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2014-02-15

[]マルサスの人口急増の経済マルサスの人口急増の経済学を含むブックマーク

 いまも生きている経済学の古典を紹介したい。

 人間は必ず死ぬ。生きる時間が有限であり、その終着点に希望がないことが、かえって人間の生活を幸福にさえするのだ。マルサスの人間観というのは一言でいえばこう要約することができる。今日、人口法則の名称で有名な経済学者トマス・ロバート・マルサスは、他方で安易な啓蒙思想―人類が理想的な完成形態に向かうという18世紀に蔓延した考え方―に冷水を浴びせたことで、経済思想の歴史の中で孤絶とでもいっていい地位を占めている。

 マルサスの反啓蒙的な立場が際立っているのが、その天才的な処女作『人口論』(1799年初版)であるのは言うまでもない。マルサスは個々の人間の将来に待ち受ける絶望(=死という終末)があるゆえに、人々は幸福を実感できるという「逆説」を、人類全体に適用した。人間は限られた時間だからこそ、一刻一刻を輝かしいものにできる、という信念であった。

 マルサスは人類の特徴のうち二点にまず注目する。ひとつは人間の生存に食物の摂取が必要であること、もう一つは男女の性的な欲望が非常に強いことである。この公準を前提にすると、マルサスは人間性の改善や生活の豊かさが続くことは想定できないと指摘した。

 まず性的の欲望の強さは、人口を増加させる。この増加は等比数列的なスピードであり、世界人口を10億とすれば、それは25年ごとに倍増し、その比率は1,2,4,8、‥‥となるだろう。それに対して土地からの農産物の収穫は次第に逓減していき、その収穫量は等差数列的なスピード(1,2,3,4、‥‥)でしか増加しないだろう。そうなると、人口の増加率が食糧の生産増加率を上回り、やがて人口を養うだけの食糧よりも、人口そのものの方が上回ってしまうだろう、とマルサスは指摘した。

 マルサスの予言は非常に悲観的なものであり、この人口を養えるだけの食糧生産の壁に、人口が突きあたるたびに、人類は「積極的制限」を採用していたという。それは死亡率の増加に顕著に示される。特にマルサスは社会の下層階級の状況に注目している。マルサスのいう人口の「積極的制限」とは、下層階級の子供たちが栄養不良、健康状態の不良などの困窮から早期に死亡してしまうことに特に注目したものである。マルサスの『人口論』のビジョンはひたすら悲観的だ。

しかしマルサスは、『人口論』の度重なる再版の過程で「予防的制限」という考えを採用するに至っている。『人口論』初版の後に、マルサスが北欧に旅行した経験に基づく。マルサスは「予防的制限」にとしては、性行為の自制、避妊、婚期を遅らせることなどを説いている。これらの事象は、マルサスが北欧で実際に見聞したものである。マルサスの北欧旅行記は、なかなかユーモアと彼の社交性がよくでた面白いもので、現地の美女との交遊を匂わせたり、また北欧の女性への賞賛と他方での男性があまり見た目がよくない、などと書きたい放題の記述に満ちている。しかし「予防的制限」はあくまでも対処療法であり、マルサスは人口法則からくる「陰うつな予測」を基本的に修正することはなかった。

 さてマルサスの人口法則は、今日の貧困問題を考えるときにもひとつの論点を提起しているといえる。マルサスは当時のイングランドの救貧法の諸政策、さらには富裕な階級から貧困階級への所得再分配にも、それが貧しいものの状態をさらに悪化させると同時に、さらには国民全体の生活まで脅威になると説いた。

 例えば貧困階級への食糧援助を考えてみる。より多く食糧を得たことで貧困階級の人口が増加するだろう。そうすると以前よりも国民全員がより少ない食糧を分かち合わなければならなくなるだろう。つまり貧民の生活を改善することが、結局は貧民自身はもちろんのこと国民全体の生活の水準を押し下げてしまう。この点は『人口論』の初版から、彼の経済学的処女作である「食料高価論」(1800年)で、救貧を目指した食料援助が、食品の高価格をもたらすという議論に発展することになる。

 またマルサスは富裕な者から貧しい者へ再分配によって、それは「勤労から他者への依存」という再分配になってしまっていると指摘している。貧しい者に所得を移転しても彼らは居酒屋で消費してしまい、国民全体の貯蓄を損なうだろう、というのがマルサスの所得分配論の核心であろう。この貧者への所得再分配が、勤労を損ない、貯蓄を減少させることで、経済成長を抑制するというマルサスの主張は、今日までなんらかの形で継続している議論のあり方である。例えば富裕階層への課税が、その富裕階層のやる気を損ねてしまい、経済成長が低迷する、という一部の「市場原理主義者」の主張を想起させる。

 このマルサスの『人口論』は、アダム・スミス経済成長論への反論を意図してもいた。マルサスによればスミスは一種の「トリクルダウン」理論を説いたとみなしている。つまり社会の富の増大が、富裕階級から滴り落ちて、やがて貧困階級の生活も改善するだろう、という見解である。しかしそのような改善の可能性はないことは、マルサスの人口法則の適用からすれば自明だろう。食料生産が一定ならば、富の増大は、貧困階級の人々の生活必需品や慰安品に対する購買力を低めてしまう、とマルサスは書いている。また工業化や商業化に対してもマルサスは悲観的である。工業化や商業化することが、労働を維持するための基金(マルサスによればそれは農業生産物そのものだろう)は停滞するか減少してしまうだろう。農業に特化する国は人口の増加が速く、商業や工業に特化した国は人口が停滞的であるだろう。しかしどの特化のパターンであってもやがてマルサスの人口法則が適用されるかぎり、その結果は人類に「陰鬱な予測」を提供するものにしかすぎないのである。

 では冒頭に戻って、このような一種のディストピア的世界観の中で、マルサスはどんな幸福観を語りえたのだろうか。マルサスは悲惨な状況が刺激になることで社会的な共感や、自分を道徳的な害悪を削減しようという動機が芽生えると説いてる。悪や悲惨あってこそ、善と幸福を求める心が生まれるという「逆説」だ。これはこれでなかなか面白い見解ではあるだろう。

 ただし今日、マルサスの人口法則はそのままの形では維持できない。なぜなら先進国では、マルサスの法則のように爆発的に人口が増加することなく、むしろ生活水準の向上とともに人口は減少しているからだ。そして人口増加ではなく、人口減少と高齢化が日本をはじめ多くの国の将来的な発展に影を落とし始めている。

ただマルサスが予言したような、人口の指数的爆発(最初は対して増えないが、ある段階から爆発的に増加する現象)はみられないが、他方で深刻な指数的爆発が生じて、我々の生活を脅かしている。それは「機械との競争」だ。これについては別の機会で考えてみたい。

『電気と工事』2014年2月号掲載元原稿

[]「人格」ならぬ「猫格」の経済「人格」ならぬ「猫格」の経済学 を含むブックマーク

「人格」ならぬ「猫格」の経済

 先日、猫と猫族(ライオンやチーター)を話題にした経済学のトークイベントを行った。猫や猫族がなんで経済学のテーマになるのか? 実は大いに経済学に関係するのである。例えば、リーマンショック以降の米国では、捨て猫が社会問題化している。経済的負担からか、捨て猫(猫ばかりではなく多様な動物種)が急増して、それにどう対応するかが課題になっている。これを「ペットの過剰人口問題」といっている。

 例えば、日本でもなんらかの理由で飼えなくなったペットをどうするかは、昔から深刻な課題として取り組まれてきた。新しい飼い主やボランティア団体の努力で、猫たちが素晴らしい生を全うするにこしたことはないが、少なからざる数の猫たちが、動物保護センターなどでいまでも「殺処分」」という悲劇に直面している。

 日本の経済学を打ち立てたともいわれる福田徳三が、大正時代に書いた『社会政策と階級闘争』という本の中に、猫の人格、ならぬ「猫格」の問題にふれている。この本は、当時の最大の経済問題であって労働者の地位向上を実現するための方法が説かれていた。経済的な貧困が、労働者の人格を喪失させてしまう。経済的な貧困を正すことこそが、労働者いや人間一般の人格やモラルを向上させて、よりよき生を実現するための必要最低条件である。そう福田は考えた。福田の経済思想は、いわゆる「福祉国家」のビジョンに先駆するものとして今日知られている。

 その福田が、「人格」だけではなく、「猫格」にも配慮していたのである。福田は、自分が飼っている“みい”にも労働者と同じように人格と個性をもっていることを述べて、その人格を尊重すべきだとした。福田は次のように書いている。

「みいは他の猫とは違う。他の猫は私にとって同じにしか見えないが、みいだけ特に可愛らしくて、殆ど猫らしく思えない。家族の一員であるかのごとく思える」。

 生前の福田は、根っからの江戸っ子で、怒るとすぐゲンコツがとんでくることで知られたが、本当は猫にも人にも優しい純粋な心情の経済学者だった。この福田の猫の「人格」=猫格からいえば、飼う人間がいないだけで「殺処分」に遭遇してしまうなど、まさに許容できない事態であろう。

 ではなぜ「捨て猫」が生まれてしまうのだろうか?

 いくつかの理由が考えられる。ここでは経済学の立場から言えそうなことを挙げてみよう。第1に、最近の不景気によって猫を飼育する費用が重荷になってしまい、猫を手放してしまったということが考えられる。ただ現実の世界の苦しさを、猫にいやしてもらう効果も考えれば、一概に不景気イコール捨て猫の増加、ともいえない気もする。実際に、捨て猫(そして殺処分)の数は実は80年代後半から景気の好不況に関係なく一貫して減少傾向にある。もちろん減少傾向にあるからといって捨て猫(殺処分)がなくなったり、また無視していい数ではない。

 また80年代以降、この種の金銭的な負担を軽減するために、自治体によっては、猫の不妊治療に補助金を出すなどして、猫の過剰人口問題に役立てているケースも多い。この不妊治療を、より一般的な仕組みに替えるにはどうしたらいいだろうか。そのための財源は、猫を購入するときに、避妊を選択しない飼い主や、または他の動物種を含めた購入層に広く薄く課税することが考えられる。「人頭税」ならぬ「ペット頭数税」の発想だ。

 第2に、嗜好の変化の可能性を考えることができる。いわゆる流行が過ぎてしまっていままで飼っていた猫に飽きてしまい、それで捨ててしまう。これはいわば、猫の市場が不備なため起こる問題だといえる。なぜなら古本とか古着のように再販市場が完備していれば、そこに古猫(?!)を持っていって現金などと交換できるので、捨て猫の事態は避けられるからだ。

だが、このような営利性をみたす「古猫」市場は存在しない。なぜだろうか? 考えられる理由の第1として、市場における「情報の不完全性」が挙げられる。古猫の売手が買手に対してその古猫についての情報をきちんと説明したり提供しない状況のことだ。例えば、純粋種であると称しながら実は雑種であるとか、または病気やその他の問題を抱える猫をそうではないと偽って売ろうとするとか、そのようなケースが想定できる。

 この問題は経済学では「逆選択」とか「レモン市場」のケースとして有名なものだ。いわば品質のいい猫を古猫市場で買いたくても、品質の悪い猫ばかりが流通しているので健全な市場の機能が果たせないという場合だ。ちなみに「レモン」とは中古車市場において欠陥のある車を指す俗語です。

 では古猫市場を成立させるのはどうしたらいいか? まず猫の血統をしっかりと確保することが重要だろう。好むと好まざるとにかかわらず、猫の雑種化を防ぎ、血統を確保することが、猫の再販市場を確立するための大きな前提条件となる。

 ところで、営利性のある古猫市場がなくても、現実にはボランティア団体の活動によって、非営利的な古猫の取引が成立している。それが先ほどの捨て猫や殺処分の急減少トレンドの原因のひとつとなっているとも考えることができる。ただし営利性のある市場構築ができていないのはいま書いた理由(情報の不完全性)が大きいだろう。

 ところで、最近のアンケート調査では、男女によって、飼育できなくなった猫をどうするか、その選択に興味深い結果がでている。女性は、必死になって新しい飼い主を自分で探すか、またはボランティア団体の協力を得ようとする。ところが、男性の方は、まっさきに動物愛護センターに持っていくことを考えてしまうという。この男性の非情な選択バイアスは、「猫格」の経済学からいえば、対抗すべきものだろう。男性が追加的にペットを飼育するときには、女性に比べてさきほどのペット税を重くすることなどが考えられる。

 捨て猫(殺処分)が、80年代後半以降、今日に至るまでかなりのスピードで減少している理由を考えてみると、上記したように、1)不妊治療の加速、2)ボランティア団体の努力、3)モラルの向上(飼い猫を安易に捨てない、または新しい飼い主をきちんと見つける)、などが複合して実現している可能性が強い。だが、他方でもっとシビアな見方もできる。つまり殺処分しすぎてしまった結果だ、という見方だ。

 捨て猫のデータをみると、興味深い事実がいくつかある。例えば、捨てられている猫の大半が子猫だということだ。これは子猫の方がひとなつこく、また容易に人の手で「保護」されてしまうからなのだろうか? しかも引き取り手が多く現れるのは、年をとった猫の方であり、子猫はあまり新しい飼い手が見つからないという事実もある。このことも今後、さらに考察しなくてはいけない問題だろう。

 猫、いやペット一般を考えることは、人間のありよう、人間の経済の営みと切り離すことができない重要な問いだといえる。

『電気と工事』2014年1月号掲載の元原稿

JackJack 2014/02/16 16:10 「猫ちゃんと猫ちゃん族の経済学トークイベント」(出演:田中秀臣・古谷経衡・遠藤 恭葉)を興味深く拝見しました。 ペット飼育が経済学に直結しているなんて、考えもつきませんでした。経済学は、人の営み全てに関わるわけですね。今後も”意外な”経済トークを期待しています。(できれば老後、先生の大学で授業を受けたいです。現在53歳会社員)