●友清歡眞翁『天乃手抉』(昭和十五年四月十六日。『靈の世界觀』に所收)に曰く、
「近年の東京の出版物では、『古事記』も『書紀』も、勝手な俗解をもつて説き歪められて、如何にも古典の眞意を闡明したかの如くに廣告してあるやうであるが、あれ位ゐ眞の神國日本の姿を冒涜するものはない。官廳の咎めを受けぬために、敬語を巧みに使用しつゝも、其の全體の構想は、全く神國日本の古傳を冒涜するものである。古傳の冒涜は、國體の冒涜である。
伊勢神宮を始め、全國の官國幣社の傳へにも、古來、その神異史實は澤山にあるのであるが、政府は、何故にそれを嚴重に撰修して公刊しないのか、吾々はそれを殘念がつて居るほどである。國體明徴も國民精神作興も、其れが一番、適切有效である。むろん其の傳説の中には、眉唾ものも混雜して居るから、其れを嚴修して、眞實にあらずと證明し得られるものを削除し、その他は批判を加へずに、ありのまゝに撰修して公刊するがよい。相當の大事業ではあるが、眞の神國日本の姿を顯現するに、最も適切で且つ有效な仕事であると、私共は思ふのである。政府としては、天關打開の爲めに、岩戸びらきの爲めに、是非やらなければならぬ筈のものである。
伊勢神宮についても、澤山な神異史實の正眞の傳へがあるが、畏れながら其の中の一つについて、簡略に述べることを許していたゞきたい。‥‥(昭和十四年六月十七日)或る人から、突然一軸を送られた。それは長元託宣の神歌を、明治初年頃の皇大神宮主典・山口起業大人が書かれたものなので、それを床にかけて、本部の皆樣へ説明したやうな次第であつた。九百年前と今日とでは、暦法も異なるけれど、神歌の下されたのも六月十七日で、私の方へ一軸到着も六月十七日で、偶然とは云へ、其れをも奇異に感ぜざるを得なかつたからである。私は山口起業大人の謹書された、その神歌を拜觀しながら、何とも云へぬ感慨を催し、その爲め、其の夜は一時間しか眠れなかつた‥‥。この一軸には、墨付五枚の記録が附してあり、この記録は、後年、山口起敬氏[起業大人の令嗣か]が、叔父さんにあたる尾花修平氏の需めによつて書かれたことが附記してある。
この長元託宣のことは、天行居で刊行してある『口譯・神判記實』の中にも收載してあるから、此處に記述しないが、九百年前における皇大神宮神異史實の一つとして、極めて重大なものゝ一つである。後一條天皇・長元四年六月十六日から十七日にわたり、齋宮・□[女+專。せん]子女王に、荒祭宮の大神があらはれ給ひ、電光雷雨の中に、くしび極まる神異があり、祭主・輔親朝臣に對し、十七日は、畏くも神歌を賜はつたのであるが、その十六日から十七日までの御ありさまは、實に畏くも畏きことで、世間に多くあるところの低級卑俗なる憑靈現象の如きわけのものでなく、神威恐るべき御ありさまであつたのである。本當の敬神の念といふものは、理窟や議論で養はれるものではない。神國日本の本當のことを、ありのまゝに國民に知らせることによつて、理窟拔きに、全國民の精神が火の塊りのやうになつて、如何なる國難をも突破して行く氣魄が、全土に蔽ふやうにならなければならぬのである。要するに此れが、私共の念願である。全國同志諸君とともに、今後いよゝゝますゝゝ此の方針をもつて奮鬪努力し、『神のたもてる國』の光輝を、六合に光徹せしめなければ相ならぬ」と。
●皇大神宮主典兼權大講義・藤園山口傳兵衞起業大人の原撰。鴨居正桓・鈴木重道兩翁の口譯『口譯・神判記實――神異靈驗實話集』(昭和四十七年六月・山雅房刊)の「皇大神宮荒祭の宮、齋内親王に憑り給ふ」に曰く、
「伊勢の齋内親王と稱し奉るのは、天皇の御手代に代らせ給うて、皇大神に奉仕したまふ職掌にましゝゝて、崇神天皇の朝に、豐鋤入姫命、始めて其の職を奉じ給ひ、埀仁天皇の朝に、倭姫命が、其の職をお嗣ぎになつてから、代々に其の跡を推して、其の職をお置きになつたのである。
さて其の仕へ給ふ状(さま)は、九月、神嘗祭、又た六月・十二月の月次祭毎に、多氣の郡なる齋宮をお出ましになり、度會の郡の離宮(りくう)にお着きになり、大祓を修せしめられて、豐受の宮の祭を奉仕して、離宮にお歸りになり、翌十七日に、皇大神宮の御祭を仕へ奉り給ふ例(ためし)でおはしました。
しかして後一條天皇の朝には、村上天皇の皇子・二品中務の卿・具平親王の女・□[女+專]子の女王(ひめみこ)と稱し奉るお方が、長和五年に、四十六代に當る齋王に立たせ給うたのであつた。
齋王にお定まりになつてから十六年を經て、長元四年六月十六日に、例の如く、豐受の宮の御祭、故(こと)なく遂げ給ひ、離宮院に歸りおはしまして、翌十七日に、皇大神宮の祭庭に就かせ給うたが、既に御玉串供奉の前に當つて、忽ちに大雨が注いで來て、電光は雲を穿ち、雷聲は天地を震動するばかりなので、上下の人々は、これがために心神を迷はして恐怖するほどに、齋王候殿の方に當つて荒涼(すさま)じい聲がして、祭主を召し給ふので、祭主・輔親朝臣は驚き恐みながら、禰宜等を率ゐて齋王候殿に參らうとすると、暴雨が餘りに烈しいので、笠を二つまで吹き損ぜられながら、漸く齋王の御前に候すると、齋王の御氣色は常のやうでなく、御聲、猛高(たけだか)におはしまして宣ふやう、
『我は、皇大神宮の第一の別宮・荒祭の宮におはしますなり。大神宮の敕宣に依りて、今、齋王にかゝりて託宣する所なり』
と宣うた。祭主以下、禰宜等は、恐怖して愼みて奉承るに、宣ふやう、
『公家(こうけ)を護り奉る事、更に他念なし、帝王と吾と交ること、絲の如し。しかるに近時(ちかごろ)、公家の懈怠の事あり』
とて、種々御咎めになり、
『中にも光清といふもの、罪を犯したる事、又た齋宮寮の頭・相通、妻・古木古曾と共に狂亂の企てをなし、「我等夫婦には、二所大神宮、翔(かゝ)りましますなり。吾が男女の子供には、荒祭高の宮の大神の付き通ひ給ふなり。所從の女房共には、五所の別宮の付きたまふなり」と稱ひて、雜人を招き集め、連日連夜、神樂を唱へて狂ひ舞ひ、二宮の御爲めに化異(けい)の行ひをなす事、神明の奉爲(おほんため)、帝王の奉爲、極めて不敬不忠の企てなり。皇大神、高天原より天降御(あまくだります)の後、未だ人に寄り翔りおはしまさず。しかるに件の相通・古木古曾等、無實の詞を出だし、狂言を以て人の耳目を驚かすこと、甚だ輕からぬ罪なり。故に今ま止むことなき祭庭に於て、齋内親王に翔り、天下の爲め、後代のために託宣して、神罰を與ふる處なり。しかして今の齋王の敬神の誠は、前の齋王にまさるといへども、寮の頭の事によりて、過状を進ぜしむべし』
と宣うた。輔親、謹みて申すやう、
「齋王、御本心おはしまさゞるの間、讀み申すといへども、聞し食され難き歟と申し上げる」
と申し上げると、神宣し給ふやう、
『吾、齋王の神(しん)を取收めたれば、やがて蘇生せしむべし』
と宣ふほどに、齋王は本心が出で給うた。よつて輔親は、過状を奏し奉つた。
さて後、また神宣し給うて、
『汚穢の事多し。七箇度、御祓(みそぎ)を奉るべし』
と宣うた。輔親、うけたまはりて之を修すると、三ケ度奉仕する間に、大雨のために、河水が湛へて來て、齋王の御座(おまし)を浸すので、御座を退け奉り、其の事、極めて不便なるまゝに、殘れる四度の數は、還御の後、修行し奉るべき旨を奏した。すると、重ねて神宣し給ふやう、
『大御酒を獻るべし』
と。よつて御酒を三たび供(くう)じ奉るに、毎度(たびごと)に五盃づつ所聞食して、合せて十五盃に及び給うた。其の次に、御製一首を詠じて、御酒盞を祭主に下し給うた。
その大御歌
『さかづきに さやけきかげの みえぬれば ちりのおそりは あらじとをしれ』
祭主・輔親は、やがて御和(おんかへし)を奉つた。
「おほぢ父 むまごすけちか みよまでに いたゞきまつる すべらおほむ神」
かくて此の外、何くれと御託宣が條々(さまゞゝ)あつたといふことである。事、訖つて、神はお昇りになつた。
しかるに齋内親王はお勞れになり、且つ神慮を恐まれて、御玉串、又た酒立五節等も供奉し給はず、明くる十八日辰の時(午前八時)に及んで、御心地平らぎ給うたので、四の御門の東妻の玉垣二間(ふたま)を破り開いて、御輿を寄せ奉り、やがてそれに御(め)して退出し給うた。凡て宮庭には、御輿を用ゐ給はぬ制法なので、腰輿にめされる例であるのを、齋王非常の御事なので、止むを得ず御門を憚つて、御垣を開いて、御輿をば寄せたのであつた。
しかるに此の日、大川の洪水によつて、酉の時(午後六時)許りに、漸く離宮院に歸着し給ひ、祭主竝びに宮司供奉して、豐明の解祭(げさい)の直會を、亥の時(午後十時)を以て仕へ奉り、同十七日の御託宣の由を記し、三員の司神主寮官主神司、連署して、祭主の解状・寮の解等を相副へて、上奏したのであつた。
其の後、祭主を禁中の陳頭に召され、託宣の始終を奏聞する時に當つて、頓に雷電大雨烈しく、之が爲めに官人竝びに隨身等を召されて、宜陽殿壇上に候せしめられた。諸卿たちは、皆な色を失つて、怖畏極まりないところ、陳前後陳、水溢れて、頭辨は陳後に妨げられて、敕語を傳へる事が出來ず、南殿を徘徊して、陳腋の床子(しやうじ)を以て橋として、漸く陳に出て、神宣を傳へたのであつた。神威の炳然(いやちこ)なのに、天皇陛下も、殊に恐み給ひて、速かに相通を遠い島に逐(やら)ひ給ひ、御使を立てゝ、神慮を慰め給うたので、其の後は事無く、穩かに過ぎたのであつた。
謹みて此の事の始終を以て、恐(かしこ)き大神の御上を窺ひ奉るのに、後世の人が、妄りに「大神の託宣ぞ、或は御夢の告げぞ、又た大御歌ぞ」などいつて、人に示して打騒ぐのは、皆な狂妄のわざであつて、此の長元の一事を以て、後世、畏き神の大御上を論らひ汚し奉つてはならぬ御戒めなることを知らぬ罪人といふものである。恐き御託宣に、皇大神、高天原より天降御の後、天下・後代のために、やんごとない祭庭に於て、天皇の御手代なる齋内親王にかゝりおはしまして、始めて託宣し給うた旨を、愼み顧みて、深く戒めねばならぬ事ではある」と。
愚案、最後の邊りの爲體は、大型の本屋に行けば、彼の所謂る罪人が竝んでをつて、何時でも見ることが出來よう。是れ、其の著者の由つて來る所、容易に推して知る可く(油揚げ・穢肉でも供へ、線香を點して、讚美歌でも唸り、敬して之を遠ざく可し矣)、其の後世、實に懼るべき事と謂はねばならぬ。
友清翁の仰せの如く、我が皇國の古傳説の中から、混雜せる眉唾もの、或は眞實に非ずと證明し得られるものを削除嚴修し、古眞傳は批判を加へず、有りのまゝに撰修して、博雅の篤志家は、是非とも之を公刊してほしいものである。眞の神國日本の姿を顯現する爲めに、國體明徴・國民精神作興の爲めに、又た何より天關打開の爲めに、適切かつ有效の處方箋であるに相違なからう。
東岳宮地嚴夫掌典『本朝神仙記傳』は、考證明徹、小生の愛讀して已まざる典籍である。亦た全國の古社・産土社には、古傳神驗・神異史實も事缺かぬ。一例を擧ぐれば、廣島縣賀茂郡三原市大和町下徳良なる龜山神社宮司・松風潮武臣翁『鎭守の杜の神々』(昭和五十五年五月・社務所刊。平成九年十一月増補版・山雅房復刊)の如き、拜讀するに、眞に神さびたり。或は靖國神社に坐しても、不可思議にして畏怖すべき神異奇聞は、往々にして仄聞する所、之を集めて大成してほしいと懇願するや、愈々切なるものがある。
【唖然たり矣、悲慘たり矣、合理的・理性的な近代人の歴史觀】
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