この点、同時代のスタイルで芸術音楽に取り組んでいる人の多くは「こんなの自分でなくても誰でもできるよ」なんてものを、著作物に登録しようと、そもそも思わないことが少なくない。
むしろ「本当に自分のオリジナルだけを作品として登録したい」と思うのが自然な発想で、新垣君が今回の「代作品」を自分の著作権は放棄すると言っているのは、つまり「実施」をした。それでみんなが喜んで演奏してくれ、聴衆も満足してくれた。
これでいいじゃないか。もう十分」という、内実の満腹感から、一切のウソなしに言っているのが分かります。
テレビを中心に、多くのマスメディアは「分かりやすい」ストーリーに無理やり押し込めて、何となくお涙頂戴にしてみたり、溜飲を下げさせたりしますが、同時代の音楽家として新しい可能性を開こうと真摯な努力を重ねているミュージシャンの気持ちなど、表に出ることは 21世紀になって本当に減ってしまいました。
毎週このコラムを書いている私自身、こんな私たちの領域の手仕事の内容を細かく書くのは、今回が初めてです。逆に言えば、これが私の本業で、この仕事で私は大学に呼ばれプロフェッサーをしています。
音楽家にとっては、ファインプレーの「実施」ができれば十分、という「良問詰め将棋」みたいな楽曲とあえて書くことにしましょう。その作品を、またそれを提供する善意を、悪くと言った人がいたわけです。
新垣君は常に最初は騙されて、善意で提供した楽曲に、勝手な名前をつけられ、それを営利に濫用されています。
この経緯をきちんと見ない、法律関係者などが、誤った解釈をメディア上で開陳しているのも目にし、これはいけない、と本稿も急いで書きました。
さらに踏み込んだ詳細を次回に記します。
(つづく)