第2章 持 者 能 忍


 第70号  1991年3月11日

日蓮正宗自由通信同盟

裏切った龍にしても師弟の劇的な出会いは否定できない
龍・福島の変節対談によって創価学会の史実が確定した

 龍は戸田会長の指導をねじ曲げ、手前勝手に解釈をしている。そして事実すらも歪曲しているのである。
 そのよい例が、戸田会長と池田名誉会長の出会いの情景で、このとき龍はその場に居合わせた。その二人の出会いの様子と、その後、二回目に龍が池田名誉会長に会ったときのことを対談の中で回顧している。
 「福島 池田大作さんが入信したのは、その翌年だったと思うんですが……。
  焼け野原にポツンと残っていた会員宅で、戸田先生は『立正安国論』の講義をしていたんです。そこでの座談会に、その家の娘さんが、小学校の同級生だったという池田大作を連れてきた。
 福島 そこは大事なところです。
  終わって、先生が皆さんと懇談しているときに、池田がポツンと『天皇制はどうするんですか』と、質問しました。先生は喜んで、懇切に話しました。池田は立ち上がって、最後に紙きれを出してぼそぼそと言ってましたけど、『これで失礼します』と途中で帰ってしまった。ずいぶん失礼なやつだなと思いました」
 以上が、龍の描いてみせる戸田会長と池田名誉会長の出会いである。池田名誉会長に傷をつけようとする龍の語り口調はともかくとして、この龍の発言の中で確認される事実は、名誉会長が天皇制について質問したことと、紙に書いたものを読んだことである。
 つづいて龍は、名誉会長に二度目に会ったときのことにふれている。
 「二回目にあったのは、一年以上たってからで、創価学会の組織をつくろうということになって小泉さんの家に呼ばれたときです。
 第一番に行ったのが私で、その次に来たのが池田大作。池田が戸田先生の事務所に勤めるようになったということを知ってましたし、私は入信も先輩だし、年も上ですから、『最近どうだね』と声をかけたんです。そしたら私をキュッと見て、『今に世界をあっと言わせてみせる』と言うんです。二の句が継げませんでね。それっきり黙ってにらみ合いですよ。この人は頭がおかしいんじゃないかと思いました」
 龍にとって、この二つの情景はよほど印象深かったようで、かつてこの二つの情景について回顧談を書いたことがあるのだ。
 一つは昭和五十年三月十二日付の『聖教新聞』に掲載されている、「私と創価学会の歴史 学会再建の渦中で」と題した一文である。
 「昭和二十二年の八月下旬、都内で、戸田先生を囲んでの座談会が開かれた。その席で一人の若い青年が真剣な表情で戸田先生に二、三の質問をしたあと、その時の心境を詩に託して朗々と読み上げたのである。私はその場にいて、あっけにとられてしまった。
 その青年こそ、現会長池田先生だったのである。私が池田先生と初めて対話を交わしたのは、それから一年以上を経てからのことであった。
 その日、私は支部結成の打ち合わせ会のために、蒲田のある会場へ馳せさんじた。たまたま定刻前に集ったのは、池田先生と私の二人だけだった。
 私が初対面のあいさつをしたところ、ニッコリ会釈された。その際、池田先生は真剣な表情で『学会を今に必ず、全世界の人々を救っていく団体にしていくんだ』という意味の話をされたので、私はビックリしてしまった。
 まだ入信して間もないというのに、すでに池田先生の胸中には、世界の民衆を救っていくんだという使命感が燃えたぎっていたのだと思う」
 龍が福島との対談で語ったことと、『聖教新聞』の回顧談に記していること。対極する描写の中で語られたそれぞれの場面だが、そこにどうしても崩すことができない事実があることがわかる。峻厳なる師弟の出会い、池田名誉会長の、民衆救済への情熱である。
 昭和四十三年六月十三日付『聖教新聞』の、「『人間革命』に学ぶ実践」と題する連載の中にも、龍が執筆者として登場している。題して「甚深な久遠の契り」。
 「一切の激闘というも、広布への建設というも、峻厳なる『師弟不二』の精神こそが、その奥底を貫き、それをつぶさに解明しているのである。我々は奮起しなければならない。いかなる試練もこっぱ微塵に粉砕しゆく人材に成長しなければならない。この決意を全身で受け止めていく者こそ『師弟不二』の精神を学ぶ資格あり、と痛感するからである。
 思えば『人間革命』第二巻の“地湧”の章が、私にとって初めて膚に接する『師弟不二』の一瞬であった。それは、座談会で朗々と詩を誦して入信していった山本青年と戸田前会長との不思議なる“出会い”に、はからずも居合わせたことだった。〈戸田は『いくつだ』とは訊かなかった。『いくつになったね』と聞いたのである。初対面であったが、旧知に対しての言葉であった〉――この厳粛な儀式が、第三巻の“結実”の章で『決定的な瞬間』を生み、全国の学会員をその感動の波で包んだことは、いまだ記憶に新しいところである」
 戸田会長と池田名誉会長の昭和二十二年の出会いを、龍は福島と対談で語った。それはいうまでもなく、二代会長と三代会長との師弟の絆を断ち切ってみせることによって、いまの創価学会における師弟の関係を崩そうという試みである。
 だが逆に、龍のその試みは隠すに隠せない、曲げるに曲げえない事実を浮き彫りにしただけであった。言い換えるなら、龍・福島の『月刊Asahi』での対談は、両者の変節の事実をよりいっそう明確にしたのである。
 さて余談になるが、最後に『月刊Asahi』の編集姿勢にひとこと触れておこう。「編集部から」という欄に、
 「(略)沈黙を破って池田氏批判に立ち上がった龍年光さんは、親の代からの懇意の学会員理髪店から、『二度と来るな』と罵声を浴びせられたそうです。龍さんは『首でも切られたらかなわねえ』と切り返したといいます。私たちは不偏不党の報道機関として、池田さんがぜひ『切り返し』を寄稿してくださるようお待ちしています(福井 仁)」
 これではまるで、辻斬りに刀を貸して人を斬らせておいて、殺された者の家族に、仇討ちをするのだったら刀を貸すと言っているに等しい。とんでもない事件屋だ。
 それにしても、マスコミ人の思い上がりが、手に取るように感じられる文である。福井という人の年齢は知らないが、精神は幼い。人並みの編集者であるならば、本を作ることに対するいたみの自覚があるというもの。実業の世界で働く者は、みずからの仕事の至らざるを思い、虞を抱いている。
 豆腐屋は豆腐屋、靴屋は靴屋で毎日、自分の仕事をかえりみている。そして反省し、発奮し、生きていることに感謝する。その実業の世界から見れば、活字の世界など虚業の世界。しょせん人生の傍観者にすぎない。
 また「私たちは不偏不党の報道機関として」などと平気で言えるとは、「朝日」のバッジをつけてうれしそうに歩いているくちばしの黄色いヒヨコと見える。最近では、ゴロ雑誌の編集者でも恥ずかしがって、このようなセリフは口にしない。まあヒヨコのやったことだ、「朝日の良識」とはその程度のものなのかと、問題にするほどのことでもない。
 食うために変節者のお相手をして恥ずかしくない売文業のヒヨコのなせる業であると理解しておこう。
 さて『月刊Asahi』が「不偏不党」と大上段にかまえ、社会の木鐸としての報道機関を自認するのであれば、龍のやっている財団法人「土と人間の蘇生の会」と鈴木都知事の癒着を洗うのも面白いのではあるまいか。そのほうが、人間としての最低の変節者に悪口雑言を自由に言わせるよりも、社会的にはもっと意味がある。
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