ちひろぐ

心の色を指し示す羅針盤。


テーマ:
あの子の作る曲、好きだったなぁ。
今でも好きだ。

あの時は、お互いの考え方が違うってことを認識させるために、
わざといろんな正解を用意して、選択肢を作ったはずだった。

でも、私のそういった意図的なことを彼女は知ってか知らずか、
読み取っていたのかもしれないな。

結果的に喧嘩別れみたいになっちゃったけど…。

一面では、これでよかったと思えるけれど、小さなことに気付くと、
やっぱりちゃんと分かるように話をしておくべきだったかなって、
今更遅いけど、時々そう思ったりしてる。

全てはもう終わったこと。
終わったことは夢と同じ。

でもね、やっぱり人の言動が主体で結果が生まれるのだから、
どんなに喧嘩別れして離れても、強く意識をしていた相手のことは、
忘れられず気になるものね。追ったりはしないけど…。

今はどうしてるのか分からないし、特別知ろうとも思わないけれど、
一度は縁があって巡り会った人だし、やっぱりそういう人のことは、
当時に如何なる感情を抱いていたとしても、大切な人には変わりない。

なぜなら、相手もそうだと信じたいけど、今の私はその人に出会わなければ、
何の影響も受けず、選択肢を増やすこともできなかったかもしれない、
もっと極端に言えば、その人に会えたおかげで自分自身変われたことも、
少しくらいあるはずなんだ…と。

結果的に嫌いになったとしても、「嫌いになる」という影響を与えているのも事実だ。

私は今でもあの子のことは好きだ。だからこそ、離れて正解だったと思う。
私があの子の夢も、あの子自身をも、ダメにしてしまいかねなかったから…。

元気でいてくれたら、それだけでいい。
またどこかで、あの子の作った曲に出会えたら、それを印にして…。

Aちゃん、またね。
いいね!した人
PR
同じテーマ 「独り言」 の記事

テーマ:
主体はピグの話になります。
以下に例を書くので、少しでも考えるキッカケになればと思います。


名前を決めて、顔を作って、ネット上で会話をする。
アバターチャットはそういった視覚化に富んだコミュニケーションツールでもあります。

IDと名前と顔で個人を判別することはできますが、
大体の人はIDまで見て判断することはありません。

なぜなら、視覚化されたシステムの中にIDの記述が一切ないからです。

ピグのアバターをクリックしてプロフィールを開けてみても
IDの記述はありませんよね?

IDで判断するとなると、わざわざプロフィールのリンク先にある
「ブログ」もしくは「なう」をクリックして、やっとURLからIDを知ることができる。
(通報画面を開いてもIDの記述は見れます)

この煩わしさから、多くの人は名前と顔だけで個人を判断するのです。

名前と顔を設定できるシステムですが、その設定はいくらでも変えることができます。
なので、顔を変えたり、名前を変えたりして、別人を装うこともできるわけです。

どんなに変更できてもIDは固定ですから、常連やピグともなどよく知る人には
別人として扱われることはまずないでしょう。口調や打ち癖で分かるものだったりします。


ここからが本題。

名前や顔の変更が可能なので、たとえば他人と同じ顔と名前を設定するとします。
多少違わせてもいいでしょう。紛らわしい変装レベルでもいいです。
そして、その姿と名前で会話をしていたとする。

常連の間では、そのアバターが変装であること、また元々の個人が誰だか知れるでしょう。
しかし、そうではない初見の人などには、その変装後のアバターが個人として認識される。

要するに、元のアバターを知らないまま、他人に真似たアバターが個人として認識されるのです。

そこでもし、変装したアバターの言動がキッカケで、初見の人に嫌な思いをさせたり、
もしくは、誤解を与えてしまったらどうなるでしょう?

変装の元となった別の個人が、誤解した初見の人からずっと恨まれることもあります。
とんでもない事態に発展することも考えられます。

そうなった場合、誰かに変装をした者、もしくは紛らわしい設定をした者の責任です。
自身の発言や言動に責任を取れない者が、紛らわしい設定をしてはなりません。

たとえ遊びであったとしても、そういったものはアイデンティティの乗っ取りであって、
現実社会でいうところの、「成りすまし」と同じなのです。

現実社会とは違い、個人を判断する材料が少ないわけですから、
個人を決定付ける根幹である、アイデンティティを他人が侵してはなりません。

これはネチケット以前の道徳および資質の問題です。

たまたま初めて設定したアバターが、そこに出入りする人と合致してしまったなど、
偶然にも判断材料が同じになってしまったものは仕方がありませんが、
わざわざ誰かの真似をして誤解を与えてしまうことは、仕方がないでは済まされないのです。

こういったことを頭の隅にでも置いていただければ幸いです。
いいね!した人

テーマ:
昨日と今日、2日間で3回の(割と大きな)ライブでした。
またひとつ、忘れられない日が刻み込まれましたなぁ。

客席がずっと空のように見えてた。
そういう錯覚っていろんな意味で助けられるね。
自分、緊張気質ですから^^;

まぁ緊張しない人はハードルの設定が低いってことなのでしょうけど…。

今回、ライブを通して歌姫から何かと学ばせてもらったなぁ。
互いに互いから会得するものはいつだって新鮮だの~。
不安があっても過ぎれば楽しいもので、面白かったナン。

北は北海道から南は沖縄、海外からのお客さんもいたけど、
一体どれだけの方が足を運ばれたのかは不明。
これも偏に歌姫の人気に起因するものですのぉ。

ライブも大成功したし、その後のサプライズも成功したし、
余は満足じゃ~!w
いいね!した人

テーマ:
前記事からの続き。


恋愛でも人間関係でも相手の理解に必要なのは、疑問を持つこと。疑問がひとつ解決する毎に少しずつ理解が深まり、その積み重ねが絆を固くする。もちろん妥協すればそこで関係は止まる。妥協する者に他人との深い関係を築くことは難しい。ひょっとすると今の関係は、あなたの思い込みかもしれませんよ?

被害妄想って何かと厄介なもんやな…と思う今日この頃。情緒不安定な人に多く診られる症状で、例えば、周囲の誰も何もしてなくても「されてる」という錯覚をする。自己暗示に陥ってるケースもある。避けてるつもりが無意識に気にしてるという根拠でもあり、そのことに本人が気付いていないだけなのです

意見や考えが合わないなんてあって当たり前。人間だもの。無理に合わせる必要はないけど、逃げて向き合わないのはよくない。人付き合いに重要なのは向き合うこと。向き合えずに別れる夫婦や恋人って沢山いるけど、それと同じ。自分のことばかり考えるあまり、周囲が見えなくなる。自己愛そのものです。

「私はこう考えています」「こう捉えています」という主張は主観であって、それを元にべき論を述べるのは早計のように思う。ネット上で行われる議論にはしばしば信憑性を度外視して語られる内容があり、事実は徹底的に確証した上で発信しなければ、多くの誤解を広めることになると思います。ご注意を。

その時々によって考えは変わってもいいと思うけど、同時期に矛盾する2つの考えを持つことは、周囲が混乱するからやめた方がいい。考えを表明しなくても、態度や言動に表れるから分かるんです。それに気付かないと、周囲が疲れるんです。なぜ自分はこうなんだろう…とか自分否定する人は早く気付いて!

あるひとつの概念に対して自分の不甲斐なさを感じるのは、そのことが本当に好きな証拠なんです。いろいろ頑張ったけど結果に満足できないとか、むしろ後悔をするくらいになれば、あなたはもうその道では一流の考えを持ててることになるんです。夢とか希望を大事にするってことはそういうことなんです。

その人の余計な一言が、その人自身の状態を如実に表すことはある。なんだかんだ言っても気にしてることは読み取れる。自分を持っていない人ほど、他人の言動が気になるものなんです。でも気にしないよりかは気にした方がいいんです。何故かというと、自分に思い当たる節を発見できる可能性が高いから。

理由を訊かれたくなければ、周囲の人を心配させるような言動は一切慎むべきです。気遣いや心意気にはそういった駆け引きも含むのです。心配させておきながら差し伸べられた手を叩くような言動は自己中心的な行為であり、許されるものではありません。関わられるのが嫌なら自身の言動の矛盾を正すべし。

「相手にしない」と「逃げる」は、行動的には同じでも性質は全く異なるもの。自分の都合で「相手にしない」という選択は、向き合うことを放棄しているのと同じこと、すなわち相手にしないのではなく自分に甘えて逃げているだけ。自分だけの常識に囚われてる人ほど、そういった履き違えをするものです。

何度も言うけども、今の自分に欲しい言葉だけをチョイスしてる人は成長しない。成長には欲しいものではなく自分に足りない部分を補うものが必要なのです。ですから、お菓子のような口当たりのいい、心地のいい言葉ばかり拾っていても進歩はしません。耳が痛くなる言葉こそ、あなたに必要なものなのです

今日、同僚の若い子を叱責した。経験のない人には分からないかもしれないけど、正しい叱責にはした方もされた方も同じだけの痛みを感じるんだよね。いろんなものに正しいものと間違っているものがあるけど、間違った叱責だと一方しか傷を負わないわけ。お互い傷を負ってこそ相手の痛みも分かるのよ。

ひとつひとつの言葉には、それぞれに誕生したキッカケのようなものがあって、それを知った上でこそ、その言葉の本当の意味や真髄が分かるのです。言葉の誕生の背景を知らないと、自分の都合のいいように解釈してしまうでしょ?一人歩きしてる格言などの言葉が、普遍的に「不親切」といわれる所以です。

理想と現実の狭間で溺れる人は、理想を追求しすぎて現実への変換時に重篤なエラーを起こしてることが多い。何度もシャットダウンしては変換にミスをする、その繰り返し。エンジニアならイベントログを参照する事象です。分かりにくいたとえ話だけど、これでひとつの解決方法が分かりましたよね?w

スルースキルってのは必要やとつくづく思う。スルーできずにいると、傍からも結局どっちもどっちって見られるしな。被害妄想を抱くのも、自意識過剰に自分のことを調べられてると妄想するのも勝手。自分の言動をちゃんと見返せない人ほど、そういう妄想をどんどん膨らませちゃうみたいね。まぁ見返さない人は、まず自分の側の問題よりも他者の問題点を分析し始めるからなぁ。問題を何でも他人の所為にする思考と似てる。謙虚な人と順序が逆なんだよね。日本人なら謙虚に振舞いましょう。

重要な局面にきて運に任せるというのなら、何でもコイントスで決めればいいんです。コイントスも運なのですから、それくらい簡単なものなんです。運に任せっきりにしておきながら文句をいう人は、今一度原点に立ち返り、運任せなんて考えを見直すべきです。

接客が苦手だと言っていた子が嫌々でも接客業に就いたその日、「この仕事すごい好きかも」って言い出しました。そもそも苦手ではなく、やったことがないから不安だっただけなのでしょう。苦手だと思っていたことが実際やってみると自分にとって天職だったというのはよくある話です。思い込みは棄てよ!

感性を豊かにさせる手っ取り早い手段は、他者からのいろんな表情を汲み取ること。優しさや厳しさだけでは育ちません。怒りや悲しみなど、一見負の感情に思えるものでも、感性を豊かにするには必要不可欠。他人の感情を把握し分け合えてこそ共感できるわけで、その前提として感受性が重要になるのです。

良いもの悪いものに関係なく、失うことは人生にとって負です。物、人、場所、空気、景色、形、心、信念、意欲、記憶、感情、ありとあらゆるものがその人の人格形成に関わっているのです。運は別として。長期的に見て正になっていればいいけれど、負に転じた時のことを繰り返さないようにしましょう。

人生は、とてつもなく楽しく、とてつもなく不安で、とてつもなく退屈、とてつもなく悲しく、とてつもなく怒り、とてつもなく平凡。人生語れるほど生きてもいない。だからこそ、とてつもなくつまらない。

人の精神をコントロールするのは相手にもよりますがものすごく簡単。人は感情的になると自制を失いますから、感情的にさえならなければコントロールされる隙は防げる。感情的な状態は言葉や言い回しで分かる。今まで数えきれない程の精神状態と対峙してきて例外はゼロ。心理学舐めたら痛い目に遭うでw

先入観や固定観念は単純なものまでも複雑にしてしまう。人の気持ちまでもね。余計なものは重荷になるから纏わないほうがいい。羽ばたく時に邪魔になる。足取り軽く心も軽くこのまま進む、理由は明白だ。

楽しいことは勿論だけど、苦しいことでも幸せなら、それがあなたにとって正しい道なのです。どんなに大変でも幸福感に満たされれば頑張れるでしょ? 正しいか間違ってるかの判断は、それだけでも十分です。逆に不幸だと感じたなら引き返しなさい。あなたの幸せはあなただけの願いではないのだから…。

失敗したことにくよくよしたり後悔をしたところで、何も進展はしない。過ぎたことは夢や幻と同じなのさ。

「友達はたくさんいた方がいいのか、それとも一人でも親友と呼べる人がいればいいのか」 — 確か「友人の旋律」だっけ?欲張りかもしれないけど、両方あるに越したことはない。ただ私の経験上、自分の周囲に心を許せる人が3人いれば大概うまくいく。これは多すぎてもダメなんだなぁ…。

恋愛の悩み相談で相手の人からよく聞かされる言葉に「もう終わった」というのがある。これ、8割の人が思い違いをしてるのです。恋しました、愛しました、トキメキましたってだけじゃ何も始まっちゃいない。互いの気持ちに応えあって、初めて「始まった」といえる。心を交わさなきゃ始まらないんです。

今読んでる本は当たり前のことが多く書かれてるんだけど、当たり前だからこそ人は忘れやすいんやなぁって感じた。バカバカしいとか、くだらないって思うものほど、本当は大事なことなんよね。そういうことに気付ける本って結構面白いよ♪( ´▽`)

大人になるのは難しい。見た目だけの見掛け倒しなら小学生でもできるけど、中身を伴わせようと思ったら、意識するでもなく自然と無意識に振舞わなくてはならない。付け焼き刃だとすぐに化けの皮が剥がれる。日々の習慣付けって大事だよね。

昔は「女性らしい」といえば、料理ができて、裁縫ができて、花を活けれて、踊りができて…というのが当たり前だったけど、現代では男女平等という考えから、「らしさ」というものが失われつつある。現代人は役割に不満を漏らす割には、「男らしく」「女らしく」といった理想を掲げる。矛盾だらけです。

刺々しい気持ちを払拭して柔らかくなれたら、漸く冷静な判断ができるようになります。冷静でない時に判断すると、失うものも大きいのです。なので、イガイガな心やトゲトゲの気持ちが心情を支配している時は、何も考えずに自分の気持ちが鎮まるのを待つのが吉。待てない人は忍耐力を鍛えてください。

「決め付け」というのは全てが主観です。その段階ではまだ仮定や仮説の域を脱してはいないので真実ではありません。思い違い、勘違い、誤認、誤解などは、検証を怠り自らの仮説を真実だと思い込むことが原因です。当然矛盾が生じますから、辻褄合わせに違う事象を作り上げるんですよ、そういう人は…。

人を簡単に嫌いになる人、またそれを繰り返す人に多いのはコミュニケーション不足。恋人同士ですれ違ったりする原因も同じ。むしろ恋愛のそれの方がシビアですから、何とも思ってない人に対して嫌悪を抱く人は恋愛でも失敗するんです。逃げるという選択は自分の事しか考えられない人のすることなのよ。

本質を理解しようとしない者の言葉に説得力はない。むしろそういう者を哀れにさえ思う。思い込みや被害妄想の果てには、否定する選択肢しか残らない。自ら視野を狭める悪循環でしかない。そういう心こそ祓われるべき。冷静さを欠くと痛い部分が無意識に露出するものですよね、人間ってヽ(´o`;

矛盾を指摘されるようなことがあった時、ちゃんと説明できないのは致命傷です。その矛盾を自分でちゃんと理解できているならまだしも、自覚がないのは人として臨終です。そうならないためにも、他人のことよりまず自分の言動の矛盾点を見直すべきです。それを怠る人は一生自身の矛盾に気付けません。というか、自身の矛盾に気が付かない人が他人のことを指摘できるはずがありません。自分のことすら理解できない人が、他人を理解するなど不可能なのです。だから、自分のことが分からない人ほど謙虚に生きなければいけないのですよ。自身の生き方を恥じる人ほど、他人の所為にしたがるもの。厄介です。

意見と根拠は一対であるのが基本であって、感想を根拠とするものは全て主観である。ツッコミどころの余地があるものは感想であり、人称主語が含まれるものは全てが主観や主体である。意見にできる根拠には到底なり得ない。根拠は事実を元に示されるべき。事実には反論の余地がない。法廷での基本やで。

何か特定のことでしか自分の価値を計れないというのも、あまり好ましい状態とは言えない。夢中になるのはいいけど、要はそのことに充実してるかどうか、望みの結果を予想して納得できるかどうか。まぁいろいろあるわな。自分と真剣に向き合うと、皮肉にも考えざるを得ない事柄なんだよね。

人が着飾るのは自分を偽るためではなく、本来は自信を身に着けるために行うものです。そこを履き違えてる人もいれば、捉え違えてる人もいる。着飾ることで人格までも変わることはないのだから。人格を飾る行為こそ偽りなんです。人格の偽りとは、一般的に「詐称」と言われるもの全てを指します。

○○さえあれば良いって考えは完璧の前に通用しない。ありとあらゆる可能性の投入をしてこそ奇跡は起きるし、平凡だったものが特別なものに化ける。持てる力を全て使い果たしても納得できないのは、力が不足していることを証明している。全力とは力を全て使うという単純なことではありません。

自己的な常識とか思想で他人を推し量ろうとすると、自分との違いをどうしても比べたがるんです、人間は。そこから相手の人格の否定が始まり、罵倒し、侮辱し、エゴの押し付けに繋がる。嫌悪を抱く発端は意外と自分の側に問題あることが多いのです。裁判を傍聴してるとよく分かる。戦争等の発端も同じ。

結婚は「この人となら不幸になっても構わない」と思った上でするもの。前になうにも同じようなことを書いたけど、幸せを求める婚姻はいずれ裏切られる。最初から低い水準で構えておけば、「不幸も然り」と受け入れられる。他人の離婚調停などを拝見してると熟そう思う。

コソコソするのは嫌い、それが私だ。自分の醜い部分を隠すくらいなら、全てを曝け出して人に自分のあり方を問うほうが潔い。醜い部分を覆って隠し続けると、心までその醜さで支配されてしまう。支配された心は言葉に顕れる。行く末は自滅。強い意志とは、主義や思考を頑なに誇示することではありません

人に依存するより言葉に依存する方が危険である。自己責任原則な風潮の時代ですから、自身の決断に安心できる解答を他に求めすぎて騙されるんです。スピリチュアルや占いなんかがまさにそれ。自分に欲しい答えだけを求めるあまり言葉や人に依存する。相談者は自立できる答えだけを聞き入れるべきです。

こだわりと依存は紙一重。執着と粘着の関係と同じ。見る度に思い出すようなことを残すのも執着心の表れである。意識があれば心得違い、なければ依存なのだ。

供養とか成仏とか祈祷とか心霊とか浄土とか、正しい意味を理解せずに使ってる人多いね。私は無宗派やけど、これに限らず如何なる言葉も大切にしたり重んじたりするなら、最低でも正しい意味や性質を心得ておかなければ心に響かない。正しい意味を知れば、どういう感情で伝えればいいのか自ずと分かる。

木が泣いてるとか自然が怒ってるとか、そんなのは詭弁であって実際泣いたり怒ったりはしてない。人は自然を破壊してる後ろめたさで勝手にそれを擬人化し感情移入して、きっと泣いてるだの怒ってるだのという妄想を繰り返してるに過ぎない。泣いてるのは自然ではなく自分たちなのだ。

カテゴリ分けが下手な人は、感情や愛情の表現も下手である。あまり知られていない心理学のセオリー。感情に流される人もまた、短絡的なカテゴリ分けに終始し、表現面において失敗を繰り返す。他人の忠告に腹を立てる前に、自分の感性くらい自分で守りたまえ。

人を刃物で刺殺する場合、刃の向きによって量刑が違うのはよく知られてること。刃が上向きだと、下向きの時と比べて重罰になりやすい。ちなみに横向きの場合は、下向きの時と同じ罪として扱われる。上向きの時だけが重罪となるのは、被害者の体が崩れ落ちる際に命尽きるまで苦痛を与え続けるからです。

「歌は上手い下手じゃなくて、表現して伝えることに意味がある」とかぶっちゃけ綺麗事やね。悲しいけど…。現実を見れば上手い下手が先行して判断され、内容は二の次。そりゃそうや。いくら表現が正確でも、聴くに耐えない声で歌われたらその前に耳を閉ざされる。だからプロでも欠かさずレッスンする。

芸術が芸術の範囲に留まるのは趣味のうちだけで、芸術が職業ともなれば技術を伴わせる必要がある。芸術論だけで作品が作れると思っている間は夢見がちだけど、現実は甘くない。むしろ技術力が伴わなければ自身の芸術も育たず行き詰まるのが現実。プロはそれを意識させないだけで内情はそういうことだ。

自分の実力を他の人が認めるかどうかは、概ね周囲の人から向けられている自身への期待に日頃から応えられているかで決まる。説得力もそう。自分のすべきことをしっかりしていれば、多少見誤った評価や意見を述べても周囲には納得されるものです。自分の好きなことだけをやっていても認められはしない。

自分が周囲からどのように思われるか、他者からキャラクター的な設定がなされるのは避けようがないので、自身のあるべき人格や性格を周知させるのなら、誤解される言動は直ちに是正するべきです。自身の人格や性格が他者より心外を受け憤りを隠せず怒りを露にする前に、先ず自身の日頃の言動を改めよ。

束縛に関する傾向やけど、相手に対して女性は時間を、男性は行動をそれぞれ掌握し統制しようとする。これは精神学及び生物学上、本能的にとられる思考であり、むしろ軽微な束縛こそがより人間的なのです。それらが一切皆無な関係に互いを想う本質的な愛情は存在しません。

日本国において婚姻には貞操義務を伴うが拘束力がなく、その義務を怠っても法律上の罰則は存在しない。精々離婚調停などの査定に適用されるくらい。以上を考慮すると、婚姻に関する義務に法的拘束力はないが、便宜上何らかの拘束はされ得る。よって、束縛に一切の寛容を認めない者は婚姻すべきでない。

某バーガー店にて、店員に接客態度について苦情を申し入れていたお客さんがいたのだけど、ファーストフード店という性質のものに接客マナーを問うのは愚行としか言いようがない。接客はもちろん大切だけど、商品の対価を考えると十分なサービスはされている。接客マナーを問う前に客の質を問うべきだ。

賢者は自身の愚かさを知っているが、愚者は自身が賢いと思ってやまない。後者は、他人の愚弄はするけど自分の愚かな部分は認めないってタイプの人。現実でもピグでもたま~に見かけますね、そういう人…。

近すぎず遠からず、お互いが背中合わせで居られる関係が一番長続きする。常は違うところを見ていても、いざという時にすぐ頼れる距離。いつも向かい合わせだと、自由な時間さえ束縛されてる気がするの。面倒くさい人間でゴメンね…。

恋は頑張るものかも知れないけど、愛は頑張るもんじゃないで。そこを頑張っちゃうと偽善になるというか、本当の気持ちを見失うからなぁ(^。^)

人が事を起こすのにはいろいろと事情があって、勿論それには当人にしか分かり得ない内容も含むわけですから、何も知らない傍者があたかも事情を全て知ったように当事者のことを批判したりするのは愚行でありまする。世間の常識や良識では計れない複雑な事情も絡んでいたりするんですからね、現実的に…

自身の感性や思考が一般的であると信じるのならば、他者に確認を求める必要はない。だけれど、信じていることに少しでも不安があるのなら、自分を疑うに至る前に他者に確認を求めればいい。誰にでも多かれ少なかれ自分の思考に不安はあるもの。根拠のない自信を誇張し続けることは、甚だ愚行なのです。

モテる努力をするのは悪いことじゃないんだけど、大事なのはたくさんの人から好かれることじゃなくて愛されること。そういう人は特別努力しなくても普段からの言動が、たくさんの人から愛される結果に繋がっていたりするもの。逆に「私のことをもっと見て!」という主張を匂わす言動は見苦しく映る。

言葉に翻弄されるのは危険だけれど、その中で最も致命的なのは自分の発した言葉に翻弄されること。平たく言えば自己暗示の部類なんだけど、精神疫学的見地からは精神疾患を把握できる尺度として査定される。自分を過度に追い込んだ結果、他人から突っ込まれて逃げ道を失い発狂する人はこれを疑います。

私にも許せない人くらい一人や二人います。ただ、生きてる間にそういう人ができてしまうのはとても悲しいことです。そう分かっていても、どうしても許せないのは人格否定をされたからなんですね。どんな争いでも人格の否定は戦争や殺人と同じなんですよ。勝つことしか考えない人には分からないのです。

人前で緊張しない人は、そういう状況に慣れているからではなく、目標の設定が低いからです。場数を踏んでいる人でも、目標の設定が高い人は緊張するものなんです。緊張しないと言ってる人は、プロ意識に欠けているんです。そういうのをカッコいいとかいう風潮がおかしいんです。緊張感は持つべきです。

泣くのはなぜですか?自分の思う通りにならないからですか?分かってもらえないからですか?悲しいからですか?腹が立つからですか?全てに共通するのは、結果的に自分が無力だと思い知り、自身の無力さが悔しくて涙を流すのではないでしょうか。自分に原因があると感じたなら、あなたはもう大丈夫です

人が人を必要以上に責め立てるのには、少なからず責める側にも触れられると困る同程度の事案が存在するから、責める側に波及する前に徹底的に叩き潰すという理由もあるだろう。それは一体何を意味しているのでしょう?自身の身の潔白をそれによって同時に証明されなければ、どちらも同じ穴の狢なのだ。

人は自信を持つと実行を優先する。つまり、思考が停止される。これでいいのだろうか?といった自己批判が過信を抑制する。例えば、完成されたマニュアルを実行すると考えることをやめてしまう。これは、完成されたもの=完璧なものと勘違いし過信することに起因する。持つ自信には良し悪しがある。

人間関係でトラブルを起こす人は、人との関わり方に問題があるわけではなく、相手のことを真剣に考えて対応した結果、互いの見解に溝が生じてしまったものが半数を占める。対応の仕方に問題があるのかもしれないが、トラブルを起こさないよう本音を話さない人は、他人からの評価を第一に考える人です。

平等と正義と秩序。このうち偽善性の高いものは平等と正義であり、どちらも必要悪と言っていい。平等はそうでない現実を結果的に認める言葉であり、正義は必ずそれに相反する敵対的な存在を定義する必要があるからです。一人一人が秩序を乱さず主権を侵さない、たったそれだけで平和は実現できます。

人間関係での愚痴には、もちろん嫌な思いをしての理由もあるでしょうけれど、中には相手の特徴や外見に異論を唱える愚痴も存在する。そういうのは愚痴の範疇を超えた悪口であって、傍目からすれば単に嫉妬であり客観的に醜い性格と認識される。愚痴は相手の行った言動についてのみ吐き出すものですよ。

プロフィールに「大人」や「大人です」といった表記をしてる人をたまに見かけるけれど、大人ならそういった表記をわざわざする必要があるのかという疑問を長い間抱き続けてます。もちろんそれは個人的見解ですが、大人なら対応で示せるのではないでしょうか?それが面倒なら子供と同じに思えるわけで…

何かを残す。つまりそれは、その何かがタイムマシン的な役割を果たすことを意味する。その時々の考えや思いは、先々自分がいなくなった世には消えてしまうわけだが、それらを何らかの形で残しておけば、人類が滅亡するまでは伝わり続ける可能性が高い。音楽とはそういった性質までも伴うものである。

自身の主義主張が正当であると思うならば、堂々と言えばいい。少しでもその正当性に自信が持てないなら、何も言わない方がよろしい。相手のためを思って苦言を呈するには、自分の言い分に確固たる信念がなければ、相手を不愉快にさせるだけだ。もちろん事後のフォローは重要だが、肝心なのはそこです。

思ったことをそのまま口にするのが子ども。思ったことを整理し言葉を選ぶのが大人です。子どもっぽいところがたまに出るから好感が持てたりするわけで、常に子どもっぽい人が魅力的ってわけではないのよ。何にでもメリハリは必要です。ブリッコもメリハリがあれば可愛いものよ。好感は自身の行い次第。

自業自得というのは心が健全な者だけに許される言葉だ。気に病があると、自業自得の考えが自らを追い詰め、それらが蓄積された果てに自害を選んでしまう。少しでも他人の所為にできる人ならそこまでに及ばない。「自業自得」「自分次第」は自主責任を重んじる者にとって危険極まりない言葉なのです。

偶然は偶然。それに理由を付けたがるのは、起きた事象に必然性を見出したいからに他ならない。なぜそうするのかというと、必然であれば偶然や奇跡を何度も人為的に引き起こせるはずだと夢見るからです。文明はそうやって発展してきた。きっとこれからもその流れは変わらない。

常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションである。マナーって意味なく繰り返されてきた伝統であって、意味のある歴史とは違うんだなぁ。

悪いところをひとつ見つけると、粗探しの様に悪いところを掘り出そうとする。人を嫌いになるプロセスは一概ではないけど、ある程度の傾向は認められるもの。そんな他人と同じ様な理由で嫌悪を抱いて関係を解消するのは面白くないしもったいない。どうせなら他人とは違う視点の恋愛を楽しみましょう。

決断は自分で下すのが当然だけど、方向性は自分で決められないのが芸術界全般の常識だったりする。客のニーズが自身の方向性を決める。「育てていただく」とはそういったものも含む。育ち切らないうちに好き勝手なことをしても関心はされない。ニーズさえ裏切らなければ、信頼の末に自由が認められる。

誰かしら他人を根に持つ人は、他の事でも疑われるってことを知るべし。

予想力と想像力が欠如していると、言われたことのイメージしか想像できないので、そこからどうすれば理想の形に繋げて行くことができるかという思考に及ぶことはない。よって、そういう人が辿る先には負の価値観しか残らない。否定的な言葉を自ら肯定的な言葉に変換する能力がない人は卑屈に走るものだ

自分の居場所くらい自分で守れなくてどうする。誰かの所為で追われたとか居れなくなったとか言うのは甘えでしかないし、所詮は必死で守るほどのものじゃなかったってこと。逃げるのも向き合うのも自分次第。向き合いもせずにただ他人の所為にするとか、自分本位でしかない人はいつまでも気付けない。

何をしても全くうまく行かず同じ状況を繰り返してしまうのは、今まで自分自身の言動を疑うことなく踏襲してきた結果です。少し物事の見方や捉え方を変えるだけでも抜け出せるものですが、自分の言動を疑わない人は抜け出せないどころか、原因は自分ではなく他人にあると考え文句を垂れるから質が悪い。

組織から脱退した後も、それらが定める規約やルールなどを脱退者に励行させることは、事前の契約が法規上正当かつ有効であると認められる場合を除き違法です。こんなのは当たり前だけど、中には組織側が無断で強制脱退の処分を下した後も脱退者の権利を拘束し続ける悪魔組織もある。

逃げたり向き合わなかったりして居場所を失った人に説得力などありません。例えばブログを自らの意思で閉鎖したくせに、後になって居場所を奪われたなどと他人の所為にするのは如何なものかと。その人にとって所詮その程度の場所だったのに、未練たらしくウジウジと文句を垂れる人は自覚が足りませんな
いいね!した人

テーマ:
要望があったので、今までのなうから語録的なものだけを抽出しておきました。
なうはツイッターと違い、そのままにしておくと1~2年くらいで過去の投稿に
アクセスできなくなるので、流れる前にサルベージしておきました。

以下、古いものから順番に書いてます。


それほど意識しなくてもいいことに、それでも意識してしまうのは、忘れることができないんじゃなくて、思い出せなくなることが怖いから。記憶が薄れていくに連れ、その感覚が濃くなっていくの。何度も思い出して腹を立てたり涙を流せたりするのは、幸せなことよ。私にはもう思い出せない過去の記憶…。

考えるほどに苦しくなるなら考えなければ楽なはずだけど、人間は考える生き物だから考えずにいられない。人は忘れ易いけど、無理に忘れようとするほどに意識が記憶の上書きを促し、余計に忘れられなくなる厄介な反復記憶装置を有してる。忘れられずに苦しいのなら忘れることをやめよう。記憶の隅へ…。

物事を考える際、選択肢を多く確保するために知識や知恵は必要だけど、それらの決断に最も影響されるのは個々の経験なので、いろんな事を体験するのは有意義なこと。数ではなくその内容が重要だけど、その最短距離は、知らないことだらけの場所に自分の身を投じること。数カ月一人で渡航は私の経験…。

大切な言葉は、その言葉の誕生の背景にある景色を思い浮かべながら記憶すると、忘れることは防げるし、記憶違いも起こりにくい。景色を思い浮かべると自然と言葉も出て来るし、歌詞の順番も間違えなくて済む。物語を想像し順序立てて覚えるのと同じ。引き出しの中にあるのが言葉で、景色は鍵の関係。

成功している人についていくのは誰でも出来る。うしろ楯を失った私を密かに見限ってる人は多い。そんな時に苦楽をともにしましょうと言ってくれる人たちこそが本当の仲間。

ふと気付いたら同じ色しか並んでなくて、違う色を少し付け足すと何だか可笑しくて、沢山色を加えると面白くなった。全体を見渡せばメチャクチャやけど、だからこそ楽しいのかも。自分にない色も時には必要なんやね(^。^)

細胞も永遠じゃなく、分裂を繰り返してるうちにどんどん死ぬけれど、わざわざ自分でこの体にムチ打ったり酷使したりして細胞を傷め付けてるのに、それでも必死に分裂を繰り返しながら私の体の修復の為に頑張ってるんやなぁ。誰の細胞でも同じやけど、ホント健気に思う。

食べても食べなくても、寝ても寝なくても、しなきゃいけないことは変わりなくて、やりたいこともやらなきゃいけないという意識に変わると、自分の個性を見失ってしまう。いつだって好きなことばかりできるわけじゃない。人としての成長は嫌いなことの克服から始まるのかもしれない。

私の心に触れ、何か違和感を覚えたのなら、その感覚に間違いも勘違いもたぶんありません。ただ、その違和感をずっと保持し続けるメリットはきっとないよ。違和感を覚えた時の感覚だけは、どうか忘れないでね。

委嘱をしてくる側は、「作曲家が作りたいと思う音楽を作ってください」というもので、反対に「委嘱者や客が喜ぶ物を作りました!」というのは委嘱者の望みに反するものである。

努力が必要だなんて、本当は誰も言っちゃいない。エジソンの「発明とは?」と訊かれた時に答えたビューアも、新聞記者が勝手に捏造したもの。本当は、「いくら努力しても、ひらめきには敵わない」ということを言っている。実らないのは努力が足りないんじゃないよ。今の方法が間違っているからなのよ。

裏で支えてくれる人の存在って大きい。でも自分は表舞台には立たない裏方的存在なので、裏の裏で支えてくれる人の存在に気付かないといけないのかなって思ったけど、裏の裏って結局表やん?w ああ、だからか! 支え合うってこのことなんやねぇ(*v.v)。

せっかく見つけ出した法則も、それに頼りきりになると全体像がぼやける

近付いてはいけない線、歩み寄れない線、折り返しの線、いろいろあるけど全部自分が勝手に引いた線だよ。そんな線は消しゴムで消しちゃいなよぉ~。でも、自分で引いた線でも消せない線もあるね。越えてはならない線。その一線を越えると、もう元には戻れない。たとえどんな言い訳をしようとも…。

抱えきれない想い出が瞳から幾度となくこぼれ落ちても、消えてなくならないのね。失いたいと願うものほど残って、大切なものほど失くしてしまう。大切に思うものが欲の対象に変わった時、自分の心から離れてしまうんだね、無意識に。人が離れていくんじゃなく、最初の気持ちから自ら離れたんだよ。

絶対音感と相対音感は補完の関係で、たとえば絶対音感の人はほんの僅かな音程のズレには気付きにくく、相対音感の人は旋律の流れからその音程のズレを認識できる。絶対音感の人が嘘をついても、相対音感の人にはバレるんだね。自分は絶対音感を持ってるけど、やっぱり相対音感を持ってる人に憧れる。

夏目漱石先生が、"I love you"を「月が綺麗ですね」と訳した意図って、自分の気持ちを届けることが相手への押し付けにならないように配慮した、どこか日本人的な思想の表現なんだと思う。気持ちの押し付けじゃなく、共有しましょうって話なのかな。

オンリーワンな人は世間ではただの変わり者扱いなのよ。それを見て変人とか変態とか罵る人がたまにいるけど、世の中を変えてきたのは明らかにそういう人たちなの。偉人を支えてる奥さんの言葉は、皆共通して「うちの主人は自分勝手だから成功した」って話してたりするよ。

知識や技能って、芸術にはあまり重要じゃないと言われるが、それを持っていれば言葉以外の場面で表現の幅は確実に広がる。できることの多さは直接その可能性を高めるのに最も近道であって、時間を掛けずしてスマートに伝わるわけ。できることが少ないと、時間を無駄する破目になる。←仕事もそうですw

いちいち考えることも振り返ることもちっさいねん。私には経験がないから分からんし、思い出としては大事かも知れんけど、後ろを見て歩くのはもうやめようぜぇ~! いつまでも夢見がちに振り返るのは少女、振り切るのが女なんだよ。

コンプレックスって、誰かと比べて葛藤してるんじゃなくて、実際は自分の理想との葛藤やってんね…。おばちゃん最近かな?そのことに気付いてんwww

学習したことを無駄にする人、しない人。その差は見ると明らかだけど、要は今自分のしてる事に、学んだ言葉をどう落とし込むか、または落とし込めるかの違いだけ。学ぶ前に予習しておくことの大切さと、学んだ後に復習することの必要性。最近人に教えることが多くなって、改めてこれが大事だなって…。

言葉はあまり重要ではなくて、たとえば言葉の通じない外人に話しかける時、ジェスチャーを交えて翻訳できない単語を並べただけでも、伝わるものは伝わるわけで、それには態度とか表情とかも伴うよね。言葉で正しく伝えることができても、それらが伴ってなかったら、相手もスッと飲み込んではくれない。

すべてを諦めたら自分には何も残らないって考えると、価値があると思っていたのは一体なんだったの?ってことになって、じゃあ最初から見てたのは夢か幻かって話になるけど、これまで犠牲にしてきたものもあってそこを認めたがらない。でもね、認めるのが怖いから続けるっていうのもありだと思うよ。

じっくり模索を繰り返して作り上げたものには、揺るぎない信念が宿るのだとか。妥協していい加減にできたものは簡単に崩れる。大器晩成って人だけに言えるものじゃないんだね。演奏は手を抜けても、作曲は手を抜けないんだわ。それを手抜きって言われると、さすがにまいるわヽ(´o`;

執拗に愚痴る人は、大概自分のことを棚にあげていることが多い。人それぞれに愚痴られるくらいの要素は持っているもので、それを不特定多数の人が目にする部分に掲載するかしないかで、その人の境涯の度合いが判る。愚痴は許される範囲で許される人物だけに零すものです。

飼い主が贔屓をすれば、犬や猫でも嫉妬するくらいなんだから、そりゃ人間でも嫉妬くらいするわなぁ。むしろ、嫉妬しない動物って一部の魚類と鳥類を除いて、いないんじゃないかなと…。

いろんな危機やそれぞれの経験から、その人の考え方が形成されていく。そういうのってそれぞれ違って当たり前だし、同じじゃないから面白くて憧れもできる。同じ考えや性格の人と過ごすのは楽だけど面白くはないよね。性格の不一致を理由に別れる人いるけど、性格が同じだから別れるんじゃないかしら?

定義通りの手法にオリジナルを混ぜ込むことで、既存の概念に個性を含んだ要素を表現できる。定義は教科書で、概念は参考書または参考物。言葉を理論的に操ると、法曹的な表現になることに抵抗を感じる。

どんなものでもその原点は丸くて、進むと尖ったり窪んだりして迷いに迷って、原点に戻ればまた丸くなる。最初の頃より大きい丸になる。時々原点に立ち返らないと成長はできないんだね。

つまらないことを言い続けてると、本当につまらない人になりそうで、この前から少しずつ考えを改めたりしてるけど、長年に亘って染み付いた癖のようなものは、なかなか拭えないねヽ(´o`; 自覚があるからこそジレンマに陥る…。

楽器を演奏してる人ってキッチリしてる人多いね。扱いじゃなく奏法が。奏法がいい加減な人は楽器の寿命を短くするし、音の質とか根本の違いはそこなのね。フレットの寿命が短いのはフレットの直近を押さえないからだけど、直近を押さえないから音も不安定になる。ギター以外でもいえることだよね。

何かの影響を受けて、他の人の言葉で勇気付られても、最終的に夢を掴みに行くのは自分自身。どんなに苦境でも、駆け上がれる階段がある人は幸福なはずなんだけどね…。

相談にはいくらでも乗るけど、私にできることはひとつの考え方を提示するまでよ。結論を導き出すのも決断を下すのも私じゃない。決定権は本人にしかないのだから大いに悩みたまえ、若者よ。

法律の解釈の違いを係争の具にして、事実を解明しようとしない法廷に何の意味があるのだろう。法はあくまでひとつの真実の下に解釈されることが望ましい。言い負かした側が真実を語っているという間違えた意識は捨てるべき。個人の信頼を法は守ってくれるが、法を悪用して不正に得た信頼は法も見限る。

自分に正直に生きるってことは、自分の考えや思いや気持ちを信じることで、例えば好きなら好き、嫌いなら嫌いという意思を正直に持つことじゃないかしら? 今は正直者が馬鹿を見る世の中だから、本来当たり前である「正直に生きる」ということが難しく感じるのかもしれないね。

規制の中で可能な限りの努力をすることで、その規制にはあまり意味がないことを知ると同時に、自由であるという錯覚をする。少しずつ制限されることで錯覚はどんどん増していき、やがては根本の自由を奪われる。自分の居場所が失くされる前に小さなことにも目を向け、都度解決を図らなければならない。

克服したいものがあるとして、克服の仕方はもちろん大切だけど、何を以って克服できたかを知ることが重要だと思う。克服できたとする目安が分からないと、本来向くべき方向とは違うベクトルに労力を費やし、ただ闇雲に無駄な努力を継続してしまう恐れがある。理想の結果を想像しないと何も得られない。

不可思議な現象を科学的に解明すると「夢を壊すな!」という人がたまにいるけど、解明することを怠り、不特定多数の人に不安を与える根拠無き情報を拡散させるのは、人道的に如何なものかと思う。そんなのは夢を語る資格もない。根拠無き憶測をあたかも真実だと説くことを、法曹用語で「狂言」という。

なんだかんだ言って、人って言葉を選んでるよね。自分の言葉も他人の言葉も。気持ちが弱ってるうちは選別したり、脳内フィルターで篩にかけてもいいけど、強い時にはいろんな言葉も受け入れて乗り越えていこう。たとえ傷つく言葉でも。そこで逃げてたらいつまでたっても乗り越えれない。

人って根が優しいから、優しい言葉なんていくらでも聞ける。優しい言葉よりも厳しい意見を大切に。本当に優しい人は厳しいことも敢えて言うものよ。口当たりのいい言葉には表面的な優しさしかない。そんなのは慰めてほしい時だけでいいはず。厳しい意見にこそ、自分自身に必要なヒントが隠れてるよ。

仕事だと結果が重要視されるけど、人生は結果が全てではなくて、むしろその過程が重要。試行錯誤して苦しんだり悩んだりして乗り越えた分だけ、学習して成長するし、充実してると言えるのはそういった経験があってこそなんだよね。だから、偉人が残した結果から自分が学べるものなんてひとつもない。

昔からよく言われてることだけど、たとえ独り言であっても、汚い言葉を使うと心が穢れる。穢れた心は外見と言動に表れる。そしてまた、汚い言葉を使う…その繰り返し。一度そういった癖が着いてしまうと、心に染まった穢れを拭うことが難しくなるから、早めに気付いて適切な対処を講ずるべし。

自分の必要なものや欲しいものはいくらでも望む癖に、自分に足りないものを知ろうとしないのは、欲望が勝ってるから。欲しいものがなくたって良いものはいくらでも作れるけど、足りないものをそのままにしておくと、不完全なものしか出来上がらない。火も酸素が不足してると不完全燃焼になるでしょ?

今魅力的に感じてるものを、その魅力を更に高めてほしいと望むことは罪なことなのかもしれないが、そういうことに妥協したくないと思うのは、自己の欲求を満たすものではなく、相手のためであることに違いない。捉える側がその判断を誤ると、一生その部分の是正はできない。冷静な判断が試される。

偉人が残した言葉や著名人が発した言葉などを要約すると、なんて無責任で矛盾だらけなの? 正説を論ずる者、逆説を論ずる者、一見似通った結論に導いているように思えて、真に理は相反していたり。逆説はもはや逆理であって、言葉巧みに人を酔わせるから性質が悪い。己を保持せぬ者ほど言葉に酔う。って書くと、それらの言葉が全て悪のように捉われるかもしれないけど、そういった言葉は自分の意志やスタンスなどを明確にできていることを前提に、参考程度に心に留めておくのが正しい言葉との付き合い方なのです。

気になる人のことを思うと、自分の心にその人を住まわせるスペースを無意識に作ってしまうことが誰にでも稀にある。それが恋の始まり。そのスペースが狭くなると不安に陥り、それを広げるために詮索をし疑うことで埋める材料を集め始める。それが嫉妬。トキメキを比べることが浮気の始まりなんだよ。

人生の愚行のひとつに「疎ましいと思う心」というのがあります。他人の言動を笑ったり鬱陶しがったりするだけの余裕があるならば、その人は自分に対して懸命には生きていないことになる。信念があって懸命に生きていれば、他人の言動など気にならないはず。気になる人は、心に邪念が宿っているのです。

未だに違和感を拭えない。自分のことも他人のことも…。冷徹な態度を変えない者に、温もりを求める資格はない。まさにその通りやな。変わろうとしない者が、周囲に変化を期待するのがそもそもの間違いや。与えることは失うことじゃないんやからね。

自然界では「私に近付くと危険です」というメッセージを、黄と黒の色で発信してる。ハチやトラがそういった配色になっているのも、長い歴史が自然の摂理を形成した結果によるもの。警戒標識をそれと同じ配色にした理由も、無意識に危険を察知させるため。こういうの、音にもあるよね。

信念があってもその理(ことわり)を示せない人は、歴史を鑑みても何ひとつ叶えられずに世を去ってる。誇りを取り戻すのも並大抵のことではないよね。冷徹な私なんかは、こういった部分でかなり得をしてる。変わろうとしないことだけが厄介ではあるけど…。

他人の趣味や好みもやけど、それに関連付けてその人の人格まで否定する人は少し考えてほしいと思う。否定することで優越感を得るという心理が働いたりもするが、結局空虚でしかない。私もたまに仕返しすることはあるけど、同じ気持ちになれたら気付いてくれるかな。私の言動は小さな積苦の表れです。

貪欲は三毒とか十悪のひとつとかって云われてるけど、煩悩がひとつもない人に人間らしい生き方をしてる人はいない。ロボットか!っちゅーくらい面白くはないし、芸術に対して示す見方も冷めてる。人は人間臭く生きてこそ人間らしい。人間にはある程度の欲は必要だ。欲下手な者は欲望のままに生きよ!

Appearance and mental state of the person is not necessarily equal to... それぞれの事情を理解していないと、安易に偏見と捉えられる主張を自ら繰り返すことになるし、気付かないまま過ごしてしまうのです。

言葉を探してる人は、必要な言葉だけをありのままに見よ。誰が発した言葉か…など重要ではないことに気付くはず。そこを気にすると偏見が生まれる。そんなに容易く見方を変えてしまうような者に、生きた言葉などは通用しない。

その場を離れてからも、心配性な人や罪悪感がある人は何度も状況の確認に訪れるもの。犯罪を犯した者に見られる特徴の一つとして心理学でも用いられる論理。こういった煩悩からの行動がなければ犯人は捕まらない。人間臭い人ほど反省の機会が与えられる。不完全な人間に煩悩が必要な理由はこれです。

苦しむことはすごく辛いけど、その後に続くご褒美のような全く違う自分を得られるのなら、何度でも自分を追い詰められる。自分に余裕がない時こそ他人を思い遣らなければ、自分が本当に存在しているのかすら分からなくなる。まぁ人なんて多かれ少なかれそんなもんですな。

「何とかなるさ」とか「頑張れ」とか、一見無責任に思える言葉にはひとつの前提があって、それを汲み取れてこそ無責任な言葉ではないと理解できる。独りよがりの人や自分のことを優先する体質の人には、そこを理解するのは難しいというか、理解しようとすらしない。だから厄介なんやな…ヽ(´o`;

数学の分野で「これって何の役に立つんやろう?」ってのがあるけど、目的が分からないまま学習するのは面白くないから自主性が伴わず、やらされてる感が残って嫌いになる。目的やねらいがなかったりハッキリしない状況で行動に移すと、何も身に付かないまま疲れるだけ。無目的な行動は無駄でしかない。

現存のものを発展させるのは、何もないところから存在させることに比べれば、とても容易なことだ。止まっている車を動かすよりも、走行中の車を加速させる方がエネルギーは少なくて済む。音楽もそんなもんだ。ただ、物事の出発点には素質のある者だけに与えられる特権がある。それが閃きなんだよ。

どんな創作物でもアレンジの余地を残しておけば、その作品の息は長く保たれる。独占欲を剥き出しにして作り込んでしまうと、感心されるのは最初だけになって忘れられてしまう。作るからには完璧にしたいけど、残す意味を考えるとそうもいかないというジレンマ。ここで重要なのは、作品に託す目的やな。

精神的障害や体調不良、肥満や美容の改善方法は、基本的な部分でよく似てる。両者に共通して言える問題の根本は、不規則な生活リズムと食事の取り方にある。楽な方法として薬やサプリに頼る人は多いが、基本的なことが出来ていないとその効果は薄い。まずは食事に軸をおいた生活リズムに改めるべし。

対論的な話を持ち出すと、ボヤけていたものがハッキリ見えるようになったりするのは、対論や反論によって与えられる情報量や考査事項が極端に増えるからである。

対論系のつぶやきとか見てるとホンマ勉強になるなぁ。対論も逆理も理想に現実を反映してるから納得できる。どちらか片方だけっていうのは、現実味や人間味がなくて全く面白くない。プログラマーとか論理好きとか完璧主義的な人はこういうの好きみたいやね。

「理想は夢であり理論は現実である」 by ちひろ

人と共に何かを進めて行く上で重要なことは、志しを交わす以前に相手の主張を尊重するのが前提であって、それに対する自身の言い分は注文を付ける形を選んではならない。他人の事情や心情は機微なものなのだから、それらを理解しようと律するのが礼儀というもの。夢や理想を共有するってそういうこと。

自分に不安のある人ほど余計な言動をする傾向にあるので、それを察するとさすがに咎めることもできないわけ。簡単に人を嫌いになれない人は、相手のことを理解しようとする猶予を残すから、そういう人ほど人思いなんですよ。繊細なんですよ。誰しも綺麗事で片付けてるわけじゃないんですよ。

不必要だと思ってたものが、ある日突然必要になることってよくある話。芸術において会得することに無駄なものはないんです。だからですよ。他人の作品を参考にしたり、違う分野の作品に触れたりするんです。それによって得られるものが、技術や方法であったり、豊かな感情や表現力だったりするんです。

同じ悩みを何度も抱えるのと、同じ失敗を繰り返してしまうのとは、根本的な部分で原理は同じ。客観的洞察力に長けている人は、同じことを繰り返したりはしません。それがない人が繰り返すんです。反省にも質があって、その方法や手段は何でもいいんです。高質の反省が繰り返し防止に繋がるんです。

知ってる?無我とか無意識なんて人間が勝手に思い込んでるだけで、脳内のシナプスなどは間違いなくそれぞれの現象に反応しているのよ。ということは、つまり不変的か否かは別として、それには必ず本質が存在するってことね。宗教的な教えを悉く覆すのね、学問ってw

人間には楽をしようとする性質があって、無条件の状況であれば与えられた選択肢から楽な方を選ぼうとする。漠然と過ごしていると、楽という意識が薄れる。苦を知り楽を知る。楽な状況を継続すると「楽しい」という感覚までも失くしてしまうよ。

『理論』って言葉的には「その内容について言及はしない」という定義があったはず。数学でいう『公式』みたいなもんで、それに当てはめる数字が具体的な内容に当たる。そう。計画や企画を遂行する時に具体像を持ち込むから難しく感じるわけで、流れだけを先に作ると案外楽勝。具体的内容なんて後回し。

芸術において表現力に限界を感じると、言葉を駆使するようになる。左脳が活動を開始して右脳の働きを手助けするようになる。これらは現状維持反応の一環で通常の働きではあるけど、これが過剰になると一般的にスランプと呼ばれる状態に発展する。何もしない、何も考えない時間は必要。無理は禁物です。

裏表の激しい人ほど、その差を隠しきれず裏の面を露にしてしまうことがある。人への好意が冷める瞬間にはそういった積み重ねも含まれていたりする。周囲の言動がおかしいな?変だな?と急な変化を感じた時は、まず自らの言動を見返すべし。表裏は誰にでもあるけど、人を傷つけていい理由にはならない。

時々錯覚する器用と才能。大別すると器用は技術論で才能は方法論。器用は才能ではない。ただ、器用で(技術が)あれば可能性は広がる。

人間関係において、仮定するだけして結果を導かないで結論を出す人は、相手の心を読んだり気持ちを知ることを放棄している。例えば相手の不可解な言動が態とらしいと感じた時、なぜそういう言動をするのかを考えず、全てを悟ったと勘違いして避けようとする。本当は何も分かってはいない。勿体無いね。

セラピー系の人の言葉全てに言えることだけど、それらを理想と捉えると、労いの言葉も感謝の言葉もいらなくなる。その人が置かれた立場は必然的な事象の結果と説く。一方で自ら招いたことに言葉を投げ掛けるのは筋違いという説教。思い遣る心にセラピーは不必要。人には無意識もあるけど大事なのは愛。


次記事に続く…
いいね!した人

[PR]気になるキーワード