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【スポーツ】

震災忘れさせない 羽生 はい上がる自分がいた

2014年2月16日 紙面から

フリー演技を終え、リンクに両手をつく羽生結弦(内山田正夫撮影)

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◇ソチ五輪フィギュア男子

 表彰式後の会見。羽生はずっと険しい顔をしていた。演技内容への不満だけではない。東日本大震災に関する質問をされ、考えていた。

 「復興に何ができたのかと問われると、僕は何ができたのかな。実際金メダリストになったけど、僕1人が頑張っても、手助けになるわけではない。無力感を覚える」

 2011年3月11日、仙台市内で練習中に被災した。リンクには一般客がいた。避難誘導する間に逃げ遅れた。天井からボルトが落ちる。ガラス張りの窓やドアが割れる音が聞こえる。壁が崩れる。停電で氷が溶けた。足が動かず、はうように外へ。記憶は鮮明だ。

 自宅は全壊認定。4日間の避難所生活が待っていた。「人間の感情って限度がないんだな」。悲しみ、つらさ…。スケートを辞めようとも思った。ただ、そこで気付く。

 「極限までマイナスになったときに、そこからはい上がろうとする自分がいた」

 練習時間と場所を求めて、全国のアイスショーを転々。60カ所以上を訪れた。名古屋スポーツセンター(名古屋市中区)の長江和弘社長は「ショーの後も延々と4回転ジャンプを繰り返していた」と振り返る。

 あれから間もなく3年。世間から震災の記憶は薄れつつある。自身も12年春、拠点をカナダに移した。被災地を思う機会は減っている。だからこんな思いがある。

 「自分が結果を出して、演技をすることで震災が話題になってくれればうれしい」

 会見で羽生は熟考してから口を開いた。「五輪の金メダリストになれたからこそ、ここから復興のためにできることがある。そのためのスタートなんじゃないかな」。復興は途上。金メダリストの思いは世界に発信された。 (高橋雅人)

 

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