を持っていた。
「じゃあラノベ時空とでも言い直すか。とにかく、日本には若干の滞在経験があるらしいが、
高専について知ってる筈もねーだろうし……それで、本日の厄介事は」
「僕に専属付き人、チューターの役が降ってきたから君にも協力して欲しい。
主に……その、なんだ、僕ではできないことを頼むかもしれないから、そのつもりで」
歯切れの悪い言葉に流清が疑問そうな表情を浮かべる。
「はぁ?」
「僕だって万能じゃないから、一人じゃ対応しきれなくなったときに君の力をあてにするかもしれないってことさ」
要するにていよく巻き込む形だ。
彼女の言葉をどう思ったか、流清は叩きつけた資料をもう一度拾い上げ、左上に貼り付けられた顔写真に目をやる。日本でよく見られる証明写真のサイズに手で切り抜かれた形跡がある、幾分画質の荒いものだった。金色の髪をツインテールに伸ばした少女で、若干硬い表情でありながら十分に可愛い女子と呼べるだろう。
「対応、対応ねぇ。そうなる機会をなるべく減らすために同性のチューターを割り当てるんじゃねーのかい。個人的にはロシアからのお客様って時点で断りたいけど。まあ、なにもしない方が寝覚め悪そうだし仕方ないか」
井手高専の留学生制度は、国際協調の名の下に広く東南アジア地域から留学生を募っている。
条文の上では「留学生の国籍は問わないものとする」となってはいるものの、
欧米やアフリカ諸国などからは地理的・技術的・あるいは政治的な要因から、
今日まで留学の申し込みがなされることはなかった。
もちろん、ロシア――彼の国がソ連と呼ばれていた時代も当然――からの申請などあるはずもない。
ロシアの少女リーリヤ・アンドレーエヴナ・エルショヴァの転入は、「現在は日本国内に住んでいる」にも関わらず「おそらくは途中学年へねじ込むため」に「留学生扱い」で行われる。
さらに「日本語のよくできる」上に「前例のない西洋諸国からの人物」となれば、
誰だって首を突っ込むのを控えさせるほどに厄介な臭いが漂う。
湊も当然、余計な騒ぎを起こして面倒事になるのは御免だった。
「まあその写真で見るにしても、相当可愛い子だからね。
流清が目を引かれるのも無理はないねぇ」
からかうように、湊が笑う。
流清は若干むっとした顔をしたが、冷静なままに言葉を返してきた。
「問題は性格だけどな。……どんな方向に転んでも、うちの連中なら喜ぶ奴がいそうで、本当に怖いぜ」
「やめてよ、想像できるからさ」
彼らの所属する情報工学科は、この上なく割り切って紹介するならば「コンピュータ学部」のようなもので、集まる人間は大なり小なりパーソナル・コンピュータに慣れ親しんでいる者ばかりだ。
昨今のゲーム、アニメ、ライトノベルなどに詳しい人物も多く、流清が言うところの「二次元萌えオタク」と分類される、いわゆるオタクじみた人間が全体の半数近くを占める。
その中で、平然と恋人持ちのサッカー部員や、イケメンバスケ部員、あるいは湊のような(自称)普通の女子までもが混在する空間こそが、高専と名付けられた学校の本質であった。
「それでね、早速。初日に教科書販売あるでしょ?あの日は半ドンだから、
午後からちょっと井手市内を案内してまわろうかと思ってるんだけど」
両手に花じゃ風聞が悪いだろうからさ、と前置きして、湊は続けた。
「あんた通生(通学生)でしょ、寮生(寮学生)で誰かひとり連れ出せない?」
「……別にいいけど、なんでまた寮生」
疑問そうな少年に対して、湊が人差し指を立ててくるくると回す。
「君の知らないことを知ってるかもしれないという無根拠な期待」
「そりゃあ視点が違えばそうかもしれんが、そもそも女二人でよくね」
はぁ、と今度は湊がため息をつく番であった。
「君は本当に鈍いねぇ。乙女心を少しは察したらどうなんだい?」
「……オトメゴコロ?なんだいそりゃ、何かのジョークか」
彼女の言を鼻で笑う流清。
確かに、このような浮ついた言舌で何かを期待するほどに彼は純粋ではない。
だが、控えめにせず、率直に述べるなら、少しばかりカチンと来た。
目の前にいるはずの自分が、まるでアニメのキャラクターであるかのように、
遠い存在と扱われてしまったような気がして。
当然表情には出したりしない、しないと心がけたつもりではあるが、
徹しきれたかについて自信が持てなかった。
「ま、まあ、僕と君との恋愛云々はひとまず置いて考えてくれよ。
君は性格がそれなりの美少女と一緒に過ごして、不快になることがあるかい?」
「……なるほど、理解した。なるべくイケメンを見繕っておくが、ロシア人の好みまでは知らんぞ」
「それは期待しないさ。……相手が下品じゃないなら、異性と過ごす時間はそれなりに楽しいものだから、むしろそちらの方を重視してくれるとありがたいんだけどね」
無茶な要求をしている、という自覚はあった。
年頃の男子、来年からは2年生とはいえ、まだまだ中学生に毛が生えたような程度の連中だ。
眼前にいる相手のように、何事にも例外はあるのだけれど。
「あいよ」
「無理ばっかり言ってごめんね」
彼女は別に、学生会の会長ではない。
それでもこの1年間、面白そうなことがあれば尽く首を突っ込みまくった湊に対して、
何くれとなくサポートをしてくれていた。
湊が美少女だというのも理由として無いではないだろうが、
どうも彼は表舞台に立つよりは裏方作業のほうが好みであるらしい。
他の男子と組んで行動する時や、体育の授業などでチームプレーを要求された時も、
自然と一歩引いた視点で足らないところを補うかのように動いていたのが印象的だった。
――そこまで思い浮かべて、自分がどれだけ彼のことを目で追っていたかを自覚させられ、愕然とする。慌てて表情を取り繕った彼女は、この問題はしっかり再度考える必要が有るぞ、と心に留めておくことにした。
「いつものことさ」
幸い、流清は彼女から目を逸らしており、何か見つかった素振りはないようだ。
苦笑いすら浮かべないままで、彼が呟く。
「感謝してるから……流清」
めったにやらない名前呼びでさえも、眉を跳ね上げさせるにとどまるのみ。
これが意識して朴念仁を演じているのか否かについては、怪しいところ。
知り合ってからまだわずかに1年未満、自分が、あるいは流清が、
恋人同士のような関係を望んでいるのかどうか、湊にはどうも判別がつかなかった。
放課後の学生会棟、事務室には彼ら二人きりというのは、日常では無いにせよ何度も発生してきたケースだ。妙に意識してしまったり……しないわけではないが、努めて考えないようにするぐらいならできる。
げに慣れとは恐ろしいものよ、と密かに思った。
「まあ別に感謝はよろしいんですけど、厄介ごとの爆弾に対して世話を焼きすぎじゃないですかね
その問に関する答えならば、いつだってひとつに決まっている。
「だって面白そうでしょう?」
心を持ち直して、ふわりと微笑む。
わずかに流清の目が見開いたのを、彼女は見逃さなかった。
彼も健全な男子なのだ、と再認識すれば、やがて作り笑いでなく本当の笑みがこぼれる。
「家庭の事情までは知らないし、多分知る必要もないんだよ。それら至極プライベートな領域のぶんを差し引いてでも、新しい転入生との出会いは楽しそうだから」
今度こそ呆れたとばかりに肩をすくめた流清に対し、湊は朗々と宣言する。
「きっと、来年度からの高専生活は、最高に愉快な思い出となるだろうよ」
美少女とか出ます。