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チーム消滅、戦力外通告… 「まだサッカーを続けたい。絶対にはい上がってやる」 それは突然のことだった。1998年秋。朝、横浜市の自宅で寝ていると、遊びに来ていた義父に起こされた。ニュースが伝えていた。「Jリーグ・横浜フリューゲルス消滅。横浜マリノスが吸収合併へ」。慌ててクラブハウスへ向かった。駐車場はマスコミ関係者であふれていた。 「信じられなかった」。親会社の撤退によるチームの消滅。「どうにかなるだろう。どこかが買い取ってくれるだろう」。そんな淡い期待を抱きながら、残りのリーグ戦と天皇杯を戦った。存続の署名活動もした。天皇杯では日本一を勝ち取った。意地だった。だが、決定は覆らなかった。 4度の移籍 99年、セレッソ大阪へ移籍。2000年からは川崎フロンターレ、大分トリニータにレンタル移籍した。そして02年、J2のアビスパ福岡へ完全移籍。2年間で49試合に出場した。32歳ではあったが、まだまだ第一線で戦える自信はあった。 だが、再び悪夢が原田を襲った。「同じポジションに外国人を獲得するから、契約しない」。サッカー人生で初めて受けた戦力外通告。「使いものにならない」という宣告なら、そこで踏ん切りがついたのかもしれない。でも、そうではない。「まだ自分はやれる。まだサッカーを続けたい」 その後、J2ザスパ草津の練習に参加したが契約には至らない。他のチームも探したが、なかなか見つからない。練習相手もいない。走ることしかできない。時間だけが過ぎていった。引退の文字も頭をよぎったが、認めたくなかった。
恩師の電話 04年冬。国見高時代の恩師、小嶺忠敏から電話があった。05年1月の九州各県リーグ決勝大会に出場する有明SC、後のV・ファーレン長崎への助っ人依頼だった。 Jリーグを離れてから約1年。久々に立つピッチ。1年前より、ややふっくらとした体だったが、随所で存在感を示した。結果、有明SCは九州リーグ昇格。Jリーグを目指すチームに生まれ変わった。 「どうすればもう一度サッカーをやれる場所を見つけられるのか」を考え続けた日々。Jリーグ時代とは比較にならない環境、条件ではあるが、ボールをけることができる充実感は、何物にも替え難かった。ゼロからのスタート。「今の自分にはベストなのかな」。そう思った。 高校時代から、各年代の日本代表に選出され、フル代表も経験してきた男は決めた。「サッカーをやれて、仲間もいて、真剣勝負ができる。格好つけてもしょうがない。今、何をしなきゃいけないか」 絶対にはい上がってやる。居場所は見つかった。 ◆ V・ファーレン長崎はJFL、Jリーグ昇格を目指し、4年目の九州リーグを戦っている。チーム設立時から携わるMF原田武男は今年、37歳を迎える。かつてJリーグの表舞台に立ち、まばゆいばかりの輝きの中に身を置いたMFは今、何を思い、戦うのか。現役にこだわり続けるベテランの姿を追う。
2008年6月18日長崎新聞掲載
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