元引きこもりで対人恐怖症のAくんと初めて会った。
Aくんはブログをずっと書いている男の子だ。対人恐怖症を克服するため、女性への恨みを晴らすために、ホストをしたり、ナンパをしたり、昔の自分と同じような、ひきこもりの太った女の子とセックスして、クリトリスに針を刺してほしいと頼まれたりしている。あまりに発想が狂気じみているので、良く読者からバッシングされているが、私はそれが「Aくんの冒険」といったふうで面白いので、密かにブログの更新を楽しみにし、彼が何かをやるたびに心の中で応援していた。
彼が会いたいというので、新宿の喫茶店で会った。彼が私および女性に強い恨みを持っているのは知っていた。
Aくんは40分以上遅刻して来た。
やましい事がある人は、いつも遅刻する。
仕事でも恋愛でもそうだが、対人関係において優劣を決めるのは、とても簡単でとても些細なことだ。
たとえば待ち合わせ場所に、どちらが先に到着しているか、というようなこと。
相手よりも弱い人、相手を恐れている人、会うのが嫌だなと思っている人はいつも遅刻する。
遅刻する事で相手より自分を心理的に低い位置に置く事で安心するのだ。
Aくんから「電車が遅延しているので遅れます」とのメールを受け取った時、A君の中で、既にとんでもない闘いが始まっているのだなと感じた。
恐怖と嫌悪と闘争心が、彼の中で黒いとぐろを巻いている。そんなふうに自分の中だけで戦っている人は、よく遅刻するのだ。
彼からメールを受け取ったとき、私は即座にその内容が嘘だと悟った。JRの運行状況をケータイで見たら、その時間帯に遅れているのは亀戸線だけだった。
40分のちに、彼が現れた。現れた瞬間から、彼は奇妙だった。
まず、腰が折れていた。なんだか体がねじれていた。彼がものすごい嘘つきであることを最大限にプレゼンしている登場の仕方だった。
彼は遅れたことについてさっそくほにゃほにゃと詫びを入れて来たが、全く言葉に心が籠もっていなかった。
「電車が遅延して」
「どこから来たの?」
「学習院なので、目白です」
「運行情報見たけど、山手線遅延してないよね」
「でも、その前に西武新宿線も使って来たので…」
「西武線も遅れてないよね」
彼はなおもごにょごにょと言い訳していたが、私も過去に、偉い人、目上の人に会いに行く時、怖くて遅刻して、電車の遅延を言い訳にしたことがあるので、許してあげよう…と思って流した。(と同時に、自分が遅刻をする時に今度から電車の遅延を言い訳に使うのは絶対やめよう…と思った。自分がばれていないと思っている嘘は、たいていばれているのだ。)
Aくんは、自分のどうでもいいような自己紹介をいろいろとしてきたが、最初に思った通り、とんでもない嘘つきだった。
嘘をついている人は、すぐに声で分かる。声にハリが全く無い。常にペラっと一枚めくれあがって、裏地が見えているような声だ。呼吸が浅いので、風が偶然吹き込んだ笛のような音しか出ない。彼も、喉ぐらいまでしか呼吸が入っていない。彼の言葉が事実なのか嘘なのか、全ては分からないけれど、ただ、彼が本心を話していないことだけは伝わって来た。もうずっと彼はこんな調子で世界をだまし続けているのだろう。馬鹿にされてるなー、と思いながら聞いていた。
嘘をつくことで、彼は私に勝負を挑んでいるみたいだった。40分も遅刻した時点で、既に勝敗は決まっているのに。
「相手に優位に立ちたかったら、絶対に遅刻しちゃだめだよ」と私は彼に言った。彼はひしゃげたタイヤみたいな声で「ひゃい」と言った。どこにも本心の無い声で。
彼は目を合わせない。合わせたとしても、機械的に合わせてくるだけだ。試しに、無理やり合わせてみた。
「瞳がない」というのが、彼の顔の第一印象である。
まず、彼自身を守る盾のように、大きなめがねが眼の前にそびえ立っている。外しても、瞳にたどり着かない。彼の瞳は眼球の奥深くに仕舞い込まれている。何重にもロックをかけて。まるで、絶対に見られたくない宝物みたいに。
ゆさぶりをかけたら、浮かび上がってくるかなと思ったけど、あいにく、私はそういう技術を持っていなかった。
彼は「自分は社会に対して恨みがあって、それを復讐してはらしたいんです」とか「恋愛がうまくできない」とか「女の子に優しく接してもらった事が無い」とか、自分のコンプレックスに該当することを沢山話した。セロハンのような薄い声で。とりあえず、自己開示したら相手が気を許すだろうと思っているようだった。「自己開示ルーティーン」だ。
Aくんの声はあいかわらず全く届いてこない。
彼と、言葉でコミュニケーションするのは無駄かもなぁ、とだんだん、思い始めていた。
何度目かのやりとりで、私が「なんで怖い相手に会いに行くの?」と聞いた時だった。
Aくんがふいに「人と会うのは、その人に復讐したいからです」と言った。
その時だけ、それまであんなに適当だった彼の声に、突然、力が漲った。
それまで沈殿物のように隠れていた瞳が、急速に、泥の奥底から、澱みの中に浮かび上がって来た。
私は聞いた。「私にも復讐したいの?」
「はい」Aくんは言った。「小野さんにも復讐したいです」
その時の彼の声は、か細くて、鋭かった。まるで、ひな鳥が親に助けを求める鳴き声のように。
言葉の強さとは裏腹に、その声はまるで悲しげだった。
彼は「復讐したい」と言ったが、私にとっては「助けて」だった。
それを聞いた時、それまでAくんが嘘をつきまくっている事に対して覚えていた苛立ちが、ふわっと消えた。
この人に本当に必要なのは、たぶん、言葉でコミュニケーションをして、相手に戦って勝つ事じゃない。
優しくされる事だ。
目の前にいるのは、一羽の黄色いヒヨコだった。
ぽわぽわした産毛に覆われて、必死に生きている雛鳥。
目の前にヒヨコがいるのに、優しくしないわけにはいかなかった。
手を伸ばして、Aくんの身体の中でテクスチャが一番やわらかそうな、頭部をなでた。コシがなく、さらさらした髪の毛だった。側頭部のなめらかな稜線が気持ちよかった。こんな綺麗な形の頭が、弛緩も、誰かに抱擁されることも知らずにいるのはなんともったいないことよなぁ。これは宇宙的損失だ。
Aくんの顔は嫌悪と羞恥と怒りと嬉しさで震え始めた。眼球がすごい早さで往復運動し始めた。出口を失った感情が行き場も分からずに右往左往して、彼の顔筋を振動させている。
私だったら「馬鹿にするな」と言って手を払いのけるだろうから、嫌かと聞いたらAくんは嫌じゃないですと言ったので、手が疲れるまでなで続けた。
なでながら、自分が中学3年生の時、鬱で入院していた時の、お医者さんの事を思い出していた。
担当医ではない彼は、いつも悲しそうな顔で私を見ていた。悲しそうな顔をして、でも別に何かを言うわけでもなく、ただ、要所要所で優しくしてくれた。それは、タオルを落とした時に病室まで持って来てくれた、とか、外泊から帰って来た時にお菓子の持ち込みを許してくれた、とか、消灯時間を過ぎて起きていても怒らなかった、とか、そんな些細な事だけど。あの時の私は、馬鹿にするな、お前に私の気持ちは分からないと怒っていた。気炎を吐き、馬鹿にしながら、同時に甘えていた。
学校の担任の先生、国語の先生、保健室の先生、塾の先生、大学生の時に仕事をしていた編集者さん、過去につきあっていた恋人たちの何人かの顔が、次々に浮かんできた。皆、同じような顔で私を見ていたことを思い出した。
彼らがなぜ、そんな顔をしていたのか、良く分かった。
私はいままで、たくさんの大人たちに迷惑をかけて、生きて来たんだなと思った。
なでながら、Aくんをじーっと見た。
Aくんはあれに似ている。美術の時に、デッサンする石膏の胸像。Aくんの胸部は、会ってから今まで、1ミリも動いていなかった。ガチガチに固まって張りつめている。Aくんの狂いと、本心が、ここにつまっている。
あーーーーーーーーーーーー、整体したい。
私の中のコントロール欲求が爆発した。
ああ、彼の肩甲骨をゆるめて動かしたい。胸部がちゃんと動くところが見たい。
私はAくんにホテルに行こうと打診した。セックスする気は毛頭ないけどホテル行こう、と。
実際、彼と喫茶店で向き合っていても、もうこれ以上何も意味はない。
私はセックスしないと決めたらてこでもしないから大丈夫だし、勝敗が決まっている以上、彼に私は犯せないだろう。もし、二人きりになって、彼が狂って私をボコボコにしたり、ナイフで刺してきたら、もうそれはしょうがないな、と思った。
そう思ってAくんに言ったらAくんは1500円しか持っていなかった。お金を貸すほどまで、優しくはしたくない。我々は振り出しに戻った。キャッシュカードにクレジット機能はついてないの?と聞いたらついていないと言った。カード見せてと言ったら見せてくれた。キャッシュカードはプーさんの絵柄だった。本名が見えた。タカハシほにゃらら(仮名)。意外と普通の名前だった。
Aくんは、プーさんの絵柄のキャッシュカードを持っているタカハシくんになった。それまで人型に抜け落ちていた、彼のぶんの現実が埋まった。
歌舞伎町をうろうろした。歌舞伎町はふまじめで、もろくてすかすかな骨子をしていて、ちょっと恥ずかしそうに自分を隠している。まるでおもちゃ箱みたいな街だ。そこを歩く人たちが全員、子どもみたいに見えた。タカハシくんがホストをしているというホストクラブの前まで連れて行ってもらったが、キャッチのホストたちはみんな、狭い家の庭でドッヂボールをしている小学生みたいだった。
タカハシくんはしきりにお金貸してください、ホテル行きましょうと言っていたが、その声はずるくて、本心じゃなかったので、無論、断りつづけた。整体はカラオケや漫画喫茶でもできるけど、ああいうところは喉がイガイガするから行きたくない。本当はラブホテルも喉がイガイガするから行きたくないんだけど。
急速にお腹がすいてきたので、私は「ラーメン食べに行こう」といった。ラーメンぐらいはおごるから、と。若者に好き勝手にふるまうのは、おばちゃんの特権である。
もうその頃には、タカハシくんがメンヘラだとか、嘘をついているとか、どうでもよくなっていた。
私はただ、ここにいる他人とうまいラーメンが食べたい。
タカハシくんが連れて行ってくれた歌舞伎町のラーメン屋は、窒息死するんじゃないかと思うぐらいホコリっぽくて不衛生で、テーブルが油でギトギトだったので、私はかなりブルーになったが、食べてみると意外に美味しかったので感動した。
美味しいものを食べたので、テンションが上がって楽しくなって少し話した。タカハシくんは相変わらずしょうもない質問をしてきたけど、胸部は少しだけ動いていた。
お腹がいっぱいになって、眠くなったのでもう帰ろうと言ったら、タカハシくんは終電がないので泊めてくださいと相変わらずズルイ感じでカタチだけ懇願して来たので、無論、拒否した。しかし、お金がない人を寒空の下に放置するのも良心が痛む。タカハシくんはなおも泊めてくださいとへらへら声で食い下がってくる。ラーメンを食べたので内臓が重い。だるい。眠い。早く帰りたい。めんどくさいので、返ってこなくていいやという気持ちで3000円渡してマンガ喫茶に行くように言った。おじさんが、若い女の子に簡単にお金を払う気持ちがよくわかった。おじさんたちは、体力がなくて内臓が疲れているので、コミュニケーションにかかるコストを金で解決しているのだ。
最後、別れる瞬間、タカハシくんは軽蔑と嫌悪の入り交じった目で見て来たので、私はこの会合は失敗だったな、と思った。人に会った時間の質は、会った瞬間に決まり、別れる瞬間に可視化される。今日のおみくじは凶。ま、しょうがない。
彼は最後まで本心を表さなかった。彼に今日のことをブログに書いてよと言ったら、彼はあとでブログに「小野さんは麻原彰晃みたいだった」と書いていた。もし、彼が喫茶店で最初に会った時にそれを言ってくれていたら、私は彼とセックスしていたかもしれないのに。残念でならない。
昨年、私の開いたバーイベントに現れて、突然暴れ出して迷惑をかけてきた女の子のことを思い出した。
タカハシくんを見ていても、彼女を見ていても、メンヘラなんていないな、と思う。嘘は健常者でも吐く。自分の吐いた嘘に、がんじがらめになって動けなくなっている人間がいるだけだ、と思う。
彼は「自分の怖いと思う人に会って、コミュニケーション上の闘いに勝つ事で、社会性を取り戻せる」と言っていた。もしもそれで彼が成長するのであれば、私はもう負けも負け、何度だって、負けて続けてあげよう、と思う。
まぁ、今はメンヘラに会うよりも、仕事でまともな人に会う方が、ずっと楽しいけど…。
彼が、待ち合わせにも遅れず、目もそらさず、ちゃんと腹から声を出せて、人を洗脳できる(と思える)ようになる日が、とても楽しみだ。