お米に関する何でもQ & A

木徳神糧は、1882(明治15)年の木村徳兵衛商店開業以来コメとともにあゆみ続け、日本の食生活を支えるリーディングカンパニーとして2012年に創業130周年を迎えます。

本コンテンツでは、これまでの130年のあゆみをご紹介します。木徳神糧をもっと身近に感じるとともに、ご理解をさらに深めていただけたら幸いです。


連載第2回 木徳神糧の歴史 創業期(明治) 明治15年 日本橋に「木村徳兵衛商店」開業

明治15年(1882年) 1月、日本橋兜町三番地に米穀商「木村徳兵衛商店」を開業したのが木徳神糧の歴史の始まりとなります。 19歳という若さで創業者となったのが、 2代目木村徳兵衛(幼名:孝次郎)です。

2代目木村徳兵衛は、元治元年(1864年) 5月19日、現在の神奈川県横須賀市の廻船問屋加渡屋 馬場吉右衛門の二男として誕生しました。明治維新からさかのぼること4年という、まさに幕末の激動期に生を得ました。そして、明治3年(1870年)、7歳の時に初代 木村徳兵衛の養子となります。

12歳になると、神奈川県藤沢町(当時)の酒造業 桜本喜兵衛商店に丁稚奉公に出ます。藤沢町を中心に江の島、鎌倉、戸塚、横浜方面10里(39.27km)の間の販売や運搬を受け持ち、日の出から日没過ぎまで働く毎日を過ごしました。その勤めぶりが主人に認められ、16歳の時には酒の仕込みから販売まで主人を補佐し、同僚の指導を行うまでになりました。

しかし17歳の時、老齢となった養父 木村徳兵衛を助けるため退店、やがて家督を相続し2代目 木村徳兵衛となり、米穀問屋としての道を歩むこととなります。

当時の米問屋は、各地から大量の米を委託されてこれを扱う「委託問屋」、自分で産地から直接米を仕入れて扱う「買付問屋」、これらを兼業する問屋という3形態がありました。木村徳兵衛商店は、「買付問屋」として主に東北・北陸地方産米を仕入れ、船便で輸送して市中に販売し、小資本ながら大量の商いを行うことで実績を積み上げていきました。1886年(明治19年)には東京廻米問屋組合に加入し、廻米問屋として同業者の信頼を得ていきます。

また、鉄道網の発展により、明治中期の米の流通形態は船舶輸送から鉄道輸送へと移行していきます。明治41年には秋葉原の貨物駅を利用する「神田川米穀市場」が開設されます。木村徳兵衛商店は、東京廻米問屋市場と神田川米穀市場の両市場の特徴を生かし、商売を広げていきます。


「木村徳兵衛商店」開業の地である日本橋兜町三番地付近
※地図をクリックすると、拡大図が開きます。

※「東京廻米問屋組合」とは
明治維新以来、東京府には正米を扱う公認の場がなく、米問屋の見本米を持った仲買人たちが兜町に集まり、米の売買や取次をしていたが、明確なルールがなく慣習による取引のためトラブルが多かった。
そこで政府は、東京府に米の流通機構を整備するよう命じ、深川で米穀荷扱所名で廻米業を経営していた渋沢喜作(実業家 渋沢栄一の従兄)が代表者となり、明治16年(1883年)「廻船問屋組合」を組織、明治18年(1885年)に「東京廻米問屋組合」へと発展。明治19年(1886年)には「東京廻米問屋市場(後の深川正米市場)を開設、同組合が経営を行う。

*「正米」(しょうまい)とは
米の現物のこと。正米市場は米の現物取引を行う市場のことで、先物取引を行う米穀取引所とは区別される。




深川に本店を移転

1886年(明治19年)に深川区佐賀町に開設された東京廻米問屋市場は、それから正米取引の中心となったため、 2代目木村徳兵衛は1894年(明治27年)に本店を同町内に新築・移転しました。その後50数年間にわたり、本店所在地として歴史を刻んでいきます。

本店を移転し商売も益々順調に進むかに思われましたが、この年7月の日清戦争の勃発で、農業労働力が戦争に駆り出されたため、翌年から米の生産量が急速に減少していきます。これにともない、米の相場も大きく変動します。さらに1897年(明治30年)は大凶作となり、この年を契機に米の需給調整が輸入米で行われるようになります。

翌年の1898年(明治31年)は逆に気象条件が良く豊作の見通しとなったため、8月以降の正米相場は急速に下がっていきました。 2代目木村徳兵衛は米の収穫期を迎えた秋に、米穀問屋仲間と共同で商米の買い付けを行いましたが、その後も下落が止まらず、正米取引で大損失を出してしまう結果となりました。しかし念のため、自分の持ち分について清算取引で売りつないでいたため、正米の損失分を補った上、さらに利益が残る結果となりました。

この時、 2代目木村徳兵衛は、米のような相場変動の激しい商品の場合、いかに経験と知識があっても、投機的な取引をすると一瞬にして大損失を招くという危険性があるので、わずかであっても利鞘を取る商売に徹することが真の商売であると悟りました。
この経験から、「商売は安全で堅実であることが第一で、投機的な商売をしてはならない」ということが店是となりました。

その後、商売はさらに発展し、明治42年(1909年)には、東京廻米問屋組合の幹部である行事に就任、業界の発展にも力を注いでいくことになります。

深川区 佐賀町店舗

※「清算取引」とは
米の現物を売買する正米取引に対して、現物を伴わない取引として清算取引がある。清算取引で売買の対象となる米を、一定期日に清算することから、正米に対し「定期米」または「期米」という。清算取引を行いたい人は、米穀取引所を相手に定期米の売買を行った。