左翼の壊死 - 戦争とファシズムの時代に突入した歴史的転換点
今回の一連の政治を見て、私は「左翼の壊死」という言葉を思いつき、あてがって使おうとしている。棘のあるドラスティックな言葉だが、意味のある表現を得た気分でいて、ここにもう少し言語的な中味をつけて、人の共感する、説得力のある概念に近づけられないかと思ったりする。さしあたり、それは嗅覚で感じ取った政治現象である。臭いの正体について確信はあるが、こんな臭いだと人に説明して理解を得るのは難しい。一連の政治とは、昨年末の澤藤統一郎の告発事件、宇都宮健児の出馬と社共の推薦、脱原発での一本化の拒否、左翼の怒濤のネガキャンと罵倒、そして惨敗となった選挙結果の全体を指す。これらの政治を演じている集団や組織に対して、私はこれまで、「左翼」という否定的な言葉はあまり使ってこなかった。したがって、「左翼の壊死」という着想と発語に及んだことは、直観的な発見であると同時に、過去からの経験を総括した一つの断念でもある。ここで思い出すのは、あるいは、その嗅覚に作用したかと思われるのは、1992年の関曠野の『左翼の滅び方について』(窓社)である。1991年にソ連邦崩壊があり、当時、論壇で「左翼の滅び方」論争らしきものが微かに流行した。特に人の記憶にとどまる印象は残していない。私自身は、この言葉遣いに積極的に馴染めず、議論に関心を持って接近することはなかった。同じ1992年、なだいなだが一冊の岩波新書を出している。
『民族という名の宗教』という題名だが、内容は社会主義論である。面白い本だった。ソ連崩壊という巨大な歴史の激動を直視して、関曠野と同じ問題意識でありながら、関曠野とは逆のアプローチの言葉を与えていた。巻末の結びで、なだいなだはこう言っている。「社会主義国家は、今、われ先にと社会主義を放り出している。ぼくはそのときになってへそ曲がりから、捨てるものを拾ってみる気になった(中略)時代遅れと思う人は思うがよろしい」(P.207)。この言葉は印象に残った。以来、1990年代以降、関曠野的な議論がされるときは、関曠野の本のタイトルと一緒に、なだいなだの言葉をセットで想起する習慣になっている。なだいなだは、昨年の6月に84歳で死んだ。特に話題に上ることもなく、人と業績の意義が振り返られることもなく、ひっそりとした死だった。晩年、マスコミに出る機会は少なかったが、ネットで「老人党」を立ち上げて活動していて、ときおり、私の記事が「老人党」のサイトで紹介される機会もあった。人が捨てるものを拾うと言った天邪鬼は、生きていたら、今回の一連の政治を見てどう思っただろうか。関曠野が放った「左翼の滅び方」の言説を嚆矢にして、その政治勢力は次第に「革新」とは呼称されなくなり、「左翼」と突き放されて言語されるようになった。それまでは、保守vs革新だったが、1990年代より、保守vs左翼(左派)となる。保守は政治の正統となり、左翼(左派)は異端となった。
もう一つ、この都知事選で思い出した過去がある。それは、TWにも少し書いたが、1978年の京都府知事選だ。あれから36年も経ったが、春の季節になると、つい昨日のことのように思い出したりする。左右が激突した壮絶な政治戦で、これまで見た中では、あれこそまさしく関ヶ原に他ならない。西軍は敗れて潰走し、東軍による残酷で執拗な掃討戦が始まり、追われる者は浪人になって散り散りに逃げた。何が大坂の陣だろうか。総評の分裂と解散だろうか、国鉄の民営化と国労の解体だろうか、それとも、「やめてーッ」と悲鳴が上がった都教組の分裂事件だろうか。小選挙区制導入の「政治改革」は、家光の武家諸法度だろうか。徳川の世となり、徳川のレジームが年を追ってコンクリートのように固まり、保守・親米・新自由主義の政治体制が敷かれた。徳川の世を盤石にし、そして絶頂に導いた将軍は二人、中曽根康弘と小泉純一郎。1978年の京都府知事選が日本の政治史のターニングポイントだったと、関ヶ原の戦いだったと、同時代を経験した、同年代の者はその認識を共通して持っている。翌1979年に東京都知事選と大阪府知事選があり、いわゆる革新自治体が落城して行った。レーガン(1981年)と中曽根康弘(1982年)の80年代が始まる。1978年から政治は一直線に進み、一つの政治体制の上で続いた。細川連立政権も、民主党の政権交代も、私の感覚では歴史的転換点とは言えない。
今回、この都知事選で政治のギアが完全に入れ替わり、新しい政治体制に移行した感がある。36年ぶりに日本の政治が変わった。保守・親米・新自由主義・お笑いの時代から、戦争とファシズムの時代に突入したのだと、個人的にはそのような諦観と恐怖を持つ。戦争、暴力、徴兵、インフレ、重税、貧困、飢餓、災害。そういう厳しい苦難が国民に重なって襲いかかり、それを政治でどうすることもできず、弱者から悶え死ぬしかないような、そんな地獄が待ち構えているのではないか。世界中の人々が、日本と日本人の不幸を憐れんで同情し、日本に生まれなくてよかったと溜息するような、そういう破滅と悲惨の中に個々が投げ入れられるのではないか。職もなく、収入もなく、頼れる友人もなく、暴力に怯え、病院にも学校にも満足に行けないような、そんな暮らしを日本人が強いられる、現在からはおよそ想像もできない暗黒の未来を予感する。それは、絶望の世界であり、オーウェルの『1984年』のディストピアだ。だが、きっと、これまでの経験から言えば、そうした絶望と恐怖の世界は、一人一人の自由な選択と意思によって、民意と世論を推進力にして、ゴロゴロと転がるように現実になるのだ。そう悲観する。今回の選挙を経験した者は、後から振り返って、あのときが転換点だったと、そう思い返すはずだ。これから2年半、国政選挙の機会はなく、国民の一票で政治を変えるということができない。権力の操縦は安倍晋三のフリーハンドに委ねられている。国民にとって国家は遠く離れた手の届かぬ存在となり、我が身を守るだけで精一杯になるのだ。
左翼の壊死。それは、共産と社民が、この大事な都知事選で宇都宮健児を担ぎ、堂々と憚りなく負ける選挙を遂行し、終始一環して自己正当化している、その現実を見て、失望と共に確信することだ。絶対にやってはいけないことだった。なぜ、そのような錯乱と愚行に及んだのか。小泉純一郎がとか、細川護煕がとか、脱原発がとか、脱原発文化人がとか、そんなことは関係ない。戦争を止めるため、安倍晋三の権力の暴走を阻むため、自公候補に対して「勝てる候補」で対抗しなければならなかった。左翼政党に理性と常識があれば、当然、12月の時点で左派リベラルの統一候補を選ぶ作業に着手しなくてはいけない。それは、昨年9月の堺市長選での戦い方と同じである。もし、あの堺市長選で、共産がKYに独自候補を立て、反維新票を割るような暴挙に出れば、大阪中の市民から、否、日本中の良識ある市民から、共産候補の選挙事務所に抗議の電話が殺到したことだろう。党大阪府委員会の電話が鳴り止まなかっただろう。選挙では維新の新人が勝ち、橋下徹が復権し、マスコミの前で威張り散らしながら都構想が推進されていたに違いない。共産は、都知事選では堺市長選と同じ戦法を採らなかった。安倍晋三の独裁権力に2年半の安泰を与える選択に出た。それも、そそくさと慌ただしく。何のために、何の事情で、そのような非常識な意思決定に出たのか。それを整合的に説明するためには、<東京左翼>の内部を透視して仮説を立てなくてはいけない。
嗅覚が「左翼の壊死」を感知するのは、一つは、共産党の指導力や決定力が弱体化して、外側の宇都宮健児のファミリーに振り回されている相貌を呈していることだ。今回の宇都宮健児の出馬の政治を見るに、党中央幹部会の密室からの上意下達という契機よりも、海渡雄一や高田健のような、前回の都知事選の選対メンバーで、同時に、昨年の秘密保護法反対闘争で活躍した面々が動いた形跡の方が濃い。少なくとも、今回の政治については、彼らの左翼内の権力は、若林義春や志位和夫と同位同等に見える。共産党は軍隊型の組織(レーニンの党)であり、党内権力序列は決して曖昧ではない。民主集中の上意下達が規律である。だが、今回、雰囲気として、その通例を飛び越えて、宇都宮健児の自由意思のウェイトが大きく感じられるのだ。党幹部会で候補の選考となれば、当然、誰かの口から、宇都宮健児では勝てないから別を探そうとか、安倍晋三の暴走を止めることが最優先だから、堺市長選の共闘方式に倣って民主と生活に声をかけようとか、そうした意見が出て当然である。宇都宮健児が出ると言っても、ちょっと待てと保留し、即決を避け、アイドリング状態で待機させるのが普通だろう。猪瀬直樹の辞任の後、熟慮と調整の時間は十分にあった。そして、先行して共産推薦候補を擁立するということは、この都知事選を捨てるという意味に他ならない。勝ちを捨て、政策宣伝と党勢拡大に徹するという決定だ。さらに、党幹部会には、澤藤統一郎のトラブルの情報も入っていただろう。
本棚に窓社刊の『「批評「左翼の滅び方について」』(1992年)があり、パラパラとめくって斜め読みしていたら、中野徹三の論評に目が止まった。碩学である。名前をご存じない方は、ぜひネットで調べて著書を精読していただきたい。中野徹三の文章の中に、関曠野による次の一節が引用されていた。「日本共産党をはじめとする左翼諸党派(中略)は、信念強固なるがゆえに『非転向』を貫いているわけでも何でもない。(中略)戦後40数年間の間に左翼であることは生業になり業界を形成してしまったために、業界延命策としてあれこれ言っているにすぎない」(P.60)。この関曠野の辛辣で峻烈な左翼批判に対して、中野徹三は、「関氏の次の文章は、私がかなり強く共感できる内容を多く含んでいる」と言って内在しつつ、こう反論している。「左翼の生業化は、ほぼ第2インターナショナル期に社会主義政党や労働組合の大型化とともに始まっており、これが党・組合官僚の自己保身化傾向をともなったことは明らかであるが、他方こうした『生業化』なしに、これら組織とその活動が長期に持続できなかったことも確かである」(P.61)。この部分に目が止まったのは、今回の宇都宮健児の出馬劇と一本化拒否の政治の裏側に、<左翼の生業>、<東京左翼の業界>という契機を強く感じるからであり、その「業界」の荒廃と破綻を察知するからだ。<業界>が行き詰まっている。が、おそらく、その<業界>のトップに、宇都宮健児が代表取締役会長として鎮座し君臨しているのだ。その権力と威光は、代々木の幹部会密室よりも上位なのである。
壊死とは、生体内の一部の組織や細胞が死ぬことをいう。「一本化」の問題は、<生業>と<業界>の問題に関わる。「左翼の壊死」も、その問題に関わる。そして、このときの<左翼>は、ただの<左翼>ではなく<東京左翼>なのだ。
『民族という名の宗教』という題名だが、内容は社会主義論である。面白い本だった。ソ連崩壊という巨大な歴史の激動を直視して、関曠野と同じ問題意識でありながら、関曠野とは逆のアプローチの言葉を与えていた。巻末の結びで、なだいなだはこう言っている。「社会主義国家は、今、われ先にと社会主義を放り出している。ぼくはそのときになってへそ曲がりから、捨てるものを拾ってみる気になった(中略)時代遅れと思う人は思うがよろしい」(P.207)。この言葉は印象に残った。以来、1990年代以降、関曠野的な議論がされるときは、関曠野の本のタイトルと一緒に、なだいなだの言葉をセットで想起する習慣になっている。なだいなだは、昨年の6月に84歳で死んだ。特に話題に上ることもなく、人と業績の意義が振り返られることもなく、ひっそりとした死だった。晩年、マスコミに出る機会は少なかったが、ネットで「老人党」を立ち上げて活動していて、ときおり、私の記事が「老人党」のサイトで紹介される機会もあった。人が捨てるものを拾うと言った天邪鬼は、生きていたら、今回の一連の政治を見てどう思っただろうか。関曠野が放った「左翼の滅び方」の言説を嚆矢にして、その政治勢力は次第に「革新」とは呼称されなくなり、「左翼」と突き放されて言語されるようになった。それまでは、保守vs革新だったが、1990年代より、保守vs左翼(左派)となる。保守は政治の正統となり、左翼(左派)は異端となった。
もう一つ、この都知事選で思い出した過去がある。それは、TWにも少し書いたが、1978年の京都府知事選だ。あれから36年も経ったが、春の季節になると、つい昨日のことのように思い出したりする。左右が激突した壮絶な政治戦で、これまで見た中では、あれこそまさしく関ヶ原に他ならない。西軍は敗れて潰走し、東軍による残酷で執拗な掃討戦が始まり、追われる者は浪人になって散り散りに逃げた。何が大坂の陣だろうか。総評の分裂と解散だろうか、国鉄の民営化と国労の解体だろうか、それとも、「やめてーッ」と悲鳴が上がった都教組の分裂事件だろうか。小選挙区制導入の「政治改革」は、家光の武家諸法度だろうか。徳川の世となり、徳川のレジームが年を追ってコンクリートのように固まり、保守・親米・新自由主義の政治体制が敷かれた。徳川の世を盤石にし、そして絶頂に導いた将軍は二人、中曽根康弘と小泉純一郎。1978年の京都府知事選が日本の政治史のターニングポイントだったと、関ヶ原の戦いだったと、同時代を経験した、同年代の者はその認識を共通して持っている。翌1979年に東京都知事選と大阪府知事選があり、いわゆる革新自治体が落城して行った。レーガン(1981年)と中曽根康弘(1982年)の80年代が始まる。1978年から政治は一直線に進み、一つの政治体制の上で続いた。細川連立政権も、民主党の政権交代も、私の感覚では歴史的転換点とは言えない。
今回、この都知事選で政治のギアが完全に入れ替わり、新しい政治体制に移行した感がある。36年ぶりに日本の政治が変わった。保守・親米・新自由主義・お笑いの時代から、戦争とファシズムの時代に突入したのだと、個人的にはそのような諦観と恐怖を持つ。戦争、暴力、徴兵、インフレ、重税、貧困、飢餓、災害。そういう厳しい苦難が国民に重なって襲いかかり、それを政治でどうすることもできず、弱者から悶え死ぬしかないような、そんな地獄が待ち構えているのではないか。世界中の人々が、日本と日本人の不幸を憐れんで同情し、日本に生まれなくてよかったと溜息するような、そういう破滅と悲惨の中に個々が投げ入れられるのではないか。職もなく、収入もなく、頼れる友人もなく、暴力に怯え、病院にも学校にも満足に行けないような、そんな暮らしを日本人が強いられる、現在からはおよそ想像もできない暗黒の未来を予感する。それは、絶望の世界であり、オーウェルの『1984年』のディストピアだ。だが、きっと、これまでの経験から言えば、そうした絶望と恐怖の世界は、一人一人の自由な選択と意思によって、民意と世論を推進力にして、ゴロゴロと転がるように現実になるのだ。そう悲観する。今回の選挙を経験した者は、後から振り返って、あのときが転換点だったと、そう思い返すはずだ。これから2年半、国政選挙の機会はなく、国民の一票で政治を変えるということができない。権力の操縦は安倍晋三のフリーハンドに委ねられている。国民にとって国家は遠く離れた手の届かぬ存在となり、我が身を守るだけで精一杯になるのだ。
左翼の壊死。それは、共産と社民が、この大事な都知事選で宇都宮健児を担ぎ、堂々と憚りなく負ける選挙を遂行し、終始一環して自己正当化している、その現実を見て、失望と共に確信することだ。絶対にやってはいけないことだった。なぜ、そのような錯乱と愚行に及んだのか。小泉純一郎がとか、細川護煕がとか、脱原発がとか、脱原発文化人がとか、そんなことは関係ない。戦争を止めるため、安倍晋三の権力の暴走を阻むため、自公候補に対して「勝てる候補」で対抗しなければならなかった。左翼政党に理性と常識があれば、当然、12月の時点で左派リベラルの統一候補を選ぶ作業に着手しなくてはいけない。それは、昨年9月の堺市長選での戦い方と同じである。もし、あの堺市長選で、共産がKYに独自候補を立て、反維新票を割るような暴挙に出れば、大阪中の市民から、否、日本中の良識ある市民から、共産候補の選挙事務所に抗議の電話が殺到したことだろう。党大阪府委員会の電話が鳴り止まなかっただろう。選挙では維新の新人が勝ち、橋下徹が復権し、マスコミの前で威張り散らしながら都構想が推進されていたに違いない。共産は、都知事選では堺市長選と同じ戦法を採らなかった。安倍晋三の独裁権力に2年半の安泰を与える選択に出た。それも、そそくさと慌ただしく。何のために、何の事情で、そのような非常識な意思決定に出たのか。それを整合的に説明するためには、<東京左翼>の内部を透視して仮説を立てなくてはいけない。
嗅覚が「左翼の壊死」を感知するのは、一つは、共産党の指導力や決定力が弱体化して、外側の宇都宮健児のファミリーに振り回されている相貌を呈していることだ。今回の宇都宮健児の出馬の政治を見るに、党中央幹部会の密室からの上意下達という契機よりも、海渡雄一や高田健のような、前回の都知事選の選対メンバーで、同時に、昨年の秘密保護法反対闘争で活躍した面々が動いた形跡の方が濃い。少なくとも、今回の政治については、彼らの左翼内の権力は、若林義春や志位和夫と同位同等に見える。共産党は軍隊型の組織(レーニンの党)であり、党内権力序列は決して曖昧ではない。民主集中の上意下達が規律である。だが、今回、雰囲気として、その通例を飛び越えて、宇都宮健児の自由意思のウェイトが大きく感じられるのだ。党幹部会で候補の選考となれば、当然、誰かの口から、宇都宮健児では勝てないから別を探そうとか、安倍晋三の暴走を止めることが最優先だから、堺市長選の共闘方式に倣って民主と生活に声をかけようとか、そうした意見が出て当然である。宇都宮健児が出ると言っても、ちょっと待てと保留し、即決を避け、アイドリング状態で待機させるのが普通だろう。猪瀬直樹の辞任の後、熟慮と調整の時間は十分にあった。そして、先行して共産推薦候補を擁立するということは、この都知事選を捨てるという意味に他ならない。勝ちを捨て、政策宣伝と党勢拡大に徹するという決定だ。さらに、党幹部会には、澤藤統一郎のトラブルの情報も入っていただろう。
本棚に窓社刊の『「批評「左翼の滅び方について」』(1992年)があり、パラパラとめくって斜め読みしていたら、中野徹三の論評に目が止まった。碩学である。名前をご存じない方は、ぜひネットで調べて著書を精読していただきたい。中野徹三の文章の中に、関曠野による次の一節が引用されていた。「日本共産党をはじめとする左翼諸党派(中略)は、信念強固なるがゆえに『非転向』を貫いているわけでも何でもない。(中略)戦後40数年間の間に左翼であることは生業になり業界を形成してしまったために、業界延命策としてあれこれ言っているにすぎない」(P.60)。この関曠野の辛辣で峻烈な左翼批判に対して、中野徹三は、「関氏の次の文章は、私がかなり強く共感できる内容を多く含んでいる」と言って内在しつつ、こう反論している。「左翼の生業化は、ほぼ第2インターナショナル期に社会主義政党や労働組合の大型化とともに始まっており、これが党・組合官僚の自己保身化傾向をともなったことは明らかであるが、他方こうした『生業化』なしに、これら組織とその活動が長期に持続できなかったことも確かである」(P.61)。この部分に目が止まったのは、今回の宇都宮健児の出馬劇と一本化拒否の政治の裏側に、<左翼の生業>、<東京左翼の業界>という契機を強く感じるからであり、その「業界」の荒廃と破綻を察知するからだ。<業界>が行き詰まっている。が、おそらく、その<業界>のトップに、宇都宮健児が代表取締役会長として鎮座し君臨しているのだ。その権力と威光は、代々木の幹部会密室よりも上位なのである。
壊死とは、生体内の一部の組織や細胞が死ぬことをいう。「一本化」の問題は、<生業>と<業界>の問題に関わる。「左翼の壊死」も、その問題に関わる。そして、このときの<左翼>は、ただの<左翼>ではなく<東京左翼>なのだ。
Commented by ろうのう at 2014-02-13 19:38 x
極右にも極左にも言う
脱レイシズムなくして社民主義なし!!
脱レイシズムなくして社民主義なし!!
Commented by tokyoletter at 2014-02-13 19:46 x
「運動の世界で生きていこうと思ったら、そんなことをやってどうなると思う。よく考えた方が良い」(河添誠氏)
「大きな革新・リベラル勢力の結集体として、「やさしい会」があり、宇都宮選対がある。この会や選対に刃向かった場合には、革新・リベラル勢力全体を敵に回すことになる。」(澤藤氏)
と符合しますね。
「党派のエゴ」の批判を、「私達は共産党ではない、私達は超党派」というかたちですりかえていました。あらたな「連合赤軍」のぶちあげのためには、一本化などしていられなかったという訳ですか。共産党の実働部隊、社民党の安心イメージ、それに高円寺サブカル左翼の若き血を、元日弁連会長様がまとめ上げているという訳ですね。
「大きな革新・リベラル勢力の結集体として、「やさしい会」があり、宇都宮選対がある。この会や選対に刃向かった場合には、革新・リベラル勢力全体を敵に回すことになる。」(澤藤氏)
と符合しますね。
「党派のエゴ」の批判を、「私達は共産党ではない、私達は超党派」というかたちですりかえていました。あらたな「連合赤軍」のぶちあげのためには、一本化などしていられなかったという訳ですか。共産党の実働部隊、社民党の安心イメージ、それに高円寺サブカル左翼の若き血を、元日弁連会長様がまとめ上げているという訳ですね。
まさか生きている間にこの日本でファシズムの政治に遭遇するとは想像もしなかったが、眼前の現実は明らかに30年代のドイツの政治的経験と酷似した様相を示している。
九十代、八十代の先輩たちの必死の叫びを、もういちど聴き直そう。いったい、だれのために叫んでくれているのか! (金魚)
ーーーーーーーーーーー
東京新聞2月11日・鎌田聡氏の本音のコラム
全文を書き出しさせていただきました・by 金魚:
むのたけじさんの話を聞いているうちに、目頭が熱くなった。九十九歳の老ジャーナリストは、秋田なまりの強い口調で、安倍内閣の戦争への傾斜を批判した。気がついたときには戦争がはじまっていた。言うべきことは、いま言わなければならないとの熱弁だった。
危機意識は瀬戸内寂聴さんにも強かった。戦争と脱原発を訴えるために京都―東京を二往復された。四日間、寒さの中で九十一歳のつじ説法。戦争ゼロと原発ゼロを諄々とユーモア交じりに訴えられた。人間社会への信頼感のあふれた演説で聴くひとに感動を与えた。
作家の澤地久枝さんは八十三歳の病身ながら、毎日宣伝カーに乗っていた。八十四歳の小山内美江子さんも、二度ほど記者会見に出席され戦争体験を話された。都知事選挙は都民の生活に埋没され、原発事故はたくみに争点から外されたが、安倍内閣の排他主義的な攻勢を押しとどめる、大きなチャンスだった。 …続…
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東京新聞2月11日・鎌田聡氏の本音のコラム
全文を書き出しさせていただきました・by 金魚:
むのたけじさんの話を聞いているうちに、目頭が熱くなった。九十九歳の老ジャーナリストは、秋田なまりの強い口調で、安倍内閣の戦争への傾斜を批判した。気がついたときには戦争がはじまっていた。言うべきことは、いま言わなければならないとの熱弁だった。
危機意識は瀬戸内寂聴さんにも強かった。戦争と脱原発を訴えるために京都―東京を二往復された。四日間、寒さの中で九十一歳のつじ説法。戦争ゼロと原発ゼロを諄々とユーモア交じりに訴えられた。人間社会への信頼感のあふれた演説で聴くひとに感動を与えた。
作家の澤地久枝さんは八十三歳の病身ながら、毎日宣伝カーに乗っていた。八十四歳の小山内美江子さんも、二度ほど記者会見に出席され戦争体験を話された。都知事選挙は都民の生活に埋没され、原発事故はたくみに争点から外されたが、安倍内閣の排他主義的な攻勢を押しとどめる、大きなチャンスだった。 …続…
続… 奇妙なことに小泉純一郎元首相への批判が「左翼」性の誇示に使われ、原発推進は誤りだったとの貴重な証言が「選挙」戦術にかき消された。
私は苛烈な戦争体験をへた九十代、八十代の先輩たちが自分の体を顧みることなく、雪と寒風の中で原発と戦争への反対を訴えつづけた、そのそばにいた。今回の選挙戦は次の世代への贈り物だった。ありがとう。
東京新聞2月11日「本音のコラム」鎌田聡(ルポライター)
私は苛烈な戦争体験をへた九十代、八十代の先輩たちが自分の体を顧みることなく、雪と寒風の中で原発と戦争への反対を訴えつづけた、そのそばにいた。今回の選挙戦は次の世代への贈り物だった。ありがとう。
東京新聞2月11日「本音のコラム」鎌田聡(ルポライター)
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