↓管理人が運営する議論サイト論客コミュニティも宜しくお願いします!



↑「哲学ガールズ」イラスト受付中!
飲茶がゲーム実況はじめましたエッガーランドロロ2

飲茶な日々 (3日に1度は更新予定の哲学日記)
2013年9月9日
マーク式感想による小説投稿サイトがあったらいいな
備忘録としてメモ。

<目的>
有用な感想がもらえるような「新しい小説投稿サイト」を考える!

<分析>
・アマチュア作家が、小説投稿サイトに、小説を載せる動機は何か?
 → 感想(反応)が、欲しいからッ!

 しかし、現実には、あまり感想がこない。

・なぜ、感想がこないのか?

(1)感想って書くのメンドイっす
  
 まぁ、感想って書くのにすごい時間がかかるよね。

「ここが悪いと伝えたいけど、どう言えばうまく伝わるだろう…
 悪いことだけ書くと、救いがないから、良いところも書こう…
 こう書くと、気分害しちゃうかなあ……うーん
 はっ!もう2時間たってる!」的な感じ。

(2)感想が短いとなんか罪悪感……

 小説書く苦労はわかってる……それなのに、感想が
 「おもしろかったです、あそこ良かったです」ぐらいだと
 なんか罪悪感がわいてくる……。

 →かといって、丁寧に長く感想を書くと膨大な時間が……

(3)作者とのトラブルこええええええ!

「正直に感想書いたら、作者が気分を害しちゃった!
 うわ!仕返しに、僕の投稿小説に酷評感想つけてきた!
 こんなことなら、感想つけなきゃよかった!」的な感じ。

<解決アイデア>
・感想は文章ではなく、任意の行を指定して、
「笑った、ダレた、見失った」などのマークをつける方式とする。
(本に、蛍光ペンで色をつけていくイメージ)

<感想者側のメリット>
・感想文を書くより、圧倒的に楽。なので数は集まりやすい。

・読みながら、「ついで」にできる。なので数は集まりやすい。

 ⇒普通は、やっと読み終えた後に、
 「えーっと」と感想文を考え始めるのでダルい。

 ⇒「うっわ、この文、何言ってるかわからん、腹立つわー」
  とリアルタイムの気持ちを、すぐにぶつけられて気持ちいい。
  (それだと集中して読めない人は、別に後でやってもいい)
  そして、読むに値しないと気づいたら、途中でやめてもいい。
 
・作者と議論しなくて良いから楽。

 ⇒あくまでも「オレが読んだときはこうでした」
  というサンプルデータの提供が名目。

<作者側のメリット>
・数が集まれば、有用なデータとして使える。

 ⇒「あー、やっぱり、あそこの表現でみんなつまづいたかー」
 ⇒「予想どおり、笑ってくれた。表現ひねっておいて良かった」
 ⇒自分の文章の長所、欠点の把握。手ごたえの確認ができる。

・感想レスをしなくて良いから楽。

 ⇒「感想ありがとうございました。おっしゃるとおりですね^^」
 と心を押し殺して、ニコニコ顔の感想レスを、いちいちつけなくて良い。
 もしくは、「たしかに、おっしゃるとおりですが、
 そういう展開にすると、こうなってしまうので……」と
 読み手の無益なアドバイスに、いちいち反応しなくても良い。

<課題>
・ひとつの作品に付けられるマークの数は制限するかどうか?
・マークの結果は公開するべきか?作者だけ見えるべきか?
・マークのフィルタリングは必要か?
 例)理解不能なマークをつけるユーザは統計から除外
・どんなマークを作れば有用か(作者の技術が向上するか)
 ⇒「誰の台詞かわからん」
 「何に対する説明なのかわからん」とか?

<想い>
プロ作家に聞いたところ、大半のアマチュア作家は、
「文章展開(情報の流し方)がダメ」であり、その一点だけをもって
「絶対、プロになれない」のだそうです。

ためしにプロ作家の人に
アマチュア作家の作品の序盤をリライトしてもらったのですが、
その差は歴然でした。

プロ:「ふんふん」と苦も無く、読み進められた

アマチュア:「誰の台詞?」「5行前の内容を今頃説明かよ!」など
       ところどころ、「うっ」となった。

なんかもう、
最初の数十行で「ふんふん」と読めないような書き方だと、
その後、どうクライマックスで盛り上がろうが、
ラストに大どんでん返しがあろうが、
編集さんに評価されず(売り物にできないと判断され)、
スルーされちゃうのだそうです。

でも、ほとんどアマチュア作家は、そこに気づかず、
(最初の数百文字で、ダメだと判断されているのに)
「クライマックス」や「ストーリー」や「キャラ描写」で
評価を得ようと、「序盤以後の何万文字(読まれない文)」
を苦労してひねり出してしまうのだと……。

その構図をきいて、すごく物悲しくなりました。

(ちなみに「プロになれないタイプの人」は、書くときに
 アニメみたいな映像を脳内で表示して、
 その絵をみながら描写(ノベライズ)をしているケースが多いそうです。
 作者は「キャラや情景」を当然くっきり思い浮かべられますが、
 読者は初見なので、真っ暗闇のなかで、手探り状態。
 この違いを意識できない作者は、読み手に「うっ」とさせるモノを
 無意識で書いてしまうそうです。しかも本人は気づかない…)

で、その問題に気づかせ、かつ、
技術向上をうながす方法はなんだろうかと常々考えていたのですが、
やっぱり、
「たくさんの人に読ませて、どこで脳が『うっ』となったか
 文の場所のサンプルデータを集めて把握すること」
が一番なんだろうなあと。

という想いから、マーク式の感想を思いたちました。
(この方式で解決するとは思わないけど、発端はここ、ということで。
 忘れないため、メモ)


コメントを見る・書く

過去ログはこちら

クオリアFAQ

クオリアに関して、よくある疑問への回答です。
参考までにどうぞ。

#随時追加していきます。現在のFAQ数:1個

Q1 エンジンを分解しても「走る」という現象は出てこないよね?それと同じでは?

Q1:飲茶さんは、 「『機械的な部品』にすぎない脳細胞がどんなに集まっても、  なぜクオリアが生じるのか説明ができない」 と言っていますが、 たとえば、車のエンジンは、『機械的な部品』が集まってできたものですが、 エンジンをどんなに分解しても、「車が走るという現象」はでてきません。 脳とクオリアの関係も、これと同じで、 説明できなくても当たり前ではないでしょうか? つまり、クオリアを問題にしている人たちは、 「エンジンを分解したのに『車が走る』という現象がどこにもないぞ」 と大騒ぎしているのと同じではないでしょうか? A1:いいえ、ちがいます。たしかに、エンジンを調べても、 「車が走る」という「現象そのもの」は出てきませんが、 「車が走る」という「機能の仕組み」は説明はできます。 たとえば、「なぜ車が走るのか。それは、エンジンの中でガソリンが爆発して、 その力がシャフトに伝わり、タイヤを回すからである」 などのように具体的に、その仕組みが説明できます。 しかし、「なぜクオリアが生じるのか?(感じるのか?)」については そのように仕組みが説明はできません。 脳内で、どんなシャフトが回転しようが、 どんな化学物質が生成されようが、どんな電気信号が流れようが、 既存の物理学の範囲では、 「だから、クオリアが生じるのです」という文章につながらないからです。 結論として、エンジンと脳の比喩では、 ・エンジンは、分解しても、「車が走るという現象そのもの」は出てこないが、  なぜ車が走るのか説明は可能。 ・脳は、分解しても、これ()はでてこないし、  なぜこれ()が生じるか(感じるか)説明も不可能。 という違いがあるので、同じように考えることはできません。

クオリア(10) 物理主義でクオリアは解決できるか?A

(2)客観化の問題

たとえば、僕が、僕自身の脳を実験材料にして、
脳とクオリアの関係を明らかにできたとしよう。

それはそんなに難しいことではない。
僕がリンゴをみて、これ()を感じてるとき、
脳科学者に、僕の脳の状態を調べてもらえばいいだけだ。

そこでもし、実際に脳の状態を調べてもらって、
僕があるクオリアX()を感じているとき、
脳の物理的な状態が「A」になっていることが、
継続的に確認できたとしたら、
「脳の状態A ⇒ クオリアX(」
という関係性が見つかったと言えそうである。

そしてさらに、ほんのちょっとだけ勇気を振り絞って、
自分の頭蓋骨をこじあけて脳に電極を刺し、
電気を流して、無理矢理、脳の状態を「A」にしてみよう。
物理的な作用で強制的に、脳を状態Aにしたときに、
僕の意識にこれ()が浮かび上がるようなら、
もはや、
「脳の状態A ⇒ クオリアX(」
という関係性はかなり確実なものだと言えそうだ。

もちろん、なぜ、
脳が「状態A」になると「このクオリア()」が
出てくることになるのか、合理的な説明はできない。

だが、まぁ、そこはいいのだ。
説明がつかないものは、つかないものなのだと
謙虚に受け容れてしまえばいい。
科学(物理主義)は、何もすべてを説明しなければならない、
という義務があるわけじゃない。

とにかく、なぜそうなるのかわからないが、
そこは「えいや!」と割り切って、
「脳の状態A ⇒ クオリアX(」
という関係性があるのだということにしてしまおう。
そうすれば、なんとかクオリアを
科学理論として扱うことができそうである。

だが、しかし。ここにもうひとつ、
「えいや!」と乗り越えなくてはならない壁が存在する。

それは、自分の脳を使って「脳とクオリアの関係」を調べたとしても、
その関係を、他人に伝えることができない、
という原理的な問題である。

これが、2つ目の問題だ。

この問題の要点は、簡単である。

「おれのクオリアは、おまえにはわからない(観測できない)」
「おまえのクオリアは、おれにはわからない(観測できない)」
「だから、おれとおまえで、
 互いにどんなクオリアを感じているか、
 伝える(説明する)ことができない」

というだけの話である。

もう少し具体的に言おう。たとえばの話し、
「きいてくれよ!ついに、脳とクオリアの関係がわかったんだ!」
と言って、僕は自分の頭蓋骨をこじあけて、脳を取り出し、
「いいかい?脳のここがこんなふうに動いてるとき、
 赤のクオリアを感じるんだ」
と言って、目の前の他人に、脳が動くところを見せつけたとする。
しかし、他人からすれば、そんな説明を受けたって、
僕が実際にどんなクオリアを感じているかは、知りようがないのだ。

「えー。そんなふうに脳の状態を見せられてもさ、
 君がどんなクオリアを感じてるか、
 僕には知りようがないじゃないか。
 っていうか、本当に、君、クオリアを感じてるの?
 まさか君……哲学的ゾンビじゃないだろうね?」

「ち、違うよ!
 ちゃんと、クオリアを感じてるよ!
 信じてくれよ!」

それならばと、僕は、相手を押さえつけて、頭蓋骨をこじ開け、
相手の脳に電極を刺しまくって、電気を流し、
「僕が赤()を感じたときと同じ物理状態A」を強制的に再現してみた。

僕が「な?赤がみえるだろ?」と聞けば、
相手は「うん、たしかに赤が見えるね」
と答えるかもしれないが、実際のところ、
彼はどんな赤のクオリアをみているのか、
これ()なのか、それとも、これ()なのか、
僕からすれば まったくもってわからない。

そこで、僕は、電子顕微鏡を取り出し、もっともっとより細かく、
相手の脳細胞の1本1本の動きを観察してみる。

すると、

「ふむふむ、視神経から伝わった刺激が、
 こういうルートを通って、ここにつながって、
 ここの神経に刺激を伝えるから……、ふむふむ、
 それで、おまえは『ア・カ・ガ・ミ・エ・ル』と答えるわけか」

という具合に、脳細胞の動きだけで、相手の行動がすべて説明できてしまうのだが、
やっぱり、そこにクオリアなるものは一切出てこない。
クオリアを持ち出さなくても、相手の行動がすべて説明できてしまったのだ。

結局、どんなに、相手の脳を眺めても、そこには、
脳細胞という神経が、物理的な条件にしたがって、
隣の脳細胞に、延々と刺激を伝えている、
という歯車的な機械しか見つからない。

「だめだ。やっぱり、おまえの脳をどんなに眺めても、
 どこにもクオリアはでてこない……。
 おまえがどんなクオリアを感じているのか、皆目見当もつかない。
 っていうか、本当に、おまえ、クオリアを感じてるの?
 まさかおまえ……哲学的ゾンビじゃないだろうなあ〜?」

「ち、違うよ!
 ちゃんと、クオリアを感じてるよ!
 信じてくれよ!」

こんなふうに、結局のところ、自分の脳を切り開いて、

「脳が状態Aになった ⇒ このクオリア()を感じる」

という関係性の理論を作り出したとしても、
「自分がどんなクオリアを感じているか伝えようがない」
「他人がどんなクオリアを感じているか知りようがない」
という事実は変わらないのだから、
その関係性を他人に伝えることは絶対にできない。

そして、他人に伝えることができないということは、
みんなでその関係性の理論を共有して、検証するという作業ができないのだから、
その関係性が、本当に、自分以外の他人にも成り立つ普遍的なものなのかどうかを
確認することもできない。

だって、もしかしたら、目の前の他人は、
脳が状態Aになって、「赤色を見てる」と答えていても、
実際には全然違う「こんなクオリア()」を
感じているのかもしれないし、
それどころか、まったく何も感じていないのかもしれないのだ。

もちろん、こんなふうに反論する人もいるかもしれない。

「いやいや、そんなことないだろう。誰の脳であろうと、
 物理的に、まったく同じ脳の状態を再現したら、
 まったく同じクオリアを感じるに決まっているでしょ」

しかしである。他人がどんなクオリアを感じているか確認できない、
という事実がある以上、
確認できないものは確認できないのだから、
確認できないものについて、何事も断言することはできない。

だってだって、もしかしたら、未知の粒子があって、
その粒子が脳細胞と干渉することで、
クオリアを感じるという仕組みかもしれないじゃないか!

もしかしたら、目の前のあの人は、
その未知の粒子が脳に入っていなくて、
実は、まったくクオリアを感じずに、ただ脳細胞が機械的に
「赤いね」と音声を発しているだけ
かもしれないじゃないか!

もちろん、何の根拠もなく、未知の粒子を持ち出すのは、
まったくのナンセンスである。

でも、実際のところ、「なぜ、脳細胞が集まると、クオリアがでてくるのか」
ということについて、既存の物理学ではまったく説明できないのだ。
だから、そこに未知のメカニズム未知の要因があると考えても、
それほど飛躍した考えというわけでもない。

結局、そういう可能性が存在し、
かつ、他人がどんなクオリアを感じているのかを調べる術はない、
のだから、自分の脳を実験台にして、

「脳の状態A ⇒ クオリアX(」

という関係性を明らかにしたところで、

「その関係性が客観的に正しいかどうか、
 他人と共有して検証しようがない」
という問題がどうしても付きまとってしまい、
つまるところ、科学の理論として、
みんなが共有できる客観的なものにはならないのである。

それは、つまり、
「クオリアを、科学として取り扱うことは出来ない」
という結論を意味する。

(補足)

だが、まぁ、いいのだ。
上で述べている話は、すべて厳密に考えたときの話である。

世の中、厳密に考えすぎたら、どんな理論も構築することなどできない。
たとえば、「水を電気分解すると、酸素と水素になる」という理論があるが、
実際のところ、宇宙に存在するすべての水分子について、
電気分解を行って確認したわけではない。
だから、「この理論は、本当に正しいかどうか
確認されたものじゃないのだから科学ではない」
と疑うことは可能である。
(だって、すべての水分子について、確認したわけじゃないのだから)

だってだって、もしかしたら、未知の粒子があって、
それが水分子と作用していたから、
酸素と水素に分解していたのかもしれないじゃないか!
だから、もしかしたら、何かの要因で、この未知の粒子が、
突然、宇宙から消え去り、今後二度と、
水を電気分解しても酸素と水素にならなくなる……
ということだって起こりえるかもしれない!

結局、そういう厳密さ未知の可能性までも考えたら、
「水分子を電気分解すると、酸素と水素に分かれる」
という理論すら述べることはできない。
そこまで疑いを広げたり、厳密さを求めてしまったら、
そもそも、どんな科学理論も成り立たないのだ。

だから、科学としては、どこかで「えいや!」と
「これ以上は、疑いません!」
「これ以上は、細かいことは問いません!」
という基準(暗黙の了解)を決めてやらなくてはならない。
そして、その基準(暗黙の了解)の上に、科学理論を構築するしかないのだ。
これは、どんな科学理論であろうと同様である。

したがって、科学(物理主義)としては、
「ある物理状態A → クオリアX」という関係が、
すべての脳について、本当にそうなっているか、確認不可能であったとしても、
「いいの!確認不可能だけど、
 正しいということにしてしまうの!」
と「えいや!」と決めつけてしまえば良いのである。

少なくとも、科学(物理主義)にしたがうなら、
「ある物理状態が再現されれば、毎回必ず、同じ物理現象が発生する」
というのは譲れない前提であるはずだ。

だって、月と地球を目の前に持ってきたら、
そこには、必ず、引力が発生するはずである。
物理的に同じ条件なのに、あるときは発生して、あるときは発生しない、
なんてことはありえない。

ある質量を持った物体が、2つあったら、そこに必ず「引力」が生じる。

こんなふうに、
「ある物理状態を再現したら、必ず、それに対応する物理現象が生じる」
ということを「信じる」のが科学であり、
科学はその信仰によって成り立っている。

したがって、自分の脳を使って、
「こういう物理状態になったら、こういうクオリアが浮かぶんだ」
ということが確認できるとき、
「他人の脳だって、同じ物理状態になったら、同じ現象が起きるはずだ」
と物理主義者が考えるのは、とても妥当なことだと言える。

つまり、

「他人がどんなクオリアを感じているか知りようがないのだから、
 『物理状態 ⇒ これ()』をどんなに示しても意味がないと思うよ」

という話は、

「そうだね。たしかに、他人がどんなクオリアを感じているか
 知りようがないよね。でも、いいじゃないか。
 『ある物理状態になると、必ず、それに対応する物理現象が発生する』
 というのが科学の信念なのだから、その信念に従えば、
 『物理状態 ⇒ これ()』という関係性は、
 他人の脳の中でも成り立っている、といえるだろう。
 科学的には、これで十分さ」

と割り切ってしまえば良い話で、
物理主義者にとって、それほど問題ではないのである。

では、最後の「3番目の問題」へ移ろう。

クオリア(9) 物理主義でクオリアは解決できるか?@

クオリアを科学(物理主義)で解決するのは
不可能である

と、そんなふうに言われているが、実際のところ、
「脳細胞がある状態になると、あるクオリアが発生する」
という関係性は(おそらく)あるのだろうから、

「脳の状態A ⇒ クオリア(」
「脳の状態B ⇒ クオリア(」
「脳の状態C ⇒ クオリア(」

という具合に、
「脳の状態(物理状態)」と「クオリア」の対応関係を
ひとつひとつ調査し、そこから「法則性」を導き出して
科学理論を構築できる可能性はあるかもしれない。

つまり、
「脳の状態(物理状態) ⇒ クオリア」
を導く理論の構築は可能かもしれないという話だ。

実際、このような観点で、
クオリアを説明しようと試みる脳科学者、物理主義者たちが
数多く存在する。

しかし、このような
「物理状態」と「クオリア」を結びつけるやり方では、
解決できない「3つの問題」がある。

(1)メカニズムの問題(ハードプロブレム)

まず、仮に、そういう
「脳の状態」から「クオリア」を導き出すような公式が
見つかったとしても、
「なぜ脳という機械(物質)がそんなふうに動くと、
 そういうクオリア()が生じるの?」
という根本的な疑問について解答が得られるわけではない、
というのがひとつめの問題である。

そもそも、どんなに脳を解剖して、その働きを調べても、
脳の中で見つかるのは、
原子・分子からできた脳細胞という「機械的な部品」だけである。

そして、結局、脳内で行われていることとは、
その「機械的な部品」である脳細胞が、複雑に組み合わさって、
「ある特定の入力信号」を「赤」だと識別するなどの
情報処理を機械的にしているだけにすぎない。

実際、脳が「赤いね」と言っているときに、
頭蓋骨を開けて解剖してみたところで、
「脳細胞が隣の脳細胞に信号を伝えている」という
機械的な動きしか見つからない。

そんなものが、どんなに集まって複雑化したとしても、
そこに「クオリア()」が出てくる合理的な理由は一切ないし、
どうして機械的な脳細胞たちが、ネットワークを形成して、
情報処理を実行すると、「これ()」が生じるのか皆目見当がつかない。

だいたい脳が、ただの「機械的な部品の集合」であるというならば、
機械なら機械らしく、「」とか「」とか一切感じることなく、
「あの夕焼け、赤いね」「空は青いね」とか
言っていればよかったのだ。

そして結局のところ、脳科学者(物理主義者)たちがやっていることは、
脳を「機械的な部品の集合」として捉え、
脳の「機械的な機能」を明らかにしているだけであり、
そういう機能をがんばって明らかにしたところで、
決して「クオリアの説明」にはいたらない。

たとえば、よくある勘違いのひとつとして、

「視神経から入力された信号を赤だと認識する脳細胞A」があり、
その脳細胞Aの働きを、別の脳細胞Bが監視することで、
「自分は赤いものを見ている」という主観的な情報を作り出すことができ、
それにより、「主観的な赤のクオリア」が生まれるのさ、

というクオリアの説明の仕方があるが、
それは単に「自分は赤いものを見ている」という情報を
作り出したという説明にすぎず、
「クオリア()の説明」には、まったくなっていない。

ようは、脳が「自分は赤いものを見ている」という情報処理を
行っていることがわかったからといって、
「だからクオリア()がでてくるのです(^^)v」
という結論には決してつながらないという話だ。

そもそも、クオリアとは、
脳細胞を駆け巡る「電気信号」のことでも、
脳細胞システムが作り出す「情報」のことでもない。

クオリアとは「これ(」のことである。
「これ()」にクオリアという名前をつけただけのことである。

結局のところ、ようするに、
クオリアの問題に関わっている人々の「疑問」はこうなのだ。

「はいはい、わかったよ。
 脳科学がすごく進んでいるのはよ〜くわかった。
 脳の中に、
 『入力された信号を赤という情報に変換して認識する機能』
 があるんでしょ。それはいいよ。
 そして、『おれは赤いものをみている』という
 『主観的な立場で情報を認識する機能』もあるんでしょ。
 それもいいよ。
 それから、『まるで火のような』とか『情熱的な』などのように、
 過去の記憶から『赤の独特の感じを連想する機能』もあるんだろうね。
 うん、とてもすばらしい機能だ。

 でもね……だからってさ……、
 それらの機能があったからってさ……、

 これ()はでてこないだろ!これ()は!

 わかる?

 ←これよこれ!!

 脳細胞とかの機械的な部品が大量に集まって、
 ものすごい高度な情報処理を実現したからって、
 ←これ』は出てこないでしょ、
 って言ってるの!」

実際、脳科学(物理主義)の手法にしたがい、
脳内の物質をどんなに追いかけても、そこで明らかになるのは、
脳の「物理的な機械としての情報処理機能」だけであり、
決して、「これ()がなぜ生じるか」という根本的な疑問が
解決されることはないのである。

さて、話を戻そう。

今まで述べたのと同様の話で、結局のところ、
脳の物理状態を綿密に調査して、
「脳の状態(物理状態) ⇒ クオリア(」
という法則性を明らかにできたとしても、
やっぱり、
「なぜそういう物理状態だと、これ()が出てくるの?」
という肝心の「⇒(矢印)」の部分が、
いぜんとして理解しがたい謎として残ってしまうのだ。

ここが、いわゆる
「既存の科学のやり方(物理主義)では、
 クオリアを解明することができないよ」
と言われるところの要点であり、
物理主義的に「脳の物理状態」と「クオリア」を結び付けたとしても、
解決できない問題のひとつなのである。

(補足)

だが、まあ、いいのだ。
理屈はどうあれ、脳があり、脳細胞があり、
そして、現に「これ()」を感じてるのだから、

仕組みなんか知るか!脳細胞がたくさん集まると、
これ()が出てくるんだよ!
宇宙はそういうふうにできているんだよ!

と受けいれてしまえばいいという考え方もある。

ようは、既存の科学では説明のつかない「⇒(矢印)」の部分を、
新しい宇宙の法則なのだと、
未知の物理法則なのだと、
そういって受けいれるという話だ。

実際、ニュートンの重力理論にしても、
「質量を持つ物体が2つある(物理状態)
  ⇒ 両者の間に重力という引き合う力が発生する(物理現象)」
という法則性をただ述べているだけで、
肝心の「じゃあ、なんでそうなるの?」という
「⇒(矢印)」部分は、まったく説明していない。

「そこはそれ、大宇宙の法則だから!」
ということで、「なぜ起こるのか?」という
メカニズムには目をつぶることで、重力の理論は成り立っている。

もちろん、「⇒(矢印)」の部分を、
(まだ仮説だが)重力子理論で説明することが可能かもしれないが、
それでもやっぱり、
「じゃあ、なんで重力子はそのように働くの?」という
新しい「⇒(矢印)」が出てきてしまう。

つまり、結局のところ、どんな科学理論を持ち込もうと、
「⇒(矢印)」が謎だという問題、
すわなち、「なぜそうなるの?」という問題はどうしたってなくならない。

であるのだから、科学的には、「⇒(矢印)」の部分の解明は、
「できるところまででいい」のだ。

結局、どの科学理論だってそうなのだから、
クオリアに関する科学理論の構築だって、同じように、
「⇒(矢印)」の部分、つまり、
「なぜ、そういう物理状態だと、そういうクオリアが発生するのか」
という仕組み、メカニズム、起源については
「しりません」としらばっくれればいい話で、
そこを科学が完璧に説明しなければいけない義務はない。

結論として、1番目の「メカニズムの問題(ハードプロブレム)」、
つまり、

「脳の物理的な機能を解明しても、
 これ()が発生する仕組みの解明にはつながらないよ」

という話は、
「そうだね、そこは説明できないね。でも説明する義務もないよ」
と切り捨てればいい話で、
物理主義者、脳科学者にとってそれほど致命的な問題ではないのである。
(もちろん、「でも結局は説明できていないでしょ」という結論に
 変わりはないが……)

では、次の「2番目の問題」へ移ろう。

(続く)

祝!書籍化!
おかげさまで、結構、売れているみたいです(^▽^)
(全体ランキングで200位ぐらい。
哲学部門、科学部門のランキングで1位)

ただ、売れすぎて、アマゾンでは在庫がなくなってしまったのか、
定価より高い金額で、取引されてるみたいです(^^;

「新品未読、残り僅かです。
希少品のため定価より高額な設定となっております」とのことでした。

楽天にもまだ在庫があるみたいですので、
欲しい方は、こちらからもどうぞ(^▽^)

編集者の校正チェックも入って、
サイトの文章より読みやすくなっていますよ(^▽^)



レイン開発日記20

まずは、「」の定義だ。

はじめての人工生命プログラムということで、
死の定義は、

「エサを食べないと死んでしまう」

というシンプルなものにしよう。

そして、環境系、センサ系、駆動系は、
こんな感じにしようと思う。

環境系:
レインの住む世界。
2次元の将棋盤のような平面世界にしよう。
この平面の世界の上に、「レイン」と「エサ」が置かれる。
具体的には、以下の図のような感じ。



センサ系:
レインが持つ感覚器官。レインは、この感覚器官を使って、
「自分のいる位置」と「エサのある位置」の情報を知ることができる。
たとえば、上の図の場合だと
センサ系は、こんなふうに位置の情報を記憶箱に入れてくれる。



駆動系:
レインは、駆動系として足を持っている。
駆動系は、ある決まった記憶箱の中身を監視しており、
箱の中の数字が……

  1だった場合は、北(↑)へ進む。
  2だった場合は、東(→)へ進む。
  3だった場合は、南(↓)へ進む。
  4だった場合は、西(←)へ進む。
  0だった場合は、動かない。

という感じで動作する。




さてさて。条件は、これですべてそろった!

あとは、ランダムにレインコードを生成して、
さまざまな知能を持ったレインを
この世界に放り込んでやるのだ!

もちろん、適当にコードを生成しているだけだから、
ほとんどのレインに、賢い知能的な行動はみられないだろう。

多くのレインたちは、
センサ系から送られてくる情報の利用の仕方もわからないだろうし、
どのように駆動系(足)をうごかせば、エサにたどり着けるかも
わからないだろう。

だから、ほとんどのレインが、飢えて死ぬことになるだろう……。

でも……たったひとつだけでいい……。

ランダムに生成した大量のレインコードの中に、
奇跡的な組み合わせがひとつでもあれば……

そこには……

レイン開発日記19

人工生命体レインの開発を再開しよう。

久しぶりなので、
今までの開発状況を思い出しておこうかな。

まず最初に、「生命の活動」について、

センサ系→知能系→駆動系→環境系
という4つの系(システム)が、
「数字(情報)」を渡して影響し合い、
ループしている

というモデルを考えた。




そして、どんなセンサ系、駆動系、環境系が与えられても、
賢く判断をしてくれる「汎用的な知能系」を目指して、
「レインコードで動く知能プログラム〜CELL(セル)〜」
を作った。



このレインコードの思想を簡単に言うと、

人間が手作業で、いちいち、
知能的なプログラムを作るのは面倒なので、
「簡単なコード」の組み合わせで動くプログラムを作って、
そのコードをランダムに組み替えていけば、
いつかは、「賢いプログラム」が出てくるだろう、

というものだ。

ところで、何をもって、「賢いプログラム」だと判定するかだけど、
「生命の活動」をモデル化しているんだし、ここはシンプルに、

適者生存!

ってことで、
設定された環境に適応し、「」の条件を回避して、
生き残ったプログラムを「賢い」と定義しよう。

具体的に言うと、

「センサ系」から得た情報にもとづいて、
うまいこと「駆動系」をうごかして、
「生き残ったもの」を「賢いプログラム(生命)」とする

ということだ。

よし!じゃあ、さっそく、
「レインコードで動く知能プログラム」に、
センサ系、駆動系を接続して、
環境系に放り込んでみよう!

人工生命体レイン「03号機」

レイン開発プロジェクトのボディ開発リーダーの想達さんより、
人工生命体レイン「03号機」のラフスケッチをいただきました。(^▽^)

人工生命体レイン「03号機」

レインのボディ開発ラボ(想達さんのサイト)

人工生命体レイン「03β号機」

レイン開発プロジェクトのボディ開発リーダーの想達さんより、
人工生命体レイン「03β号機」のラフスケッチをいただきました。(^▽^)

人工生命体レイン「03β号機」

レインのボディ開発ラボ(想達さんのサイト)

またまた、想達さんから論コミのバナーを貰いました!
リンク用バナーです!感謝!!



開発元:ミッドナイトカフェ

<告知>
論コミのバナーがさらにかっこよくなりました!(^▽^)
想達さん、ありがとう!!
論客コミュニティ

開発元:ミッドナイトカフェ
開発者:想達 (ソウタツ)氏