中国からの汚染襲来、中国・韓国の原発リスク、放射能を正しく学ぶ

中国大陸の残虐な戦争の歴史を理解すべき。反日デモは白人に利益を与え黄色人種全体の評価を下げた

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元寇終焉の地 鷹島

鷹島町

 
鷹島町たかしまちょう)は長崎県北松浦郡鷹島黒島を行政区域としていたである。
2006年1月1日、松浦市・福島町と合併(新設合併)し、新たに松浦市となった。
 
基礎データ
  • 人口 2868人(2000年
  • 世帯数 1036世帯(2000年
  • 面積 17.11平方キロメートル
近年、離島に多く見られる過疎化がひどく進んでいる。

歴史

  • 1281年 - 弘安の役で鷹島に軍が上陸、戦場となる。
    • 博多で上陸を阻まれた元軍が鷹島沖で大陸からの援軍と合流して体制を立て直そうとした時に暴風雨(俗に神風ともいわれる。台風説が有力)が吹いたために壊滅、現在でも鷹島沖には元軍の30〜40メートル級の木造船が沈んでいる。また、島にも戦争の遺跡が残っている。
  • 江戸時代より平戸藩領となった。
  • 1889年4月1日 - 町村制施行により、北松浦郡鷹島村が発足。
  • 1975年1月1日 - 町制施行により鷹島町となる。
  • 2006年1月1日 - 松浦市・福島町との合併(新設合併)により松浦市となり、自治体としての鷹島町は廃止。

地名

  • 阿翁免(あおう)
  • 阿翁浦免
  • 黒島免
  • 神崎免(こうざき)
  • 里免
  • 三里免(さんり)
  • 中通免
  • 原免(はる)
  • 船唐津免(ふなとうづ)
道路
観光地
  • モンゴル村 元寇に由来して、草原の上にモンゴルから輸入したゲルがあり、宿泊することができる。夕焼けスポットでもある。
  • 歴史民俗資料館 海底調査で出てきた元軍の遺物(「てつはう」と呼ばれる爆弾、元の公用語であるパスパ文字で刻まれた元軍の司令官のはんこなど)を展示。
  • 元寇記念碑 島の一番高いところの元寇古戦場に立つ碑。
  • 元軍の如来像 元軍(実質は高麗人)が祭祀していた高麗式の銅製如来像で、のち引き上げられ盗難に遭うも現在は市杵島神社境内の小さな堂に祀られている。
元寇の激戦地鷹島
 
 文永・弘安の役における元軍の終結地鷹島は、伊万里湾にある元寇史跡の島である。
 元寇の第一弾、文永の役において高麗・元の連合軍は、文永11年対馬に到達し、対馬の国守護代宗助国の守備軍を一蹴し、壱岐にいたり島民を殲滅させた。
 さらに、元軍は鷹島・平戸島などを略奪と殺戮をくりかえしながら、博多湾に上陸し、北部九州の守護少弐経資軍と激突したのである。
 この後3日間にわたり、新兵器と集団密集戦法をもって日本軍を蹂躙し尽くした元軍であったが、博多湾から姿を消し撤退している。
 
 第二弾の弘安の役では、高麗軍を主体とする東路軍が弘安4年対馬・壱岐に到達、博多上陸を試みているが失敗し、いったん鷹島近海に退いて元の正規軍の到達を待つことになる。
 7月の末に九州に着いた江南軍は、鷹島近海で先発の東路軍と合流し、博多上陸の機をうかがうのであるが、閏7月1日の暴風雨によって元の軍船の多くは転覆し、 10数万の元軍は壊滅的な打撃をうけ日本遠征はまたも失敗に終わる。
 
 鷹島は元軍の集結地・作戦基地であり、また同時に元軍による島民せん滅の地でもあったといえる。
 
鷹島歴史民俗資料館
 
 1281年(弘安4年)7月30日の夜、総勢4千4百隻の船と14万人ともいわれる元軍の大半が鷹島周辺の海底に沈んだという史実のもと、鷹島周辺の海では昭和56年7月から調査が行われ、数多くの元寇遺物が発見されています。資料館では、そうした海底から発見された貴重な遺物、その他考古学・民俗学の資料を収集・展示しています。
○展示内容
【元寇資料】 元寇遺物(海底):青銅印、つぼ、陶磁器片、
                    石製品、鉄製品
【考古資料】 土器、石器、その他
【民俗資料】 生活用具、農・漁業用具、その他
 

 館内資料展示写真
 
 
 
イメージ 1
 
遠矢の原(モンゴル村)
兵衛次郎の墓  対馬小太郎の墓  刀の元の六地蔵
開田の七人塚  元寇記念の碑 五輪塔と法○印塔  少弐景資の石像(龍面庵) 
 
 
 
 
イメージ 2
宮地巌嶽史跡公園
対馬小太郎の墓
兵衛次郎の墓
 
 
 
 
 鎌倉時代の蒙古襲来「元寇」で、元軍が破裂弾「てつはう」や石弾を飛ばした投石機を%C