ぐるりみち。

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「転勤族」の家庭で育った僕の話

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photo by cindy47452

 

 たまには——と言っても割と頻繁に書いているけれど——僕自身についての話をば。定期的に自分語りをしないと、自己顕示欲と承認欲求をこじらせて吐血してしまう体質なのです。

 

※「転勤族の特徴はこうだ!」という話ではなく、徹頭徹尾、主観的な自分語りです。

 

 

引っ越しの多かった小学生時代

 僕の家庭は、いわゆる「転勤族」と呼ばれるものだった。一年に一回以上は引っ越すような、常に飛び回っているものではなかったけれど、一般的な家庭と比べれば、引っ越しの回数は多かったように思う。

 北は北海道、南は東海地方まで。それよりも西に住んだことはないので、「日本全国、いろんな土地のことを知ってるぜ!」なんてことはとても言えない。それに、ほとんどが関東圏だったこともあるし。

 

 とは言え、小学生時代はなかなかにハードなものだった。6年間で、通った小学校は4校。その中で関わってきた人間は、結構な数になると思う。——今となっては、顔と名前を思い出せる人はその一部になるだろうけれど。

 試しに、ちょっと思い出そうとしてみた。通っていた学校ごとに、特に仲の良かった友達は5人ずつ以上は顔と名前が浮かべられる(顔はうろ覚えだけど、雰囲気的なもので)。担任の先生は、顔か名前、どちらかしか思い出せない人もいるけれど、何となく覚えている。どんなキャラで、どんな話をしたのかも。

 

 それはともかく。常に「転校生」であった僕は、引っ越しが決まると人間関係がリセットされ、新しい人間関係を築くことに四苦八苦することとなった。転校生と言えば、漫画やアニメでは、物語を展開させるキーパーソン。もちろん現実では、曲がり角でぶつかって、「あーっ!朝、私のスカート覗いた奴ー!」なんて展開はありません。そもそも小学生である。

 今となって考えてみれば、毎回の職員室登校から始まり、担任との対面、クラスでの「自己紹介」と、根が(自称)繊細な僕は、いつも緊張しっ放しだった。友達できるかな。変な奴だと思われないかな。良い人ばかりだといいな。そんなことが、頭の中で堂々巡りしていた。

 

 でもそこは、どこでも優等生で通っていた、幼き日の純粋な僕ちゃん。「はじめまして!!◯◯県から来ました!!けいろーといいます!!サッカーと本とゲームが好きです!!よろしくお願いします!!」と、元気いっぱいにご挨拶。変な失敗はしたことがなかったと思う。忘れているだけかもしれないけれど。

 受け入れてくれるクラスメイトたちも、同じく幼い小学生。どこに行っても、やっぱり先生は、「みんなー!仲良くしましょうねー!」とお決まりの台詞でクラスをまとめていたので、溶け込むのは難しくなかった。休み時間になれば、お決まりの「どこから来たのー?」「サッカー好きなのー?」「今はどこに住んでるのー?」といった質問タイムもあるので。

 

 ただし、6年生の時に転校して入った学校は、なんとなく、「よそ者お断り」感があって、少し戸惑った覚えがある。それが、思春期に入るか入らないかという年齢によるものなのか、はたまたその学校特有の閉鎖性によるものだったのか、それは分からない。この学校については、後で別にまとめてみようと思う。

 

 とにかく、僕はどこに行っても「転校生」というキャラがついて回っていたこともあって、これは我ながら、その成長過程に並々ならぬ影響を与えていたと思う。それによって、良かったと思うこともある一方で、変な方向に歪んでしまったような面もあるかもしれない。同調圧力の働きがちな「小学校の教室」という空間において、異質な存在として飛び込むことは、両極端な結果をもたらすと思うのです。

 

「転校生」という「キャラ」の強さ

 この歳になってから、友達にこのような話をすると、たまにこう言われることがある。

「転勤族って、いろいろなところへ行っていろいろな人と話すから、コミュニケーション能力が高そうだよねー!楽しそうだし、いいなー!」

 僕の考えでは、これは半分以上、間違っている。ぶっちゃけ、転校生にはコミュ力など必要ない。いや、転校生だからこそ、コミュ力がなくてもやっていける。

 

 なぜかと言えば、単純な話、引っ越してきたというそれだけで、「転校生」というキャラクターを獲得しているから。既に自らの立ち位置が確定されている状態で、少なくとも他よりは目立ち、「気にかけてもらえる」存在。

 転校生がコミュニケーションにおいて有利なのは、そこにいる人間とは違う「経験」を自分の武器として持っていることだと、僕は思う。基本的に、同じ土地に住んで、同じように育って、同じような生活を続けているその学校の生徒とは異なり、彼らの知らない話や経験を持っている転校生は、イレギュラーとして、ほぼ間違いなく興味関心の対象となる。

 

 前述の、「質問タイム」がその最初の段階。そして、イレギュラーである僕らにとっては、ここでの「うまくやる」ことの重要性がめっさ高い。どんな質問にも愛想良く答えて、誰とも仲良く、クラスに溶け込もうとすれば、周囲もそれに答えてくれる。彼らと自分の間に「仲間意識」さえ芽生えてしまえば、とりあえずの立ち位置は安定するはずだ。

 でも逆に、機嫌が悪そうだったり、無視したりと、「感じが悪い」ように捉えられてしまったら、さあ大変。僕らは「第一印象」が全てを決めてしまうことをよく知っている。悪く思われてしまい、いじめに発展したらもう取り返しがつかない。幼いガキンチョ1人の力で、クラスメイト数十人の印象を軌道修正するなんざ至難の技。失敗=終わりを意味していると言っても、過言ではない。

 

 また、「転校生」というキャラも、数ヶ月経てば慣れるもので。その数ヶ月の間にクラスに溶け込み、自分のキャラを確立しなければ、最近の言葉で言う「スクールカースト」の下位に属することとなり、いじめられるリスクが高まる。周囲に同調しつつ、自分なりのキャラを持って、クラス内での立ち位置を確保することは重要だ。

 僕の場合は、小学校時代の通知表を見ると、全ての学年で「真面目」の類の評価を先生からされており、勉強もできる優等生だったので、その点はうまくやっていた。運動は苦手だったけれど、休み時間には自分から積極的にクラスメイトを誘って、校庭に飛び出していったので、常に仲間のリーダー的存在として立ち振る舞っていた記憶がある。

 

 そんな事情もあって、転勤族で育った人は、コミュ力はともかく、他と比べて協調性が高い印象が強い。小学校の教室は戦場なのです。最近、小中学生が「キャラ」を演じることに疲れて云々……という議論もよく聞くようになったけれど、転校生の場合は、その重圧がもっとすごいんじゃないだろうか。様々な環境を飛び回り、常にそこで「キャラを演じ」続けるということは、自我、というか、自分のアイデンティティの形成に、変な影響を与えかねない。

 

複数の「仮面」を使い分ける

 小学4年生の頃、担任の先生にこんなことを言われた。

「けいろーくんは、真面目だったり、ひょうきん者だったり、泣き虫だったり、たくさんの『仮面』を持っているよねー」

 それを聞いた当時の僕は、「なんかよくわかんないけど、たぶんほめられているんだな!」と受け取ったように記憶している。仮面とか、なんかかっこいいじゃん。「複数の仮面を持つ男」……ほれぼれするぜ!

 この言葉、なぜか強く強く印象に残って、現在に至るまで忘れたことはない。今となって考えてみれば、僕の本質を的確に突いたものであったように思う。

 

 新しい環境で生活を始める時、人間関係を形成するにあたって、まず何よりもそこで「協調」することが急務となる。何度も書いているように、溶け込むこと。空気を読むこと。そこだけの、ローカルマナーや習慣を覚えること。

 そして、自分の立ち位置を確保し、居場所を作るのに最適な方法が、「そこにいないキャラ」「そこで求められるキャラ」を演じることだと僕は思う。実際、僕は今に至るまで、ずっとそうしてきた。

 

 みんなをまとめる者がいなければリーダーを、真面目くんばかりの中ではお調子者を、アホなボケ役ばかりの中ではツッコミ役を、毒舌の受け皿がいなければいじられキャラを、それぞれ、演じてきた。

 どこの学校、コミュニティへ行っても、人間関係における役回り、コミュニケーションのやり取りを見ていると、ある種のテンプレート的な流れに沿っていることが分かる。それを見て、把握し、そこにいない必要なキャラを導き出して、演じる。そんな作業を、無意識に続けていたように思う。

 

 とは言っても、小学生のコミュニティでそんなに複数のキャラを使い分ける必要もなく。基本的には「真面目な優等生」、たまに「ひょうきんなお調子者」のキャラをちょい出しすることで、自分のキャラを確立していた。ギャップ萌えですね。人生のモテ期は小学生の頃に使い果たしました。

 

 この、複数の「キャラ」を演じ分けること。転校生にとっては良い立ち回り方かもしれないけれど、これを続けていると、いつかどこかで悩むことになる。「あれ?僕っていったい、どんな人間だったっけ?」

 これは、自己紹介で話すような、「真面目」「大人しい」といった、言葉にできる性格どうの、という話とは別のもの。自分が口にする「自分」と、他人が評価する「自分」の差異に気付いて、訳が分からなくなり、必要以上に「他人から見た自分」を気にし過ぎるようになってしまう。で、結果、「自分」が分からなくなる。

 

 この辺の話は、「転校生」に限ったものじゃないと思う。きっと、複数の環境で過ごしてきて、周囲に合わせることを無意識に実践し、良い子であり続けようと何かを「演じ続けてきた」人の共通認識なんじゃないかしら。

 それがつまり、複数の「仮面」を持つ、ということ。これを指摘してくれたのは、当時の担任の先生。まだ20代の、若い女の先生でした。今、どんな先生になっているんだろう。

 

自分は「特別」という意識

 前半に書いた、6年生の時に転校して入った学校、そこで僕は、いじめの対象となった。

 

 もともと、転校初日から違和感を覚えていた。それまで通り、変わらない自己紹介をしても、反応が芳しくない。誰も話しかけてこないばかりか、こちらから話しかけても反応が鈍い。6年生ともなれば、「みんな仲良く!」なんてものに反発し出すことも分かるけれど、それにしてもあの学校の「よそ者お断り」感は異常だった。

 

 ゲームやサッカーの話題を駆使して、なんとかクラスにそこそこ溶け込めるようにはなったのだけれど、2学期も終盤の頃、なんというか「やらかして」しまい、徐々にいじめられるようになった。具体的な話は、特定が怖いのでしませんが。

 きっかけ自体は、頑固な自分の性質が招いたことで、ほぼ自業自得としか言えないアホなものだったのだけれど、そこで、「自分が『特別』だと思い込んでいた」ことに気付かされた。

 

 前にも書いたように、「転校生」はそれだけで特殊性を帯びている。それゆえに、僕は周囲にうまく溶け込みつつも、どこかで「周囲とは違う」自分に酔っていたのだと思う。経験豊富だし、周囲が知らないことを知っているし、手紙をやり取りする友達が各地にいる。まるで、マンガの主人公みたいじゃないか。

 幼い頃の特殊性は、それだけで自尊心・自己肯定感を満たすアイデンティティとなる。けれど、「転校生」なんて何の益も珍しさもない点にアイデンティティを見出した結果、痛い目を見た、ぼくちゃんなのであった。小学生のうちに気付けたのは良かったけれど、その後は、何が何だか分からなくなって、酷い中学時代を過ごした模様。

 

人間関係とか、距離感とか

 そんな少年時代を過ごした結果、今の僕があるわけですが、よく意識に上るのは、人と人、人と物などの「距離感」について。出会いと別れが身近過ぎる少年時代を送った結果、周囲と比べると、なんとなく人間関係の見方がゆがんでいるように思えてならない。

 

 今の人間関係に関して言えば、かなり固執している面はあると思う。この歳になって、せっかく長く付き合える友達ができたのだから、それは大切にしていきたい。いざこざがあれば全力で仲裁に入るし、悩んでいるなら相談に乗りたい。本当にそう思っている……つもり。

 けれど一方では、一人が楽だと感じることも多い。家族や友達、身近なしがらみから解き放たれて、ひとりぼっちでぶらぶらと旅をしたり、どっかの山奥に引きこもりたいと思うこともある。これはまあ、一種の憧れというか、逃避だと思うけれど。ふるさとが、故郷がない、というのもあるのかな。

 

 自分の身近な人に対して、どこまで関わっていいのか、どこまで踏み込んでいいのか。そんなことを、ずっとずっと考えてきた。人それぞれに心地の良い距離感があって、たまにそれを無視して踏み込みたいと思うけれど、やっぱりできなくて。仲良くなりたい人がいても、相手が自分に持っている評価を気にして、何もできなくて。

 

 神経質だったり、無関心だったり、女々しかったり。結局、この歳になっても、僕は自分が分からない。だから、友達や異性との付き合い方、距離感も分からない。告白?1回しかしたことないよーだ!しかも中途半端に不発。

 周囲からの評価も常にまちまちで、「果たして僕という人間は実態として観測されているんだろうか?」なんてアホなことまで考える始末。あ、ネタですよ。でも、思春期の経験やら関係性やら、いろいろなものをこじらせてしまった結果が、「これ」なんだろう。

 

 うだうだと書いているとまとまりそうにないので、この辺で。転勤族とか関係なく、小さな頃の経験やトラウマをこじらせるのはよろしくないっすね。

 

 

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