この「偽計業務」は、明らかに新垣君の事前の想像を絶するものでした。3年後の1999年にはゲーム「鬼武者」のテーマ曲として、尺八その他の邦楽器を含む203人編成のオーケストラを編成、演奏、録音、記者発表などを行っています。
この音楽をちらと聴きましたが、私たち仕事でやっている者には、観光絵葉書に出てくる“典型的日本趣味”を増幅したような代物で、新垣君としても、やや露悪趣味的に楽しみながら、この譜面を作ったのではないか、などとも想像します。
あまりにも典型的な「ザ・日本」、自分の名を冠して「作品」などとは、私ならとても言う気にはなりません。
このときも、203人から成るオーケストラを編成、パート譜を作り、練習場の手配など何から何まで、音楽制作は新垣君がもっぱら担当していたことに注意していただきたいのです。新垣君は簡単に、
「(偽ベートーベン)は楽譜が読めないので、指揮をしたのは私ともう一人の副指揮者です」
とだけ、言葉少なに語っていますが、あらゆる音楽雑務はもっぱら真面目で能力の高い新垣君が担当しているわけです。
「偽ベートーベン」は派手なPRで予算をぶん取ってくるなど音楽以外のことしかしていません。すべての、きちんとした音楽作りは新垣君をプロデューサーとして進められました。そして、その成果だけを「偽ベートーベン」が、すべて自分の仕事であると称してぶん取っていることが分かります。
つまり、原譜の作成にとどまらず、新垣君が善意で尽力した音楽家としての仕事を、二重三重に「偽ベートーベン」は詐取しているわけです。そして、それをどう使うか、「偽ベートーベン」は一切、新垣君に相談などしていない。
善意の新垣君は、純然と匿名のスタッフ、アシスタントとして頑張ろうと思った。この時点ではゴーストライターとも思っていなかったし、単にスタッフの1人として音楽のほぼすべてにフェアプレーで尽くした。一切の共謀性などはありません。
今回の件で「偽ベートーベンがプロデューサー」などと書いてあるものを見ますが、仕事の実情とかけ離れた表現と言わねばなりません。
ここまで、初期の音楽プロデュースをしているのはすべて新垣君であって、偽ベートーベンはブローカー以下の働きしかしていません。自作と詐称してお金を持ってくる口利き営業より音楽寄りのすべてのプロダクションは、新垣君が担当しています。
かつ、これはしょせん(という表現を嫌う人がいるのは分かりますが、私たち職業人の正直な感想としてはしょせん)ゲームの音楽で、それをまとめた「交響組曲」に、自分の名前をクレジットしようなんて、職業古典音楽側の人間はほとんど考えません。
まして新垣君は(一種、往年のデヴィッド・チュードアを髣髴させるような)極北の音楽アナーキストとでも言うような前衛に位置するアーチストで、この譜面賃仕事、また皆に演奏の仕事もできたプロジェクトで、自分の著作権など主張しようとは全く考えていなかった。
私たちの世界で言う、いわゆる「買い取り」仕事として、納品しておしまい(この場合は譜面の納付と、演奏の完了)と自覚して、淡々と誠実に仕事した。そこまでのことに過ぎません。
で、いったい誰がその後を、想像するでしょう?
この、ヒットしたゲーム音楽「鬼武者」の作曲者が「聴力を失った孤高の天才作曲家」である、と自称して、あろうことか海外にまで売り込み、米国「TIME」紙(2001年9月15日号)に「現代のベートーベン」などとして紹介されることになる、などと。
こうした偽計業務、つまり「詐欺」の本体は、もっぱら偽ベートーベン側が考え、実施したもので、善意で裏方に徹することにした新垣君は、その都度「買い取り」譜面を提供した後、図に乗り調子に乗った「偽ベートーベン」の三百代言を、せいぜいが「すごいことをするなぁ、と私は驚くばかり」、その実大半は知らずに過ごしていたのにほかなりません。
海外でのウソ、フェイクがまかり通ってしまうと偽ベートーベンは「将来はハリウッド映画の音楽を作る」「アカデミー賞を取る」などと、調子のつき方が加速していきます。
これを、完全な音楽テクニックとアナーキーな前衛の意識と2つながらに持つ新垣君は、どのように見つめていたのでしょうか?
ともあれ、ここまでは「グループワークに善意の買い取り納品」で応じていた新垣君だったと思われます。
ところが、2001年になって、これまでとやや意味合いが異なる次の相談が持ちかけられたと文春記事は記します。
「現代典礼」と名づけられた「交響曲」を代作してほしいという依頼で、このあたりから新垣君の「ゴーストライター」としての役割は変質し始めたように思われます。
(つづく)