皇居の落書き

東宮家を応援するということを基本的なスタンスとしていますが、東宮派ではありません。

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論者たちへの哀れみ

2006-03-02 00:10:40 | 皇室の話(2)
○八木秀次氏
八木氏という人は,基本的にはいい人そうである。テレビでみて,そういう印象を持った。
ただ,頭は,あまり良くなさそうである。

そこを付け込まれ,誰かに操られ,裸の王様になってしまっているのではないか。
そんな感想を抱かざるを得ない。

「諸君」平成18年4月号において,「朝日よ,皇族は「貝になれ」というのか」と題する記事がある。
この記事においては,「確かな筋」からの情報が,あちこちで紹介されている。
おそらく,朝日新聞の岩井氏あたりであろう。
例えば,
「複数の男性皇族が明確に女系容認反対,いや,政府の進めている方向に激怒されているとの情報も確かな筋から漏れ伝わってきていた。秋篠宮殿下もそのお一人で,激怒され,ご懐妊に向けて準備をされているとの情報も今年の初めにあった。」
とある。

男系原理主義の立場に立つ八木氏としては,大変心強いことであるのだろう。
しかしながら,原理主義というものが,如何に人の目を曇らせるものであることか。

八木氏は,
「妃殿下は既に満三十九歳である。第二子の佳子内親王をご出産されてから既に十年以上が経過している。通常,このような間隔をおいてのご懐妊は庶民の言葉で言えば「恥かきっ子」などとからかわれる」
と述べる。

女系容認を阻止するための「よほどの強いご意志」を述べるための文脈であるが,将来,皇位を継がれるかもしれない方に対し,「恥かきっ子」とは,あんまりな言いようである。

また,次のような箇所がある。
「一部で流れる「天皇陛下のご意向」説の根拠は,「有識者会議」の議事の報告を宮内庁次長がその都度行ったが,それに対して天皇陛下が「イエス」とも「ノー」とも言われなかった。だから「有識者会議」の進めていることは天皇陛下のご意向に沿っているに違いないというものだったという。以上は確かな筋からの情報だが,「天皇陛下のご意向」説の背景はこんなところなのだ」
「皇室はサインを読み間違った者を容赦しない。権勢を誇った首相に無言で満天下に恥をかかせ,一気に求心力を失わせる力さえ発揮する。」

しかし,八木氏の記述のとおりであるとするならば,天皇陛下は随分とひどい君主であると言わざるを得なくなる。
臣下によるサインの読み誤りを放置し,みすみす「満天下に恥をかかせ」るというようなことは,およそ有徳の君主がやることではないからである。
よっぽど無能であるか,思いやりのない君主ということになるはずで,そんな君主を抱えた国民は,それこそ不幸まっしぐらである。
八木氏の言い方では,そういうことになってしまう。

突発的な場面において,宮内庁が皇室の意向をくみ取ることができなかったという事案は,これまでにあったであろうが,今回は,そういう話とも違うのではないか。

裸の王様は,「確かな筋」に踊らされ,脱いではならない最後の一枚まで,とうとう脱いでしまったようである。
まさに,「恥かきっ子」である。

○西尾幹二氏
「諸君」平成18年4月号に,「「かのようにの哲学」が示す知恵」と題する記事がある。
西尾氏は,「天皇とはわれわれの「信仰」の問題に外ならない」という考えのようであり,その点は,筆者も納得できる。

しかし,「信仰」の内容も様々である。
西尾氏は,この信仰の内容について,次のように述べる。
「「女系」でもよいという可能性を歴史学的に掘り出して,あれこれ新しい解釈を施す人があちこちに出てきたが,それはまったく意味をなさない。歴史知識を求めているのではないからだ。自らの信仰に心を悩ましている人に,「<男系>というお前の神は死んでもいいよ,代りはいくらでもいるのだから」と言っているようなものだからである。」
天皇という御存在に関し,西尾氏にとって,信仰の対象とは,「男系」ということのようである。
信仰の話である以上,その内容に,他人がとやかく言う話ではないが,しかし,天皇という御存在に関し,「男系」ということのみが,信仰の対象と成り得ると考えるとしたら,それは誤りであろう。
天皇という御存在に関する信仰ということ。
筆者自身の信仰は,天皇と日本人との絆ということであり,天皇と日本人とが運命共同体であるということである。

西尾氏は,田中卓,所功,高森明勅の三氏について,
「三氏に共通しているのは,天皇の制度はこれからも未来永劫になくならないと安心し切っていることである。」
と述べている。

筆者に言わせれば,三氏にも,ちゃんと信仰があるのであり,ただその内容は西尾氏とは異なっていて,天皇と日本人との運命共同体としての在り方ということだったのではないかということになる。

あまり,信仰という内面の問題を比較するということはしたくはないが,どちらかといえば,運命共同体としての在り方に対する信仰の方が,伝統的な日本人の信仰であり本質ではなかっただろうか。
運命共同体であればこそ,天皇のために戦って死ぬこともできたのではないか。
かつて,皇運扶翼という言葉もあった。
今はそういう時代ではないかもしれないが,例えば,新年一般参賀などで,小さい日の丸の旗を振る人たち。
天皇との絆を感じているからこそではないのか。
男系でなければ用済みというような発想とは,ほど遠いのではないか。

○原武史氏
「月刊現代」平成18年4月号に,「「菊のタブー」と「性のタブー」」と題する記事がある。
多角的に,一生懸命に思考をめぐらしているのはよく分かる。
しかし,相変わらずなところがある。
原武史氏は,どうしても,女性の生理ということが,頭から離れないようなのだ。
実に惜しい。
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キーワード
運命共同体 日の丸の旗 佳子内親王
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