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No.38200 また都合の悪い部分を削除しましたね 投稿者:名無しのボーイ 投稿日:2014-02-13 00:15:27 ID:f3f629a83
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もう一度 阿部日氏を始めとする 河内平野氏や管理人さんに伺います
今度は削除せずに 逃げ回らず きちんと御所見を回答してください



熱原法難がきっかけとして御図顕あそばされた
弘安2年の御本尊は あなた自身 ニセモノだと思っているのでしょうか?

また日蓮大聖人は一度も御本尊を顕さなかった・・と信じているのでしょうか?

仮に『弘安2年の御本尊を後世の御本尊で 日蓮は一度も御本尊を顕さなかった。』
・・としたら
では 諸天の配列等々や意味等々も含めた図式を見事に御図顕あそばされた
その作者は 一体 誰ですか?

因みに相伝も後付けなので信ぴょう性もない・・と主張していたのは河内氏等でしたよね
阿部日氏も同じ趣旨を支持しています

従って 日蓮は一度も御本尊を顕さなかった。 否 顕せなかった・・となれば
模式も含めた 基礎や元から無いまま この世を去ったわけですから
当然 後世には伝わっていなかった・・と言う事にもなり
従って その作者は 根拠としては乏しい状態のまま 後付けや 疑似相関等による
主観や推測 想像力に頼る以外 手だてがないわけで
従って我見が混じった本尊を拝んでいた・・と言う事にもなるわけでしょ?

つまり 最近話題の佐村河内守さんが作曲した音楽と同じ要素が混じった
我見の曼荼羅を毎日 仏壇に飾って拝んでいる
・・と言う事にもなってしまうじゃないですか 

ネットの情報なのでなんとも言えませんが
管理人さんは法華講から離脱したといえども 興門系の住職と言う噂がありますが
それなら尚更の事 後世の我見混じりの曼荼羅を毎日拝む それ等の矛盾に
あなた自身は何にも感じないどころか 罪悪感も責任感も何にも感じないのでしょうか 

この点を踏まえて 阿部日氏のeco氏に対するアク禁動議は妥当だったんですか?
No.38199 「とにかく」の副詞を使って強弁を図る態度は非常に気になりますね 投稿者:名無しのボーイ 投稿日:2014-02-13 00:13:03 ID:f3f629a83
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>>38192。
>>
>>と・に・か・く
>>日顕宗の連中が言うような御本尊様を否定しているスピーチでもなければ、
>>沖浦さんが主張するような寛氏批判の内容でもありませんし、人本仏迹の論拠にも
>>ならないという事が言いたかったのです。
>>

あれ?「とにかく」??

////////////////////////////////////////////////////////////////


とに‐かく
[副]
1 他の事柄は別問題としてという気持ちを表す。
2 (「…はとにかく」の形で)上の事柄にはかかわらないという気持ちを表す。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/159706/m0u/

///////////////////////////////////////////////////////////////

「とにかく」・・という副詞を使った背景には 阿部日氏が提出した資料に
なんらかの色がついていたから 結局は自分を虚飾するために
或いは 例の文献を開設する事ができないから
「とにかく」・・という副詞を使って強弁を図り 自分をゴマカス。

そんなところでしょうか?
No.38198 その原稿 チェリーピッキングで真相を暈してるでしょ?  投稿者:名無しのボーイ 投稿日:2014-02-12 23:50:39 ID:f3f629a83
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>>38182
///////////

◎大聖人は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書一二四四ページ)と
 仰せである。
 「信心の二字」の中にこそ御本尊はまします、と。
 戸田先生は、御本尊を「幸福製造器」と譬えられたが、強盛な「信心」によって
 のみ、御本尊の広大無辺の大功力も現れるのである。
 この一点に、大聖人の仏法の真髄がある。
 
 そして日寛上人は「こういう法門は、前代未聞である、だれが信じられようか」と
 問いをもうけられたあと、大聖人の血脈抄である「本因妙抄」の次の一節を引かれ、
 答えとされている。
 (略)
 つまり、たいへんな修行と能力を必要とする 天台大師の仏法を開いて、大聖人は
 「信心」の二字におさまる「事の一念三千」の御本尊を顕された。
 このことこと、天台大師が知っていて、しかも説かなかった「深意」であり、
 末法衆生への釈尊の慈悲である。
 (略)
 この「観心の本尊」の本義からいえば、「信心」強き人ほど、尊き人はない。
 その胸中には「御本尊」がましますからである
 この最も「尊き人」こそ広布の戦士であり、皆さまである(拍手)
 皆さまをいじめ、苦しめたなら、仏罰は絶対に間違いない。
 そして、日顕宗は「最も信心強き人」―――すなわち創価学会を破門したという
 一点だけでも、じつは「不相伝の輩」なのである。
 「観心の本尊」すなわり、「信心の本尊」の深義を否定したことになるからである。

(以上、抜粋引用)

◎世界を変えゆく悠然たる君に 
第七十回本部幹部会、全国支部長会、第二回SGI世界青年部総会、全国青年幹部会
                               1993年 9月7日

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 
よく読んだら・・・ 中 略 部 分 が 多 く な い ですか? 
この場合は“中略”や ”抜粋”ではなく 全文を掲載しないと
端折った部分には「何が書かれていたのか?」・・が不明なので
その“中略された部分”に 問題発言となった単語等が隠されている可能性があって
それを誤魔化す為に「中略」で暈される可能性があるわけですから 
完全な証拠にはなりませんし文証にもなりませんよね
No.38197 (無題) 投稿者:名無しのボーイ 投稿日:2014-02-12 23:49:23 ID:7ffcd4dc4
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>>38193

>>沖浦さんはその場にいて、
>>その肉声、その指導を目の当たりにした。。。
>>
>>ならば、沖浦さんに一分の理どころか、
>>沖浦さんの引用が正しいと言えるかも。
>>
>>ところが、です。
>>
>>幸か不幸か、その場に居合わせなかった我々は知らないこと。
>>


現場に居合わせなくても、動画を所有しているのだから
事実に間違いない。
陰でゴチョゴチョ難癖をつけずに、白馬へ行って動画を確認すればよい。


君らのいう事は詭弁ばかりだ。
いったい何処まで同志を疑えば気が済むのかね!!
失礼にも程がある。

君ら本当に学会員なのか!
No.38196 (無題) 投稿者:名無しのボーイ 投稿日:2014-02-12 23:41:01 ID:7ffcd4dc4
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>>38192
>>砦で配布されている音源聞いたことがありますか?
>>
>>電波状態が悪いAM放送みたいに雑音、甚だしいものです。
>>仮に、池田先生がそのように言っていたからといっても、原稿を読まれる際などは
>>注釈とか、言葉が詰まったりされている場合もあるのは幹部会等を視聴されたことが
>>あるなら大勝利さんもご存じのはずです。
>>
>>普通の方でも自分の原稿を読んで噛んだりすることがあるでしょう?
>>学会の書籍に掲載されているものは、原稿そのままです。
>>もし原稿(文書)以外の「口伝」の部分が重要だというのであれば、それは
>>「依義判文」ではありません。
>>
>>とにかく、日顕宗の連中が言うような御本尊様を否定しているスピーチでもなければ、
>>沖浦さんが主張するような寛氏批判の内容でもありませんし、人本仏迹の論拠にも
>>ならないという事が言いたかったのです。
>>

誤魔化さないでくださいよ。
沖浦氏は「動画」を所有してるそうですよ。
砦配布の音源の話なんて関係ないですよ。
いつも論点を暈して逃げますね。

No.38195 あきばれの徒然 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-12 23:23:15 ID:734234416
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学会の公式見解、「地涌の菩薩」

http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/02.html


今日は、先生の観心本尊抄講義を時間の許す限りですが、開いてみました。
2ページ目に御義口伝の冒頭が載ってました。

「御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」

この御文は、先生が観心本尊抄講義を御講義して下さるにあたり、いわば、前置きにあたる部分に出典されていました。出典の意は、信心帰命の原点は「観心の本尊」だよ。ということで、観心本尊抄講義が展開されていきます。

御義口伝を直接に本尊義や本仏義に持ってくる講義って聞いたことがいまだにない。(笑)


お休みなさいませ。


No.38194 阿部日ケ~ン(院政)さんへ 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-12 23:23:05 ID:734234416
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あべひさんへ
     私事で、ご迷惑、おかけしております。
        また気長に見守って頂き有難うございます。
                         秋晴れ 拝


======================================
横やり失礼します
早速ですが、
>もし原稿(文書)以外の「口伝」の部分が重要だというのであれば、それは
「依義判文」ではありません。

同意です。
あちらの方は口伝が多いですよね。

======================================




No.38193 仰せの通り!。。。o(*^▽^*)o~♪ 投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-12 23:21:21 ID:1f5643d87
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>>38192
>>砦で配布されている音源聞いたことがありますか?
>>
>>とにかく、日顕宗の連中が言うような御本尊様を否定しているスピーチでもなければ、
>>沖浦さんが主張するような寛氏批判の内容でもありませんし、人本仏迹の論拠にも
>>ならないという事が言いたかったのです。
>>


ええ、こうお考えになることも可能でしょう。

沖浦さんはその場にいて、
その肉声、その指導を目の当たりにした。。。

ならば、沖浦さんに一分の理どころか、
沖浦さんの引用が正しいと言えるかも。

ところが、です。

幸か不幸か、その場に居合わせなかった我々は知らないこと。

で、実につけ不実につけ、どうして沖浦さんがそれに固執し、
我々にそれを、しかも今更わざわざ宣伝せねばならないのか?

尚、当日の本部幹部会では、更に画期的なことが発表されました。

私は聖教で後から読んだだけですが(当時、学会員でなかった、笑)、
もっとすごいことがあります。

それを前提としているからこそ、先生が信心の面でちゃんと指導された、と
ずっと理解していますが、もしも、そうでなければ、ア法華が言う通り、
先生の仰せは反対に矛盾に満ちたお話しとなります。

で、結局はア法華の言うことを是とするか(ア法華が沖浦さんでも同様)。
学会が、その約ひと月後に聖教で発表した懇談内容を是とするのか、の、
畢竟、どちらを信じるかになるでしょう。

誰が言ったか言わなかったか、また、そんなチンケな問題です。
で、その過程で、誰が誰を信じるかが問われることだと思います。マグマグo(*^▽^*)o~♪
No.38192 大勝利さんへ 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-12 19:13:38 ID:c171fb90b
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砦で配布されている音源聞いたことがありますか?

電波状態が悪いAM放送みたいに雑音、甚だしいものです。
仮に、池田先生がそのように言っていたからといっても、原稿を読まれる際などは
注釈とか、言葉が詰まったりされている場合もあるのは幹部会等を視聴されたことが
あるなら大勝利さんもご存じのはずです。

普通の方でも自分の原稿を読んで噛んだりすることがあるでしょう?
学会の書籍に掲載されているものは、原稿そのままです。
もし原稿(文書)以外の「口伝」の部分が重要だというのであれば、それは
「依義判文」ではありません。

とにかく、日顕宗の連中が言うような御本尊様を否定しているスピーチでもなければ、
沖浦さんが主張するような寛氏批判の内容でもありませんし、人本仏迹の論拠にも
ならないという事が言いたかったのです。
No.38191 阿部日様、有難うございます。 投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-12 17:39:44 ID:1f5643d87
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>>38190
>> 
>>「粛坊様をはじめとする同志精鋭の皆様におかれましては、仏法宣揚の旗のもと、
>> 日蓮教学のみならず、文化、文芸、学術、時事、科学技術等の様々な分野において、
>> 幅広く情報・意見交換、討議・研鑽を展開されております。正に学会の大理念に
>> 基づくネット言論府の雄であります。」
>>
>>よもや、この発言を自ら否定されたのではないでしょう(笑)


阿部日様

ええ、仰せの通りで、今では否定しはじめております、笑。
まあ全面否定ではないのですが、、、また改めて書かせて頂きます。

>>信心の事に対してどれだけ自分に対してボロカスに言われても、
>>「私の罪障を斬ってくださっている」と心から感謝できる人こそが、勝利者
>>ではないでしょうか。

これは全面的に肯定、いや、賛同申し上げます。o(*^▽^*)o~♪


=== と こ ろ で ==========================


いやはや、お笑い種。。。o(*^▽^*)o~♪

ア法華らによってネットに流通している・ら・し・い・音声や映像でしょうか?

まあ、沖浦さんの悪い癖だと思います。
昔のテープ・ダビング係りみたいなこと、まだやってるんですね。

学会員の、学会内部の言論ならば、
学会の機関紙、公刊された著作物(文字、音声、映像等々)によるべきでしょう。

真贋問題以前に、何でア法華や沖浦さんが担保するだけで、
それが正しい、ホンモノだ!と安直に判断出来るのでしょう?

また百歩譲ってホンモノだったとしても、
本部が発表しないことを、どうして沖浦さんが勝手に流通させたいのでしょう?

熱原寸劇の時のように、またそうやって何も知らない学会員を
自分側に取り込もうとしてるんでしょうか?

沖浦さんの過去の行為を振り返るに、私は、簡単には信じません。


阿部日様にはいつも名ジャッジ、アドバイスを有難うございます。マグマグo(*^▽^*)o~♪
No.38190 マグマグ殿へ 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-12 17:00:46 ID:c171fb90b
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※ネットの研鑽(ママ)を同次元でとらえるのは如何でしょう。

マグマグ殿。
まず御書の研鑽においては、こちらでの過去の事例をみても、対話(対論)形式で
かわされたものが非常に有益だったと思います。
もちろん、マグマグ殿の講義も非常に参考になったこともあります。
天城殿もそうでしたし、宿坊殿もそうでした。

普段の学会活動とはまったく違いますが、さりとて破邪の精神で自身の御書研鑽の
きっかけになったのならば、(錯誤を主張された)相手に対しても一定の感謝の念
が起こることはおかしいことだとは思いません。

マグマグ殿だって、たしかこんな事を言っていましたよね。
 
「粛坊様をはじめとする同志精鋭の皆様におかれましては、仏法宣揚の旗のもと、
 日蓮教学のみならず、文化、文芸、学術、時事、科学技術等の様々な分野において、
 幅広く情報・意見交換、討議・研鑽を展開されております。正に学会の大理念に
 基づくネット言論府の雄であります。」

よもや、この発言を自ら否定されたのではないでしょう(笑)
私も含めて、いささか文章表現が拙い部分もあり、ご心配をおかけする事もあろうか
と思いますが、学会員らしく教学を研鑽するキッカケとしてネット論壇があるのは
「価値的」だと思います。

当時のマグマグ殿は、当時「法華講同士で研鑽をしている人はいない」と、
ただただ驚かれていただけのかもしれませんが、創価学会では一会員さんレベルから
して「真」を見極めたいといった方がおられるのが、創価学会総体の強さの根源に
なっています。

話の流れや便宜上、沖浦さんとか大勝利さんとか名指しの形をとっていますが
どこがどう間違っているのかを的確に捉えられるのも、ご本人の研鑽あってこそ
だと思われませんか?
「ぶつかり稽古」の醍醐味は、相手への礼節なしでは得られないとおもいます。

「ドヤ。破折してやった。ザマァミロ」では大月天管理人をはじめとする
日・顕・宗の輩と同じになってしまいます。

法華講さんの中にも虚空老人さんのような方もおられます。

/////////////////////////

※信心の世界は、積極的に、求道精神をもって実践したときには、
 功徳をうけ向上していく。
 反対に受け身の場合には、なんとなく、圧迫感や抵抗を感じて、
 感激がなくなり、功徳もうけられずに惰性に流されてしまう。 
 すべて、自分のためであると確信していく積極性が、真実の仏道修行である。

 ――池田会長指導    池田会長指導集(92ページ)

//////////////////////////


この指導の根幹こそが、邪を邪と言い切れるネット論壇の皆さんと、
オトモダチの集団との違いだとは、おもわれませんか?

信心の事に対してどれだけ自分に対してボロカスに言われても、
「私の罪障を斬ってくださっている」と心から感謝できる人こそが、勝利者
ではないでしょうか。

 

No.38189 (無題) 投稿者:名無しのボーイ 投稿日:2014-02-12 16:27:03 ID:dfa81a49d
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>>38188
>>※この池田先生のご指導はね、動画がございます。
>> 私のメモリーに入っております
>>(‎2014‎年‎2‎月‎12‎日 沖浦さん談)
>>
>>なるほど。
>>証拠があるとおっしゃりたいようですね。

証拠があるとおっしゃりたいのではなく。
証拠をお持ちだそうです。
沖浦さんは間違いなく池田名誉会長の動画からの指導だと主張しておられます。
テープの反訳の話を持ちだすのは筋違いです。
それとも動画まで編集したとおっしゃりたいのですか?


>>残念ながらこんな改変された内容を真に受け、持論の中心にすえる沖浦さんの信心
>>の傾向が見て取れるのではないでしょうか。

あなたのこの発言は何なんですか?
あなたは動画をお持ちではありません。
沖浦さんは所有しておられる。
改変された内容を真に受けているのは貴方です。
貴方の書き込みはただの難癖です。

沖浦さんにお詫びすべきです。
No.38188 往生際が悪いですね 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-12 15:56:10 ID:c171fb90b
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※この池田先生のご指導はね、動画がございます。
 私のメモリーに入っております
(‎2014‎年‎2‎月‎12‎日 沖浦さん談)

なるほど。
証拠があるとおっしゃりたいようですね。

ちなみに今回引用させていただいたスピーチの中で日寛上人の文書を引用されて
いる箇所は複数あります。
これだけでも、沖浦さんが「寛師教学からの離脱を」等と主張する論拠とするには
甚だ趣旨に反するものではないでしょうか。

また、別件ですが日顕宗が創価学会に送りつけたお尋ね文書の元となったスピーチ
もまた音声が編集されたまがい物であった事を付記しておきます。

http://www.nichiren.com/jp/organ/organ02/org02_2.html

「ニセ本尊」の話題にしても、日顕宗は出所不明の曼荼羅を比較するなど
卑劣なイメージ操作をしてくるぐらいですから、そういった日顕宗側の情報を
鵜呑みにするのはいかがなものでしょうか。

まして、沖浦さんが「人本仏迹」の論拠にテープ反訳を用いるとは
驚きを通り越して、憐憫の情を覚えずにはいられません。



No.38187 (無題) 投稿者:名無しのボーイ 投稿日:2014-02-12 15:48:26 ID:dfa81a49d
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>>38182


沖浦克治
2014/02/12(水) 15:06:29ID:lW8P.utQ0

 阿部日さんや・・・・

 この池田先生のご指導はね、動画がございます。
 私のメモリーに入っております

 デマでも捏造でもありません。
 池田先生がそう言う指導をなされたのです。

 気に入らないなら、道端の地蔵信仰でもなさい。


No.38186 (無題) 投稿者:名無しのボーイ 投稿日:2014-02-12 15:11:33 ID:91b48b3f8
新規 返信

>>はいこれデマです。
>>出所は山崎正友が作成した「自由の砦」というHPからのものですね。

音声がアップされているんですが、デマと断言される証拠をお持ちでしょうね。



>>ご理解いただけますか?沖浦さん。
>>このスピーチは「自由の砦」に書かれたような創作指導ではなく、

音声がアップされてます。
創作指導ではありません。


よろしいのではないでしょうか。
>>


No.38184 ちょっと一言。。。o(*^▽^*)o~♪ 投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-12 13:18:50 ID:6d71a8a59
新規 返信

>>対話形式での御書の研鑽は、指摘、教示を頂く度に、必至に研鑽。会合で聞いているだけとは違い、これほどまでに、教学研鑽が出来るものかと正直思いました。
>>研鑽方法は、ご指摘、御教示を頂く度に、御書、六巻抄や仏哲、先生の御指導に食い入る様に読み漁り考え、時間の経つのを忘れるほどでありましたが、
>>苦労して研鑽した分だけ、歓喜に終わるのです。
>>そういった意味で大勝利さんに感謝します。


む~ん、別に私が言うことでもないでしょうが、
相当に錯覚されているようですね。心配になります。

「対話形式での御書の研鑽」が先ずおかしいでしょう。

日常の友好活動、仏法対話、折伏、そして会合参加などの学会活動と
ネットの研鑽(ママ)を同次元でとらえるのは如何でしょう?

御書や六巻抄、先生の指導を拝読するのは尊いこと。
しかし、それらがネットの書き込みのためだったとしたら大間違いです。

何のために信心されているんですか?
ネットで誰かさんと対話(ママ)するための教学って何なんですか?

また感謝する先が、大勝利さんでもどなたでもあなたのご勝手ですが、
それならば大勝利さんところへお書き下さい。

ご存じないのでしょう。この板の常客のお歴々は、
ここをとび出して、学会活動以外の似非信心に生きるような人を、
心情としても受け容れられないと思いますですよ。

私が厳しいのでなく、あなたは脇が甘いと思います。マグマグo(*^▽^*)o~♪
No.38183 訂正 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-12 13:09:09 ID:c171fb90b
新規 返信
「観心の本尊」すなわり (誤)

「観心の本尊」すなわち (正) 
No.38182 沖浦さん 騙されてますね 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-12 13:00:50 ID:c171fb90b
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『本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、
 ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人の御書だ。』
  (平成五年九月七日・本部幹部会)

はいこれデマです。
出所は山崎正友が作成した「自由の砦」というHPからのものですね。

残念ながらこんな改変された内容を真に受け、持論の中心にすえる沖浦さんの信心
の傾向が見て取れるのではないでしょうか。

このスピーチは池田大作全集83巻の162ページにございます。

ちょっと長いですが、迷妄を断ち切るために引用しましょう。

///////////

◎大聖人は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書一二四四ページ)と
 仰せである。
 「信心の二字」の中にこそ御本尊はまします、と。
 戸田先生は、御本尊を「幸福製造器」と譬えられたが、強盛な「信心」によって
 のみ、御本尊の広大無辺の大功力も現れるのである。
 この一点に、大聖人の仏法の真髄がある。
 
 そして日寛上人は「こういう法門は、前代未聞である、だれが信じられようか」と
 問いをもうけられたあと、大聖人の血脈抄である「本因妙抄」の次の一節を引かれ、
 答えとされている。
 (略)
 つまり、たいへんな修行と能力を必要とする 天台大師の仏法を開いて、大聖人は
 「信心」の二字におさまる「事の一念三千」の御本尊を顕された。
 このことこと、天台大師が知っていて、しかも説かなかった「深意」であり、
 末法衆生への釈尊の慈悲である。
 (略)
 この「観心の本尊」の本義からいえば、「信心」強き人ほど、尊き人はない。
 その胸中には「御本尊」がましますからである
 この最も「尊き人」こそ広布の戦士であり、皆さまである(拍手)
 皆さまをいじめ、苦しめたなら、仏罰は絶対に間違いない。
 そして、日顕宗は「最も信心強き人」―――すなわち創価学会を破門したという
 一点だけでも、じつは「不相伝の輩」なのである。
 「観心の本尊」すなわり、「信心の本尊」の深義を否定したことになるからである。

(以上、抜粋引用)

◎世界を変えゆく悠然たる君に 
第七十回本部幹部会、全国支部長会、第二回SGI世界青年部総会、全国青年幹部会
                               1993年 9月7日


ご理解いただけますか?沖浦さん。
このスピーチは「自由の砦」に書かれたような創作指導ではなく、また御本尊様は
信心の厚薄によってのみ大功力が現れるとされている箇所です。
しかも後段を読めば、池田先生は烈々と「不相伝の輩」と日顕宗の破折をされています。

まして折伏や学会活動に邁進されている創価学会員さんを誑かす文証を引いて
『依義判文と申します』(沖浦さん談)などと、どの口が言っているのでしょうか。

散々、学会員さんを惑わせた事を猛省をされたほうがよろしいのではないでしょうか。




No.38175 徒然なるままおカキコ 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-12 02:32:46 ID:409b162ae
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「三宝」は、仏道修行する上で、これほどまでに大事かつ重要とは今まで想像もつかなかった。三宝は日蓮仏法、大聖人直結の創価学会の根本義。この三宝の意義の理解が深まるにつれ、
この「感動と歓喜は」どこからくるのだろう!、また、この感動は一体何だろう!と、自分でもびっくりするくらい、御本尊を拝する度に大変な経験をさせて頂きました。
御本尊に向かい勤行、唱題するということこそ仏道修行の根本と、今更ではありますが、まるで「はじめて知った!」かのような感動を覚えました。
対話形式での御書の研鑽は、指摘、教示を頂く度に、必至に研鑽。会合で聞いているだけとは違い、これほどまでに、教学研鑽が出来るものかと正直思いました。
研鑽方法は、ご指摘、御教示を頂く度に、御書、六巻抄や仏哲、先生の御指導に食い入る様に読み漁り考え、時間の経つのを忘れるほどでありましたが、
苦労して研鑽した分だけ、歓喜に終わるのです。
そういった意味で大勝利さんに感謝します。

今日は先生の御書講義「諸法実相抄」を一行でも二行でもとの思いで読みました。
もうこれ以上は寝不足となるため、少ししか読まてはいませんが。

仏宝 日蓮大聖人
法宝 事の一念三千 一閻浮提総与の大御本尊
僧宝 日興上人

この三宝には甚深の意義があり、それを詳細にわたり講義されております。(ここでは僧宝は除く)
諸法実相の冒頭

「問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」

この文中、諸法実相とありますが、これは天台仏法の一代仏教の要とし、一念三千法門の依処としたもの。

諸法実相の説法に相対すれば、諸法という現象面だけにとらわれ、差別観に陥ったのが爾前でした。(本迹相対)

ここではつまり法華経は「円融」である、これは一切衆生が差別なく成仏するという、仏法の平等大慧に通じるものと先生は言われています。

しかし、天台仏法の一代仏教の要だけでは理の範疇であり、そのために、大聖人はこの諸法実相の法理を、一切衆生を救うために御本尊を顕した。

それは、もはや諸法実相という法理ではなく大聖人の御本仏の生命それ自体の諸法実相であり、御本尊のことを「事の一念三千」という所以と先生は云われています。

総括します。

「諸法実相とは一往は、諸法は、そのまま妙法蓮華経という真実の姿であるという哲学のようでありますが、
再往、文底観心の上からは、御本尊こそ諸法実相であり、大聖人仏法においては諸法実相とは即御本尊の異名です。」

以上、先生の講義でした。

いかに法宝として御本尊を根本義とすることの重要さが理解できる講義でした。
大聖人仏法にとって、創価学会にとって、事の一念三千 一閻浮提総与の大御本尊こそが法宝です。

因みに久遠元初はいつ?みたいなカキコを拝見しましたが、
久遠元初といいましても、例えば、秋晴れでしたら、平成の世の2014年の今の御本尊を尊び拝する、秋晴れの生命の中にあります。


No.38174 池田先生の指導は正確に 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-11 15:07:42 ID:c171fb90b
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※先生が以前言われました。
 貴方方が心掛けるべきことです。
 『責任がある人には、知恵が出る。
  無責任な人には、悪知恵しか出ない。』(趣意)

(沖浦さん談 2014/2/9)


正確には
 「 責任のある人は知恵がわく。責任回避の人は悪知恵がわく。 」

ですね。
『創価学会指導集』に掲載されていました。
でもこの項は創価学会の「指導者」としての指導です。
これは幹部としてだけではなく「一人の創価学会員」としても同じように
心得なければなりませんね。

たとえば、自分の仕事が忙しいことを理由に学会活動を適当にやっていたり
やらなかったり、その逆に学会活動が忙しいことを理由に仕事がおざなりに
なったりする事があると思います。
また、個人的な目標である唱題数にこだわって、活動をおざなりにする人も
いますよね。

どのように両立させるかというポジティブな考え方ではなく、出来ない理由を
ならべるネガティブな考え方こそが「責任回避」の人です。
見分け方は簡単です。
「相手が悪い」「社長が悪い」「組織が悪い」「家族が悪い」「同志が悪い」
こういった人は愚痴をすぐ漏らしますし、「なにか新しい」居場所を探して毎日
汲々とされていますね。

自分で責任を持つと口では言えても、失敗すると、同志に対してでも、
あいつが邪魔をした、告げ口をしたなんて疑心暗鬼になる心根は他力本願ですので、
永遠に物事は解決しません。
「口に本門、心は爾前」ですね。

ちょっと長くなりましが、ちょうど、「指導者」の項にはこんな指導もあるのですよ。


信心をして役職に就き、指導者といわれる立場の人にとって、当人がどれほどの
広宣流布の責任を感じ立っているかということは、とりもなおさず、その人が
どれほど心のなかにおいて、人間としての自由を獲得しているかという物差し
なのである。
この自由は、仏法においては解脱、悟達に通ずるということになる。

――― 池田会長講演集第6巻 ―――

これは役職に就かなければいけない という意味ではありません。
自分で「いまいる場所で実証を」と一度責任感をもったならば、今いる場所で
活躍することが「人間としての自由」を獲得しているという事だとおもいます。

創価学会員さんで「ネット」が主戦場の人はいません。
当たり前ですよね。
入会するのも勤行するのも活動するのも、「いまいる場所」でしかないからです。

ここをはき違えて、「いまいる場所でできないこと」をネットで代替しようなどと
考えるのは実は「人間として不自由」なのです。
関西でできないから東京に行けばどうにかなるだろう・・なんて心はすでに最初から
負けています。
現場でがんばれないから、ネットで気を紛らわせている。
ネットで、ごくわずかばかりの人が応援してくれているから、一縷の希望にすがる。
批判者を簡単に排除できる極楽百年の修行は時間の無駄ですね。
また、自余(我見)を交えて、「折伏」をしない。でも、なんだか喜ばれて意味が
あるような気がする。

まったく創価学会の精神から逸脱しています。

『論議講説を好みとは、広宣流布への打ち合わせであり、講義であり、折伏である。』

これが池田先生の指導です。

これを実践している場所だけが、「価値的」だといえるでしょうね。














 
  
No.38173 真の建国とは 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-11 12:40:31 ID:c171fb90b
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2月11日は神武天皇が即位したとされる建国記念日であるとともに、
創価学会第二代会長戸田城聖の生誕の日でもあります。

今年(2014年)で生誕114周年になります。

奇しくも日本が国家として成立したとされる日に戸田先生は生まれました。

そして戸田先生が目指したのは仏教による社会安寧つまり「仏法民主主義」
だといえるでしょう。

戸田先生の指導を引用します。

◎そもそも宗教とは、「生活の法則」であり、生活そのものの中に存在しなければ
 ならない。
 それがためには、宗教のあり方を考えるときに、まず自分の立ち場とか過去の因習
 を捨てて、仏教徒は、まず釈尊の立場に立ちかえって、そのあり方を判断し、
 日蓮門下と称する数百万の僧俗は、宗祖日蓮大聖人の立ち場にかえって判断
 しなければならないはずである。
 (略)
 しかしながら、われわれは仏教の真髄―――法華経の指向する方向において、汲めども
 つきない甚深の哲学と、きわまりなき実践の力を発見した。
 いまや、道義国家、文化国家の建設の指標が高く打ち立てられているときに、かかる
 仏教の真髄が、あまねく世に出て、もって、国家、民族の打ち立てた指標を、光輝
 あらしめなければならないと信ずるものである。

(昭和二十四年七月十日:大白蓮華発刊の巻頭言 戸田城聖先生指導集より抜粋)

ひらたくいうならば「広宣流布」への大決意です。
日本から世界へ、創価学会員がその身をもって示さなければならないのは
他宗のような個人の安寧だけではなく社会の安寧であり、仏法流布の大目的で
ある末法万人の救済。つまり世界平和ではないでしょうか。

池田先生は指導されています。
◎「同じ信心、同じ目的をともにもって、一人一人の庶民である被指導者と、本末究竟
 して等しい指導者が新しい指導者であるといえる」 (指導メモより抜粋・池田大作著)

誰かが英雄になってそれに追従すれば良いとか、有名になった人に「よろしく」と
お願いするようなものではありません。
正しい信心をもって一人が立つところからはじまるのです。

そこをはずして、見知らぬ人に便宜を図る事を目的にすれば、創価学会は
ただのボランティア団体になってしまいます。

あくまで創価学会は切磋琢磨した信仰者の集団でなければ、戸田先生、池田先生
なかんずく日蓮大聖人のお心に背いた事になりはしないでしょうか。

どうか、ネットにコミュニケーションに興じる「創価学会員」さんは、大目的を忘れて
いないかを常に見直し、現場の活動のアイテムとしての通信機器利用に止めておく
ようにお願いいたします。

あべひ拝


No.38172 愚壮殿へ 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-11 11:16:55 ID:c171fb90b
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「市の虎」 「自己正当化」 の話題を出しているのは、アク禁になった
ecoさんのみです。

飛びまくりの論旨と、無意味なリンク先。
そして結論放棄。
多重ハンドルで、文句をつけつつ、こちらの投稿者に媚びるセコさ。

この類いの愉快犯に対しては、 返礼不要でお願いいたします。

No.38171 (無題) 投稿者:愚壮 投稿日:2014-02-11 10:44:31 ID:6aa8b0d30
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更に「追記」しておく。

『創価学会・関西中枢部』の「焦り・怒り」を書いた。 ↓

「焦った」結果、中枢はこう言う。
彼の発言は「公党へのアカラサマな非難で断じて許し難い」
然し。本音は「許さない」が、そこまで事を荒立てたくはない。

つまり、「修復」は不可能ではなく、「修復せねばならぬ」と思っているので…。
今回は(発言はエスカレートしているが)『彼の誤解と独り相撲だ』と、幕を引こう。
まあ、大凡このあたりであろう。

…が、ワシは 今回の事件は、「ひとり」若造の仕業ではないと思う。

*******************************************************************

『常勝関西』への罵詈雑言を許さない。   とは。 
この若造の「分別や己の立場」への、慮りの欠けた 
『対・常勝関西』への挑戦発言・誹謗発言に対して 怒っているのだ。

『常勝関西』と一口に言うが、そこには「雲霞の如き、庶民の呻き」が埋もれている。
『常勝関西』とは…( 何も「若き指導者は勝った」の記事を引くまでもなく )
『池田先生』と『無名・無冠の勇者』の、文字通り「手作り」の組織なのである。

「池田先生と一緒に 風呂に入ったんや!」
「池田先生は、こんな汚い所でもゼンゼン気にしてはらへん」
「池田先生は、こんな雑踏の中やのに、僕の欠けた手指を見てはった」
…と。 庶民と同居ゆえの「滲み出る同苦」には、枚挙にイトマがない。

なぜか。 なぜそう言って『関西』は育ってきたのか。
それは ⇒ 「池田先生こそ、庶民であるから」なのだ。

*******************************************************************

が。然し…
現今の「関西・否 全国の創価学会中枢部」は、 気付かぬ処に「腐敗」が進んでいる。

たとえば。 「ネットを信じる者は 信心がない証拠」と、閲覧を禁じる。
上記の「禁・ネット」は、まったく不当で、且つ 自己防御のみで、こういう事を言うから。
「洗脳」された如き『マイ聖教を持たない人は、幹部・活動家ではない』思想が蔓延する。

亦。 (気付かぬであろうが)大幹部と呼ばれる輩(四者)程、会員諸氏を「睥睨」している。

*******************************************************************

>> (再掲)…が、ワシは 今回の事件は、「ひとり」若造の仕業ではないと思う。とは、
「創価学会」の中枢部の中に 『厳然たる組織利用の輩』が棲息している事への指摘だ。


まだまだ有る。 まだまだ言いたい事は有るが… 余命なき「愚壮」じゃから。
このくらいにしておく。
No.38170 追記 投稿者:愚壮 投稿日:2014-02-11 09:10:46 ID:6aa8b0d30
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>>38169

>>【 されば この甲斐の国にも 少少ぜんと申す人人候へども・
>>おぼろげならでは 入れまいらせ候はぬにて候、
>>なかなかしき人の信ずるやうにて・なめり(乱語)て候へば・
>>人の信心をも・やぶりて候なり。 】『上野殿御返事 1539P』

…ところで上記の『御聖訓』
不自然に見えないものか。

この上記の愚壮の記述。
一段目の【少少】の直後の「急所の一字」が抜けておる。
それが 【 信 】の一字である。

私が勿体無くも『信』の字を抜いたのは、
『有解無信』への揶揄・警告である。

彼我倶に、この一点を恐れなければいかん…と敢えて書いた。

この度。 
弱冠44・5才の若者が、『大関西・常勝関西』に追い討ちした。
これこそ「為に成す」発言であり、看過は出来まい。

中枢部の「苛立ち」や「焦り」や「繕った平静」がワシには見える。

愚壮謹





愚壮恐々


No.38169 創価の森ゆうこ様へ 投稿者:愚者 投稿日:2014-02-11 08:47:16 ID:6aa8b0d30
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創価の森ゆうこ様 御多忙の中での御意見、有難う御座います。

拙の愚文・「橋下 徹氏」の【 『常勝関西』を潰す (大意)】発言に対しての…
御貴殿の薀蓄深き御文を拜読申し上げました。

扨。 下記は御辺の文章の一部の抜粋。つまり「ママ」であります。
>> そういえば“ 元 神 戸 市 職 員 ”の 沖 浦 も 常 勝 関 西

【 されば この甲斐の国にも 少少ぜんと申す人人候へども・
おぼろげならでは 入れまいらせ候はぬにて候、
なかなかしき人の信ずるやうにて・なめり(乱語)て候へば・
人の信心をも・やぶりて候なり。 】『上野殿御返事 1539P』
この上記の【甲斐の国】を、 『常勝関西』に置き換えれば。
貴殿の曰わん『常勝関西』の御仁に、見事に当て嵌まります。

>> 「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」云云。
>> ・・・を活用すれば説得力が増したのではないか?・・と感じております。

↑ 更に【市の中の虎】を御引用なされたやうで、誠に恐縮しておるが…。  
これも、ドナタ様かの御引用の言葉尻を我が物にしておられるだけの事と感じておる。
失礼ながら…   そんなに「ヘコ難しく」考えんでよろしいと存ずる。
この【市の中の虎】という御記述を「単独」で捉えては、「語彙」が狭くなっておる。

「末法の時に、我こそ持戒者なりと吹聴しては、いけない。」という御教示じゃ。
(元々『末法』に、例えば「阿諌若」の如き修行を奨励する方がオカシイ。
唯々。有信無解に『南無妙法蓮華経』と自行化他で唱える事など、御存知の筈じゃ)
つまり『四信五品抄』や『祈祷抄』に顕された【市の中の虎】に関する御聖訓は、
【 正像 既に過ぎぬれば (人・法・倶に)持戒は市の中の虎の如し 】と拜する。

それを御貴殿のやうに、【市の中の虎】のみを抽出するから、ワシは「切り文」じゃという。
『御書』を拜読する時は、決めて※「検索」などで安易に片付けずに、
真摯にその前後の御金言をも拜するやうになされば幸甚です。

愚壮恐々
No.38168 >>38167あべひさんへ 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-11 03:04:41 ID:3470332f2
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>>38167
>>「文底」の読み方というと、なんだか仰々しいですが、
>>“日蓮大聖人が仏”という立場ととらえて、釈尊の仏法をとらえると・・という
>>絶対妙(劣った法(そ法)を開いて妙(正法)をあらわす)弁証法です。

同感です。これ、創価教学の解釈ではありません。
この弁証法は、つまり詭弁か、大勝利さんご自身が本当に理解されてないかと思います。


>>私も「部倍上数」の経文を引かれたときに、同じ書籍をチョイスしました(笑)

そうでしたか。笑


>>今回話題にされた経文の部分(寿量品)は、釈迦の法華経として読む(文上読み)
>>と、「私(釈迦)は、もーのすごい昔から修行をし成仏していたのです」という
>>ふうに読みますが、文底で読むと「池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義3」
>>の11~14ページになりますね。

もっと明瞭に理解するためには、24Pまでは一応読んで頂きたいと思っております。
我本行菩薩道の本当の意味(文底)が明瞭となると思います。


>>
>>秋晴れさんが主張されるように、大勝利さんは末法の地涌の菩薩=本仏論を肯定
>>する文証として用いるには、はなはだ不適当であり、強引な解釈だと考えます。

同感です。

=================================

ecoさんの件、分かりました。
No.38167 秋晴れさん 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-11 02:35:16 ID:c171fb90b
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“創価の森ゆうこ” さんはおそらくecoさんです。

自分が一番説明できていないのに、うまく説明できていると頭で考えている。

しかも、日蓮仏法を論じているのに日蓮大聖人をバカにしていることが
文脈から読み取れます。
「一部分」が的を得ているからといって、全体が「真実」というわけでも
ありませんので、あの手のふざけ半分のアラシは教育的指導(レポート的等)で
使うことはあっても、相手の返事をまつような書き込みは不要と考えます。

雑音に惑わされないように気を付けてまいりましょう。


---------------------
ところで・・

「文底」の読み方というと、なんだか仰々しいですが、
“日蓮大聖人が仏”という立場ととらえて、釈尊の仏法をとらえると・・という
絶対妙(劣った法(そ法)を開いて妙(正法)をあらわす)弁証法です。

今回、秋晴れさんは参考となる文献を大勝利さんに何度も求められて
おられましたが、なるほど、秋晴れさんは「方便品・寿量品講義」を参考にされて
いたからこそだったのですね。
私も「部倍上数」の経文を引かれたときに、同じ書籍をチョイスしました(笑)

今回話題にされた経文の部分(寿量品)は、釈迦の法華経として読む(文上読み)
と、「私(釈迦)は、もーのすごい昔から修行をし成仏していたのです」という
ふうに読みますが、文底で読むと「池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義3」
の11~14ページになりますね。

秋晴れさんが主張されるように、大勝利さんは末法の地涌の菩薩=本仏論を肯定
する文証として用いるには、はなはだ不適当であり、強引な解釈だと考えます。
No.38166 マグマグさんへ 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-11 01:20:49 ID:3470332f2
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池田名誉会長の方便品、寿量品講義3-寿量品講義(1996年発行)を読むと

マグマグさんの御主張も、説明ができないのですが、しっくり出来ない部分があります。

百聞一見にしかずですので、ご一読をお勧めいたします。
No.38165 >>38157 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-11 01:16:46 ID:3470332f2
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>>38157
>>>>38148

>>マグマグさんも秋晴れさんも「十界互具」「因果俱時」の存在を置き去りにして
>>物事を語っている感が否めないのですが・・・・・

>>あと迹因迹化というのは日蓮正宗側でしか通用しない話みたいなので 

>>それと 話を伺うと 文上の読みはこう 文低の読みはこう・・と
>>二元論的な杓子定規の事ばかり並べているだけなんですね~
>>
>>何故、文低と文上を二段階にして 態々設定しなければいけなかったのか

>文低を設定しているが故に いたずらに妄想が出てきて返って悪化したり

>>文低を売りにして権威化する隙があって 結局は自爆する・・
>>
>>そんな処です。


参考になりました。確かに.......

大筋において、池田名誉会長の方便品、寿量品講義3-寿量品講義(1996年発行)を見てそう思います。




あべひさんへ、今回、この方の御主張は確かにと思う部分がありましたので、返答させて頂きました。

No.38164 大勝利さんへ 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-11 00:08:14 ID:be6f40200
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>「第六の文底の教主釈尊」は、大聖人のことです。ですが三大秘法の南無妙法蓮華経は説きませんよね。

ご指摘、ご教授、有難うございました。(確認とれました)
ここでの教主とは「仏」です。
三大秘法の南無妙法蓮華経とは、日蓮大聖人が末法の一切衆生のを救う為に顕した事の一念三千です。一閻浮提総与の大御本尊です。


>>「釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと
>知しめして即座に悟を開き給いき」(三世諸仏総勘文教相廃立)
>とは、文上の上行菩薩の迹を払うということであって、もはや、ここでは大聖人は地涌の
>菩薩のリーダー上行菩薩といったものではない

>では上行菩薩の本地はどことお考えですか?久遠元初ではないですか?

五百塵点劫の当初、つまり元初です。

ただし「上行菩薩が本仏」とか「地涌の菩薩は本仏」とか「凡夫が本仏」ではないです。

また、「私は「久遠元初のそのかみ」発想は「久遠成実の釈尊を教化したのが地涌の菩薩」との稀有な教義と解釈しています」

も間違いです。

今日は、池田名誉会長の方便品、寿量品講義3-寿量品講義(1996年発行)を見てみましたが、一読するとよいと思われます。



>>御義口伝下「無作の三身とは、末法の法華経の行者なり無作の三身の宝法を難妙法蓮華経となづくなり」
>ここでの話も文上の法華経の上

無作の三身は本仏のことだと思います。


大変に失礼しました。
ただし「上行菩薩が本仏」とか「地涌の菩薩は本仏」とか「凡夫が本仏」ではないです。
池田名誉会長の方便品、寿量品講義3-寿量品講義(1996年発行)を見てみましたが、一読するとよいと思われます。






No.38161 【雑感】日中のはざまで――田園まさにあれなんとす。 投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-10 19:51:58 ID:1f5643d87
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日本は大雪だったそうで、北京もこの冬初めての雪が降った。去年の10月から4個月乾燥しっぱなしで、天の恵みに皆感謝している。が、喜んでばかりでいられない。陸と空の交通はマヒし、街中で後始末が続いている。

――悟已往之不諫、知來者之可追、實迷途其未遠、覺今是而昨非。已往ノ諫メザルヲ悟リ、來者ノ追フ可キヲ知ル、實ニ途ニ迷フコト、其レ未ダ遠カラズシテ、覺ル今ハ是ニシテ昨ハ非ナルヲ(陶淵明、歸去來兮辭)――

意味は、今までは間違っていたのだ、これからは自分のために未来を生きよう、道に迷ってもそう遠くは離れていないと、ある研究者がこのような、更に詩的な意訳をしていた。厳密さに欠けるが、鑑賞としてはそんなところだろう。

「帰去来の辞」「いざ帰りなん、田園まさにあれなんとす」と言えば、どなたでも一度は耳にされていよう。その詩の冒頭の数句がこの部分。陶淵明は田園詩人で、事情と思うところがあり、役人を数ヶ月で辞めて帰郷した。

大らかな感性の持ち主ながら、現実の生活や社会に対しては鋭い目を持つとされる。が、それも詩的に解釈すればで、実際は何度も就職しては辞めで、色々と個人的な理由で、どのお役も長続きしなかった人だったらしい、笑。

ところで中国では、過去の過ちが取り戻せないと悟り、将来はまだ救いようがあると知るが、前途は茫漠として道のりは遠く、今やっと過去の非に目が覚めたばかりなのだと、訳すそうだ。こっちのほうはよほど現実的だ、笑。

まだ40歳で最後の帰郷後、彼は遁世する。郷里が現在の江西省九江(揚子江中流域の街)で、名山の一つ廬山(ろざん)の麓。そこで慧遠(佐渡御書登場の慧遠でなく中国念仏の祖のひとり)にめぐり合って結縁したらしい。

淵明が受けた教えが何か分からないが、廬山慧遠は、弥陀信仰を力説した僧。現在の念仏とちょっと違うが、まことによいめぐり合わせで、世捨て人にもって来いではないか。で、またこの慧遠が実は只者じゃない、笑。

鳩摩羅什と同時代で、二人に往復書簡の記録がある。羅什訳「大智度論」は伝来後初の漢訳本で、時の権威者慧遠に寄贈された。本論が大乗の思想的中核を示し、後代の仏教に大きな影響を残したのは、諸賢がご存じのところ。

淵明に、も一つ有名な事跡があり、桃源郷の名の由来、出典となる「桃花源記」。これも詩なのだが「序」に人気があり、彼は空想的なユートピアを信じず、どんなに努力しても、誰もそこへ到達出来ないと結論づけている。

かたや師匠の慧遠は極楽浄土を確信し、欣求した。在俗の弟子淵明にその影響が及ばなかったのは幸いだが、実生活から逃避し続けた彼。そう言えば、そんな人が現代でも時々見られますよねと、ひとりで笑ってしまった。マグマグo(*^▽^*)o~♪
No.38155 >>38154 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-10 03:00:17 ID:05b902d7c
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>>38154

>>>釈迦如来五百塵点劫の当初に上行が釈尊に付属する(本因本果)が(本)になると思います。(議論の余地があると思いますが)
>>
>>

訂正、上記はミスです。捨て置いて下さい
No.38154 再考してみました。 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-10 02:59:07 ID:05b902d7c
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>「釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(三世諸仏総勘文教相廃立)
偽書かどうかは別として、五百塵点劫成道の釈尊と釈迦如来五百塵点劫の当初の釈尊は違うことが解ると思います。

正直、三世諸仏総勘文教相廃立のこの御文は。どう拝すればよいのか。今までの大勝利さんの書き込みから、その大勝利さんの書き込みは最後に書きます。正直困惑しました。
しかし、今日は時間もあって再考してみることにしました。

まず、高橋入道殿御返事「建治元年、(真蹟)」を提示します。
http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=1458&k=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%85%A5%E9%81%93%E6%AE%BF&o=a&c=10&p=1

「但八万聖教の肝心・法華経の眼目たる妙法蓮華経の五字をば迦葉・阿難にもゆづり給はず、又文殊・普賢・観音・弥勒・地蔵・竜樹等の大菩薩にもさづけ給はず、此等の大菩薩等の・のぞみ申せしかども仏ゆるし給はず、大地の底より上行菩薩と申せし老人を召しいだして・多宝仏・十方の諸仏の御前にして釈迦如来・七宝の塔中にして妙法蓮華経の五字を上行菩薩にゆづり給う。」

ここでの話は文上の法華経の上

御義口伝下「無作の三身とは、末法の法華経の行者なり無作の三身の宝法を難妙法蓮華経となづくなり」
ここでの話も文上の法華経の上

次に六種の釈尊のお話。(六巻抄)ですが、
この六種の釈尊の中に法華経、本門、寿量文底に秘沈された南無妙法蓮華経を説く、つまり三大秘法の南無妙法蓮華経を説く仏がありますが、大聖人のことです。

「釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(三世諸仏総勘文教相廃立)
とは、文上の上行菩薩の迹を払うということであって、もはや、ここでは大聖人は地涌の菩薩のリーダー上行菩薩といったものではない。

===================================
上記、まとめてみました。

なので、やはり、http://goo.gl/3fhAuS の
大勝利さんの書き込み
>>たとえば、「地涌の菩薩は本仏である」と言ったらどうでしょう?
なぜ、長い間「地涌の菩薩の眷属」と言わなければならなかったか、それは一仏一国土思想において地涌の菩薩が法主=本仏だからではないでしょうか。

これは、上行菩薩が本仏であるとの意
それを、証明するかの、大勝利さんの書き込み
>>>・私は「久遠元初のそのかみ」発想は「久遠成実の釈尊を教化したのが地涌の菩薩」との稀有な教義と解釈しています
これも、おかしいですよ。下記を参照して下さい。

はおかしいです。

そういえば先日も同じ趣旨のことを書かれていました。
>>「五百塵点劫成道の釈尊(本果)が上行菩薩(本因)に付属すると言う意味だと思います。」

これもやはりおかしいです。
私はこの時創価ネットをリンクしましたが、正に、ここの誤謬に気付いてほしかったからです。

私は、マグマグさんの書き込みを支持します。











>釈迦如来五百塵点劫の当初に上行が釈尊に付属する(本因本果)が(本)になると思います。(議論の余地があると思いますが)

No.38153 あわわ・・(゚O゚;) 大変失礼しました 投稿者:No.38131 投稿日:2014-02-10 02:28:50 ID:8f2afc5a6
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>>38152の正式なタイトルは
「愚壮殿へ(やっと落ち着いたので御返事を認めます。)」です。

No.38149 ありがとうございます沖浦さん 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-09 23:22:01 ID:c171fb90b
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沖浦さんの(趣意)シリーズの創作指導はいつもたのしく
拝見させていただいております。

沖浦さんのおかげで、(趣意)ではなく師匠の指導を、いまいちど自分で
調べるように心がけるようになりました。
膨大な量の論文や指導があって大変ですが、一つ言えるのは師匠の指導は
時代が変わってもなんら古さがないということです。

もちろん日蓮正宗創価学会当時の呼称のものも多数ありますが
信心や学会活動に関する根本的な指導は、いささかも変わっていません。

「責任」ということで沖浦さんは創作されていますが
「師弟」にはこんな指導があります。

◎御本尊が師匠である、われわれは弟子である。
 師弟不二だから、いかなる難があっても、御本尊を疑わず、離れないのを、
 不二というのだ。
 すこし注意をうけたり、なにか事件があると”では学会をやめよう”というのでは
 師弟不二ではない。

 (師弟不二の道) 指導メモ 150ページ 

-----

もちろんこの指導は直接的には創価学会を退転し、御本尊様を離して
しまった人の事を言われているのだとおもいます。
また注意を受けたりトラブルがあると「学会活動をやめよう」なんて
考える人は御本尊様を拝んでいても、師匠である池田先生の指導に
背いていますから、当然師弟不二とはいえませんよね。

またこんな指導もありますよ。

◎ひとりだけ、偉くなっていく行き方は独裁である。
 独裁者の本質は、自分が弱いから、権力や財力をもって、強さをみせ、
 他を愚者としてみおろしてゆくのである。

 (師弟) 指導メモ 183ページ

-----

ようするに自画自賛をして、自分以外の人が劣っているというタイプの
人が独裁者タイプだということでしょうね。
No.38148 【ご参考】全然意味が分かりません。 投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-09 23:04:20 ID:1f5643d87
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>>話しはそれますが、沖浦さんの「仏法は永遠に本因本果、本果本因と続いて行くのです」
>>も、五百塵点劫成道の釈尊(本果)が上行菩薩(本因)に付属すると言う意味だと思います。
>>ですがこれは一往の義で、(迹)になり、釈迦如来五百塵点劫の当初に上行が釈尊に付属する(本因本果)が(本)になると思います。(議論の余地があると思いますが)
>>本因本果が(本)、本果本因が(迹)で繰り返すと言う言い方もできるでしょう。


五百塵点劫、上行が登場するのは法華文上脱益の本門です。
末法に上行の再誕日蓮出現と同時に、法華本門文底下種が現れ、
もう相対するものがないので、これを法華文底独一本門とも呼びます。

本因本果に対するのは迹因迹果で、本因本果に本も迹もありません。
文底下種出現後、脱益の本因本果、下種益の本因本果があることになります。

また師弟の因果(仏、衆生の因果)は、文上脱益の本門で、
九界(衆生)を因、仏界を果とし、九界即仏界の本因本果が現れたので、
それを師弟に約し、師(仏)が本果、弟子(衆生)が本因となることです。

ところが、以下は少し似ているので注意して読んで下さい。
文底下種の本門では、仏と凡夫を問わず一切衆生の生命(一念)には、
因の九界、果である仏界がともに本来具わり、三世常住だとします。

更に、この衆生に具わる九界を本因、仏界を本果とし、
妙法を信じ行じることで、己心に仏界の境涯を開顕出来るとします。

この本因本果の妙法の正体が三大秘法の南無妙法蓮華経で、
大聖人が凡身の事実の上に示され、曼荼羅御本尊として図顕されました。

この文底から見ると、釈尊の久遠実成の因果は迹因迹果で、
実は文上脱益本門の文底にある下種の法体によって成仏したと考えます。

そして、釈尊は、文上で発迹顕本して久遠を明かす役割の「迹仏」で、
一切衆生成仏の文底下種の法体を元々身に体現する「本仏」ではなく、
最後に結要付嘱でその法体を末法に伝える役割を演じたと考えます。

これらから、日蓮仏法の「本因本果」を我々学会員が言えば、
三大秘法の御本尊を受持し、自行化他、学会活動に励むのが本因、
そして自身に具わる南無妙法蓮華経、仏界の境涯を開いて即身成仏し、
絶対的幸福を実現するのが本果、となります。

時間の関係上、ここに一々文証を引きませんが、
大聖人はこれらの法門を御書ですべて明かされています。

ところが、本因本果を本迹で繰り返すですか?
――全然意味が分かりませんね。マグマグo(*^▽^*)o~♪
No.38146 補足。。。o(*^▽^*)o~♪ 投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-09 17:02:25 ID:1f5643d87
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↓ 池田大作「法華経、方便品・寿量品講義、下」2013年2月聖教新聞社刊、普及版166頁
No.38145 【研究報告】早分かり「人本仏迹」再掲。 投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-09 16:44:25 ID:1f5643d87
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一部の読者に誤解があるようだ。私は今の大勝利さんを支持していない。彼の詐術に似た手法、金魚の糞、二人三脚を非難しているのだ。いくら議論しても深まるわけないと判断している。その証拠を沖浦さんから提示しよう。

――例えば大聖人様と私共。身体は仮のものですから迹ですね。恐れ多いので私で説明いたします。大聖人様もおなじですよ。沖浦克治と言う人間。これはこの世での仮の姿です。ですが命は妙法なんですね。この身体は迹。次に生まれる時は違う身体です。命は同じです。妙法の当体です。本です。これは大聖人様も同じです。そして、自分と他人は自分が本、他人は迹。ですからご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹。命は双方と差別なく妙法の当体ですから、本です。ここは差別が無いのです。(2008年10月21日、当板№25016)――

当時(現在でも)アク禁だった父親にかわり、息子の耕治君がこの板へわざわざ貼り付けに来たもの。読者諸賢は精読頂きたい。人本仏迹の本当の姿がここにある。当人における本迹が、急に自他の関係にも拡大されている。

注目すべきは後段の、そして、ですからの接続詞。沖浦さんの話しにはいつも文証がなく、理証がない。あったとしても常に破綻している。議論にならず、あたかもイヌ、ネコのどちらが利口かの世間話しのようだ。

先ず「仮のもの」の定義が怪しい。認識を不用意に共有してはならない。なぜかならば、仮イコール「迹」でないのと、それに対する「本」の定義がいい加減だからだ。皮相的な現象と存在の本質をごちゃ混ぜにもしている。

更に悪いことに、自身をもって例示することで、すでに本末転倒が始まっている。日蓮仏法で、凡夫のその身そのままで成仏がかなうとするのは、すべての衆生がありのままで「妙法の体」だとする大前提があってのこと。

では、ありのままとはどう言うことか。大聖人は、それを本有無作、本地無作三身と仰せで、三世にわたり生滅変化のない生命の本質、妙法そのものに、本も迹も、沖浦さんが言う仮のものたら本物たらも、一切ないのだ。

その上で、凡夫、衆生の皮相的な生滅変化をどうとらえるか。当然これに仮や本の通俗な別はなく、因縁によって生起する現象で、三諦の「仮諦」に相当する。先に挙げた、先生の御義口伝講義、三如是の「如是相」のことだ。

如是相は如是性(空諦)、如是体(中諦)と同時にある。元来あるのは、つまり外面の姿形、内面の性質、それら相と性を具した実体で、愚かしいことに、沖浦さんらは仮和合の諸相のみをとらえて、そこにありもしない本やら迹を立てるわけだ。

同じく後段、自分と他人では自分が本、他人は迹、からすると、沖浦さんに一念三千の法義理解が完全にないことも、よく見てとられる。仮に自分と他人(諸法)が違っても、妙法の当体(実相)においては全く同じ、同体なのだ。

尚、空仮中の三諦については、河内様のご高論(当板№37849、37850)を再読されたい。また、沖浦さんの己義は文底を無視することで、中古天台の本覚思想に・似・て・は・い・る。が、本質的に御本尊に信をとらず、妄想に執着する己義だ。

――大聖人は「阿仏房御書」にこう仰せです。/「阿仏房、あなたはそのまま(御本尊として認めた、法華経に説かれる多宝如来の)宝塔です。宝塔はそのまま、阿仏房、あなたです」「また自身がそのまま三身即一身の本覚の如来なのです。このように信じて南無妙法蓮華経と唱えなさい。そうすれば、ここがそのまま宝塔の住所です」(御書1304頁、通解)と。/御本尊に祈る自身は、そのまま御本尊と等しくなる。御本尊という鏡に照らせば、自身の仏界が自ずと浮かび上がってくるのです。/御本尊は、大聖人の御魂をそのまま認(したた)められた仏の生命そのものであられる。仏は御本尊として厳然と常住している。けれども、「信」がなければ、紙や木にしか見えないでしょう。しかし、尊い仏の生命なのです。(方便品・寿量品講義下。166頁)――

文底仏法と本覚思想の違いは、極論すると、御本仏の出現、事の一念三千、三大秘法の南無妙法蓮華経があるかどうかだ。時に「大聖人が迹」で「御本尊は道具」とする沖浦さんの己義は、本覚思想にも劣り、語るにおちた邪説と言えよう。マグマグo(*^▽^*)o~♪
No.38144 橋下氏を批判せず学会員を批判する愚 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-09 10:45:30 ID:c171fb90b
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大野武士さんって若いかたのようですね。

あのような「とにかくなんでもこきおろす」式ネガティブキャンペーンは
オトモダチ読者にしかうけません。
菊川さんのときにもありましたけれど、コミュニティ内での派閥闘争みたいなものです。
最初の頃は、○○さんを助ける!とか、学会員さんブログの為に・・とか無私無欲の「利他」の精神のように見えますが、
実際には「助けている」という事をネタにどこかのコミュニティで馴れ合いやっているんです。
「あー学会ブログの諸天善神大野さんだ~」って一目置かれたいのでしょうね。

特に今回の記事内では橋下氏に関する批判が興味深かったです。
http://ob.hatenablog.com/entry/2014/02/08/005615

内容としては、はた京阪さんが橋下氏に期待を寄せていた過去の事例をあげつらって
「あなた様の目は節穴ですか?(笑)」としている所ですね。

所詮我々が知っている橋下徹氏は、メディアから流れてくる情報はほとんどです。
後に、切羽詰まった橋下氏が公明党や創価学会をあからさまに挑発し、扇動するようになった事を
「最初から見抜けなかったのか」と個人批判するなら、大野さんもそうではないのでしょうか?

メッキが剥がれてからでも橋下氏への批判をするわけでなく、橋下氏を評価していた個人を批判するだけに
終始するなら、「ためにする批判」です。
たとえば、私が最近メッキが剥がれた佐村河内氏の話題を引き合いにだし、
彼のファンや肯定的な評価をした評論家を指して「最初から見抜けなかったのか」
と嘲笑うようなものです。

そう簡単に見抜けませんよ(笑)

こういう人はリアルタイムの「本因本果」で思考できず、結果重視の人が
多いですね。
政治の世界にかぎらず、会社や創価学会においてすら、立場を与えられてから
変質する人なんていくらでもいます。
そういったことは、人間革命・新・人間革命をきちんと読めば理解できるでしょう。

特に政治の世界は完全に「駆け引き・取り引き」なので、公明党や創価学会に
すりよってくる他党の議員は「警戒」しておく必要があります。
意にそぐわないと、寝返って煽動者になるのは山崎正友と同じです。

この人ならもやってくれるかも・・と「期待」を寄せてなにがわるいのでしょう。
ご存じないかもしれませんが、公明党にドロを塗った竹入や矢野をかつて
池田先生は賞賛されてます。
その事実を指して、「最初から見抜けなかったのか」と池田先生を批判できる
でしょうか?
一生懸命に支援した関西の同志を、こきおろせるでしょうか。

大野武士さんは、大阪市民の学会員さんを敵に回しかねない事をしている事に
気がつかないのでしょうか。

橋下氏の挑発をそのまま関西の学会員さん批判につかうのではなく、
「これからどうするか」を大野さんが身をもって示してみれば良いだけの
ことではないでしょうか。

すでに愚壮殿が、反撃の火ぶたをきっておとされています。
(さすが反応はやいっ。先をこされちゃいました(笑)

私は、橋下氏がそうしなければならない状況を、もう少し具体的に書かせて
いただきたいと思います。
No.38143 (無題) 投稿者:愚壮 投稿日:2014-02-09 10:32:15 ID:6aa8b0d30
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【 『常勝関西』という桂冠をも含めた関西の「公明党(国政での連携与党・公党)」と、
その支持者である「宗教団体」及び「当該宗教者」とも闘う… (本人の談話) 】
上記 【 】で閉じた部分は、今朝(2014年2月9日)のTVでの「報道」である。

その前に、『橋下 徹氏』本人(昭和44年6月生れ)の「公式見解」を下記する。
【 公明が法定協での区割り案の絞り込みに反対したことを「約束違反」と非難。
「宗教の前に人の道がある」と
強い口調で創価学会が支持基盤となっている公明への怒りをぶちまけた。】

上記は、現時点での「橋下 徹氏」45歳の真意である…。と これは「断言」してもよいだろう。

扨…。その『常勝関西』という冠詞じゃが。
『若き指導者は勝った』 第7回の中に、関連された記述があるので抜粋する。  

*******************************************************************

『時代と背景』欄よりの抜粋。
【 恩師の事業が軌道に乗り、組織の第一線に(池田青年が)躍り出た。
蒲田では 月201世帯の弘教を指揮し、当時の限界を破った (中略) 】
つまり…。
【 最下位クラスに低迷していた支部も A級支部に押し上げた。 】のである。
上記の記述は「伝統の2月」と、後世に語り継がれた『史実』で、時は昭和27年(1952年)2月。

実は、この同じ時に、もう一つの大きな・大事な流れが起っておる。
それが
『昭和27年2月1日 白木義一郎が大阪支部初代支部長』に就任した事である。
正確には「大阪支部長心得」という役職名であった。
これが今に曰う 『常勝関西』胎動の日である。( 以上 『時代と背景』より抜粋 )

関西の草創学会員は、この『常勝関西』の不動の構築に、師弟共戦され、死身弘法された。
それが、昭和27年2月からである。
つまるところ、  昭和27年とは…。 前述の「橋下 徹氏」が生まれる【17年】も已前の事だ。 

『戸田城聖第二代創価学会会長』の箴言を引用するまでもなく。
「貧乏人と病人の巣窟」とさえ揶揄され、卑下された「関西」に、その篤信の熱意を注がれ、
その「大衆の嘲笑の源」である『貧乏と病人』の存在を『学会の誇り』とまで昇華された。
これが『常勝関西』の原点である。

これ(『常勝関西』)を、「弱冠の徒輩」である「橋下 徹氏」が潰すと言うのだ。
特定の現存団体の、その実名を論(あげつら)っての「論法」は、
決めて「公人たる橋下 徹氏」が吐くべき言葉ではない。
《 ウサギも 三年弄(なぶ)れば 食いつく 》 とは「祖母」が私に教えた諺じゃが。
真正の師弟に「噛み付く」と、大いなる後悔に、悔やみ懺悔する日がくる。という事か。

赤子を「ネンネコ」に背負って「折伏」に励む御婦人に向かって罵声を浴びせる人が居る。
「お前のとこの貧乏が良くなったら、信心してやる!」…と言い。
「これは オマケや」と、その御婦人に「塩」をかけた。

この上記の実話を、今に「よみがえらせた」のが…。
「橋下 徹氏」の【 『常勝関西』を潰す (大意)】発言である。
No.38142 あべひさん、マグマグさん、いつもありがとうございます。 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-09 02:06:26 ID:786d53b39
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長ーい目で見守って頂き、また守って頂き、有難うございます。



No.38141 訂正 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-09 02:02:25 ID:786d53b39
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>(ここではまだ(法)の議論にとどめておきましょう。)
さて、このお書き込みは、結局、沖浦さんの独自の本仏論への展開と受け止ました。
種々の論説があるようですね。





>(ここではまだ(法)の議論にとどめておきましょう。)
さて、このお書き込みは、結局、沖浦さんの独自の本仏論への展開に持って行きたいのでしょうか?

観点変えます。沖浦さんとは別の話です。
大勝利さんがここからどう論議を発展させていかれるかは存じませんが、
当然、文証ありきの種々の議論があるようですね。
しかし、沖浦さんの独自の本仏論への展開とは、また本質的に違います。
No.38140 大勝利さんへ 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-09 01:56:31 ID:786d53b39
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大勝利さんの書き込み

全開の私の書き込み>>文上顕本に至る種熟脱の「種」こそ三大秘法の南無妙法蓮華経ですね。
訂正します。
①文上と文底とは、そもそもその成仏の本質や解釈が違うことをはっきりさせるべきでした。
種熟脱の「種」こそ三大秘法の南無妙法蓮華経とは文底顕本、つまり、文底読み
文上顕本とは文上読み。釈迦の仏法、つまり歴劫修行です。
文上読みと文底読みは、法華経解釈において、全く違う。
今回の私の誤謬は、文底を唱えながら文上にリンクさせていた基本的な間違いと考えます。

=====================================

>「釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(三世諸仏総勘文教相廃立)
偽書かどうかは別として、五百塵点劫成道の釈尊と釈迦如来五百塵点劫の当初の釈尊は違うことが解ると思います。
>時間的にいうと(五百塵点劫の当初)は(五百塵点劫の倍のさらに前)で、これを久遠元初と呼びます。こちらの「凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」させたのが久遠元初の法で「南無妙法蓮華経」となります。

上記の①の私の解釈、この文証上、合致してますでしょうか。?

>(ここではまだ(法)の議論にとどめておきましょう。)
さて、このお書き込みは、結局、沖浦さんの独自の本仏論への展開と受け止ました。
種々の論説があるようですね。

===================================

大勝利さんの書き込み
>我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。
この「復倍上数」に着目下さい

この、本因妙の依文、つまり文底読みからの「復倍上数」の意味が調べが出来ませんでした。
何の文献をみたらよいのかさえ分かりません。宜しければ御教示頂けますか。?
文上読みではどういった解釈になるのか御存知でしたら御教示頂ければ幸いです。
無理には言いません。大勝利さんに、お時間をとらせてしまってますので。

=====================================

話しはそれますが、沖浦さんの「仏法は永遠に本因本果、本果本因と続いて行くのです」
も、五百塵点劫成道の釈尊(本果)が上行菩薩(本因)に付属すると言う意味だと思います。
ですがこれは一往の義で、(迹)になり、釈迦如来五百塵点劫の当初に上行が釈尊に付属する(本因本果)が(本)になると思います。(議論の余地があると思いますが)
本因本果が(本)、本果本因が(迹)で繰り返すと言う言い方もできるでしょう。

ここまで日蓮本仏論の大雑把な大意ですが、まだ「因果具時」「先法後仏」の問題が残っておりますが、とりあえずの秋晴れさんへの返答と致します。


まず、>沖浦さんの「仏法は永遠に本因本果、本果本因と続いて行くのです」というのは人の言葉であります。
この時点で、これを取り上げ考察すること自体危険であると考えます。
沖浦さんは、冒険的教学研鑽とも思える書込みが多い。これは危険です。
仏法を習うという姿勢であるならば、明快な文証を提示出来ないものは採用すべきではないと考えます。従って、このお書き込みは却下させて頂きます。

率直に書きますが、個人的には、そもそも冒険的教学研鑽の方々は仏法に対して、慢心、増上慢の方と今までの経験から、そう断じてもよいと思えるところまで来ています。
第一次宗門問題での福島源次郎などがその例です。知らず知らずに世同罪となってしまうことを私は大勝利さんに危惧しております。
大勝利さんは、自論を展開させません。やりとりで分かりました。ただ沖浦さんの冒険的教学研鑽に取り込まれている。振り回されているように個人的には映っております。
大勝利さんは、学会2世で教学の長けた、富士宮ボーイのホープ。大型論者とお聞きしています。勿体ないです。本当に勿体ないです。大勝利さんのお書き込みから学ばせて頂きたいとする人は私一人ではありません。
正しい信仰を求める方々は沢山おられます。
そんな数多くの同志のために、考えて頂けないでしょうか。
お願い申し上げます。

ぶっちゃけ、冒険的教学研鑽ということの怖さを知っている富士宮ボーイに、来てほしい。
いや、来てください。


No.38139 名無し殿。 御丁寧に感謝する。 投稿者:愚壮 投稿日:2014-02-08 20:04:13 ID:6aa8b0d30
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名無し殿へ

御貴殿。 御若い人と見受けたが… 
とまれ。 その本性は 心根の優しい人と見た。
それが下記であるわい。

>>管理者様へ 計画停電はないものの 富士宮地方も大雪なので
>>停電が起きる可能性があるので 
>>キリの良いところでサーバーを一時的に停止した方が安全かと思われます。

ところが…。
事、対話主が限定されると、下記のやうに 言い様までコロリと変わる。
貴殿御気持ちは解らんでもないが…
相手に依って口調を変えるのは、あまり感心したものでもない。



>>追記 阿部日氏へ
>>明らかに 阿部日氏の信心がおかしい。

この如きの書き様は、貴方の人格を下げるだけで、
得分は、マッタクない。

…その上で言うと、(百歩 譲って言うのじゃが)
御貴殿のやうな、物事に批判的に言う御仁が少のうなったのは、
嘆かわしい事なので…。 
御貴殿には 是非とも「ママ」でヨイので続けて戴きたい。

No.38138 おや? ちよさんでしょうか・・ 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-08 19:33:41 ID:c171fb90b
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※誰の化けの皮なんだか・  

 大野さんご自身です。

はた京阪さんを追い込んだ記事を削除してから、なんだか身きれいなブログに
なっていましたけれど、あれはメッキだったという表現でございます。
No.38136 【一つの忠告】沖浦さん、大勝利さんの二人三脚はアブナイ。 投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-08 17:52:57 ID:3bc3b968a
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昔の大勝利さんはいいことを書いていた。学ぶべきところばかりで、私に異を唱えさせるような隙を全くみせなかった。独特の造語で少し読みづらくもあったが、いつもダイレクトに自身の正論を述べていた。

――教学とは、矛盾潰や辻褄合わせに終始するものではありません。価値的思想を拾い出さなければなにもなりません。創価学会は日寛教学が根底です。しかし、日寛師の起こした教学思想を大善へと引き上げる事が出来るのは、池田先生を師とする我々学会員しか居ないという事でしょう。(2006年1月21日、当板№8990、大勝利さん)――

中世、造仏の邪義にまみれるなどの石山教学を立て直し、特に戸田先生では教学を学ぶ精神規範とされるのが寛師だ。池田先生が指導に引かれるにも重々の意味がある。ところで、この書き込みの題は「寛師は他宗の法主について」(要約)。

同じ日に沖浦さんの書き込みがあり、短文ながら読者に大きなインパクトを与えた。後にも先にも、ネットで寛師を否定したのは沖浦さんをおいていまい。ところが、だ。文は意を尽くさずで、次に示す原文をお読み頂きたい。

――>その通りですよ。/日蓮大聖人出生の本懐、本門戒壇の大御本尊まします大石寺に参詣することを、日寛上人も仰せだと主張しました。/寛師などは他宗の法主ですよ。捨てておきますよ。/貴方は創価学会より日蓮正宗信徒の道をえらばれるべきですな。(2006年1月21日、当板№8878、沖浦さん)――

出生の本懐は、勿論、出世の本懐の書き損じ。細かく書くと、当時(2006年1月)日蓮正宗がすでに破門し、独立独歩にあった創価学会からすると、日寛上人は他宗の法主のひとりであるの意だ。が、さらっと読めば寛師否定とも確かに見られる。

まさに二人三脚で、先ず沖浦さんの失言に近い発言、その後、大勝利さんがすかさず尻拭い、フォローする関係はこの時点で明確で、上の二つの前後を逆にしてよくお読み頂くと、大勝利さんの頭のよさがお分かりになられるだろう。

良し悪しだけでなく、大勝利さんの書き込みは、脈絡を切り離して読んでも正論で、一方の沖浦さんのものは、いくらフォローしても仕方のない、意味不明の内容が多いことに、多くの読者はすでにお気づきだろう。

であるから、大勝利さんが熱原芝居の宣伝部長で、教学のない、表現力に乏しい、文化的素養の少ない沖浦さんの代弁者になったと思われる。しかも専属の。こう考えると、大勝利さんが沖浦さんの被害者のひとりであったとも、考えられはしまいか。

しかるに、熱原の惨敗で煮え湯を一番飲まされた大勝利さんが、どうして最近、沖浦さんのスポークス・マンで再デビューしたかよく分からない。この辺でいい加減になさらないと、今度は本当に師弟ともども除名の憂き目に遭いますよと、一応の忠告はしておきたい。マグマグo(*^▽^*)o~♪
No.38135 バケの皮 剥がれる 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-08 14:33:07 ID:c171fb90b
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「ちよ」さんの諸天善神、大野武士さんがネットにお帰りになりました。

やっと魚拓も復旧した模様なので、まずは第一声を残しておきます。

※しかしその一方で、「◇★ご要望、ご感想はこちらへ(41)」において、
 あべひ氏の投稿を承認する形で自説を仮託しています。
 これではまるで、「法の抜け穴」をさぐるような脱法行為ではないかと
 批難されても、やむを得ないでしょう。

http://megalodon.jp/2014-0208-1426-01/ob.hatenablog.com/


あべひを追い出さなければ個人攻撃をはじめるぞ! っていう恫喝的取り引き
条件がどこまで正当性があるのか、大野武士さんのお手並み拝見。
No.38134 大勝利さん・・ということは・・ 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-08 13:12:28 ID:c171fb90b
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※私のほうは日寛教学肯定ですので

※およそ「人」を分けての勝劣の質問は意味がありません。
 右手と左手、白人と黒人 おなかの子供と母親
 同じように・・・人を迹にする本はないと考えます。

( ‎2014‎年‎2‎月‎7‎日、‏‎16:55:06 大勝利さん談)

おっしゃる通りだと思います。
でも「本」を迹にする「人」もありません。

「一つ」のものを二つにわけて考えるのは「相対妙」と「絶対妙」
二つのロジック(切り口)で「同じ一つ」を証明できなくてはなりません。

たとえば、法華経と権経では法華経が本ですよね(笑)
相対妙は「劣った法(そ法)を破して妙(正法)をあらわす」方法
絶対妙は「劣った法(そ法)を開いて妙(正法)をあらわす」方法です。

「迹」を破しているとはいっても、「迹」の中にも正法に通じるものがある。
もちろん絶対妙の考え方で正法に通じるものがあるとしても、それをそのまま
用いることは許されない・・という考え方です。

仮に、沖浦さんが論理上「仏(曼荼羅)」を迹に「人」を本にすると考える
ならば

「仏」を破すか、「仏」を開いて「人」が、正・法であることを
証明しているということになります。

ここに誤謬があります。

「創価学会仏」、これは「仏」=「地涌の菩薩(如説修行の人)」である事を
言われている部分だと考えますが、沖浦さんの理屈は「人」と「仏」を分けて
いることになるのです。

「仏」とは、成仏と言い換えることもできますよね。

“地涌の菩薩(人)が本で成仏が迹” なんていう考え方は
「ゴールを否定したままゴールをめざす」という迷妄ではありませんか。

創価学会を否定しながら創価学会を語る。
学会活動をおろそかにしながら、新しい活動とやらに活路を見出そうとする。

いつまでたっても「創価学会仏」にたどり着けません。

秋晴れさんが、沖浦さんの誤謬に気がつかれ絶妙な表現をされていました。

※一応、日蓮仏法に見えるように、うまいこと付け足しただけに映ります。
http://goo.gl/YUJSku

まさにその通りです。

日蓮大聖人は法華経の一分を都合良く組みこんで、人を惑している諸宗を
黙認されたでしょうか。

実相寺御書の講義にはこうあります。

◎円教(あべひ注:そ法に対する教え・つまり正法)の一分に執着する諸宗に
 絶対妙の義が存するわけがないのである。

(日蓮大聖人御書講義 三十三巻 130ページ)

沖浦さんの本覚思想は、理だけを取って「己れ聖に均し」(実相寺御書)
「理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ」(蓮盛抄)
と思い上がっている 禅宗 に類似する考え方ではないでしょうか。

ある幹部は創価学会員といっても念仏や真言、禅や律のように修行している
人がいると戒められていましたが、まったく同感です。

もし、大勝利さんが本気で「人」をたて分ける必要がないとお考えでしたら
沖浦さんを善導されることをおすすめします。



No.38133 大勝利さんへ 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-08 03:49:44 ID:90ac6a891
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>まず最初に言っておきますが・・・
私と沖浦さんとはまったく別なので同じ質問をしても違う答えが返ってきますよ。混乱しませんように。
私のほうは日寛教学肯定ですので私の返答は日寛教学が基になることをおことわりしておきます。

すみません、そういえば、日寛教学肯定と仰ってました。
正直、混乱しておりました。


>根本の因と言っても、菩薩と修行して本果に至ってます。しかもまだ寿命は尽きてない。熟脱ですから第三門どころかまだ二門ですね。文上顕本と申します。ですからそこでの釈尊は種脱の法門を使えないことになります。元初の法をもってない迹仏なのですから。
>仏果を成ずるにいたった本源力、実体がいると考える
のではなくて、菩薩の修行(熟脱)そのもがいらないとかんがえます。
ちょっと言い回しが雑でもうしわけないですが。

ご指摘ありがとうございます。仏哲で文上顕本から入り、様々な仏法用語を調べてみましたが、結論としては、当流行事抄を読まないと正確な理解は得られなさそうです。
彼此、4時間程仏哲と睨みっこして、大方、概略は掴めましたと言いたいところですが、自信がない。けど、いけそうです。
4時間かかった理由は大勝利さん曰く>>熟脱ですから第三門どころかまだ二門ですね。
この理解に時間がかかりました。馬鹿な脳みそを持つと苦労します。

そんなところです。当流行事抄、今、持ってないのです。買いに行きます。
しかし、研鑽ってば、こんなに面白ろいものだったのですね。嵌る人は嵌るかも。

要点だけ書き込みます。
要するに、大勝利さんの仰りたいことは、釈迦仏法ならではの歴劫修行はいらないということですよね。
また、文上顕本に至る種熟脱の「種」こそ三大秘法の南無妙法蓮華経ですね。
と、ここまできて、青年部時代に壮年部の方の御書講義で平たく教わったことを思い出しました。

今日は、本当に本当に楽しかった。こんなに感動したのは久方ぶりです。
本当に有難うございます。感謝します。
No.38132 名無し殿へ 投稿者:愚壮 投稿日:2014-02-07 21:25:00 ID:6aa8b0d30
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>>38131

>> 疑心暗鬼に駆られて誰かが「あいつは魔女だ!」と言えば
>> 魔女と認定されてしまう構造だ。

名無し殿へ。
上記は『烙印』と言うんじゃが…全くの正解である。
唯… この文言は「小野不一氏」の記述じゃ。

若しも上記の言葉が、御貴殿の「オリジナル」であれば…
その説得力は、群を抜いておる。

…が。 残念乍ら、単なる「請け売り」だ。
先ず、諸事何事も、自分の心を自分の言葉で言わなければイカン。



閑話休題

『創価学会』は、その進路を矯正せねばならんのも事実だが。
たれも、その「憎まれ役」を選ばない。
何故か。 言えば「魔女の烙印」を即(組織から)押されるからじゃよ。

もうひとつ言えば…。
「苦しんでいる人間・病んでいる人間」は『創価学会』には不要なんじゃ。
(…と。ワシが言えば、マタゾロ「退転者」の烙印をワシに押すじゃろうが…)
「勝った奴・光っている奴」のみが必要。…と思っている奴が「中枢部」に多く居る。


『若き指導者は勝った』という「池田先生」の歴史が聖教新聞に連載されたが。
その全編に肉迫して、感じた事がある。
( 是非とも御貴殿も読んで、その中の「不協(響)和音」を感じて欲しいと思う。)


…ともあれ。 それ(正史)さえも、「抹殺し無視する輩」が居る事も確かじゃ。



つまり。『創価学会』の中で。
誰もが否定出来ない『人』の言葉の中に。
【日蓮仏法】と全く無関係の事柄を、恰も正論の如く紛れ込ませてはイカン。

『創価学会員』として、この真贋を見抜く術(すべ)は、一つしか残っておらん。
それが 『御書』の深読(我見ではなく)である。  それしかない。




No.38129 小野さん黒い手帖書評でアフィリ? 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-07 18:04:08 ID:c171fb90b
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アンチ学会員内でもてはやされている、矢野絢也著の「黒い手帖」には二種類
あります。
ひとつは、『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』
もう一つが『黒い手帖 裁判全記録』

いずれも講談社から発売されていましたが、「日本占領計画」のほうは絶版と
なりましたが、もう一方の「裁判全記録」がまだ発売されている事を
小野不一さんのアマゾンアフィリ用ビジネスブログでの書評で知りました。

ギリシャ語で本の事を「ビブリオ」と言うのだそうですが、そこから派生して
何人かが書評を持ち寄り、聴衆がいちばん読みたいとおもった本を投票で
選ぶという「ビブリオバトル」が流行しているようです。

さて小野不一さんのアフィリ用ブログにも「書評」が書かれているのですが
内容がアンチさんがよろこびそうな憶測で構成されており、矢野絢也の著作を
そのまま引用し、さも「創価学会が多額の寄付を矢野に要求していた」かの
ように結論つけています。

※数億円単位の寄付を強要する創価学会/『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也
http://sessendo.blogspot.jp/2014/02/blog-post_6.html


小野不一さんの書評をみるかぎり、創価学会の大幹部が寄付を要求していた
という事を矢野絢也が主張しているのですが、この事実が本当ならば
元公明党OBだけでなく長谷川さんも含めて矢野絢也は訴えればよかったのでは
ないかと思います。

なのにそれをしなかったのは、矢野絢也が「池田先生には恨みはありません」と
多くの学会員を敵に回すことを避け組織改革者を装ってアンダードッグ効果を狙って
いたと考えられるのではないでしょうか。


自分たちは「弱者」。
だから、より多くの人に支持をしてほしいといった「人情」を逆手にとる方法は
ビジネスの世界でもよく使われているとはいえ、その素材が他人の作品を読んだ
だけといった根拠の脆弱性は、まさに「負け犬(アンダードッグ)の心理」あって
こそではないでしょうか。

そういえば、最新の慧妙でも、後藤組の元組長が創価学会に送った内容証明郵便の
内容をそのまま掲載してたりしていました。

小野不一さんは、慧妙の記事にインスパイアされているのかもしれません。

No.38128 ちょっとブレーク。。。o(*^▽^*)o~♪ 投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-07 17:34:44 ID:cc5190d7c
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――ぶつかり稽古しな!

ほんと懐かしいですね。私もこの言葉に励まされました。(^o^)(^O^)(^o^)

あの頃(2007年夏以前)を思い出します。
沖浦さんも大勝利さんも元気でした、前向きでしたね。
特に大勝利さんですが、私にとって学会二世のホープでした。

まあ、時代や世界が刻々と変化する中、懐かしがっていても仕方ないですが。(>_<)

――無意識の共犯者(与同者)にならないよう厳しい態度で!
その通りです。毎日毎日、過去の自分に挑戦する勇気と気概が大事でしょうね。

阿部日様にはいつも有難うございます。マグマグo(*^▽^*)o~♪
No.38127 おやまぁ・・でも聞いてくださいね 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-07 14:41:06 ID:c171fb90b
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秋晴れさんの質問にも「興味がございません」

私の質問にも答えられない。

仏法儀における「我見」なのですから仕方がありませんね。というお話しですか。

さんざん突っ込んでおいて、論詰まりになると、往(い)なそうとされますね。
(いなす=自分に向けられた追及を言葉巧みにかわす)

そういう境涯が現れているのではないでしょうか。

かつて、ご自身や大勝利さんがアンチさんに提唱された「ぶつかり稽古」
これに励まされた人は私だけではないはずです。

いわく「パターン化された人」対する叱咤激励の言葉でしたよね。
2005年頃。
富士宮ボーイ掲示板の同志が、日顕宗の破折に腕を競われていた頃の話です。

http://goo.gl/3hV2Jt

http://goo.gl/Qxywpv

私はこの「返答パターン化」にヒントを得て、いろいろな人に共通する詭弁や強弁
術といった方法論に興味をもつようになりました。

申し訳ないですが、あらためて言わせていただきましょう。

まず現場で「ぶつかり稽古しな!」

池田先生の指導を引用させていただきます。



一人の人の無神経な指導、一人の人の学会精神からはずれた言動、また油断からくる
失敗が全九州、全学会に傷をつけ、全軍の停滞を招き、同志に不信感を与えてしまう
ことになりかねない。
最も恐るべきものは、こうした内部に生ずる油断であり、失敗であるといっても過言
ではありません。

(池田会長講演集第1巻 広布の主体者たれ 昭和43年3月18日 九州本部座談会)

池田先生が獅子吼された後に、九州から、無神経な指導をして創価学会を反逆した
愚か者が現れたことは「偶然」ではありません。

特にネットでは、つい同志といわれるだけで「油断」させられている人が
多々おられます。

私だけでなく、皆さんが心理的な「あまちゃん」から卒業し、
無意識の共犯者(与同者)にならないように、厳しい態度でのぞんでいただきたい
ものです。






No.38126 沖浦さんへ追記です 投稿者:あきばれ 投稿日:2014-02-07 13:47:19 ID:b254c896a
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> 創価の根本は、
 
 一切衆生が等しく南無妙法蓮華経如来である。

>「一切衆生が等しく南無妙法蓮華経如来ですから、一切衆生の本地は本仏である大聖人と全く同じです。」


====================================


一切衆生悉有仏性自体は、涅槃経に説かれたもの。(裏覚え)

ですので、日蓮仏法を語る場合はやはり法華経の真意から本仏論を述べられた方がよいのではないでしょうか。

涅槃経に説かれるものを全面に出して、日蓮仏法の本仏を語るのもおかしな話では?

一切衆生悉有仏性自体は、大乗の各宗派さんに問い合わせても、当たり前じゃんと云われてしまうと思います。
別に大聖人だけが説いているものでもありません。(解釈は別)

そんなことよりもどうやったら、仏性が湧現できるのかその教理や法を全面に押し出した
本仏論を展開されたほうが、よいのでは。

私は、そう思います。




No.38125 本覚思想 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-07 12:35:59 ID:902b27bb2
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沖浦さん、今日は。これは、本覚思想さながらのように見えますが、全くの本覚ともいえないものですね。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/9645/1388390456/275

> 創価の根本は、
 
 「一切衆生が等しく南無妙法蓮華経如来である。」

 これだけです。
 いわば憲法見たいなものです。
 それだけわかっていれば、創価思想は理解出来ます。


「一切衆生が等しく南無妙法蓮華経如来ですから、一切衆生の本地は本仏である大聖人と全く同じです。」

但し、その本地は不惜身命の行動と祈りでしか顕現致しません。

=====================================


もはや、これは創価思想ではないと一目瞭然です。日蓮仏法とも捉えられません。

「一切衆生は悉く皆仏」「草木国土悉く皆な成仏す」これ等は本覚思想といいます。

沖浦さんの本仏の根本の意は、これに該当します。

従って、せっかく書いて下さいましたが、ご思索の根底が日蓮仏法でもなく創価思想でもない、この本覚思想の意からの根本義となってくると

>但し、その本地は不惜身命の行動と祈りでしか顕現致しません。


と云われても、説得力がありません。
一応、日蓮仏法に見えるように、うまいこと付け足しただけに映ります。










No.38121 沖浦さん なぜ教学を披露されないのですか? 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-07 11:20:25 ID:c171fb90b
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※更に、貴方が先ず親子の本迹の見解をお書きなさい。
 人に物を尋ねる時には、礼儀をわきまえ、求道心をお持ちなさい。
 貴方は全く自身の見解を明確にしない。
 それでいて、他人の意見には注文や文句を付ける

( 沖浦さん談 ‎2014‎年‎2‎月‎6‎日、‏‎19:57:30 )

いえいえ沖浦さん。
だれが聞いているわけでもない指導からも外れている「人本仏迹」
二元論を力説されているのは貴殿です。

日蓮大聖人が迹 御本尊様が迹 師が迹 

これは現在、創価学会員であるだけで「本仏だ」という仮定の下で
たて分けられているのでしょう?

主師親の三徳をも本迹でたてわけられていると、私は感じましたので
親と子の本迹をお聞きしたのです。

さぁ どうぞ。

私の意見は、マグマグ殿への返答に書かせていただいたつもりなのですが
いつも、論詰まりになるとチェックがおろそかになるようですね。
私は
『主師親を本迹でたて分け優劣を論じるのはナンセンス』だと主張したつもりです。


-----------

大勝利さんへ

えーっと・・ 
「創価学会仏」をたて分けるのに男・女の本迹の確認が必要だということでしょうか?

前述したとおり、沖浦さんは主師親の主・師までを「本迹」の相対論でたて分けられた
のですから「親」も当然分けられているのだと思ったまでです。
新展開の教学論ですが、仮に沖浦さんが返答できないのでしたら、教学として
不完全な「そ法」ですよね。

大勝利さんが空論としての優劣判別がおすきならともかく、今回の件ではなんの意味も
もたない質問だと考えます。

アク禁(書き込み停止処分者)のecoさんが百六箇抄をだされていますが
その部分は 「久遠自受用報身の本迹」をたて分けられている部分なので
今回のご質問の意義としても外れているでしょう。

余談になりますが、百六箇抄は、日蓮正宗ですら真偽の取り扱いをどうするかを
宗会に提出し議決されたうえで「後世」に、その研究を託されたものです。
後の歴代法主の誰かが内容に手を加え、大石寺に有利な論理書としているようです。

もしそうであれば、完全な偽書という扱いになります。
「偽書」とは贋作ではなくて、古文書の判定として
「真文書の一部が改変されている」と判断されるものです。
(むしろ宗会の議決を経ることで日蓮正宗がそれを証明しました)
世間では、佐村河内氏の代作の話題で盛り上がっていますが、それと同じ事で
日蓮大聖人の御聖訓と同一にあつかう事は「要注意」としなければならない
内容があります。
No.38118 削除をお願いします 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-07 10:44:48 ID:c171fb90b
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百六箇抄を106と表現するのは、過去ログからみてもアク禁処分者のecoさん
であると推認します。

アク禁処置後、串を使ってかれこれ100以上のイヤガラセ投稿や不当要求を
求めています。

毎度のことで申し訳ありませんが管理人殿、削除おねがいします。
No.38117 文底独一本門と釈迦の法華経の違い 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-07 05:20:25 ID:97c1cc967
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沖浦さん、大勝利さんは、文底独一本門からのご自身の見解を述べられていると思います。(邪説はここでは、さておく)

=======================================

「久遠元初の自受用身」と「応仏昇進の自受用身」の違いを少々あげます。

1「本地垂迹」
2「自行、化他」
3「名字凡身と色相荘厳」
4「人法体一」
5「下種の教主と脱益の化主」


次に、非公認板の方々は、一にも二にも、三にも、法華経寿量品の我本行菩薩道を要点に
おかれている。(行動、行動、現実に出ろ、功徳を書けなどの言葉から、推測)

我本行菩薩道は、釈迦が仏果を成ずるにいたった最も根本の因。
しかし、これだけでは、釈迦の法華経の域を出ない。
文底独一本門では仏果を成ずるにいたった本源力、実体がいると考える。
ではその本源力、実体とは何か、それは南無法蓮華経。
(創価の題目と、創価の題目と常に言っている)


=====================================

追伸
くれぐれも、ここでは、邪説はさておいてますので宜しくお願いします。



No.38116 沖浦さんへ 投稿者:秋晴れ 投稿日:2014-02-07 04:11:17 ID:97c1cc967
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これって、本仏義の依文ですか?どう見ても、そう思えないけど


 『一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)

 この一人の手本が大聖人、現代にあっては戸田先生です。

 それを本仏と表現致しますが、理が明らかになった現在、人類全てが本来の本仏と考えることが妥当です。

 『御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、』
 (御義口伝巻下)

 『所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、』
 (御講聞書)

 『されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり、』
 (聖愚問答抄)

 『正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業苦の三道法身般若解脱の三徳と転じて三観三諦即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居身土色心倶体倶用無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず、』
 (当体義抄)

 『故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏一切の法一切の菩薩一切の声聞一切の梵王帝釈閻魔法王日月衆星天神地神乃至地獄餓鬼畜生修羅人天一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、』
 (法華初心成仏抄)

 『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字止観の二字寂照の二徳生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、』
 (御義口伝巻上)
No.38115 フェイク 第1435号 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-07 00:52:48 ID:c171fb90b
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(発行=14.02.06)

日顕の「中啓ミサイル」今も健在
三つ子の魂百まで、九十一歳の凶暴な坊主
客殿での唱題会の後、所化に暴行

〝三つ子の魂百まで〟と言われているが、腕白小僧だった日顕は九十一歳になった
今も暴力を振るう。先日、大石寺・客殿での唱題会が終わった直後、日顕が興奮
した面持ちで一人の所化に向かって「おい、お前、ちょっと来い」と怒鳴りつける
やいなや、手にした中啓でその所化の頭をバシッと殴りつけた。

 居合わせた約五百人の参加者は、日顕の暴行現場を目撃して唖然とし、なかには
顔面蒼白になった法華講員もいたが、本紙や創価新報などで報じてきた日顕の凶暴
な体質が真実であったことを認識したことだろう。

 日顕が何故、所化を叩いたのか、詳しい理由は分からないが、唱題行が苦しく辛い
ので所化に八つ当たりしたのだろうとか、日如が阿部信彰に猊座を譲る気配がない
からイライラが募った結果ではないか、という見方もあるようだ。

いずれもせよ、哀れなのは訳も分からず、強打された所化である。

(参照画像)
http://userimg.teacup.com/userimg/6239.teacup.com/574744/img/bbs/0000126.jpg

日顕が子供の頃に〝子守り役〟をしていた日開の弟子の金沢法頂(奈良・寧楽寺の
住職、故人)は、日顕が猊座を盗み取った時、ある人に次のように語った。

「あれ(日顕)が猊下になったら心配だな。あれは気が短くてダメなんだよな。
すぐ怒りよる」と顔を曇らせ、「私は、あれの子守番をしていたが、気が短いうえ、
我がままで困ったんだ。その頃から瞬間湯沸かし器で、すぐカッとなる。
どうしようもない子供だった」

 日顕が上野村の小学校に通っていた頃、女の子の家に上がり込んで、押入れの中に
身を潜めていた少女を引きずり出して、したたかに殴ったことがあった。

 この日顕がニセ法主になると、いつも中啓で本山の所化を叩く。これを所化は
「中啓パンチ」と呼んで恐れていたが、日顕は自慢気に「中啓ミサイル」と名づけて
いる。

 この中啓は室町時代に作られて公家が使い始め、僧や武家の間に広まったと言われ、
今では僧らの儀礼用扇として使われているが、日顕だけは所化を殴るための武器
として使っている。

 実録小説「大石寺・大坊物語」(改革同盟・渡辺雄範著)には面白い挿絵(別掲)
と共に、日恭の五十回忌(平成六年六月十六日)での日顕の話を次のように紹介
している。「私は丑寅勤行におかしな態度をしている所化小僧がいると必ず怒るんだ。
それでも言う事を聞かない奴は、この〝中啓ミサイル〟だ」

こんな日顕の暴力行為は死ぬまで治らない。
No.38107 煙にまきましたね 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-06 18:58:22 ID:c171fb90b
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沖浦さん 再質問しております。

親と子ではどちらが本でどちらが迹ですか?
No.38106 あっすみません 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-06 18:16:49 ID:c171fb90b
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※迹相対とは (誤)

※本迹相対とは (正)

あべひは肝心の「本」が抜けているとアンチさんにつっこまれそうです(笑)
No.38105 さらに正確にします 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-06 18:14:23 ID:c171fb90b
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相対で考えるならば「本門迹門」の本迹なんですね。
もっとくわしくいえば「本地垂迹」の本迹です。

※迹相対とは、法華経二十八品を前半十四品の迹門と後半十四品の本門に立て分け、
 両者を比較相対して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したものです。
本迹の本とは本地(=仏・菩薩の本来の境地)、
 迹とは垂迹(=衆生教化のために現した仮の姿)という意味です。

(創価学会公式HP 宗教を考える基準 五重の相対(4)本迹相対より引用)
No.38104 マグマグ殿 うーん・・ 投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-06 18:09:53 ID:c171fb90b
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なかなか良いところをついている質問ですね。

でも沖浦さんは「相対」で本迹をつかっておられます。
マグマグ殿ご指摘の
※発迹顕本し、御本仏の境涯を開き、示された
は、まったくその通りですが、沖浦さんの本迹は「発迹顕本」の略である本迹とは
ちがいます。

相対で考えるならば「本門迹門」の本迹なんですね。
ひらたくいえば「優劣」を言っているわけです。

これ詭弁術の二元論(二分法)です。

※二元論=多用な観点を要するところ簡明に二分二元論化させ、対比させていく論法


このレトリックは多様化を否定する事で成立します。

たとえば、マグマグ殿という個人が社会的にはいろいろな立場がありますよね。

個人としてのマグマグ(計略称)、会社員としてのマグマグ、子としてのマグマグ
結婚されているのなら旦那さんとしてのマグマグ、子供さんがおられるのなら
親としてのマグマグ。
学会員としてのマグマグ、弟子としてのマグマグ・・・等々。
いろんな例をマグマグ殿を例に出してみましたが、みなさん立場や肩書はそれぞれで
あることは理解いただけると思います。

でもこれってマグマグ殿個人を説明しているにすぎません。
会社員のマグマグと学会員のマグマグ。どちらが本でどちらが迹?と優劣を
決める必要があるでしょうか。

釈迦仏法(爾前・権経)において、いろんな仏・菩薩が説かれていますが
全部「人間の生命」を角度を変えて説明されているものです。
ここをはき違えると、法華宗の坊さんのように「団体が仏というのはおかしい」
という発想になります。
「菩薩」に「仏」っていっぱいいるのに(笑)

沖浦さんはまだ、日蓮大聖人と御本尊様を等しいと考えられない。
日蓮大聖人が『経王殿御返事』で
「又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし」
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」
「日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」と念をおされて
「信じさせ給へ」とされているにもかかわらず沖浦さんは

人は本で御本尊が迹、つまりこれは日蓮大聖人が迹だといっているのと同義です。
でも、自分はそんな事を言っていないと強弁されます。
たしかに名言こそしていませんが、御本尊が迹だとした時点で同じことです。

常にご自身が一面における優劣の判定にこだわっておられるということの裏返しです。

だからこそ、「自分を批判するものは学会員ではない」と繰り返し中傷する事が
できるわけですね。
逆にいえば「自分に利益を与えるものこそが学会員であり本」
「なぜならオレこそが真の学会員だから」と考えているでしょう。

御本尊様の扱い方(考え方)で、他人に対する考え方がわかると私が主張している
のはそういう事です。

「境地冥合すれば功徳がでる」と沖浦さんはおっしゃられますが厳密にいえば
、実証として感応する境涯が我が身からでる といっても良いでしょう。
御本尊様にお題目を唱え、本人が気がつかないあいだに学会活動ができなくなって
いた とするのならどの境涯が感応しているのか。
ここに気がつくようにしてあげるのが指導だとおもうのです。

映画「かぐや姫の物語」のテーマソングに

♪ いまのすべては過去のすべて

♪ いまのすべては未来の希望

(「いのちの記憶」作詞作曲 二階堂和美:ヤマハミュージックコミュニケーションズ)

http://kaguyahime-monogatari.jp/themesong.html

とうたわれていますが、まさに「因果具時」の事だと私はおもいました。
 

No.38103 『五百塵点劫』 投稿者:愚壮 投稿日:2014-02-06 17:58:37 ID:6aa8b0d30
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…ところで。
ある女人に「五百塵点劫」の真意を聞かれて、絶口した御仁がいた。

絶口の御仁(自称・学会員)が誰かは知らぬが…。
この「五百塵点劫」こそ。
『日蓮仏法』の根幹中の根幹である。

つまり…。
『日蓮大聖人』こそ、その「五百塵点劫」に直結したる『御本仏』であられる。
私達が、日に何度も拜し奉る『御本尊』即『五百塵点劫当初(そのかみ)』である。

そして…。此の『御本尊』こそ『人即法・法即人』の御本仏の御当体であられる。



その上で確認すれば、【他人様を悪し様に言った時点】で、自らの「仏性」は剥れ墜ちる。
せめて「他人様を悪し様に言った時点で、自分の「仏性」は消える」位は解ってほしい。
No.38102 【再掲特集】皆様、この続きでどうぞ。o(*^▽^*)o~♪ 投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-06 17:57:54 ID:1f5643d87
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【再掲】無駄な書き込みが多くて困りますねぇ③

No.38100 マグマグ様 投稿者:愚壮
投稿日:2014-02-06 17:23:03

マグマグ様 御免なさい。

>>38089

>>『久遠実成』⇒ 誤

『久遠元初』 ⇒ 正 

(独り言)老いぼれ奴  まったく目も緩んどる…

これが「十九歳」の頃。
300m先のカノ隠顕標的に「全弾命中」させた猛者かね。
…ったく。


【再掲】無駄な書き込みが多くて困りますねぇ②

No.38099 ふむ では追加で質問いたします
投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2014-02-06 16:57:48

当然師弟は、弟子が本です。

( 沖浦さん談 2014‎年‎2‎月‎6‎日、‏‎16:38:04 )

では親と子ではどちらが本でどちらが迹でしょうか?



【再掲】無駄な書き込みが多くて困りますねぇ①

No.38098 【研究報告】先生の御義口伝講義から。
投稿者:マグマグ 投稿日:2014-02-06 16:55:15

若鷹のんっ?様の目は鋭い。沖浦さんたちは本覚思想にバカされているとご覧だ。また当板愚壮翁、阿部日様からも大変重要なご指摘があった。これらの碩学に敬意を表したい。学会教学陣には嘘を嘘と見破る慧眼が輝いている。

――御義口伝には、次のように仰せである。「我」とは本門寿量文底の釈尊、久遠元初の仏である。この本門の釈尊とは、別しては御本仏日蓮大聖人、総じては御本尊を奉ずるわれら衆生のことである。また如我の「我」とは、十如是の末の七如是である。仏界は用(ゆう)である。九界の衆生は始の相、性、体の三如是であり、三身如来なのである。衆生があってこそはじめて仏の出現はあるのであり、衆生を体とするのである。それゆえ、われら衆生は親、仏は子となる。父子一体、親子不二である。衆生も仏も妙法の当体なのである。これが本末究竟等―衆生を本、仏を末として究竟して等しいのである。このわれら衆生を、寿量品において、無作の三身と説いているのである。今、別しては日蓮大聖人、総じては妙法を唱え奉る衆生が、無作三身の仏なのである。(御義口伝講義上、289~290頁「通解」)――

先生は講義で寛師の三重秘伝抄、天台の釈籤を引き、先ず十如実相を解説され、次に衆生の三如是が御本仏の御命に冥合し、成仏の境涯を開くことが可能となる原理を示された。「如我等無異」がこれであると強調された上で。

大事なのは、仏とは妙法の力用、働きで、釈迦、多宝ですら用(ゆう)の仏、迹仏であり、人法一箇の無作三身こそが妙法の本体、本仏であるとされるところ。また仏と衆生がともに三身とはいえ、これに「総別の二義」がある。

曽谷殿御返事(全集1055頁)に「総別の二義に少しでも背くと成仏はかなわない」(取意)とあるように、総別を判別出来ずに混同すると、法に暗く、法の高低浅深がわからず、自身の元品の無明に翻弄されるだけの境涯に陥る。

読者諸賢はご記憶だろう。2007年、2008年段階で、我が富士宮のホープ天城様が「人本仏迹論」を完膚なきまでに破折された際、やはり「総別の二義」で沖浦さんを攻め落とされたことを。詳しくは当時の記録をご覧頂きたい。

――さて、この「今者已満足」の「已」の字は「すでに」と読むのである。しからば、「すでに」とは、いずれのところを指していうのであるか。およそ天台の解釈の意は、釈尊が諸法実相を説かれた文をさして、「已に」というとしている。しかしながら、文底下種家の立義としては、南無妙法蓮華経を説かれたことをさして、「今者已満足」というと意得るべきなのである。ゆえに、この「如我等無異」の経文は、じつに重要である。「如我昔所願」は本因妙、「如我等無異」は本果妙をあらわしている。また、妙覚の釈尊はわれら衆生の血肉であり、因果の功徳は骨髄であるとは、師も久遠元初の自受用身、弟子もまた久遠元初の自受用身としてあらわれ、自受用身に約して師弟不二であることを、明かされているのである。(同上290~291頁)――

先生は、現実の信心修行にあてはめて講義されている。因果は別個に存在せず、倶時であり、更に通途の因果と本因本果に違いがある。尚、語訳で戸田先生の講義を紹介し、池田先生のこの通解がそれによることを示しておられる。

ここで大切なのが、この箇所の御文は、三身即一身に約して久遠元初の自受用身を明かされ、師弟不二を示されたこと。文底下種の師、本仏を中心に経文の「如我昔所願」「如我等無異」を講じ、本因本果を明かされている。

ところが、先生は文底下種の弟子、衆生を中心に修行に約して講ぜられ、南無妙法蓮華経の当体、最高の幸福境涯への願望が如我昔所願、本因で、願望の実践、即ち信心修行で開かれた境涯が如我等無異、本果であるとされる。

総と別のベクトルの違いはここでも十分にあらわれていて、総別を「一往」「再往」と言い換えても同じ。で、実に仏と衆生は一体だが、因果、師弟、修行等々に約すと、それぞれの存在の現実性(如実性)、関係性が明瞭になるのだ。

総じて、即ち一往の総体的な観点から、久遠三身は大聖人と我々衆生だが、別して、即ち一重深く立ち入った観点から、久遠三身は大聖人御一人と、総別を緊密に連係させて現実的な認識を持つのが、文底下種仏法なのだ。

では、日顕らの邪宗門ではどう考えているか。総別、一往再往と無関係に、歴代法主は血脈相承を経ることで、本仏大聖人と「不二の尊体」となるそうな。が、上掲の御義口伝の御文に彼らのような妄見は一文一句あらわれない。

御文は「師弟子ともに久遠元初の自受用身」(取意)で、本仏、本師の確信の大きさ、慈悲の深さが言い尽くされている。ゆえに、先生の講義は、本段最後、他の諸御抄を引き、弟子たる学会員の確信と使命の強調で締めくくられている。

因みにこの講義は昭和40年(1965年)4月に発刊された。思うに、沖浦さんはその頃、学会青年部の一員だったはず。大勝利さんはまだ生まれてもいなかったろう。この二人の熱原芝居の師弟が、この講義から何も学んでいないのは明瞭。

脱線ついでに紹介するが、その12年後の昭和52年(1972年)、沖浦さんは先生の「生死一大事血脈抄講義」を拝読し、当時の日蓮正宗が邪教(ママ)であると確信したそうな(当板№11597)。そして昭和54年、会長勇退となる。

当年まだ30代の青二才沖浦さんは「羊羹屋」と題する創作芝居を自費で興行し、宗門を老舗羊羹屋、学会をその販売会社に仕立て、販売会社の新作羊羹を絶賛して、観衆から拍手喝采をもらったそうな。羊羹とはズバリ御本尊のこと。

読者諸賢は史実、また学会正史に照らしてご賢察下さりたい。邪宗門に決別した後、御本尊授与の学会制定がなされたのは平成5年(1993年)9月。羊羹屋から20年後だ。沖浦さんが20年先を見通していたのなら、彼自身が本仏だとむなしく豪語するのも、むべなるかなだ、笑。マグマグo(*^▽^*)o~♪
No.38101 (無題) 投稿者:名無しのボーイ 投稿日:2014-02-06 17:44:06 ID:cfc12e749
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>>38097
>>削除予定者の「名無しのボーイ」さんへ
>>どうせ、あなたのような無責任な煽り投稿は消されます。
>>

削除予定者にわざわざ書き込みして


あんた、 おひまですね~~~~~~~~~


パター人と命名してあげましょう!ハイ!!
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