豊臣秀吉像(模本、東大史料編纂所所蔵)

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豊臣秀吉像(模本、東大史料編纂所所蔵)

 文禄4(1595)年8月、三条河原で執行された関白、豊臣秀次の一族ら39人の公開処刑は凄惨(せいさん)極まりないものだった。

 幼子は首根っこを捕まえて槍(やり)で突き、女人も次々と首をはねるなど、極悪人の処刑を印象づけるシーンの連続だった。謀反の罪で秀次を切腹させるにとどまらず、なぜここまで非情な行動に出たのか。これには当時の権力者、豊臣秀吉の老化による判断力低下と、わが子、秀頼の時代を万全にしたい執念のようなものが見え隠れしてくる。

 ●深まる溝

 本能寺の変で、主君の織田信長を討った明智光秀を天王山で破った後、トントン拍子に天下人へのぼりつめた秀吉の唯一の気がかりが後継者問題だった。

 天正17(1589)年、側室の淀君との間に一子をもうけるも2年後に亡くなるなど、じり貧状態に追い込まれた。そこで次にとった手が甥(おい)の秀次を養子にして豊臣家の跡取りとし、自らは大坂で隠居することだった。

 天正19年11月、秀次を関白に就任させ、居城の聚楽第(じゅらくだい)を譲っている。秀次も秀吉ほどの才気はないにしても四国攻めで副将を務め、小田原攻めでも功績をあげて自信をつけ、まんざらでもない様子だった。

 ところが、文禄2(1593)年、秀吉と淀君の間に秀頼が生まれたことで秀次の立場は一変する。秀吉が京都・伏見に築いた城に移住すると、大名も続々と伏見へ移り住むことになった。

 世間でも2人の不仲説がささやかれると、いずれかが殺害されるといった物騒な話も飛び交い、秀吉の聚楽第訪問も突然に延期するなど、将来を不安視する秀次との溝は深まる一方だった。

 そんな中、「秀次様に謀反の疑いあり」などと秀吉に報告した石田三成や増田(ました)長盛ら奉行衆が文禄4(1595)年6月26日、秀吉の命を受けて聚楽第へ向かった。

 ●殺生関白

 秀次にはまるでジキルとハイドのように悪善両極端の顔があったとされる。

 秀頼誕生で自暴自棄に陥り、浮気疑惑のある側室が妊娠すると腹を裂いて胎児の顔を確認したほか、殺生を禁じた比叡山でシカ狩りをするなど数々の乱行があるとして、秀次は世間で「殺生関白」と呼ばれていたという。

 一方では書や古典、和歌をたしなみ、多くの文化人とも交流を深めていたといい、欲深くなく、万人から愛される人格者だったともいわれている。

 このほか、聚楽第訪問を突然にやめた秀吉を相当に憎んでいたという話もあったが、謀反の疑いで三成らから糾弾された秀次は、秀吉に背かない誓いを7枚に紙に書いた「誓紙(せいし)」を提出する。

 7月3日にも誓紙を提出し、京都奉行の前田玄以軍に囲まれた8日には直接、秀吉に謝罪するため聚楽第を出たが、伏見城へは入れず、高野山へ送られる。

 10日に高野山に着いた秀次は秀吉の生母の菩提(ぼだい)を弔う清巌寺に入る。本来、高野山では殺生は禁じられているものの、福島正則が秀吉の命を伝えると秀次は15日に切腹する。28歳だった。

 ●老政治家の末路

 それに続いて執行された一族39人の公開処刑。当初は秀次を後継ぎと決めていた秀吉だったが、秀頼の出産以後の変心から起きたどぎついまでの処刑劇は、非情の太閤の存在を全国に知らしめることになった。

 特に秀次の子を子犬を処分するように首根っこをつかんではつるし上げて槍で突き刺す方法は、将来、秀頼の対抗馬になり得る芽を事前に摘みとりたいがための、強引な手法とも考えられる。

 このとき秀吉は50代の後半。全盛時の気力はなく、無意識に失禁するほどの老衰に悩まされ、正確な判断力を失っていた。あの秀吉の軍師、黒田官兵衛までもしだいに疎遠になっていった。

 だが、平治の乱で平清盛が敵対した源義朝の子、頼朝と義経を助けたばかりに滅びの道を歩んだ平家と同じ轍(てつ)を秀吉は踏みたくなかったのだろう。聚楽第も破壊し、秀次の足跡をこの世から消し去ってしまう。

 そして秀吉の死から2年後の慶長5(1600)年に起きた関ヶ原の戦い。

 秀次事件に巻き込まれて最愛の姫を亡くした出羽国の大名、最上義光(よしあき)は徳川方に属し、豊臣方の上杉軍撃退の功を挙げる。また秀次一族の処遇に不満を持っていたという東北の雄、伊達政宗も徳川方に付いている。

 秀次一族の処刑は、生い先短い秀吉が豊臣家繁栄のためにとった非情な計画ともみられるが、関ヶ原の戦いに敗れた豊臣家が急速に衰えていく要因にもなったとする、後世の歴史家の声もある。(園田和洋)