2000年3月26日(日) |
「六ケ所再処理工場からは原爆を千発造れるぐらいのプルトニウムが毎年出てくる。使い切れないプルトニウムが六ケ所村にたまり続けるのではないか」 「私どもは原爆を造ろうなどという考えはまるっきりない。プルサーマル計画がつまずいたのは残念だが、(所管官庁の)通産省も汗をかいて対応策を検討している」 「『原爆を造らない』といっても信用してくれる国はない」 八日に開かれた原子力政策青森賢人会議で、大道寺小三郎座長はプルトニウムの使途を明確にするよう村田貴司・科学技術庁核燃料課長に食い下がった。プルトニウム利用計画が停滞している現在、毎年約五トンのプルトニウムを生み出す六ケ所再処理工場(年間処理能力八百トン)を操業する必要性があるのか−。大道寺座長はどうしても納得できない。 “核疑惑”招く恐れ かつて、同じような疑問を日本が米国に突き付けられた時期があった。 「日本が爆弾を造らないと言ったって、世界はそうは見ない。米国は、赤ん坊みたいな東海再処理工場(年間処理能力二百十トン)を動かすことは日本の科学者にアメ玉をしゃぶらせるような気持ちでしぶしぶOKしてくれたんだけれど、商業ベースで二系統千六百トンの処理能力(当初計画)の六ケ所再処理工場を造るといったら目をむいて怒りましたよ。『そんなことをやったらプルトニウムだらけになる。余れば当然、爆弾を造るだろう』『核大国になるという疑いをかけられ、日米安全保障条約にもヒビが入る』と。米国はプルトニウム利用に経済性はない−というのが基本的な考えだった」 外務省の初代原子力課長を務めた金子熊夫東海大学教授(63)は当時の日米交渉をこう振り返る。プルトニウム民事利用の是非をめぐって日米が議論を戦わせたのは、東海再処理工場の運転開始直前の昭和五十二年からだった。核不拡散防止を掲げたカーター米国大統領(当時)が、米国内の商業再処理とプルトニウム利用を無期限停止する代わり、同盟国にも同様の措置を迫ったためだ。 米国が論拠としたのは、四十三年発効の「日米原子力協力協定」の第八条C項。米国製濃縮ウランの使用済み核燃料が再処理の対象となる限り、再処理工場の運転については米国の許可を取り付けなければならない。他国が真似をすると困るという理由から、米国はプルサーマル計画にも強硬に反対した。 これに対して日本は、“資源小国”日本に核燃料サイクルは不可欠との主張を貫き、足かけ十年でようやく同意を取り付けた経緯がある。「最後には、あまり日本を怒らせると逆に安全保障協力にマイナスの影響が出るという米国の高度な政治判断があった。ただし、韓国などが同じ方針なのに日本だけにOKしたことがおおっぴらになるとまずいということで、『六ケ所再処理工場建設については原則OKしたけれども、なるべく目立たないように計画を進めてください』と言われた」と金子教授。 ところが平成七年以降、もんじゅや東海再処理工場で事故が発生。さらにJCO臨界事故、MOX燃料データねつ造が追い打ちをかけ、日本の核燃料サイクル政策は立ち往生してしまった。 六ケ所再処理工場の運転開始は十七年七月だが、高速増殖炉開発とプルサーマルのつまずきで“核疑惑”を招くプルトニウム余剰の懸念は高まる一方だ。 “原子力の応援団”を自称する金子教授も「六ケ所再処理工場が着工できたのも私が外務省担当課長として権限を行使し、寿命を縮めるような交渉をしたからですよ。そういう歴史からすると、現在の(日本の原子力を取り巻く)状況は正直言って慨嘆に耐えない。せっかくおぜん立てして、さあもう大丈夫だから大いにやってくれ−としりをたたいた途端にこの体たらくだ」と科学技術庁などへの不満を隠さない。 「最後は米国次第」 電事連原燃サイクル立地推進本部部長を務めた桝本晃章東京電力常務(61)は六ケ所再処理工場の操業に対する米国からの圧力をなお懸念している。 「米国が基本的にどういうスタンスをとってくるかだ。協定上、日本が再処理はやってはいけないということにはなっていなくても、米国の一部の人は(日本の核武装を)大変心配している。最後の最後は米国(の出方次第)だ」 |