原田武男物語 V・ファーレン長崎
○○中
 プロ目指し進路決定

高1で選手権初優勝
 「もう一度高校に行くとしても国見を選ぶ」

 佐賀県西部の鹿島市。1971年10月2日、原田は4人兄弟の三男として生まれた。体重3800グラム。祖母が「武士みたいな男になれ」と願い、「武男」と名付けた。

 浜小3年のころ、兄2人の影響でボールをけり始めた。5年で全日本少年大会に出場。鹿島東部中3年で、全国中学大会ベスト16に入った。九州選抜にも選ばれた。県内外の強豪校から注目を集める選手になった。

 名将が勧誘

 87年1月の全国高校選手権。FW岩本文昭(V・ファーレン前監督)らを擁して初出場した国見高が準優勝した。東海大一高(静岡)との決勝をテレビ観戦していた少年は、翌日驚く。国見の小嶺忠敏監督が訪ねてきたのだ。

 きのう、テレビで見た名監督が目の前にいる。自分を熱心に誘ってくれた。小学生のころからオランダの英雄クライフにあこがれた。「プロになりたい」と夢見ていた。その日、進路は決まった。

 高校時代は練習に明け暮れた。休みは年に2、3日あるかないか。夏、春休みは県外へ遠征。長崎には戻らず、ましてや実家に帰る時間はなかった。それでも不思議と嫌ではなかった。「もう一度高校に行くとしても、国見を選ぶと思う」


原田武男
Jリーグ・横浜フリューゲルス時代の原田武男
 1年の冬。初めての高校選手権。1回戦で途中出場を果たした。準決勝ではスタメン出場。前年と同じ顔合わせとなった決勝も先発出場した。1年前、テレビで見ていた光景の中に自分がいる。「不思議な感じだった」。国見は初優勝を成し遂げた。

 2度目の選手権は準々決勝。主将を務めた最後の選手権は準決勝で終わった。当時は日本にプロリーグはなく「プロ=海外」の時代。現在のように海外への道は開けていなかったため、進学を希望。早大に進んだ。

 Jの舞台へ

 大学では元日本代表のDF相馬直樹らと同学年。2年生の時、諫早市で開催された日韓戦の日本代表に選出された。ユニバーシアード、バルセロナ五輪代表としても活躍。4年時には、全日本大学選手権で5得点を挙げてMVPを獲得した。

 横浜フリューゲルス(横浜F)、鹿島アントラーズ、浦和レッズ…。大学屈指のMFの獲得に、9チームが名乗りを上げた。その中から横浜Fを選んだ。同世代の選手が多く、成長する要素の多さが魅力だった。

 横浜F時代は「GK以外はすべてやった」。プロ1年目の94年は、開幕前の故障で出遅れたが、セカンドステージから出番を得た。3年目を迎えるころ、チームは優勝争いに加わりだす。同じボランチのポジションには、当時ブラジル代表のサンパイオと日本代表の山口素弘がいた。出番は少なくなった。

 リベロとして出場機会を得た5年目。そのシーズンの天皇杯優勝を最後に、横浜Fは消滅した。ポジション争いに苦しみながらも、充実していたプロ生活は急転。居場所を求めて、チームを転々とした。2003年、アビスパ福岡からの戦力外通告。Jリーグの舞台から姿を消した。

2008年6月25日長崎新聞掲載


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