「勝者には何もやるな」。米作家ヘミングウェーが一九三三年に書いた、短編集の題名である。「勝者に報酬はない」という訳もあるが、「何もやるな」の方が心に切り込む鋭さがある▼ソチ五輪のフィギュアスケート男子で羽生結弦選手が優勝した。快挙である。ヘミングウェーではないが、勝者の羽生選手には何もいらないだろう▼彼は勝った。その過程での努力、成長。それ以上の「報酬」はない。「勝者には何もやるな」は最大の賛辞である。未来にも勝利が待っていることだろう▼六位の高橋大輔選手。これで引退とも聞く。彼には「何か」をあげたい。男子フィギュアを長く引っ張った。二〇一一年の震災以降の暗い空気。何となく心が晴れぬ一時期、ふと見た高橋選手のスケートに慰められた人もいるはずだ。そういう時代と巡り合わせた選手である▼十四日のフリー。こんなに明るい顔で演技する人だったか。心から笑っている。喜んでいる。ジャンプ後の着氷は乱れたかもしれないが、そんなことは、もうどうでもいい。精いっぱいやる。滑ることが楽しくてたまらない。気持ちが伝わる▼プログラムの曲はビートルズの「イエスタデイ」から始まった。リンクに初めて立ったのは二十年前の同じ日という。自身の二十年間という「昨日」。震災という日本の「昨日」。そして明日へ。演技にそんな伝言を見た。