沖縄が本土に突きつける言葉が、近年はとみに険しい。

 「差別」は当たり前のように飛び交うし、「植民地支配」や「独立」も耳にする。

 なぜか。

 私たちメディアはよく「在日米軍基地の74%が沖縄に集中している」と説明する。「札束でほおをたたくような政府の手法への反発」とも書く。

 けれど、どれほど沖縄の思いを伝えられているだろうか。もどかしさを覚える。

 たぶん言葉は、背景の理解なしには伝わらないものなのだ。だから歴史の話から始めたい。

■継続中の人権侵害

 沖縄の人たちの言葉には歴史への情念がにじんで、はっとさせられることがある。

 先月、大田昌秀・元沖縄県知事と話したときは「1級の日本人」という言葉が心にひっかかった。「あれだけ『1級の日本人』として認められることをやったのに、日本から切り離されて」と大田さんは言った。

 明治政府に琉球王国をとりつぶされた沖縄の人たちは、皇民化教育を受け、本土防衛のための沖縄戦で4人に1人が命を落とした。師範学校生だった大田さんも戦い、九死に一生を得た。それほど日本に尽くしたのに、沖縄は戦後27年間も米軍統治下に置かれた。

 沖縄の歴史は、日本の国益のために犠牲を払う繰り返しだった。その一つが米軍基地だ。

 沖縄への基地集中が進んだのは米軍統治下でのことだ。

 当時の沖縄には人権を保障する日米の憲法は及ばなかった。米軍は県民に銃剣を突きつけ、ブルドーザーで農地や家屋を押し潰した。本土で反基地闘争が高まると、日米両政府は本土にいた海兵隊を沖縄に移し、そのために基地を広げた。

 日本復帰から42年を経ても奪われた土地は戻らない。基地問題は継続中の人権侵害であり、本土からのしわ寄せなのだ。

■広がる記憶ギャップ

 42年の間に、本土と沖縄はもっと溶けあっていてもいいはずだ。なのにそうならない。

 本土では沖縄戦などの記憶が薄れ、何が沖縄を傷つけるかも忘れてしまう。傷口に塩を塗られるたび、沖縄では苦い歴史がよみがえる。時の経過とともに記憶のギャップが広がり、亀裂を深めている。

 安倍政権は昨年、本土が独立した「主権回復の日」に式典を催した。沖縄を米軍の下に置き去りにした1952年のその日を祝おうとしたのだ。本土の歴史だけが日本の歴史のように扱う無神経さが反発を招いた。

 やはり昨年、沖縄の全市町村長、議長らがオスプレイの配備撤回を求めて東京でデモをしたら、日の丸を手にした沿道の人たちに「シナの手先」「日本から出ていけ」とののしられた。

 デモの中にいた翁長(おなが)雄志(たけし)・那覇市長(元自民党県連幹事長)は「もがき苦しむ沖縄を、中国に近いんじゃないかとみられると耐えきれない」と話す。

 翁長さんは、沖縄の空気の厳しさは「本土の人はみな同じ」と感じたせいだという。

 かつては、自民党政権は基地負担を強いているが、理解ある人が本土にいると思うことができた。だが、鳩山政権が米軍普天間飛行場の県外移設を探っても、だれも引き受けない。県外移設方針の撤回で、政権交代しても変わらないとみせつけられた。そんな経緯を指す。

■ひずんだ民主主義国

 沖縄の人が復帰運動で掲げたのは「憲法の下への復帰」。米軍から人権侵害を受け、人権を保障する憲法を渇望した。

 復帰した日本に人権感覚は根づいていたか。1級、2級に国民を分け、犠牲を強いるようなふるまいが続いていないか。沖縄の失望は、ひずんだ日本の民主主義の産物である。

 それは、本土に暮らす一人ひとりが考えるべき問題だ。

 日本から出ていけ、という人はわずかだろう。けれど「基地の見返りに金を受け取っているから当然」「沖縄の地理的位置からいって仕方ない」といった言説をうのみにしていないか。

 金? 沖縄は特別に優遇されてはいない。国からの地方交付税と国庫支出金の合計を人口1人あたりで比べると、沖縄県は全国10位(11年度決算)。日本は沖縄の負担によって日米安保を維持し、防衛費を抑えながら経済成長を遂げたのに、見返りと呼べる額を払っていない。

 地理? 人権を無視できた沖縄に基地を集めたのだ。旧ソ連と対峙(たいじ)したころも、中国や北朝鮮と緊張が高まるいまも、沖縄の位置が望ましいという説明は合理的だろうか。

 私たちは自分に都合のいい説明を好み、無意識や無関心で差別していないか。

 先月の名護市長選では普天間の辺野古移設反対派が再選された。市議会の多数も反対だ。それでも政府は、来月には調査・設計の入札を行うという。

 無理やり進めれば、回復不能なまでに亀裂が深まらないか。