野村秋介さんが朝日新聞社で壮絶な自決を遂げられてから、もう20年。日本中に衝撃を与えたあの事件からもう20年も経つのか。
10月18日(金)、野村秋介さん追悼の「群青忌」が四谷区民ホールで行われました。
群青忌は5年に一度行われ、今年は20年ということもあり、厳粛な中にも、野村さんの思想と行動が伝わり、20年という時代を超えて、野村さん自身が直に私たちに語りかけているような、そんな気がしました。
実に感動的な集まりでした。会場のあちらこちらから、啜(すす)り泣きが聞こえておりました。
犬塚博英氏の追悼講演素晴らしかったし、来賓の先生方のお話も感動的でした。
そして、この日のために作られた映像も目を見張るものがありました。
自決の2ヶ月前に、野村さんは蜷川氏たち門下生を連れて旅行をした。「最後の旅」で、マドリッドからモロッコだった。
その映像と、その時に語った野村さんの言葉が紹介される。
又、この日発売された蜷川正大氏の『師・野村秋介』(展転社)にも、この時の話が詳しく書かれている。
映像を見、そして、本で読みながら、20年前の野村さんの憂いを知ることが出来る。見事な演出だ。
群青忌では、さらに驚いたことに、20年前のあの事件が、〈再現〉された。
野村さんが朝日新聞社に行き、社長以下と会い、話をしている。
社長の謝罪を聞き、その上で、マスコミの使命について語る。
さらに、その場でピストル自決をする。
その生々しい現場の声が音が、再現されたのだ。
その場での話し合いの全ては、テープに録られていた。
20年経って、初めて公表されたのだ。「遺族の皆さまにはお心苦しいと思いますが」と断って、公開する。
私も初めて聞く。テープを録ってたという話は聞いていたが、それを聞くのは初めてだ。
皆の前で公開された。会場にいた人たちも驚いていた。
蜷川氏の本の中にも書かれている。生のテープで聞くと、さらに凄い。拳銃の音までが入っている。
皆、声も出ない。まさに、自決のその場に、私らも居合わせたような感じを持った。
20年前の事件は勿論、歴史的事件だった。と共に、20年後のこの群青忌も歴史的な集会だと思った。
映像やテープを編集したり、この大会の準備をしたり…。大変なお仕事だと思う。半年以上もかかったと聞く。
これでは毎年は無理だ。初めは毎年行っていたが、今は5年に一度だ。
又、野村さんが自決された10月20日には、毎年、伊勢原の浄発願寺で法要と墓前祭が行われている。今年は、10月18日に群青忌。20日に法要が行われた。
地方から来た人で、3日間東京に滞在して両方、参列した人も多くいた。
「群青忌」の報告からしよう。「平成二十五年度 野村秋介追悼20年 群青忌」は、四谷区民ホールで10月18日(金)、午後6時半から行われた。
開場は6時。その前から会場には全国から多くの人々が詰めかけた。
北海道の前田伏樹さんや田中清元さんがいる。九州からも、そして沖縄からも来ている。
来賓で挨拶したヒロ山口さんはフィリピンから駆け付けた。
午後6時半、幕が上がると、舞台には「平成二十五年度 野村秋介追悼 群青忌」と大きく書かれている。そして野村秋介さんの巨大な写真が。
そこの前で、読経が始まる。塚越慈徳さん(天台宗無常山浄発願寺)だ。厳粛で、そして幻想的な雰囲気だ。
開会の辞は隠岐康さん。司会は大熊雄次さん。
そして追悼二〇年特別映像「偲はゆ野村秋介」の上映。
自決の2ヶ月前に、マドリッドからモロッコに行った時の映像だ。
各地での野村さんの感想や、日本の現状についての怒りなども語られている。まるで〈遺言〉のようになっている。
2ヶ月後の自決を控え、野村さんは、〈遺言〉のつもりで話していたのだろう。
しかし、同行した門下生たちは、そのことを誰も知らない。
野村さんは門下生を連れて、よく海外に出かけた。写真を撮り、ビデオを撮り、その時々、話をしている。そして帰国してから、まとめている。
だから、2ヶ月前も、通常の〈記録〉だと思ったのだろう。
この旅の記録は、蜷川氏の『師・野村秋介』にも書かれている。活字で読むと、さらに感じる。これは遺言だったんだと。
野村さんたちは、スペインで闘牛を見る。皆、闘牛士の命懸けの華麗な闘いに拍手している。
しかし、野村さんは、死んでゆく牛に同情し、拍手する気にはなれなかったと言う。
野村さんの優しさだ。他の人たちとは感性が違う、と思った。そして言う。
〈私は、拍手を送るのならば、闘った人間よりも、むしろ殺されて行く牛に対して拍手をしてやりたい〉
さらに、一水会の機関紙「レコンキスタ」に触れて、こんなことを言っている。
〈今、一水会で出している「レコンキスタ」という機関紙があるね。あの話はここの人たちがオスマントルコの三百年の支配から国を取り戻そうとした運動、失われた土地を恢復する、すなわち失地回復。レコンキスタの語源はここに始まる。紀元前二百年から侵略が繰り返されてきた。そういった歴史の長いスパンの中でね、俺は今、この前来たときと違う感慨がある。というのは、もう俺の持ち時間はない〉
最後は、実に暗示的だ。
でも野村さんは、こうした言葉はよく言っていた。
経団連事件で服役し、出所した時、「今まで皆に、俺の生き様を見せてきた。これからは死に様を見せる」とか。「これから10年間は死にもの狂いで運動をする」と。
この言葉通り、10年後に自決した。
又、10月20日当日発売された野村さんの『さらば群青』の帯には、活動家の「遺言」だ。と、大きく書かれている。
あとになって、「あっ、あのことか」と思うが、皆、気づかなかった。
日々、生命懸けで生き、闘っていた。その決意、その覚悟を表した言葉だと思っていた。私だって、そう思い、何ら疑わなかった。
スペインに来て、「レコンキスタ」の解説をし、そして唐突に、「もう俺の持ち時間はない」と言う。そのあとはこう言う。
〈そう言ったことを考えた時に、その長い歴史の中で俺の人生を振り返った時、俺の人生とは何だったのかな。そう思うと人間の営みとか、命とか、そういうものの、はかなさと言おうか、虚しさと言おうか。つまり、長い歴史の中で見れば、人間の一生なんか蜻蛉(かげろう)みたいなもんだな。朝に死んで、夕べに死んでしまう虫の命も、俺たちの人生五十年も、所詮は蜻蛉だ。それをしみじみ感じた今回の旅行だったな〉
自分の人生を、もう「回想」している。
さらに、三島由紀夫について言及している。野村さんは、三島を尊敬していた。「三島のように生きたい。三島のように死にたい」とも言っていた。
だが、ここでは、三島との違いについても言っている。
〈三島は独特の美意識を持っていて、文学者としてああいう生き方をした。俺はあくまで民族派だから、将来仮に命を賭けることがあっても、三島のそれとは違う。結果的には同じかもしれない。天皇陛下万歳と言って死ぬかもしれない。彼は大天才でもあり、東大を出て文学を志向して煌びやかな文学を残したけれど、俺はどちらかというと、ただの素浪人だ。素浪人として、ナショナリストとして、自分の人生を燃焼させて行くわけだね〉
これは蜷川氏の本から引用しているが、今、読むとギクッとする。
自決の2ヶ月前に言っているのだ。「将来、仮に命を賭けることがあっても」と。
「仮に」ではなく、もう2ヶ月後に自決することは決まっていたのだ。さりげなく、覚悟を示し、予告している。
又、驚くべきことに、こんなことも言っている。「俺は三島とは違うから、お供はいらないよ」と。
三島は森田必勝氏と共に自決した。
しかし、自分が自決する時は、たった一人でやる、と言うのだ。
これが野村さんの美意識であり、覚悟だった。20年経って、私らは初めて分かったことだ。
では、「群青忌」の話に戻す。
「偲はゆ 野村秋介」上映のあとは、来賓挨拶。
大原康男氏、阿形充規氏、盛田正敏氏、ヒロ山口氏、そして長谷川三千子さん。
皆、感動的な挨拶だった。私は手帳を出して、メモを取りながら、聞いた。
長谷川さんは埼玉大学の名誉教授だ。その言葉には特に衝撃を受けた。野村さんの自決は、「大いなる言葉」だと言う。
これは夏目漱石の『こころ』で、「先生」が遺言で言っている言葉と同じだ、と言う。
えっ、どうして『こころ』が出てくるんだろうと思っていた。
「先生」は言う。
〈私は今、自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです〉
そんな激しい言葉が、『こころ』にあったのか。気が付かなかった。
それと同じ、激しい気持ちで発した言葉なんです。野村さんの自決は、と言う。
会場にいる皆も、血を浴びせられたのだ。
それから、「天の怒りか地の声か」の朗読。松本佳展氏が朗読。
これは野村さんの遺言とも言うべきものだ。まるで、血を吐くような叫びだ。まさに心臓を破って、血をぶつけるのだ。
それから、追悼講演。犬塚博英氏(民族革新会議議長)だ。
犬塚氏は、長崎大学で民族派の自治会活動をし、民族派の活動家・理論家としての評価も高い。野村さんの信頼も厚かった。
「風の会」選挙の時も、参謀として、よく助け、運動をした。
身近で見た野村さんのことについて、又、運動家・野村さんについて語る。実に感動的な講演だった。
このあと、追悼映像「群青」上映。
これも感動的な映像だった。なぜ「群青忌」と名付けたのかも分かる。
閉会の辞は蜷川正大氏。今回、参加して下さった方々へのお礼を述べる。
しかし、本当にお疲れさまでした。ご苦労さまでした、と我々の方こそ感謝したい。お礼を言いたい。感銘深い群青忌だった。
このあと、近くの居酒屋で「直会(なおらい)」。
全国から来た多くの人々と会いました。普段は会えない人とも会いました。
又、野村秋介さんの奥さん、息子さん、娘さんにも会いました。その子供たち、つまり、野村さんのお孫さんたちにも会いました。
皆、大きくなり、立派になってます。男のお孫さんは、野村さんによく似ています。
若い時の野村さんは、こうだったんだろうな、と思いました。
野村さんの門下生も多く、さらに、亡くなった後の「門下生」も増えてると言います。
それだけ、「大きな言葉」を野村さんは残したからでしょう。そのことを痛感しました。
ともかく、8.15を茶化した責任があるので、見に行った。そしたら、いきなり「審査員席」に座らされた。
さらに、水着の美女たちと一緒に、「ツイスト・ゲーム」をさせられた。女性たちは押し合い、へし合い、倒れかかってくるし、大変だった。
審査が終わって、賞状・賞品の授与。大賞は寺島志保さん。私は「サンスポ大賞」を渡した。長澤都さんだった。
賞状と賞品のブルゾンを手渡したら、「ありがとう」と言って、いきなり抱きついてくる。100cmの巨乳が押しつけられる。ウッ、何だこれはと思ったら、次に接吻された。あわてましたね、私は。ふりほどくことも出来ず、されるがままでした。
作家の中平まみさん、丸茂ジュンさんたちにも会いました。
今野さんは民主党で、宮城県出身。落語が好きで、自ら、東北弁でやる落語会を主催していた。「今度、鈴木さんも出てよ」と言われていたが、私は東京生活が長いし、もう東北弁を忘れている。勉強してから挑戦してみます、と言っていたのに。
超満員だった。海江田万里さん、江田五月さん、横路孝弘さん、菅直人さん、円より子さんなど多くの人が来てました。歌手の高石ともやさんも。久しぶりに会う人も多かったです。今野東さんの家族の方ともお会いしました。
今野さんは仙台でテレビのアナウンサーをしていた。出身は塩釜だという。
娘さんに聞いたら、母方のお墓は東園寺だという。「えっ、うちも東園寺ですよ」と言った。「あのボディビルをやってる住職さんのとこですか」「そうです、そうです」。いろんな縁があるもんだ。
そうだ。10月20日(日)の午後、格闘技のSAWを見に行った。仙台出身の藤野さんに会った。元相撲取りだ。「鈴木さん、東園寺のお坊さん知ってるでしょう」と言う。ボディビルをやってるので仲間だという。うーん、世間は狭い。
午後、河合塾コスモへ。今日はリフレッシュ期間で、授業は休みだが、自習室で勉強をする。夜、打ち合わせ。
そして、「初めまして」と言ったら、「何言ってんですか。一緒にテレビの討論会に出てますよ」と言って、日時と、共演者の名前を即座に言う。ウーン、私とは頭の構造が違う。とても勉強になりました。
それから、他の打ち合わせがあって、明大前のキッド・アイラック・アート・ホールに行く。カメラマンの山本宗補さんの写真展を見る。
私は山本さんとはどこで会ってるんですかね」と聞いた。「えーと、3回会ってます」と、その日時と場所を言う。いかんなー、私は記憶喪失者のようだ。
この日は、「無言館」の窪島誠一郎さんと山本さんが記念トーク。この前、「無言館」には行ってきたんですよ、と言った。
窪島さんは、実は水上勉の息子さんだ。その愛憎を書いた『父・水上勉』(白水社)を買ってきた。勿論、山本さんの写真集も。
⑩「おしどり」の2人も出てました。会うなり、「あっ、ニカラグア・ライト師匠!」なんて呼びかけられました。誰のことでしょう。あっ、今年の2月に、漫才をやったんだった。
「今度、3人で漫才をやりましょうよ」と言われました。いいですね。
⑭10月20日(日)、全日本SAW選手権大会で。20日(日)は、午前11時、伊勢原で野村秋介さんの墓前祭・法要。それから大森に行きSAW選手権に行く。1時から始まっていたが、3時頃、着く。ラストの試合を見て、打ち上げに少し参加。それから阿佐ヶ谷ロフトに行った。
全日本SAW(サブミッション・アーツ・レスリング)選手権大会。左から2人目がSAW創始者の麻生秀孝さん。右は生島隆さん(生島ヒロシさんの弟で、生島プロの代表)。
㉑10月19日(土)、愚安亭遊佐さんのひとり芝居「鬼よ」を見に行きました。とてもよかったです。
「マガ9」で前に対談し、この脚本も読んでたのですが、舞台は又、別の迫力がありました。終わって、一緒に飲みながら話し合いました。
㉓10月23日(水)、元民主党参院議員の今野東さんを偲ぶ会が、早稲田奉仕園で行われました。
仙台の人で、東北弁で落語をやってました。私も何回も聞いてます。これから大いに活躍が期待される人だったのに、残念です。
㉔海江田万里さんと。海江田さんとは、15年前、東海テレビの討論会でよく会ってました。新井将敬さん、三枝成彰さんらともよく会って、終わって酒を飲んでました。
この難局に民主党の委員長を引き受けるなんて、偉いです。男気です。と私は言いました。