元寇終焉の地 鷹島
鷹島町基礎データ
近年、離島に多く見られる過疎化がひどく進んでいる。
歴史
地名
道路
観光地
元寇の激戦地鷹島
文永・弘安の役における元軍の終結地鷹島は、伊万里湾にある元寇史跡の島である。 元寇の第一弾、文永の役において高麗・元の連合軍は、文永11年対馬に到達し、対馬の国守護代宗助国の守備軍を一蹴し、壱岐にいたり島民を殲滅させた。 さらに、元軍は鷹島・平戸島などを略奪と殺戮をくりかえしながら、博多湾に上陸し、北部九州の守護少弐経資軍と激突したのである。 この後3日間にわたり、新兵器と集団密集戦法をもって日本軍を蹂躙し尽くした元軍であったが、博多湾から姿を消し撤退している。 第二弾の弘安の役では、高麗軍を主体とする東路軍が弘安4年対馬・壱岐に到達、博多上陸を試みているが失敗し、いったん鷹島近海に退いて元の正規軍の到達を待つことになる。 7月の末に九州に着いた江南軍は、鷹島近海で先発の東路軍と合流し、博多上陸の機をうかがうのであるが、閏7月1日の暴風雨によって元の軍船の多くは転覆し、 10数万の元軍は壊滅的な打撃をうけ日本遠征はまたも失敗に終わる。
鷹島は元軍の集結地・作戦基地であり、また同時に元軍による島民せん滅の地でもあったといえる。 鷹島歴史民俗資料館
1281年(弘安4年)7月30日の夜、総勢4千4百隻の船と14万人ともいわれる元軍の大半が鷹島周辺の海底に沈んだという史実のもと、鷹島周辺の海では昭和56年7月から調査が行われ、数多くの元寇遺物が発見されています。資料館では、そうした海底から発見された貴重な遺物、その他考古学・民俗学の資料を収集・展示しています。
○展示内容
【元寇資料】 元寇遺物(海底):青銅印、つぼ、陶磁器片、 石製品、鉄製品 【考古資料】 土器、石器、その他 【民俗資料】 生活用具、農・漁業用具、その他 館内資料展示写真 遠矢の原(モンゴル村)
兵衛次郎の墓 対馬小太郎の墓 刀の元の六地蔵
開田の七人塚 元寇記念の碑 五輪塔と法○印塔 少弐景資の石像(龍面庵)
宮地巌嶽史跡公園
対馬小太郎の墓
兵衛次郎の墓 鎌倉時代の蒙古襲来「元寇」で、元軍が破裂弾「てつはう」や石弾を飛ばした投石機を%C |